はじめに・・・

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はじめに……

アカデミズム底辺で生きる流しのヘタレ神学研究者・宇治家参去(=氏家法雄)による神學、宗教學、倫理學、哲學の噺とか、人の生と世の中を解釈する。思想と現実の対話。

いつもご閲覧戴きましてありがとうございます。

2010年11月25日より「はてな」に雑文を移項いたしはじめました。

当分はココログと併用いたしますが、最終的には「はてな」ブログへ移行予定です。

「はてな」の「Essais d’herméneutique」は以下のURLからジャンプできます。

http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/

twitterの呟きは以下よりどうぞ。

http://twitter.com/ujikenorio

当面は併用いたしますが、すでに【覚え書】【研究ノート】の類は、こちらでupしてないものも掲載しはじめておりますので、今後ともどうぞ宜しくお願いします。

完全移項が完了しましたら、またその旨、エントリーいたしますので、どうぞよろしくお願いします。

ついでですのでひとつ。

学問の仕事を絶賛求職ちう。

以上。

追伸:【業務連絡】2010年12月3日以前のエントリーでは一人称を、「宇治家参去」と表現しておりますが、以後は、本名の「氏家法雄」でいきます。以前のエントリーの記事はそのままにしますので、適宜読み替えていただければと思います。

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われみずからを知るということがいまだにできないでいる。それならば、この肝心の事柄についてまだ無智でありながら、自分に関係のないさまざまのことについて考えをめぐらすのは笑止千万ではないかと

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もし誰かがこれらの怪物たちのことをそのまま信じないで、その一つ一つをもっともらしい理くつに合うように、こじつけようとしたまえ! さぞかしその人は、なにか強引な智慧をふりしぼらなければならないために、たくさんの暇を必要とすることだろう。
 だがこのぼくには、とてもそんなことに使う暇はないのだよ。なぜかというと、君、それはこういうわけなのだ。ぼくは、あのデルポイ社の銘が命じている、われみずからを知るということがいまだにできないでいる。それならば、この肝心の事柄についてまだ無智でありながら、自分に関係のないさまざまのことについて考えをめぐらすのは笑止千万ではないかと、こう僕には思われるのだ。だからこそぼくは、そうしたことにかかずらうことをきっぱりと止め、それについては一般にみとめられているところをそのまま信じることにして、いま言ったように、そういう事柄にではなく、ぼく自身に対して考察を向けるのだ、--はたして自分は、デュポンよりもさらに複雑怪奇でさらに傲慢狂暴な一匹のけだものなのか、それとも、もっと温和で単純な生きものであって、いくらかでも神に似たところのある、デュポンとは反対の性質を生まれつき分け与えられているのか、とね。
    --プラトン(藤沢令夫訳)『パイドロス』岩波文庫、年、16頁。
ステファヌス版229E-230A

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1月30日になってから言うのもナニですが、年が明けてから、哲学の古典をもう一度歴史順に読み直し始めているのですが、プラトン(Plato,424/423 BC-348/347 BC)の初期対話篇で紹介されているソクラテス(Socrates,c. 469 BC-399 BC)の肉声(にちかいもの)をゆっくり読み進めると、そこには、豊穣な人間の息吹というものを感じざるを得ません。

うえに引用した一文など、まさに知を知識ではなく、是非分別として捉えよう、そして「自分に関係のないさまざまのことについて考えをめぐらすのは笑止千万ではないかと」なんて孔子(Confucius,551 BC-479 BC)のいう「鬼神を敬して之を遠ざく。知と謂うべし」(『論語』雍也第六)と肝胆相照らす発想であり、そこには思想や哲学がひとつのイデオロギーへと先鋭化する以前の豊穣な「人間そのもの」が見えてくるんですよね。

今年はいろいろと忙しい年にはなりそうなのですが、コメンタリーをもう一度いれつつ、年末までは、これもひとつの形に仕上げてみたいものです。

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覚え書:「今週の本棚:三浦雅士・評『世界文明史の試み-神話と舞踊』=山崎正和著」、『毎日新聞』2012年1月29日(日)付。

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今週の本棚:三浦雅士・評 『世界文明史の試み-神話と舞踊』=山崎正和・著

 (中央公論新社・3360円)

 ◇閉塞する現代への確固たる指針
 瞠目すべき書である。世界文明史の構想だが、シュペングラー、トインビー、ベネディクトら、従来の文明有機体論とはまったく違う。いわゆる地域文明論ではない。人類がいまや史上初めて体験しつつある世界文明、すなわち世界的に統一された文明の成り立ちを俯瞰し、閉塞する現状に明確な指針を与えようとしている。博覧強記に圧倒されながら読み終えて、深い感動に襲われた。
 特筆すべきはまず思索の起点そのものを百八十度転換させたこと。いかなる思索であれ、意識、すなわち「我思うゆえに我あり」から始めるのが定番だが、著者は身体から語り始める。身体は呼吸にせよ歩行にせよ反復から成り立つ。それがうまくいかなかったときに初めてそれまでの身体の慣習が意識される。意識は実体ではない。先験的あるいは超越論的といわれる時間空間意識でさえも身体が育んだ慣習にほかならない、というのだ。明確なカント批判だが、分かりやすく説得力がある。「神話と舞踊」という副題が腑に落ちる。
 身体には、「する」身体と「ある」身体の二つの位相がある。対他と対自といってもいいだろうが、後者が神話、舞踊、言語の起源と目される。考古学や動物行動学の最新の成果を縦横に駆使した意識、言語、文字の発生論には眼(め)を見張るが、後半の西洋文明論にいたって迫力は倍増する。とりわけ、西洋文明と中国文明の比較を含む第九章は鮮烈だ。
 西洋文明はつねに内的葛藤を抱え、キリスト教神学が近代科学を生むといった逆説を孕みながら発展し、世界文明への唯一の踏み台になったが、他の文明はそうでなかった。ニーダムやルージュモンやバフチーンを批判しながら、著者は、しかしその西洋文明が人間中心主義になっても拡張主義と優越意識を残したと指摘する。とはいえそれを文化相対論で批判してはならない。西洋文明は有機的主体ではない。知識や技術の束であって、受け入れる側の問題の方が大きいからだ。たとえば現代中国は資本主義を受け入れたが人権思想は受け入れなかった。その後に展開される中国批判と予測は鋭く厳しい。
 考え込ませられるのは、最後の第十章「近代文明の逆説--人間の矮小化」と終章「無常の世界の人と文明」。問題は神なき文明の倫理。ロールズの正義論はルソーの社会契約論をカントの理性で基礎づけた平等の形而上学にすぎない、そのロールズを批判したマッキンタイアやサンデルの立論も共同体主義にすぎない。アメリカではなお楽天的な科学論が横行しているが、現代の科学技術が提示するのは広大な宇宙空間のなかの芥子粒のような人類と、進行する自然破壊にほかならない。文明を律する倫理の不在をめぐる考察は、議論が前世紀末から始まった爆発的なIT革命に及ぶにいたって悲劇的な色彩を帯びる。インターネットはいまや新聞をはじめとする従来の報道機関、意識産業を壊滅させ、人類を流言蜚語の氾濫に投げ込もうとしている。情報が高速化かつ断片化し、身体から熟考する習慣を奪い去りつつあるというのだ。
 同感するものは少なくないだろうが、啓蒙主義者の末裔たる著者はなおかつ希望を手放しはしない。未来信仰でも過去崇拝でもない、現在を充実させて生きることこそいまやもっとも望まれることではないかというのである。芸術がその手がかりになる、と。
 『社交する人間』『装飾とデザイン』と書き継いできた著者の、文明論の代表作になることは間違いない。
    --「今週の本棚:三浦雅士・評『世界文明史の試み-神話と舞踊』=山崎正和著」、『毎日新聞』2012年1月29日(日)付。

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http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20120129ddm015070042000c.html

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吉野作造大先生の誕生日:路行かざれば到らず 事為さざれば成らず

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 私は東北の片田舎の一商賈のせがれである。少年時代の家業は綿屋だが、如何いふ縁故か、父親は新聞雑誌の取次をもやつてゐた。私の記憶は明治十五六年即ち私の五ツ六ツの頃まで遡り得る。此頃新聞雑誌の取次は未だ一個独立の商売とはなり得なかつたらしい。読者は極めて少ないからである。夕方馬車が着く。仙台市の前日の新聞が届けられる。それを番頭が配達するのによく私がついて歩いたものだ。行く先きざきで煎餅位いを貰へるからである。戸数千以上の宿駅だが、配達する紙数は十枚以下であつたやうだ。無論東京の新聞などはない。否、之は直接郵便で取つたのであらう。東京の出版物では自由民権といつた風の小冊子は取次いだやうだ。売れ残りの斯うしたものが私の大学生時代まで沢山土蔵の中にあつたのを覚えて居る。
 新聞だの雑誌だの又書物などに私が興味を有つたのは、或は斯んな因縁からでもあらうか。
    --吉野作造「投書家としての思ひ出」、『文藝春秋』1926年6月。

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1878年(明治11)の今日。

そう、吉野作造大先生(1878-1933)の誕生日です。

わたしが博士論文で格闘している先達です。

社会科の教科書では、「大正デモクラシー」だとか「民本主義」というタームで、用語としては人口に膾炙された歴史的人物ですが、それは氷山の一角にしかすぎません。

わたし自身も博士課程に入ってから吉野研究をするようになったのですが、同じような認識でした。

しかし、きっかけとしては指導教官・鈴木先生から

「吉野作造でもやってみるか」

……といわれて、著作をひもといたりするうちに、いわゆる「憲政史」「民主主義基礎論」などに収まりきらない、その巨大な足跡に驚いた次第(汗

もちろん、本業としてはそれなのでしょうが、昨日の日記にも書いたとおり、明治文化研究にも偉大な業績を残しておりますし、クリスチャンですがその枠組みにとらわれない寛容の探究、そしてその実践としての社会事業、留学生支援……数え上げるとキリがありません。

本人の著作や様々な資料を読むうちに、吉野作造の魅力に取り込まれていった一人がわたしなのですが、それだけでなく、自分自身もかくあらねばと襟をただせて頂いたことには感謝です。

ようやく今年、それが形になりそうなところです。

というわけで、いずれにしても……。

今日は吉野作造大先生の誕生日。

めでたい。

三重県の誇る純米酒「瀧自慢」にて乾杯です。

あ、写真背景の色紙は、吉野先生の色紙のレプリカですが、

「路行かざれば到らず 事為さざれば成らず」

いい言葉です。


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覚え書:「時流底流 押しつけられる番号と絆 小笠原みどり(ジャーナリスト)」、『毎日新聞』2012年1月28日(土)付。

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時流底流 押しつけられる番号と絆
小笠原みどり(ジャーナリスト)

 原子力発電所の連続爆発から1年もたたず、放射能被害が進行するなか、この国では大増税に電気料金の値上げと、失敗の責任をとるどころか、後始末をすべて個人に押しつける政治が加速している。これがまかり通るのは、私たちがいまだショック状態にあるからなのか、それとも破滅的な現実から目をそらしているからなのか--。
 共通番号法案もこの間に今国会へ提出される。70年代にその構想が「1億総背番号制」として現れ、住民基本台帳ネットワークに至るまで、歴代政権は反対世論の強さに実現を断念してきた。だが今、「社会保障」という新たな口実を見つけ、メディアも賛成に転じた。
 共通番号制は、私たち一人一人への付番、その番号に基づく個人データの共有、ICカードの携帯を三本柱とする。政府の「社会保障・税番号大綱」は、「国民一人ひとりの情報が生涯を通じて『タテ』につなが」り、「分野を超えて『ヨコ』につながる」とことほぐ。官庁に加え、企業も番号を扱い、個人データを束ね、交換し、利用する。
 私たちのデータは各機関で収入、学歴、病歴などに応じて振り分けられ、好ましいカテゴリーに入れば優遇され、でなければ劣った扱いを受ける。データによって格差が不可視に固定化され、差別がもっともらしく正当化されることは、海外では定説となった。
 番号制は「社会保障の充実」どころか、困窮する人に「税金泥棒」のレッテルをはり、住所のない人を今以上に職のない人に変えるだろう。カードによる識別が、権利の行使を抑制するだろう。
 大綱によれば、番号は国民と国との「新しい信頼関係を築く絆」だそうだ。昨年来、世で連呼される「絆」の政治的意味は、ここでも同じだ。破綻した現実の責任者を問わず、不安な人々の心を既存の秩序に取りこむ。
 押しつけられる「絆」は首綱と変わりない。私たちはそれも感じないふりをするのだろうか。
    --「時流底流 押しつけられる番号と絆 小笠原みどり(ジャーナリスト)」、『毎日新聞』2012年1月28日(土)付。

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覚え書:「新聞に対する税制:欧州各国の現状 言論多様性を重視、「活字」の税率に配慮」、『毎日新聞』2012年1月28日(土)付。

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新聞に対する税制:欧州各国の現状 言論多様性を重視、「活字」の税率に配慮

 野田政権は5%の消費税率を15年10月に10%へ引き上げることを柱とする税と社会保障の一体改革を進めている。税率アップに際し財務省などは「混乱を招く」として、2通り以上の税率を設ける複数税率の採用には消極的だ。しかし、世界各国では複数税率が主流で、「民主主義の維持」「言論の多様性確保」という観点から活字メディアの税率を低く抑えている国が大半だ。消費税に相当する付加価値税を導入している欧州29カ国の新聞への税率を見ると、英国など5カ国がゼロとし、フランスなど20カ国は軽減している。新聞に対する税制を欧州を中心に報告する。【吉田啓志】

 ◆ドイツ
 ◇市民の教養「国家が責任」
 付加価値税が1968年に導入された際の標準税率は10%。新聞は5%でスタートし、83年に7%となった。だが、標準税率が19%にアップした07年も新聞は7%で据え置かれた。10年には財務省が新聞の税率見直しに動いたのに対し、政権は7%の維持を決めた。
 ナチス時代への反省も踏まえ、国民には「市民の教養に国家が責任を持つ」との共通認識がある。新聞の税率を抑えていることと、大学の大半が公立で授業料無料という政策は同根という。憲法やメディア法が専門で、ドイツとの比較研究をしている大阪大の鈴木秀美教授は「軽減税率対象リストを作った時の立法資料を調べると、食料と出版物は軽減税率を適用するための積極的理由付けをしておらず、適用が当然視されていた」と指摘する。
 また、ドイツは新聞の定価販売(再販売価格維持)を競争制限禁止法の適用除外としている。出版物の販売に関しては、全国を80地区に分けていて「1地区1卸業者」が基本。卸業者は地区での独占権を与えられる代わり、全商品を消費者に届ける義務を負う。また言論の多様性を守るため、新聞には特別に厳しい合併規制がある。

 ◆フランス
 ◇食品より低率、直接助成も
 標準税率19・6%に対し、2・1%と5・5%の軽減税率があり、新聞には2・1%が適用されている。付加価値税導入は68年で、新聞は77年以降に今の税率となっている。
 イギリス同様、メディアへの優遇税制は民主化の歩みと軌を一にしている。1881年、フランス革命の人権宣言などを基に「出版自由法」が制定された。活字メディアは手厚く保護されており、新聞の税率は5・5%の食料品より低く、国の補助金による直接助成もある。
 日本新聞協会の視察団に対し、文化・通信省の参事官は「自由の国フランスでは政府が活字メディアを支援することは当然視されている。歴史的、文化的遺産として根付いている」と明言している。
 どの新聞が軽減税率の対象となるかは、行政機関、業界専門家らで構成する、独立性の高い審査委員会の承認が必要だ。
 委員会は「最低3カ月に1回発行」「広告が紙面の3分の2を超えない」などを条件に挙げている。ただし、記事の内容は問われない。

 ◆カナダなど
 ◇複数州でゼロ税率適用
 日本の民主党が税制改革のモデルとするカナダは、複数の州が新聞をゼロ税率(連邦分は標準税率の5%)としている。年間所得が約3万2500カナダドル(約250万円)以下の世帯(夫婦と子ども2人)の食料費など基礎的な生活支出額を調べ、そうした世帯に家族全員が負担する消費税分(大人1人につき約250カナダドル=約1万9000円)を還付する「給付付き税額控除」も導入して軽減税率と組み合わせている。
 米国では、50州のうち物品やサービスにかかる「売上税」を新聞に課しているのは7州。29州は非課税で、9州が条件付き非課税(5州は売上税がない)。
 また韓国も、標準税率が10%ながら、77年の付加価値税導入時から新聞は免税されている。欧州では標準税率のインターネット新聞も、免税対象となっている。

 ◆イギリス
 ◇「知識は非課税」原則確立
 付加価値税の導入は73年。標準税率10%でスタートしたが、当初から新聞はゼロ税率だった。11年1月、標準税率が17・5%から20%に引き上げられた時も新聞や書籍、食料品などは0%のままだった。欧州連合(EU)は77年の指令で、加盟国の最低税率を5%と定めたものの、それ以前からゼロ税率があったために0%が認められている。他に5%の軽減税率がある。
 英政府は1694年、印刷物に課税する印紙税法を制定。出版物の価格を上げ、売れないようにすることを狙った事実上の言論統制だった。これに英国新聞協会は反対し続け、1855年、同法は廃止される。こうした歴史的経緯から、「知識には課税しない」との原則が確立している。
 90年代に入り、財政危機の影響で数回浮上した新聞の税率引き上げ案もその都度見送られた。「国民の知る権利を守り、民主主義の維持に欠かせない」として新聞へのゼロ税率適用が続いている。

 ◆スウェーデン
 ◇制作・配達に国庫補助も
 69年の付加価値税導入時、標準税率は11・1%で新聞はゼロ税率だった。その後、財政赤字が続き、90年には標準税率が今の25%に引き上げられ、新聞も96年から6%となっている。6%の税率は、映画、スポーツの入場料などにも適用されている。03年まで25%だった雑誌や書籍も6%に軽減された。他に12%の軽減税率があり、食料品、ホテルの部屋代などが対象となっている。
 財務省によると、新聞業界が6%の税率で負担している税コストは日本円で年間約41億6000万円。標準税率の25%を適用されると約195億円の追加負担が生じるといい、文化省幹部は「新聞は特別扱い」としている。
 その理由はやはり「民主主義の維持」だ。朝刊紙の95%が定期購読され、普及率も高い。さらに軽減税率以外にも、新聞の制作費、配送費に対する国庫補助がある。09年時点で制作助成を受けているのが84紙、配達助成は137紙で、助成総額は約74億円に上る。

ネット社会でも役割大きく
川岸令和享受 早稲田大(憲法)

 自由で民主的な社会が存立していくためには、情報が自由に流通して、人々が物事を考えたり、社会の動きを知ったりできることが不可欠だ。
 欧州各国で軽減税率や非課税対象に生活必需品である食料や医療と並んで新聞や書籍・雑誌を加えているのは、我々が知的に生きていく上で必要な情報を提供するという公共的な役割を果たすことが期待されているからだ。本来は、消費税導入時に議論されるべき問題だった。
 新聞は伝統的に最も身近であり、公権力を監視する法規制のない自由なマスメディアとして存在してきた。今日、ネットで十分だという意見もある。しかし、基本的には関心のある情報しかネットでは見ないのに対して、一覧性のある新聞はそれ以外の情報も見出しによる軽重を含めて接することができる。ユーザーは新聞情報とつきあわせて真偽を見極めており、ネット社会で果たす役割は一層大きい。
東日本大震災や東京電力福島第1原発事故後に新聞各紙が相次いで検証、分析記事を掲載した。調査報道は、テレビと異なり、じっくり考えることができる活字の重要性、特徴を実感をさせた。
 新聞が衰退する社会を我々は受け入れられるのか。それは危険な社会であると思う。
    --「新聞に対する税制:欧州各国の現状 言論多様性を重視、「活字」の税率に配慮」、『毎日新聞』2012年1月28日(土)付。

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http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120128ddm012040190000c.html

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人生に逆境はない。如何なる境遇に在りても、天に事へ人に仕へる機会は潤澤に恵まれている。2012.1.28

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 人生に逆境はない。如何なる境遇に在りても、天に事へ人に仕へる機会は潤澤に恵まれている。
  大正十三年六月十五日    吉野作造
    --吉野作造「日記 二」、『吉野作造選集 14巻』岩波書店、1996年。

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明日1月29日は吉野作造(1871-1933)の誕生日。

上に引用した吉野の言葉は、日記に記された一節ですが、実は、この言葉は、吉野作造自身が人生において最大の危機中で発せられたものです。

この前の年(大正12/1923年)、吉野作造は東京帝国大学法学部教授の職を辞しております。その理由は次の通りです。


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氏(引用者注……吉野作造)は横浜の某富豪を説いて支那人、朝鮮学生の学費を出して貰つてゐたが、該富豪が自身の打撃で世話が六ケ(むつか)しくなつたので、氏は自分で費用を造らうと考へたのである。それは大学教授の収入よりも新聞社の方がズツト善い待遇を与ふるからであつた。
    --赤松克麿編『故吉野博士を語る』中央公論社、1934年。

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うえの引用は、吉野作造に「新聞社」仲介の世話をとった米田実(朝日新聞社)の言。吉野が東大を辞して朝日新聞社へ転職する遠因は、大正12年9月の関東大震災です。

横浜の素封家が、中国・朝鮮半島からの留学生に援助をしていたのですが、震災によって今後はその支援を見込めなくなったため、吉野作造自身が世話をしようとのことで、収入のよい「朝日新聞社」へ入社という経緯になったのです。

しかし……。
入社後、半年もたたないうちに、筆禍事件によって、退社をよぎなくされてしまいます。その進退窮まった際に、日記に記されたのが、一番最初の引用です。

軍部、枢密院、貴族院に対する吉野の容赦のない批判は、時の権力から常に警戒されていたわけですが、ひとつの些細な記事が筆禍事件へと大発展。

朝日新聞自身も吉野作造を護れきれなくなってしまい、退社という形で「何の過失なくして乃ち失業の群に入る」(吉野日記、1930年3月21日)という、客観的にみれば、マア「どうしようもない状況の中」に投げ込まれまてしまうんです。

そのなかで発せられた言葉です。

しかし、吉野自身は「人生には逆境はない」と力強く自らを励ましながら、このあとも使命の道を歩み通します。

身に降りかかった逆境のなかにおいても、吉野はなお「天に事へ人に仕へる」ことを使命として、まさに“生き抜きます”。

「天に事へ」とは、クリスチャンとして神に仕えることでしょう。
もう少し多元的な表現をすれば、「真理に身を投じる」とでもいえばいいでしょうか。

そして「人に仕へる」とは他人のために事をなすということなのでしょう。

このふたつは吉野の生涯における二つの人生の大指針なのですが、はからずも逆境によって決意として表現されたことに驚いてしまいます。

さて、朝日新聞を退社した後、吉野は社会的には不遇な状況が続きます。
が、同時に次の手を打ち始めます。それが吉野晩年の労作となる「明治文化研究」。

大正~昭和初期の論壇では、盛んにデモクラシー、そして社会主義、その他種々の主張が百家争鳴の如く繰り広げられていくわけですが、その淵源としての日本の近代はどこにあるのか?

当時の誰もが顧みることのなかった近代日本の出発点の資料を蒐集し、結果としては、実のところ民本主義論以上の、業績を後世に残すことになります。
※そこで集められた資料、そして史料に対するコメンタリーは、現代の「群書類従」と評価されております。蛇足ですが、学生支援は継続しております。


で……。
何かといいますかと、5年ほど非常勤講師としてお世話になった通信教育部を3月いっぱいで「退職」することになってしまいました。

専任教員で担当科目を回すことができるようになったので、申し訳ないのですが、4月から「担当をはずれてくだしあ」という「馘首」というのが早い話(涙

年末には新年度の予定をすべてセッティングして、新年度も

「さあ、がんばるか」

……と思っていた矢先なんですが、

まあ、人生には色々ありますね。

とほほ、というか、

おるず、というか、、、。

博士論文のほうも目処がついてきたので、今年こそと思っていたのですが……、ね。

まあ、人生には色々ありますね。

……かといって、人生をこれでやめるわけにもいきませんが、

何といいますか、正味のところ、「こころにぽっかりと穴があいてしまった」……という支えきれないほどの脱力感があるのは確かなところですが、ただ、うちひしがれてもはじまりませんので、私自身が研究をしている吉野作造の言葉を思い出した次第です。

ただこれも正直なところ、そこまで私も人間ができておりませんので、「逆境はない」と深く決意することへは少し時間がかかりそうですが、

それでも、、、、

「人生に逆境はない。如何なる境遇に在りても、天に事へ人に仕へる機会は潤澤に恵まれている」。

この言葉を忘れないようにといいますか、命には刻んでおきたいと思います。

昨日、SNSでその速報を少しだしたところ、履修された学生諸氏から、

「先生は辞めても、私の先生です」

というありがたい言葉をいくつも頂戴しました。

ありがたいことです。

正直、今後、どういう形で、組み立て直していくのか、全く暗闇の中です。

ただ、しかし、5年間という短い間でしたが、通信教育部で、ウンコのような私の講義を熱心に聞いてくださり、そしてオン・オフ問わず、真剣に様々な世代のひとびとと魂の交流を続けることができたのは、私自身の貴重な財産になったことは確かです。

皆様、ありがとうございました。

だから、誰を恨もうとか、ナニだとかというのは、ないのですが、その感謝と報恩の気持ちだけは忘れることなく、新しい挑戦を続けていきたいと思います。

皆様との交流……それはレポートを介したそれであったり、また教室のそれであったり、また酒席のそれであったり、キャンパスでの雑談であったり、さまざまな形をとりましたが、どれも金の思い出です。

本当にありがとうございました。

くどいですが、もう一度、新しい挑戦を開始しようと思います。

で……長くなるのが私の文章ですが、蛇足ついでにひとつ。
ブログ読者の方々で、レポートが未提出の方は、早めにだしましょうねw
3月まではまだ担当をしておりますので、どうぞよろしくお願いします。
まずは、「書いてみる」ここから卒業への一歩は始まりますからね、どうぞよろしくです。


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覚え書:「みんなの広場:原発誘致した人は福島に住んで」、『毎日新聞』2012年1月26日(木)付。

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みんなの広場
原発誘致した人は福島に住んで
主婦 63(福島市)

 今どこに行っても「福島です」と言うと皆優しく温かく「頑張って!」と励ましてくださり大変うれしいのですが、私たち福島県人は、どう頑張ればいいのでしょう? 一人一人がどんなに頑張っても放射能の問題は解決できません。全県除染なんて完璧にはできないことを私たちは知っています。
 福島への原発建設を推し進め、誘致に賛成し、福島をこんなにしてしまい、今は福島から遠く離れた所で結うがに暮らしておられるであろう政治家、役人、識者と呼ばれる方々、東電の歴代役員たち。私たちは皆さんに、これまで感じたことのないほどの怒りを感じています。
 あなた方、福島にお住まいになってはいかがでしょうか? 首相、収束状態って何ですか? 福島大好きな私の娘は第1子を妊娠中ですが、実家に帰省し出産することは、かないません。
    --「みんなの広場:原発誘致した人は福島に住んで」、『毎日新聞』2012年1月26日(木)付。

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覚え書:「引用句辞典 不朽版 お笑い番組 鹿島茂」、『毎日新聞』2012年1月25日(水)付。

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引用句辞典 不朽版 お笑い番組 鹿島茂
テレビをつまらなくする
極小タレント共同体

 われわれの笑いというものは、常に、ある人間集団の笑いなのである。(中略)笑いには、現実のものであれ、想像されたものであれ、ともに笑う人々のあいだでの了解済みの底意が、わたしに言わせれば共犯性が、潜んでいる。観客の笑いは、劇場の客席が埋まっていればいるほど大きく広がる、とは繰り返し言われてきたことではないだろうか? また、喜劇的効果の多くは、ある言語から別の言語に翻訳できない、したがって笑いはある特定の社会集団の風俗や観念に相関している、と何度指摘されてきたことか? (アンリ・ベルクソン『笑い 喜劇的なものが指し示すものについての試論』竹内信夫訳、白水社)

 地上デジタル放送への移行のおかげで、視聴可能なチャンネル数が増えたが、それによってひとつ確認できたのはテレビにはお笑いと通販しかないという事実である。チャンネルを変えても、出てくるのは健康や肥満への不安を煽って製品を売ろうとする通販か、さもなければ、おかしくもない笑いを振り撒いて一人悦に入っているお笑いタレントだけだ。
 前者はさておき、後者のお笑いタレントの連発するギャグネタがなぜ、全然おもしろくないのかを考えてみよう。
 ベルクソンが指摘するように、笑いというものには、笑う側にしろ、笑わせる側にしろ、ある特定の人間集団に幻想的に属している共同体意識を前提としている。
問題は、いまの若いお笑いタレントにとって、この《幻想の共同体》が非常に狭く見積もられていることだ。極端にいえば、両手を広げてグルリと回った範囲、つまり、家族と友達とクラスメートと先生と……それ以上は存在しない。あとは、テレビないしはインターネットへと直に接続しているだけだ。
 これは《幻想の共同体》どころか、むしろ《実体的共同体》であり、想像力の中で同じ価値観を共有するなんらかの中間的社会集団とつながっているという意識は希薄なのだ。つまり、彼らが多少売れ出しても、「笑いを取ろう」とする相手の集団は、あいも変わらず「両手を広げてグルリと回った範囲」の《実体的共同体》でしかなく、それを超えたところに笑いを届かせるにはどうしたらいいかなど考えたこともない。
 であるからして、テレビの画面の中にいる(つまりスタジオに集められた)彼らの同類(似たようなお笑いタレントやバカギャル)の笑いは取れても、画面のこちら側にいる視聴者の笑いはまったく取れないということになるのだ。
 しかし、これはデビュー当時のタモリがそうだったような「密室芸人」というのとは位相を異にしている。「密室芸人」時代のタモリが前提としていた《実体的共同体》は、数人しかいなかったその共同体の成員が山下洋輔や赤塚不二夫だったことからわかるように、笑いに関する高度な批評性を有する集団であった。そのハイレベルの集団を笑わすことができたのだから、タモリの芸も相当にレベルが高かったと想像される。
 密室性ということであれば、昭和初期の頃までの寄席というのもまたこうした性格を有した「聞き巧者」の共同体であったに違いなく、その共同体のレベルの高さが逆に芸人の笑いの質を支えていたのだ。
 いいかえると、笑うというものは、笑わせる側とインテリジェンスが同一レベルにあって、しかもある程度「塞じられた」フィールドにいる必要があるという、ベルクソンの「共犯性」を宿命としている。さて、翻って現代のお笑い状況を見てみよう。
 お笑いタレントたちは、《幻想の共同体》を笑いのフィールドとして出発するが、かつての芸人とは異なり、寄席に類する中間的な密室的フィールドでの試練を経ることはほとんどない。いきなりテレビという密室性を欠いた公共のフィールドへと連れ出されてしまう。
 それゆえ、「両手を広げてグルリと回った範囲」の笑いをテレビにそのまま持ち込むことになる。しかし、それでは、画面の向こう側の人間たちを笑わせることができるわけはない。おまけに、彼らには密室で「笑ってもらえなかった」というシビアーな経験がないため、自己批判性も備わっていない。
 思うに、これは、お笑いに限らず、政治についてもいえるのではないか。寄席というものを「派閥」という密室性を備えた中間的集団とのアナロジーでとらえてみれば、いまの 政治家がお笑いタレントと似たような状況にあることがわかるだろう。
 密室性をもった中間的集団の消滅が、お笑いタレントと政治家の質をともに落としているのである。
(かしま・しげる=仏文学者)
    --「引用句辞典 不朽版 お笑い番組 鹿島茂」、『毎日新聞』2012年1月25日(水)付。

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《単純化》した論理で、あれかこれかの《二者択一》を迫ってみたりする、内外の政治家たちの言動など……

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政治の世界では、言葉というものが大きな働きをなす。言葉を用いればこそ、民衆の支持をとりつけことも、その逆も可能になる。世論を誘導するのも言葉の力によるところが大きいのはいうまでもない。

デモクラシーの国であれ、独裁者の国であれ、政治過程において「言葉」を扱うことには変わりない。それは平時でも戦時においても同じ事だろう。

本書は、政治的言語を中心にして、ナチ・ドイツ社会の政治レトリックと人々が巻き込まれ過程を分析した一冊だ。

ナチズムの言語は、時代から半世紀以上立った今なお有効に機能している。その特徴は次の通りだ。


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たとえば、簡潔で《断定的》な語法によって細かい議論を拒絶したり、「悪の枢軸」との対決といった《単純化》した論理で、あれかこれかの《二者択一》を迫ってみたりする、内外の政治家たちの言動など。とくに、それが、しばしば疑似宗教的な粉飾を帯びるとき、その感が深い。実際、ヒトラー演説には、一般に考えられているより以上に《摂理》や《絶対者》といった言葉がちりばめられ、その歴史観と政治観の特色を示している。
    --宮田光雄『ナチ・ドイツと言語 ヒトラー演説から民衆の悪夢まで』岩波新書、2002年、まえがきii頁。

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この一節を読み想起するのは、「既得権益」という仮想敵を自ら演出し、パフォーマンスに手際の良い某市長の姿だろう。


本書は政治イデオロギーの分析だけでなく、映像メディアや教育の言語も取り上げているが、興味深いのは、それらに対する抵抗の言語も紹介していることだ。

人々が選択した武器は笑いとジョークだ。そして、圧倒的ともいえる全体主義の統制のなかでも、鋭い風刺的なジョークを用いた受動的な抵抗者が少なからず存在することには驚くばかり。


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 ナチ・ドイツの政治的ジョークは、けっしてひとりでに生まれたものではない。それは最終的には、何百万という犠牲者をともなうことになった政治体制によって、いわば呼び出されて成立した。これらの犠牲者には、国籍や人種、宗教や思想などを異にする多くの人びとが入っている。彼らを結び合わせていたものは、共通の苦難の運命だった。ヒトラーとナチズムに向けられた政治的ジョークもまた、同じである。それは、共通の敵にたいして、ヒューマニズムにたつ人間をすべて一つに結び合わせるものだったから。
    --宮田、前掲書、163-164頁。

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風刺は連帯を必然する。
笑いは本朝にも存在する。しかしそれは、2chに代表されるように、相手の生命を害することで自益するdisりのネタ文化と本書で指摘される笑いとは程遠いものがある。
それは、閉じた笑いにほかならず、人間同士を結びつけるヒューマニズムとは程遠いものだろう。

この陥穽を乗り越えるヒントが本書には沢山詰まっている。


※ブクログへ投稿した内容に少しだけ手をいれたものですいません。


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覚え書:「くらしの明日 私の社会保障論 貧困対策、本格始動の年に 湯浅誠」、『毎日新聞』2012年1月20日(金)付。

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くらしの明日 私の社会保障論 貧困対策、本格始動の年に
湯浅誠 反貧困ネットワーク事務局長

日本型福祉社会の見直し

 2012年は日本の貧困対策が大きく動く年になるかもしれない。
 日本では、貧困の存在は高度経済成長以降、長く忘れ去られてきたが、90年代後半以降の少子高齢化の進行、低所得化の進行、非正規雇用の拡大、教育格差の拡大、生活保護受給者の増大は、「貧困などない」と言い張り続けることを困難にした。男性正社員の片働きで家族を扶養するという「日本型雇用システム」が崩れ、セットになっていた「日本型福祉社会」モデルはカバーできない領域が増大した。
 団塊の世代が大量に高齢化する一方、生産年齢人口は急速に減り続け、しかも資力の乏しいワーキングプアが増大し続け、次世代の子どもたちは減り続けている。このままでは社会の持続可能性がないことに、多くの人たちが気づくに至っている。
 政府も、税と社会保障の一体改革で「貧困・格差対策」を優先項目の一つに位置づけ、社会防衛に乗り出し始めた。構成労働者に社会的困窮者自立支援室を設け、貧困指標の見直しに着手し、今秋までに「生活支援戦略」を立てて中期プランを策定する予定だ。その中には生活保護の見直しも入っている。また、懸案の消費税増税に際しては、低所得者の負感増を抑える逆進対策として、給付つき税額控除の導入と、導入までの過渡的施策を検討している。
 半世紀近く続いた「日本型福祉社会」のモデルの本格的見直しがスケジュールに乗り始めた。個々の施策がどのように新設・改変され、それぞれがどのように組み合わされるかによって結論は大きく変わるだろう。まだ、良くなるとも悪くなるとも言い切れない。総選挙がささやかれる政治状況にも左右されるだろう。

私たちはそれに対して、「お手並み拝見」と評論家然としていることも、「どうせ悪くなる」と無為にやり過ごすことも、できないし、すべきでもない。かかっているのは私たちの生活だからだ。積極的に事態を伝え、意見を出していく必要がある。しかし実際には、多くの人たちは仕事と生活に追われ、丁寧に議論を追う余裕も、自分の意見をじっくりと練り上げる余裕もない。そうした状況の中では、威勢のいいワンフレーズのキャッチコピーを編み出した人の勝ち、という不毛な結果い終わりかねない。年に一週間くらい、一人一人が「日本のこれから」をじっくり検討するスペシャルウィークを持てないものだろうか。
 ……年の初めだからか、そんなことを夢想した。

日本型福祉社会 企業の正規雇用や安定した家庭の存在を前提に、所得の保障や福利厚生の提供、子どもの育成・教育、高齢者の介護などを企業や家族が担ってきた社会のこと。国は高齢者に向けて年金などの制度を整える以外は、生活保護といった最終的なセーフティーネットを提供するだけでよかった。長引く不景気や少子化、独身者の増加などで、その根幹が揺らいでいる。
    --「くらしの明日 私の社会保障論 貧困対策、本格始動の年に 湯浅誠」、『毎日新聞』2012年1月20日(金)付。

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旨いもの・酒巡礼記:大阪府・大阪市編「わたしの大阪放浪記」

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 食について
 人間は生まれ出た瞬間から、死に向かって歩みはじめる。
 死ぬために、生きはじめる。
 そして、生きるために食べなくてはならない。
 何という矛盾だろう。
 これほどの矛盾は、他にあるまい。
 つまり、人間という生き物は、矛盾の象徴といってよい。
 他の動物は、どうだろうか。
 他の動物は、その矛盾を意識していない。
 だから、例外としておこう。
 よくよく考えてみると、世に生まれ出たことが、
 「厄災そのものですよ」
 といった知人がいるけれども、
 「そんなことはありますまい」
 反駁はできない思いがする。
 だが、人間はうまくつくられている。
 生死の矛盾を意識すると共に、生き甲斐をも意識する……というよりも、これは本能的に躰で感じることができるようにつくられている。
 たとえ、一椀の熱い味噌汁を口にしたとき、
 (うまい!)
 と、感じるだけで、生き甲斐をおぼえることもある。
 愛する人を得ることもそうだし、わが子を育てることもそうだろう。
 だから生き甲斐が絶えぬ人ほど、死を忘れることにもなる。
 しかし、その生き甲斐も、死にむすびついているのだ。
 このように矛盾だらけの人間の世界は、理屈ではまかないきれぬ。むかしの人びとは、 そのことをよくわきまえていたらしいが、近代の人間たちの不幸は、何事も理屈で解決 する姿勢が硬直しすぎてしまったところにある。
 などと、この文章も、いささか理屈っぽくなってきたから、ほかのはなしをしよう。
    --池波正太郎「食について」、『日曜日の万年筆』新潮文庫、昭和五十九年、210-211頁。

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1.「ビアホール ニューミュンヘン」
金曜日から日曜日までスクーリングの関係で大阪へ出張したのですが、その思い出を「探訪記」としてひとつのこしておきます。

金曜は13時の新幹線で新大阪へ。
その日は、約束が2件あり、まずは大阪駅(梅田)へ移動して、ビアホールの「ニューミュンヘン 本店へ」。
大阪駅で降りるのも初めてでしたが(だいたいタクシー利用なので)、そこから商店街のようなところへ案内されたわけですが、いわゆる「ザ・ビアホール」って感の「ニューミュンヘン」。

親戚の案内にて店内へ誘われてから、小麦麦芽を使用した「ヴァイツェン」を一気にかけつけ三杯。

ビールには「揚げ物」が定石ですから、そのあたりを頼んで、「黒ビール」。

交互に「ヴァイツェン」をいれながら、締めは「ベルエクストラスペシャル」(スコッチ)をダブルで。

予定があったので1時間程度の滞在でしたが、ひさしぶりにうまいビールを味わわせていただきました。

ありがとうございました。

店内は、昭和といいますか、戦前のドイツとでもいいますか、なかなか渋い造作で、
「ミュンヘン一揆」の密談もここで行われたのではないかと錯覚するほどです。

客層もよく、店員さんもきちんとしつけられていることにしばしば感動。
名残を惜しみながら、ホテルへ。

■ ニューミュンヘン 本店
〒530-0057 大阪府大阪市北区曽根崎2-9-13
TEL 06-6311-3381
営業時間 11:30~22:30(L.O.22:00)
ランチ  月~金 11:30~14:00
定休日 年中無休
http://r.gnavi.co.jp/k015500/


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2.「ホルモン焼き肉 まんてん」
荷物を整理してから、大学時代の先輩と合流。
案内されたのは、谷町9丁目のホルモンやさん「まんてん」。

大阪といえば、やっぱり「焼肉」。
そして、それ以上に名高いのが「ホルモン」。

どちらもいったことがありませんでしたので、興味通津で入店。
小さなお店ですが、お店の方が丁寧に清められた店内はあかるくさわやかで、こちらで、プレミアムモルツで乾杯し、おまかせの盛り合わせで。
何がどれなのかわからないのですが(苦笑、「はぁ、これがホルモンかぁ」とため息をつくほど、おいしかったのは事実。

中盤からいただいた「マッコリ」も初体験。
とても飲みやすく、やさしい味わいが印象的でした。

案内してくださった先輩、ありがとうございました。


■ まんてん
大阪府大阪市中央区谷町9-4-5 新谷町ビル 1F
TEL 06-4392-7373
営業時間 17:00~24:00
※ 夜10時以降入店可、日曜営業
定休日 月曜

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3.「氏家を肴に呑む会」
翌日は朝から夕方まで「倫理学」の講義。
その夜は、大阪と中部の学生諸氏(卒業生含む)が、「私を肴に飲む会」を企画してくださいましたので、ホテルへ戻ってから一路「梅田」へ。
チェーン店になりますが、時間を気にせずにゆっくり「話し込む」ことができるので「坐・和民」さんへ。
少し、遅れてから参加しましたが、有意義な時間をすごすことができました。また今回、履修されているKさんも、「ぜひ、ご一緒に」ってことで参加してくださいました。この日は遅くまで飲みましたが、いやー、学生さんと飲むのが一番うまいですね。いちおー、立場的には「教師」という「役」になりますが、当方、その自覚も薄く、真理に肉薄していくという「意味」では、学生も教師も平等ですから、そこには、高低浅深なんてありません。

■ 語らい処 「坐・和民」 スイング梅田店
住所 〒530-0057 大阪府大阪市北区曽根崎2-15-20 スウィングうめだビル5F
TEL 050-5522-6251
営業時間   17:00~03:00
金・土・祝前 17:00~05:00
定休日 年中無休
http://r.gnavi.co.jp/k672759/


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4.急遽「慰労会」
さて・・・
翌日もまる一日「倫理学」。
スクーリング試験を終えてから、20時の新幹線で帰宅予定でしたので、少々時間が。
試験も終わったところで一息ですから、10名ほどの学生さんと急遽「慰労会」。
※・・・って表現ですが、結局声かけはこちからなんですが(苦笑

しかし、37名のうち、10名参加とはすごい割合です(キリッ

ちょうど地下鉄淀屋橋の駅ビル2Fの「がんこ」。
こちらもチェーン店ですが、はじめての利用。
メニューも豊富で、味付けもよく、なかなかどうしてというのが印象的。
個室をたくさん完備した宴会場施設がととのっており、そこでゆっくり皆さんといろいろ語り合えたことは、僕の一生の思い出になりました。
結局、「先生、指定席で帰らずに、自由席でもその券で乗れますから」

・・・などということになり、20:30ぐらいまでゆっくりしてしまいましたorz

いや、しかしながら、短い滞在でしたが、ほんと、一緒に向き合うことのできた皆様ありがとうございます。
お互いに切磋琢磨しながら、自分自身を学問の世界で磨いていきましょう!!!


■ がんこ NEX-T1淀屋橋店
住所 〒541-0041 大阪府大阪市中央区北浜3-5-29 NEX-T1ビル2F
電話番号 06-6201-7002
http://www.gankofood.co.jp/group/washoku/shop/next1yodoyabashi/


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5.〆が締めることに(涙
・・・ってことで蛇足ですが、最寄り駅に降りてから「小腹がすいたので」

「風風ラーメン」(武蔵小金井店)にて「バリコク豚骨」なんぞを注文。
いや、たしかにうまかったのですが、翌日のダメージがここにすべて起因している模様にてなみだ目。

■ 風風ラーメン 武蔵小金井店
住所 東京都小金井市本町5-12-14 森ビル 1F
営業時間 11:00~翌5:00
ランチ営業、夜12時以降入店可、始発まで営業
定休日 無休


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※なお集合写真等はFBの方にupしてますので、そちらへお越し下さいませ。

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「『思索人の如く行動し、行動人の如く思索する』というベルグソンの言葉」を餞に

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 現代の知性人とは如何なるものであるかという問いに対して、「思索人の如く行動し、行動人の如く思索する」というベルグソンの言葉をもって答えることができる(第九回国際哲学会議におけるデカルト記念の会議に寄せた書簡)。ところで思索人の如く行動し、行動人の如く思索するということは構想力の媒介によって可能である。我々の眼前に展開されている世界の現実は種々の形における実験である。相反し相矛盾するように見えるそれらの実験が一つの大きな経験に合流する時がやがて来るであろう。「そこへ哲学が突然やって来て、万人に彼等の運動の全意識を与え、また分析を容易ならしめる綜合を暗示するとき、新しい時代が人類の歴史に新たに開かれ得るであろう。」知性人は眼前の現実に追随することなく、あらゆる個人と民族の経験を人類的な経験をに綜合しつつしかも経験的現実を超えて新しい哲学がを作り出さねばならぬ。この仕事の成就されるためには偉大な構想力が要求されている。すでに個人から民族へ移るにも、構想力の飛躍が必要であろう。今日の知性人は単に現実を解釈し批評するに止まることなく、行動人の如く思索する者として新しい世界を構想しなければならない。新時代の知性とは構想的な知性とはである。
    --三木清「新しい知性」、『哲学ノート』新潮文庫、昭和三十二年、19-20頁。

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日曜深夜に東京へ戻ってから翌日が勤務する短大の「哲学」の講座の定期試験。

結局のところ、試験によって「その人に哲学の力があるのかどうか」なんてわかるようなものではありませんが、大学という「制度」は「試験」を必要としますので、

「断腸の思い」にて敢行せざえるを得ないのですが、いずれにしまして、15回の講義、それから試験に参加された皆様ありがとうございました。

いわゆる一般教養の「哲学入門」、「哲学概論」に当たる講座ですが、クロニクルに哲学「史」を過去から現在への歴史として「概念」や「知識」として習得するというスタイルは当初よりとっておりません。

その辺は、最初の数回で概観してから、さまざまなテーマに関して、哲学者たちの考え方や人間の足跡を紹介しながら、「一緒に考えてみよう」というスタイルをとっているのですが、最後の試験の解答やこれまでの15回分のリアクション・ペーパーなどを読み返しておりますと、その試みは、今回もなんとか成功したのではないかと思います。

いや、別に「概念」や「知識」として哲学なるものを習得することが悪いってわけではありませんよ。
しかし、それと同時に、そしてそれ以上に大事なことは、それを使ったり、利用したり、また納得したり、反発したりしながら、

実際のところ・・・

「私はこう考える」

・・・っていう「哲学する」ことへ収斂させていかない限り、「哲学を学んだ」ことには多分ならないのでしょう。

だから、本を読めばすむような話は、自助努力にお願いすることにして、思索することを一緒に楽しむことで、「哲学する」練習にはなったのじゃないかと思います。

哲学なんて、はっきりいえば別に就職するうえで、ぶっちゃけたところ、ダイレクトに役に立つわけではない、今日(こんち)隆盛の猛威を振るう「キャリア科目」なるものからみれば、「不毛な科目」ってことになるのでしょうし、実際のところ教養教育軽視の風潮はますます強まるばかり。

しかし、今回は70名以上の方が履修してくれ、本当にありがとうございました。

確かに「就職」の役にもたちませんし、給料をupさせることもできません。

しかし、自分で考える、そして全体との関係を切断せずに思索することは、人間として不可欠なはずなんです。

何かあったときに、そう、

「これは、いっぺん、自分で考えてみないとまずいな」

・・・ことが時々、人生にはあるんです。

そのとき、今日までやってきた「哲学する」訓練は、さりげなく、あなた方をサポートしてくれるはず。

受け売りの手垢に汚れた言葉を右から左に使って「さも、わかった」ように生きていくのではなく、たとえば、「自分はどう判断していくのか」って局面で、力になると思います。

そのときまでは、直接の「役立つ」ものではないことは忸怩たるところですが、人間世界のなかで、その世界から退避するのではなく、ひとつひとつの言葉と真正面から格闘するなかで、何か、「さあl、もういちどやるぞ」って態度をとることができると思うんですよね。

だから、そういったとき、15回、一緒にやってきた「哲学する」を思い起こしてくだされば・・・などと思う次第。

ともあれ、試験が終わると、長ーい春休みですよね。

大学生は何をやるのも・・・「まあ、自由ですよ」

有意義な長期休暇であってほしいですね。

・・・ってことで後期の授業、ありがとうございました。


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白雪の東京:我が宿は 雪降りしきて 道もなし 踏みわけてとふ 人しなければ

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我が宿は 雪降りしきて 道もなし 踏みわけてとふ 人しなければ 読人知らず
    --0322「巻六 冬歌」、『古今和歌集』。

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夕方から降り始めた雨が20時すぎぐらいから、雪に。

東京では今期初の本格的な大雪ですね。

もちろん、朝になれば、路面が凍結して大変なことになることは承知しておりますが、雪がふると心が躍ってしまう……というのは僕一人だけではないとは思うのですけどね。

……ということで、その様子を少々撮影しましたのでひとつ。


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幸福こそが哲学の目標です

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 幸福こそが哲学の目標です。もっと正確に言うなら、哲学の目標とは叡智であり、だからこそ幸福でもあるのです--なぜなら、繰りかえしになりますが、哲学の歴史を通してみると、そしてとりわけギリシアの伝統のなかでもっとも評価されている見解の一つによれば、叡智がそれと認められるのは幸福のもとでのことであり、すくなくとも幸福のある種のあり方においてのことなのですから。というのも、賢者が幸福であるとしても、そのためには、どんな方法によっても、どんな犠牲を払ってもよいというわけではないからです。叡智が幸福であるとしても、そのためには、どんな幸福でもかまわないということではありません。
    --アンドレ・コント=スポンヴィル(木田元・小須田健・C・カンタン訳)『幸福は絶望のうえに』紀伊國屋書店、2004年、16頁。

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土曜と日曜の二日間、大阪にて通信教育部の地方スクーリングで「倫理学」を講じてきました。

37名の履修者の皆様、拙い講義を熱心に聞いてくださりありがとうございました。

様々な目的や関心によって、通信教育という形ですが、

「もう一度、大学で学問を挑戦しよう」

……という姿は美しい。

学問とは、おそらく、これまでの生活の中で「みえていなかったもの」に「言葉」と「形」を与え、そのひとの前に可視化する役割があるのだろうと思う。

そのことによってこれまで表現できなかったものを表現できるようになり、見落としていたものをもういちど、俎上にあげてやることができるようになるのだろうと思う。

たった二日間でしたが、そのひとつのきっかけになればとは思う次第です。

本年度の担当はすべて終了。

4月からまた全国を回ります。


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覚え書:「今週の本棚・本と人:『こども東北学』 著者・山内明美さん」、『毎日新聞』2012年1月22日(日)付。

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今週の本棚・本と人:『こども東北学』 著者・山内明美さん

 (イースト・プレス・1260円)

 ◇切り刻まれた歴史の先に--山内明美(やまうち・あけみ)さん
 自身の経験を軸に、東北の貧しさと豊かさの歴史を描いた。1976年、宮城県南三陸町生まれの東北研究者。東日本大震災で、実家は辛うじて残った。

 もともと専業農家だが、今は自動車の4次下請け工場なども営む。「高卒後、親の工場で働いたけど、仕事が減って家族の私からクビに。3年ほど町の民俗資料館に勤めて、2001年に慶応大に入りました」

 共同体の固い殻で自然災害に耐えてきた東北。国と社会の矛盾を押しつけられ、「へき地」扱いされ続けてきたと感じる。

 先の大戦の戦場の記憶から逃れられない祖父は、アルコール依存症だった。「これから天皇陛下さ会いさ行く」と、田んぼに背広と長靴姿で現れたことも。ある親戚は、親が戦前、本家の財産を処分し旧満州(現中国東北部)に移民した「罪」を子として背負い、戦後も本家の敷居をまたげなかった。実家の裏山には、由来のよく分からない「蝦夷(えぞ)塚」があった。「蝦夷が本当はどんな人だったかも分からないほど、東北の歴史は悲しく切り刻まれ、忘れられてきたと思う」

 小学生の頃、標準語の「発音練習」をした。中学の同級生で4年制大学に進んだのは自分一人。親に黙って受験し合格すると、親は親戚から「結婚もさせないで、あまやかして遊ばせていいのか」と責められた。

 それでも、小学6年生で初めて上京したとき、一人暮らしの人々の存在に驚き、家に鍵をかけるとは「なんて寂しい」とも思った。郷里の人々は、深酔いする祖父のことを「狐に化かされた」とうわさしたが、そこには、さげすみと共に優しさがあった。「今も、東北にとらわれ続ける愛郷心のようなものがある。故郷を出た後ろめたさゆえのものかもしれませんが」

 共同体に比重を置く田舎と、個人に比重を置く都会の両方の良さが活(い)きる社会がほしい。そのためにも「震災と原発事故で奪われた東北の土と海は、必ず取り戻さなくてはいけない」と思う。マイナスの札を延々と並べたうえでも、なお東北を愛したい。「この本のまとまりのなさ、混乱のありようこそ、私の内面そのものなのです」<文と写真・鈴木英生>
    --「今週の本棚・本と人:『こども東北学』 著者・山内明美さん」、『毎日新聞』2012年1月22日(日)付。

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http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20120122ddm015070052000c.html


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覚え書:「これが言いたい:「大衆迎合」としたり顔で断罪しても意味がない=北大大学院准教授・吉田徹」、『毎日新聞』2012年1月19日(木)付。

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これが言いたい:「大衆迎合」としたり顔で断罪しても意味がない=北大大学院准教授・吉田徹

 ◇ポピュリズム生む背景直視を
 「政権交代のある民主主義」が早くも失望に変わった中で、日本政治におけるポピュリズムの台頭を懸念する議論が目立ってきた。

 確かに、ポピュリズム政治は「大衆迎合」「衆愚政治」などと、よく批判される。しかし、断罪したからといってポピュリズム政治が雲散霧消するわけではない。まずは、なぜ発生するかを問うてみることが必要だ。

 歴史的にみて、ポピュリズムは既存の政治に対する信頼が揺らいだ時に発生する。政治が主権者たる「人々」の欲求や欲望を満たすことができない時、人々の政治不信は高まる。

 事実「失われた20年」は際限なく延長されて、閉塞(へいそく)感は強まる一方だ。意識調査では有権者の2人に1人は「政治家を信用していない」と答える。代表民主制は政治家が「人々」を代表していると「人々」が感じなければ円滑に機能しない。

 政治の失墜で生まれるのが、ポピュリズムだ。ポピュリズム政治は議会に陣取る政治家への否認を原動力に、「与野党問わず党利党略に明け暮れ普通の人々(庶民)のことを考えていない」と主張する。そして、議会や官僚制などわかりやすい権力の在りかを道義的な「敵」として非難し、人々を動員しようとする。経済危機で中間層の没落が現実となり、政治の無策にいら立つサイレント・マジョリティーにとって、カリスマ政治家によるメッセージは魅惑的に映る。

 ポピュリズム政治は、具体的争点に固執はせず、政治のあり方そのものを非難する運動だ。だから公約の中身は必要性から考えられたものではない。そしてマスメディアを含め政治家や政党に対する不信を募らせるのが作法となっているような環境でポピュリズムはますます勢いにのる。

 人々はポピュリスト政治家の政策的主張に賛同しているのではなく、おそらくポピュリストが象徴しているものに強くひかれているのだ。「ポピュリズムは民主主義の敵だ」としたり顔で批判している政治家は、自分の胸に手を当て、それを生み出しているのが自分たちではないのか、と自問すべきだろう。

    *

 民主主義が危機に陥っているからこそ、ポピュリズムが立ち現れる。複雑なことに、そのもたらすものは決して負の効果に限らない。

 ポピュリズム政治には、既存の政治の対立軸を揺り動かし、民主政治に緊張感をもたらし、人々を今一度政治へと向かわせるチャンネルを作るような効用もある。窒息死しそうな民主政治の起爆剤であり、場合によっては堕落しきった政治システムを鍛えなおし革新をもたらし、より優れた代表性を備えた政治を生み出すきっかけを提供し得る。

 だが、それはやはり危うさと裏腹である。ポピュリズムのもうひとつの特徴は、権力批判を糧にしていることにある。権力を奪取した途端に現実の壁にぶつかり穏健化すれば、「人々」の政治に対する失望に拍車をかけることになる。民主政治の本当の危機はその時、始まるのかもしれない。

 少なくとも今、求められるのは、ポピュリズムを唾棄して事を済まそうとするのではなく、その先にある不気味な「人々」の欲求や欲望を、政治がきちんとすくい取り、必要があればそれらはなぜ否定されなければいけないのかを説く勇気と知恵を政治家が持つことだろう。そうでなければ、ポピュリズム批判は天に唾するも同然である。

よしだ・とおる 東大総合文化研究科を経て現職。パリ政治学院非常勤講師。著書に「ポピュリズムを考える」。
    --「これが言いたい:「大衆迎合」としたり顔で断罪しても意味がない=北大大学院准教授・吉田徹」、『毎日新聞』2012年1月19日(木)付。

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覚え書:「異論反論 城戸さん! 女性の貧困が深刻化しています」、『毎日新聞』2012年1月18日(水)付。

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異論反論 城戸さん! 女性の貧困が深刻化しています
SOSに耳を傾けよう
寄稿=城戸久枝

 かつて一億総中流といわれていた日本だが、最近は格差や貧困という文字があちこちで目につくようになった。
 女性の貧困は深刻だ。国立社会保障・人口問題研究所の分析によると、勤労世代の単身女性の3人に1人が貧困なのだそうだ。
 20歳未満の子どもをもつ母子家庭の相対的貧困率は、07年で55%、10年でも48%と、減少傾向だが、依然高い水準にあるという(国立社会保障・人口問題研究所 阿部彩「相対的貧困率の推移 2007年から2010年」参照)。
 まだ働けるうちはいい。しかし高齢になるにつれ、貧困に対する不安は一層大きくなるだろう。65歳以上の単身女性の相対的貧困率は47%と高い(同)。
 女性たちはどうすれば貧困から抜け出せるのか。
 女性や高齢者の雇用の拡大、非正規雇用社員への保障改善、保育施設の拡充や子育て環境の整備など、国がすべきことはたくさんある。行き届いた対策をとるためには、より多くの当事者たちの声を集めることが必要だ。
しかし、女性たちの声はあまりにも小さい。


耐え忍ぶこと美学?
結局何も変わらない
 ある友人は、夫の家庭内暴力(DV)が原因で離婚した。当初は体調がすぐれず、生活保護を受給していたが、その後就職し、ぎりぎりの生活を送りながらも、無事子ども2人を育て上げた。ところが子育てに区切りがついた後、体調を崩し、会社を退職、再び生活保護を受ける生活に戻ってしまった。それでも彼女は「仕方がない。自分で頑張るしかない」と、自立にむけて懸命に再就職先を探している。
 貧困に陥る女性のなかには、彼女のように、問題を一人で抱え込んでしまっている人もいるのではないか。だから一番声を上げるべき人の声がなかなか国や世間に届かない。いや、声を上げようにも、日々の生活で精いっぱいで、
その余裕すらないのだ。おそらく、数値に表れない、埋れた貧困に苦しむ女性たちはもっといるのではないかと思う。
 苦しいとき、耐え忍ぶことは、日本人の美徳とされてきた。だが、ただ、耐えているだけでは、結局何も変わらない。もっと自身の苦境を訴えるべきだが、彼女たちが、声を上げる機会は乏しい。苦しいときこそ、苦しいと声を上げていいのだと、社会がもっと寛容になるべきだと思う。「甘え」だとか、「そんな余裕はない」という声も出るかもしれない。しかし、日本社会全体が停滞した状況から抜け出すためには、まず、「苦しい」という声に、一人一人が耳を傾ける必要があるのではないか。
 簡単に経済成長が望めない今を、私たちは生きなければならない。一人がでも多くが貧困から抜け出すことが、日本社会全体の明るい未来につながると信じている。

きど・ひさえ ノンフィクションライター。1976年愛媛県生まれ。子育てと仕事の両立は難しいが、取材を続けてきた引き揚げ女性の話を早く出版できるよう、取材・執筆を進めている。
    --「異論反論 城戸さん! 女性の貧困が深刻化しています」、『毎日新聞』2012年1月18日(水)付。

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【ご案内】1/21-22:地方スクーリング,A1期 大阪 『倫理学』

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 すべての知識は、分離、区画、制限によって生ずる。或る全体的なものの絶対的知識などというものは存在しない!
    --ニーチェ(渡辺二郎訳)「哲学者の書」、『ニーチェ全集』第3巻、ちくま学芸文庫、1994年、294頁。

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賞罰告知といいますか、定型文といいますか、毎度同じ呼びかけで恐縮ですが、例の如く、アカデミズム底辺の荒涼たる裾野をさまよう氏家で御座います。

開催まで数日……もとい前日になりましたので、告知ということで、、、。

表題のとおり、今週末より、大阪で開催される通信教育部の地方スクーリングA1期にて「倫理学」を講じてきます。


受講される学生さん方がいらっしゃいましたら、どうぞ宜しくお願いします。


で……。

例の如く引き続き定型文のような内容ですが……

できれば……といいますか、学生さん方へのお願いです。

できれば……教材の序論だけでも結構です。必ず読んできて欲しいと思います。

忙しいとは思いますが、目を通さずに、授業に望まれてしまうと、これはきわめて“モッタイナイ”状態です。

是非、宜しくどうぞお願いします。

お互いに気の抜けない過酷な(?)剣豪のごとき真剣勝負をやりましょう!

こちらも万端の準備と仕込みで乗り込んでいきますのでどうぞ、よろしくお願いします。

今回は四十名弱の予定です。

大阪は一年ぶりですね。楽しみにしております。

眠ることもできないほど最高のフルコースですよ( ・ω・)∩

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無邪気さについての雑感

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 世界がどれほどの価値あるものなのかということを、世界の最小の小部分でさえも、顕示してくれるに違いない、--人間を見よ、そうすれば諸君は、世界についてどう考えるべきであるかを、知るであろう。
    --ニーチェ(渡辺二郎訳)「哲学者の書」、『ニーチェ全集』第3巻、ちくま学芸文庫、1994年、305頁。

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twitterとFBで昨夜、少し吠えた内容なんだけど、大事だと思うので、少し加筆して残しておきます。

さて・・・・
(それが悪い訳じゃないけど)無邪気に前進できる人ってうらやましい。

当然、否定できないほどそれが自他ともに「善いこと」をやっている場合もなんですよ。別にそれを貶めようというのは筋ではありませんが、無邪気というのを「無反省」と置き換えてもいいんですが、そういうわだかまりがあります。
*もちろん、僕が念頭においているのは、そういう事例よりも、どちらかといえば、明らかに「オカシイ」ことをそうやっている場合とか、たとえば敵対勢力を「批判」するだけで、それを「勝利」と勘違いする連中のことですので、念のため。加えて、「勝利」という言葉の値打ちも天文学的に崩壊したなとは思けど、これはまた別の機会に。

戻りましょう。

で、、、現実のところ、それ以上に唾棄すべきは、それを喰いものにする連中だ。うとましい。

こういうわけで、僕は慎重になってしまう。

純粋さを人と比べようとはおもわないし、「オレの方が正義のレースに熱心なんだ」って浅はかな決意発表みたいなのには反吐がでる。

大声をださないで慎ましくいきていく。

そしてその取り組みのなかで、時代を変革しゆく連帯をデザインしたい。

たぶん、連帯っていうのは、何か、特定の枠組みがあって、そこに自分を鋳造していくのではなく、「ほぉ~」って感覚で近所のひとが集まって(=離脱自由を含む)、それぞれが取り組んでいくことなんだろうな。

日本ではそれが特に政治的イシューに収斂されるから連帯できないんだよ。

いろいろとかかわりもあるし、文句もあろうだろうから、政治的人間として振る舞わざるを得ないことは承知だけどさ、そういう上っ面な部分だけでない、集合離散のルーズな人間同士の連帯がたぶん、必要なんだろうと思う。55年体制の最大の問題は、すべて「政治」で解決できると夢想したことだ。

困った人に手をさしのべるのには(そしてそれは裏をかえせば、自分が手をさしのべられるには)、本来、思想信条は関係ないはずなんだよ。だけど、あいつは赤だとか、右だとか、……ねぇ。(表現はわるいけど)津波や地震の前には、そんなもんは関係ない。

それを利用する権力に騙されないようしないと。

政治的イシューに熱心になればなるほど、敵と味方の二元論に収斂されてしまう。

そして結局、手を入れるべき問題がスルーされ、こぼれおちていくということを自覚する必要があると思うのだけど……ねぇ。

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