智慧というもののもつ最も重要な要素は、それこそが、人間をして、瞬間による支配から離脱せしめるもの

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 哲学者というものは、第一に自分自身に対し、第二には他者に対して、存在している。全く孤立して自分自身だけで存在しているということは、不可能なことである。何故なら、彼は、人間である以上、他の人間への関係をもっているからである。それ故に、彼が哲学者であるならば、彼は、この関係の中においても、哲学者であられなばならぬであろう。私の考えるところでは、彼が、隠者として、峻厳に、他の人間から離れ去って行った場合でも、そのことによって、彼は、一つの教えを、一つの模範を、垂れているのであって、したがって、他者に対しても哲学者なのである。彼が、己れの欲するがままに、どんな振舞いをしようと、そんなことはかまわない。ともかく、彼の哲学者という存在には、人間に向けられた一面があるのである。
 哲学者の制作するものは、(彼の著作に先立って、何よりもまず)彼の生活である。それこそが、彼の芸術作品である。すべて芸術作品というものは、第一に芸術家に、第二には他の人間に、向けられたものなのである。--
 哲学者が、哲学者でない人々や他の哲学者たちに対して及ぼす効果とは、どのようなものであろうか?
 国家、社会、諸々の宗教等々は、皆、問うことができる。一体哲学は、これまで、われわれに対して、何かを貢献してくれたであろうか? と。哲学は、現在、われわれに対して、何かを貢献してくれることができるであろうか? そのようにまた、文化も問い得る。
 哲学一般の文化に及ぼす効果如何の問題。
 文化の解釈--現在一つの旋律を演奏させている、多くの、根源的に敵対的な、諸々の力の、調律ないし、調子としての、文化の解釈。

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 智慧というもののもつ最も重要な要素は、それこそが、人間をして、瞬間による支配から離脱せしめるものだ、ということである。それ故、智慧は、時代に適うものではないのである。智慧の意図することは、人間をあらゆる運命の打撃に対して直ちに確乎たる姿勢をとらせ、あらゆる時代に対して武装させること、これである。それは、国民的色彩などほとんどないものである。
    --ニーチェ(渡辺二郎訳)『哲学者の書』ちくま学芸文庫、1994年。

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もっとも誤解と誤読が多いのがニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の著作かもしれません。

ニヒリズムを超克する方途の探究であったものが、ニヒリズムの主張と受けられ、その超克する方途の探究であった「超人」という概念が、凡俗を唾棄してしまう国家社会主義的“指導”原理として受容されてしまうなど、その受容史を振り返ってみますと、概括的速読ほど恐ろしいものはないと思われて他なりません。

思うに、おそらく、ニーチェが生きていたならば、ニーチェを担ぎ上げようとするニーチアンの姿こそ唾棄すべき対象なのでしょう。

現実世界との応対関係のなかで、丁寧にじっくりと活字と向かい合い、ニーチェの息吹にふれていくほかありません。

3月下旬から、ふと思い立ちニーチェを再読しております。
もちろん、論文にしようとか、なにか学的批評としてまとめようという目的ではなく、ペダンティックな読み方に過ぎないといわれてしまうとそれまでなのですが、読んでいて驚くことが一点あります。

すなわち、それは、

ニーチェは「特別なこと」や「奇を衒うようなこと」や「魔術的呪文」を一切唱えていないと言う点です。

もちろん、ニーチェ独特の神懸かった言い回しとか、文体としてのアフォリズムに翻弄されてしまう側面は厳として存在しますが、そこになんども登攀していくと、「特別なこと」や「奇を衒うようなこと」とか「魔術的呪文」を一切唱えていないところに到達してしまいます。

「特別なこと」や「奇を衒うようなこと」や「魔術的呪文」を一切唱えていないと言うこととはなにでしょうか。

すなわち、「あたりまえ」のことしか語っていないということです。

しかしこの「あたりまえ」のことが実は難点なんです。

「あたりまえ」だからこそ認識できにくいものなんです。
「あたりまえ」だからこそ「今、考えるに値しない」とか「言われて無くてもわかっているわい!」てなわけで、深く自分自身の問題として「あたりまえ」を直視することなくスルーしてしまい、結局は「あたりまえ」の判断を為さずに状況が進行していく……それがその実情かも知れません。

人間というのは不思議なもので「あたりまえ」のことほど耳にいたいものはありません。
しかし「あたりまえ」であるならばこそ、その「あたりまえ」のことに対して真摯に足下を掘っていくしかないのでしょう。

こうした「あたりまえ」という省察に関してひとはそれをスルーしてしまうようになってしまうと、どうしてもその対極にある「特別なこと」や「奇を衒うようなこと」とか「魔術的呪文」になにか特効薬を見出してしまうのかも知れません。

何も特別なことをニーチェは語ってはおりません。
しかし、何も特別なことは世界には必要ではありません。
特別ではない「あたりまえ」のことにこそ「特効薬」はあるわけですから……。

そうしたことをここ数日よく直面させられております。

なにが大切でなにが必要なのか。
雰囲気とかブームとか手法によらない「あたりまえ」に耳を傾けていかない限り、その当人の生活のみならず、政治も経済も、そして思想も、十全に「人間のために」という言説としては発動しないのだと思います。

人間とは何かといった場合、実はコレきわめて教科書的な定義の問題ではありません。ニーチェが「 哲学者というものは、第一に自分自身に対し、第二には他者に対して、存在している。全く孤立して自分自身だけで存在しているということは、不可能なことである。何故なら、彼は、人間である以上、他の人間への関係をもっているからである。それ故に、彼が哲学者であるならば、彼は、この関係の中においても、哲学者であられなばならぬであろう」と語っているとおりでありまして、極めて即自的且つ対他的な「あり方」の問題にほかなりません。

それをなにかできあがった一定の準拠にのみ依拠してしまうと、他者を分断するばかりか最終的には分断してしまう主体としての自分自身をも分断してしまうのでしょう。

アトム的な個人も必要在りません。そしてその対極にある、人間を「ネジ」ととらえる共同体主義も必要ではありません。

必要なのは、生きている自分自身の課題として、分断されたあり方ではなく世界と繋がった自分自身の「生」の問題として捉え直していくことができるのか、そこを現代世界では試されているのではないだろうか……そう思われて他なりません。

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智慧というもののもつ最も重要な要素は、それこそが、人間をして、瞬間による支配から離脱せしめるものだ、ということである。それ故、智慧は、時代に適うものではないのである。智慧の意図することは、人間をあらゆる運命の打撃に対して直ちに確乎たる姿勢をとらせ、あらゆる時代に対して武装させること、これである。それは、国民的色彩などほとんどないものである。
    --ニーチェ、前掲書。

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天文学的数値で変貌をつづける現代世界は、まさに考える暇を与えてはくれません。
しかし少しばかりの思索の暇を丁寧に保持しつつ、「あたりまえ」だから「言う」「必要はない」というよりも、「あたりまえ」なことだからこそ「声」を「大」にして叫ばなければならないのかもしれません。

「あたりまえ」って実は大切なんですヨ。

「お前にいわれなくっても“わかっている”」……っていう言い方は実は何も知らないネンネかも知れません。

「智慧というもののもつ最も重要な要素は、それこそが、人間をして、瞬間による支配から離脱せしめるもの」ですから、生きている生活実感との応対関係から抽出される「あたりまえ」とされるものことの叫びに耳を傾けないあり方というのは、「瞬間による支配から離脱」されない籠絡の渦中でぐるぐるまわりなのでしょう。

……ということで?
本昼より怒濤の市井の職場の連勤がはじまりますが、例の如く?……午前中は、ちと世田谷近辺にて所用の外出があり、はやく寝ないといけないので、蒸し暑くて蒸されすぎた体をほぐすために、きんきんに冷えたビールを鯨飲しつつ、紫煙をくゆらせつつ寝ますワ。

「あたりまえ」続きで恐縮ですが、タバコは、ライター……オイル・ガス両方含む……でやるよりも、マッチでやる方が実はかなり旨いんです。

不思議といえば不思議ですが、当たり前といえば当たり前というのはこのことなのでしょう。

オイルでやると油臭く、ガスでやると揮発臭いのですが、マッチの優しい燐の匂いが味わいを増幅させてしまうようですね!

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人類への帰属性こそ「人格の唯一性ないし絶対性」を保障するわけなのですが……

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 人間の諸権利は人格の唯一性ないし絶対性を明らかにする。人類への帰属にもかかわらず、いや、この帰属性ゆえの人格の唯一性ないし絶対性なのだが、たった今強調されたように、それこそが存在のうちでの人間的なものの逆説であり神秘であり斬新さであろう。タルムードの見事な寓意によってこの点が示唆されているように私たちには思えるので、それを次に引用しよう。

「聖と称えられるべきお方の偉大さ。今、人間はすべての硬貨に同じ刻印を押すことで、すべてが瓜二つであるような硬貨を得た。ところが王のなかの王、聖と称えられるべきお方は、すべての人間にアダムの刻印を押したが、誰も互いに似ていなかった。だからこそ、『世界は私のために造られた』という義務が各人にはあるのだ!」

 類の同一性が、絶対的に類似せざるものを、唯一名存在同士の非-加算的な多様体を包摂しうるということ。アダムの統一性が比較分帽ば唯一性を有した諸個人に刻印され、そこでは、共通の類が消滅し、個体が硬貨のように交換可能なものたることをまさにやめるということ。そこにおいて、各人は世界の唯一の目標として(あるいはまた、現実にただひとり責任を負う者として)肯定されるということ。これこそが疑いなく、人間のうちなる神の痕跡であり、より精確に言うなら、神がそこで初めて人間に到来するような現実の地点なのだ。先の寓意のありうべき意味は、先行的な<啓示>にもとづく人間の諸権利の何らかの演繹に比すべきものではなく、それは逆に、人間の諸権利の明証性にもとづく神の権利の到来を表しているのだ。

 人間の諸権利ならびにこれらの権利の尊重は、神学者たちが<啓示>に、言い換えるなら、余所ですでに獲得された「神についての数々の真実」に準拠することで表現するような神の厳格さや恩寵から生じるのではない。たしかに、こうした準拠においても、諸権利は超-自然的なものとみなされ、その異常さが証示されるのだが、すでにしてそこには、法律遵守と宗教的諸審級による媒介が姿を現している。そしてそのことが、ルネサンス以降の、人間の諸権利の特徴なのである。
    --エマニュエル・レヴィナス(合田正人訳)「人間の諸権利と他者の諸権利」、『外の主体』みすず書房、1997年。

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ちょど昨日にて、市井の職場での久し振りの六連勤が終了しましたが、あまりにもレジを打ちすぎていたのでしょうか。

本日も終盤までレジ打ちをしておりましたが、ホンマ管理職がこんなことやっていていいのか~と思いつつ、それでも打刻しませんと、長蛇の列になってしまいますので、理由もヘッタクレもなくレジを打つ毎日ですが、喉ががらがらになったのははじめてです。

で……。

「今日もなんとか無事終わったな」と、波がすぎてから、売り場の点検をしておりますと、あきらかに酔っぱらいのおっちゃんなのですが……

「おれ、車何処に止めたんだっけ?」

……とのこと。

正直に言えば、「止めた貴方ががご存じでしょう」と思わざるを得ませんが、接客業においては基本的には、士農工商の身分順列のごとく、きわめて対他的にはそうした本音などぽろりとやるわけにもいかず……、言葉をすりあわせながらも、えんえん10分間、どこにとめたのかわからず……どうしようもないので、とりあえず、当店の駐車場の位置をご案内。

「当店の駐車場を利用したというのであれば、駐車券はお持ちですか?」

「ない。だ・か・ら、車どこにおれは止めたんだよぅっ!」

「・・・」

「探せや! ボケっ!」

……って宇治家参去はボケではありませんがと突っ込みたくなりましたがチト我慢し、やりとりをくりかえすなかで、あきらかに、(たぶん)うちの店舗の駐車場(当店利用以外の方でも時間料金を支払えば利用できるというスタイル)に車をとめてから、どこか近くの飲み屋に飲みに行ったようご様子です。

いちおう、それとなく

「わからないのであれば、警察に連絡をとり、探して貰いますか?」

……とはふってみたのですが、

それは拒否られ、ご自身で探すということにて、案件クローズ。

しかしこれで案件クローズさせるとまずいよな!
道路交通法的な問題も多分にありますが、かかわった相手として放置するのはまずよな!

……という部分が残ります。

かなり、飲んでるご様子でしたから、店内へ戻ると、いちおう、最寄りの交番(徒歩1分)へ詳細の連絡を入れ、確認して貰うことにしました。

「おれの車どこにとめんだよっ」

……って言われましても、

「まさにアンタが一番知っているんだろう」

……といいたいところですが、車で来て、ふらっふらっで前後不覚になるまで飲んで車で帰ろうとするのはよくありませんです。

……その後、どうなったのかは知るよしもありませんが。

「人間の諸権利は人格の唯一性ないし絶対性を明らかにする」ことは重々承知です。
しかしわすれてはいけないのは、人間という存在における二重の次元ということではないかと思われて他なりません。

還元不可能な人格の唯一性・絶対性としての地平と、そして、普遍性に所属するという地平の交差するところに人間は存在しているのだろうと思います。

しかも人類への帰属性こそ「人格の唯一性ないし絶対性」を保障するわけなのですが……。

ともあれ、疲れ果てました。

その御仁、あきらかに60歳ぐらいのお父さんにて、飲んでいないときはたぶんいいお父さんであり、おじいさんなのでしょう。

最近つくづく実感するのが伝統的な世代間格差を感じられなくなってしまったことです。
よくあるセリフに「今の若いモンは~」って部分があり、その指摘は重々承知しておりますし、自分自身もそうした言い方をしてしまうところは否定できないのも一面の事実です。

しかしそれが全体を代弁してはいないといことも事実かなと思わざるを得ません。
不特定多数のひとびとと向かい合う仕事をしながら、実感するのは、世論調査的な俯瞰図としてはある程度、世代感覚をグルーピングすることはできるのですが、現実にはそこからはみ出してしまう部分が顕著に還元不可能なその個人をレプリゼントしてしまうという事実です。

ヘンな言い方ですが、よくできた人物は世代を問わず存在します。
そしてその逆も世代を問わず存在するということ……。

それを目の当たりにしてしまうと、どうしても自己認識としての自覚の問題を常日頃から自分自身の課題としてひきうけていかないかぎり、「神」か「野獣」@アリストテレスになってしまうのか……などと思う昨今です。

……ということで、毎日「日本酒」を飲んではいけないので、本日は、本格焼酎にて我慢する次第です。

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著者:エマニュエル レヴィナス
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おまえはまだ若いし、俗世の誘惑も重く、おまえの力に余るものだから

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 ちょうどそのとき、パイーシー神父が、彼にはなむけの言葉を贈ってくれた。その言葉は思いもかけず、きわめて印象深い感銘を彼にもたらした。それを言われたのは二人が長老の庵室を出たときのことだった。
 「いつも肝に銘じておくのですよ」とパイーシー神父は、前置きもなくいきなり切りだした。「いまでは、俗世の学問はひとつの大きな勢力になり、過去一世紀はとくに、聖書に記されている尊い約束を、何もかも秤にかけてしまいました。俗世の学者たちの容赦のない分析にさらされた結果、かつて神聖とみなされていたものはもう何ひとつ残っていないありさまなのです。しかし学者たちは、部分の解明にばかり気をとられて、肝心な全体を見落とし、あきれるぐらい目先が利かなくなっているのです。彼らの目の前に、その全体が相変わらずびくともせず存在しているというのに。地獄の門、黄泉(よみ)の力もその全体は攻略できません。
 そもそもこの全体は、十九世紀をとおして生きつづけ、現に今も、個々の人間の心の動きや、人民大衆の動きのなかに生きているのです。いや、何もかも破壊しつくした当の無神論者たちの魂の動きのなかですら、全体はこれまでと同じようにゆるぎなく生きているのです! なぜかと言えば、キリスト教を棄てキリスト教に逆らっている人たちも、本質においては当のキリストと同じ顔をし、同じ人間としてとどまっているからです。そして彼らの英知も、彼らの情熱も、大昔にキリストがお示しになった姿以上の、人間と人間の威厳にふさわしい最高の姿をほかに生み出すことができなかったからです。たしかにいろんな試みがなされましたが、それらはどれも醜いものばかりでした。とくにこのことをよく覚えておくことです。なぜかと言えば、おまえがこれから俗世に出ていくのは、いま他界されようとしている長老さまがお決めになったことですから。偉大なこの日を思い出すときは、心からのはなむけにおまえに授けたわたしの言葉も、きっと忘れずに思い出してくれるでしょう。なにしろおまえはまだ若いし、俗世の誘惑も重く、おまえの力に余るものだからです。さあ、お行きなさい、みなし児よ」
 こう言ってパイーシー神父は彼に祝福をさずけた。修道院を出るとき、この突然の子t場を思い返しながら、アリョーシャはふいに、これまで自分に厳しく厳格だったこの修道僧が、思いもかけず新しい友となり、自分を熱烈に愛してくれる新しい指導者であることを悟った。あたかもゾシマ長老は、臨終に際し、このパイーシー神父に彼の後見をゆだねたかのようだった。
    --ドストエフスキー(亀山郁夫訳)『カラマーゾフの兄弟2』光文社、2006年。

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火曜日の深夜……精確には水曜の未明ということですが……アサヒ ザ・マスターをかなり飲み過ぎてからなおも、日本酒をかなりやっていたようで、布団で最初は寝ておりましたが、朝起きると、ふとんを敷いていない自室の床の上に転がっており、かなり飲んだようだな……などと朝ゲフゲフしたものです。

本来ですと昼過ぎにおきるのがちょうどよろしいのですが、生憎朝から中野へ細君と一緒に出かける用事があり、寝たと思ったらすぐにたたき起こされる……という具合で、寝不足の宇治家参去です。

さて、こうしたデイタイムに出かける場合、ちょうど時節柄幼稚園が午前保育になっているため、ふたり出かけてしまうと息子殿をサルベージすることができませんので、園を休んで頂き、家族で出発!

中野に都合15年近く住んでおりましたが、足を踏みいれたのは初めての地域で、駅は杉並区という具合で、その境目の地域に住んでいらっしゃる細君の知り合いのところへ出かけてきました。

さて、要件を済ませると、同道している息子殿へのご褒美?

……ということで、中野へ行くと、それが中野区の東西南北のどの地域であろうが、ちょうど中心部に位置する中野ブロードウェイへ行かざるを得ませんので、新井薬師駅からタクシーにて直行!

親の用事でどうしようもなくついてきた訳ですが、文句もいわず、楽しそうについてきてくれましたが、いよいよ自分が表舞台?に出る段になりますと、目の輝きが違います。

最近大好きなポケモンバトリオS(スーパー)にて日頃のストレスを発散されたようですが、こちらは百円玉が湯水の如く消えていくのがなんともいえないところですが、マア、毎日勉強して、元気に幼稚園にも登園しているようですから、そこはすこし我慢?するしかありませんかねエ。

この中野ブロードウェイで恐ろしい?のは「まんだらけ」に代表されるように、子供のみならず大人の触手を刺激して止まない食玩・おまけ・フィギュアの類を商う店を軒を連ねておりますので、ここですこしまた銭を落とす……というやつで。

……ということで? 時計に目をやるとけっこう良い時間になっておりましたので、関東では有名なお好み焼き・モダン焼きの「ひまわり」へ赴き、しばし休憩です。

店内ではソースの匂いがたちこめ、香ばしいにおいや「お好み焼きには生ビール」と書かれたKirinのポスターなんぞをみかけるたびに、「いっぺえやりてえ」とは思うのですが、生憎、その後は仕事ですので、じっと我慢の子です。

本来の目的は達しましたので、何もなければ「昼ビール」というわけですが、そうもいかず……我慢できた宇治家参去は「偉い子」だと思わざるを得ません。

で……。
とりあえず、昼ランチのトリプルなんちゃらというプレートメニューを頂きましたが、焼きそば、オムレツ、生姜焼きにライス、味噌汁がついて1000円でおつりが来るというのはこのご時世においては、財布に優しいメニューでしたが、ひとつ発見です。

関西出身の市井の職場のアルバイト君がいつも公言してはばからないのは次の部分です。
すなわち、「お好み焼き」「焼きそば」には「ライス」でしょう!

そのことです。

「ありえねえよ~なあ~」

……などとタカをくくっておりましたが、今回は焼きそばとのコラボレーションでしたが、おもった以上にマッチングすることにはおろどろきました。

ただスーパーで買ってきたマルちゃん(東洋水産)の3食パックの焼きそばとかでやるとどうしてもショボくなりそうだよな~というのも実感であり、なかなか食することのできぬ太麺の焼きそばに脱帽です。

しかし、今日は風も強く、雨が降ったっかと思えば、日が差してきたり……ということで、蒸し暑さの不快指数全開!ですから、「ひまわり」を辞してから三歩も歩くと暑さでゲレゲレ状態になってしまいますので、茶店へ入り、禁断の?アイスコーヒーの注文を細君にお願いして一足先に、席に座って待っていると……

出てきたのは、「本日のコーヒー」(ホット)でした。

「本日のアイスコーヒーって注文した筈なんだけど……」

……とのようでした。

やっぱり、暑いときには熱いコーヒーだよな!ということで、漢字で「漢」と書いて「おとこ」と読む!との気概にて、上着をとることもなく飲みほさせて頂いた次第です。

……ということで、『カラマーゾフの兄弟』

昨夜痛飲した原因がここに存在するわけですが、5月に再読したばかりなのですが、なんとなくもう一度読んでおきたいな……ということで酒を呑みながらぱらぱらと読んでいたわけですが、やはり染みこんできます。

まさに『十四代』が染みこんでくるように、染みこんできます。

多読も大切ですが、『カラマーゾフの兄弟』と向かいあうなかでいつも思うのが、“一書の人”にもならなければならないということです。

いわば、原点の一書をもつということでしょうか……つらいとき、かなしいとき、そしてうれしいときに自分と向き合える一書を持てたこと以上に幸福はないよな!……と思いつつ、酒をがんがんのみつつ、自分の一書としての『カラマーゾフの兄弟』と向かい合った次第です。

カラマーゾフ家の三男・アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフは敬愛するゾシマ長老の命、そして逝去を契機に還俗しますが、その転回への扉をひらいたときに、いわば上司からかけられた言葉がうえの引用文です。

こうした言葉を読むと、世俗内禁欲と世俗外禁欲の問題をどうしても考えさせられてしまいます。詳細はヴェーバー(Max Weber,1864-1920)を繙いて欲しいところですが、前者が制度的修行システムを介さない自発的な世俗における修行システムのことであるとすれば、後者は制度的修行システムに自発的に誓願し、古臭い言い方ですが「徳」を積み上げ修養していくあり方です。

宗教改革以降、世俗外禁欲の価値は、教会のもつ影響力が減じるのと等しく世俗内禁欲へとバトンをタッチしていきましたが……そしてヴェーバーによると、世俗の取り組みのなかで「神の国」の成就をなしていくという努力が資本主義の興隆を招いたというわけですが……システム・理念として飽和した現代の状況をみていると、そうした状況を撃つ、なんらかの相対化させるような視点としての世俗外禁欲的なものも必要なのかな……しかし大切なのはそのシステム事態が硬直化を招き本来の「救済」を損なってしまうというディレンマですが……などとは思ってしまいます。

ドスエフスキー(Fyodor Mikhaylovich Dostoyevsky,1821-1881)は晩年、ロシア的なる宗教性へと回帰していきますが、現状を撃つ、なんらかの根源的指針を模索していたのかもしれないな……などと思われて他なりません。

今日は久し振りに仕事をしながら「おめえ、何様だ!」と口からあやうく発しそうになりました。

このところ官民あげてのエコロジーですから、レジを打っておりましても「システム」として「レジ袋」の「要・不要」を確認しなければなりませんので、アイスを数点購入された高齢の夫人に確認したところ……

逆キレされました。

「こんな冷たいものを手でもってかえるわけねえだろう。お前は馬鹿か! んで、あん、マネジャーか。こんなしちめんどうくさいこと聴かなくても察するように指導するのがあんたの仕事だろ! いるのかいらないのかっていつもうっとうしいんだよ! あんたがこのシステムを変えなさいよ! こっちもいそがしいんだから、もう」

……って。

「もう」……って。

そんだけしゃべる時間があるので在れば、ご自身の境涯を開陳される必要もないのだと思うのですが……。

変な話ですが、逆に大クレームとかその筋の方のごり押しの方が楽ですが、市井のひとにこうしたアレをやられると、ホンマ、人間って何っていう哲学的命題を考えさせられてしまいます。

だからこそドストエフスキーのひとことひとことが染みてくるのでしょうか……ねえ。

なにしろ「おまえはまだ若いし、俗世の誘惑も重く、おまえの力に余るものだから」しょうがないですね。

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【覚え書】「商品情報 インタビュー 第92回 『アサヒ ザ・マスター』」、『サライ』小学館、2009年7月16日号。

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ちょゐ、英文学者・吉田健一(1912-1977)のヨーロッパ文明論から、政治における理念と人間の問題をフランス革命をその一つの事例として考えていこうと思っていたのですが、例の如く市井の職場でのアリエナイ事例を前にすると、深いため息もでないほどつかれてしまいましたので、【覚え書】にて済まさせていただきます。

どうもなかなかこの七転八倒の負の連鎖から抜け出すことが出来ないばかりか、今まで以上にアリエナイ事案が積み重なっていくことのほうが多いのですが、これも人間として鍛えられているのだろうと思い、ビールにて疲れをいやさせていただきます。

……って連日です。

すいません。

しかし、読めば読むほど納得です。
旨いモノには訳がある!とはまさにこのことです。

今日は、仕事へいく前に、ベトナム戦争への従軍兵のごとく、tour of dutyとして中野へよらなければならないので、チト早く寝ますワ。

しかしビール道は奧が深いです。
発泡酒、新ジャンル、そして多種多様なフレーヴァーで人気を誇る缶チューハイに市場としておされがちなのがビールなのですが、丁寧に造られたビールの橋頭堡を守るべく、連日ビールと向かい合っていくしかないナと思う次第です。


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アサヒビール商品開発第一部 山下博司さんに聞きました
ビールの本場の製造法で造った「ドイツ伝統の味わい」とは何ですか

 本場ドイツの製法に倣い、麦芽とホップだけで造られた国産ビールが発売された。これまでのビールとどこが違うのか、ドイツに留学して「マスター」の学位を取得した開発者に聞いた。

--「マスター」とは、どのような資格なのですか。
 「ドイツのビール醸造学には、主に4つの学位がありまして、そのひとつが『マスター』です。醸造学を始め、より専門的な内容まで勉強して取得できる学位です。現地では、ビール醸造所の経営に必要になります。日本の取得者は、私を含めアサヒビールに2名いるのみです」

--その学位を製品名に冠した。
 「ドイツで学んだ技術を生かして監修をし、また、ビールの傑作という意味を込めて『ザ・マスター』という商品名に決めました」

--本場の製法とは。

 「ドイツには『ビール純粋令』という法令があり、それを守らないとビールとしては認められません。具体的には、麦芽とホップ、酵母、水の4つの原材料のみで造られたものがビールと呼ばれています」

--日本のビールとは、味は違うのですか。
 「ドイツのビールも多種多様なので一概にはいえませんが、コクがあって、しかも飲み飽きない味に仕上げました。ドイツの人にも納得してもらえ、また、日本のビール好きのお客様にも、満足してもらえるよう、細かなところを調整しました」

--味の特徴は何でしょう。
 「飲んだときに、ホップの華やかな香りが鼻をくすぐります。種別にすると『ピルス』(※)に分類されるのですが、本場のものより苦みは若干抑えています」

--おいしく飲むコツは。
 「泡がビールの酸化を防いでくれるので、できれば、きれいに洗ったグラスに注いでお飲みください。多少、ビールの温度が上がってもおいしく飲めます。

※下面発酵で造られる淡色ビールで、ドイツではホップの香りと苦みが引き立っている。
    --「商品情報 インタビュー 第92回 『アサヒ ザ・マスター』」、『サライ』小学館、2009年7月16日号。

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単なる善良さはたいして役に立たぬ

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 幸福についての複合的見方であれ、主知主義的見方であれ、アリストテレスはそのいずれかを完全に受け入れることにはためらいを感じているように思われるが、これは人間とは本当は何であるのか、ということについて彼が結論を下しえず、したがって人間の幸福の本質について不確かなままであったことからくる、と解釈できよう。アヴェロエスの場合、われわれは何であり、われわれの働きは何であるのか、を知る上で問題はもっと少ない。というのは、このことはイスラムによってある程度示されており、そして事実すべての信仰がそうなのである。
 しかし、彼は人々が幸福に至りうるさまざまな道を記述するのに、アリストテレスとは違う説明を用いる。この区別が必要なのは、人々がその能力や関心において異なるからである。たしかに、シャリーアの優れた点の一つは、誰にもその人に最もふさわしい形で幸福に至ることを可能にしている、というじじつのなかにあると考えられている。したがって。誰も内的能力の故に幸福を奪われていることはないのである--ある宗教において、その創造主が被造物をさまざまに創った結果、ある人だけが幸福になりえて他の人々がそうではないということになれば、それこそ問題であろう。
 アヴェロエスはこの点でプラトンを非難し、プラトンによる社会の説明では、国家の三階級のうち、守護者たちと哲学者たちの二階級だけしか論じられていない、と主張する。国家の法は理論的知識に基づいた幸福をエリートだけのために用意しているのに対し、シャリーアは全人類に--彼らがすべてムスリムである限り--幸福を保証している。この解釈によれば、プラトンのモデルは社会の一部に限定され、したがって政治的実在の一般的説明としては不満足なことになる。イスラム哲学者はこの批判を採用し、イスラムは社会全体をカヴァーするように、プラトンを満足のいくように変容することができたのである。なぜなら、啓示されたイスラムの真理は、それに対応する幸福と共に、すべての人に等しく開かれているからである。
    --オリヴァー・リーマン(中村廣治郎訳)『イスラム哲学への扉 理性と啓示をめぐって』ちくま学芸文庫、2002年。

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春先からさやさやとイスラム哲学、宗教思想に関する文献を定期的にひもとくようになりましたが、その濃厚なアリストテレス理解には驚くばかりです。

ご存じの通り、ローマ帝国崩壊後、アリストテレス(Aristotle,B.C.384-B.C.322)の哲学・思想がまとまったかたちで探究されたのは、当の西洋ではなく、バクダッドをはじめとするイスラーム世界であるわけなのですが……西洋に再輸入されるのは中世後半からですが……、往時をしのばせるアリストテレスの学説とイスラーム神学との対話に耳を傾けてみると発見することが多く、毎度ながらうならされております。

当然、酒を呑みながら、うならされているわけですが……それはひとまずおき、たしかに引用した文献にみられるように、アリストテレスの議論には「これは人間とは本当は何であるのか、ということについて彼が結論を下しえず、したがって人間の幸福の本質について不確かなままであったことからくる、と解釈できよう」というふしが多々存在します。

たしかにアリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、最高善とは何かを議論するなかで幸福であるというひとつの結論を提示しますが、当の最高善とは観照(テオリア)的生活(=真理を覚知する生活)であると論じてはおりますものの、その内実に関しては一切踏み込んでおりません。

既に何度か確認したところですが、最高善を保管するひとつの契機としての正義論に関しても、友愛(フィリア)の感覚が人と人との間に存在するならば、形而上的正義論は不要だとアリストテレスは論じておりますが、大胆だよなと思うばかりです。

天空のイデア界に汚れ無き完成されたモデルネを模索・願望しつづけた師匠・プラトン(Plato、BC.427-BC.347)とは裏腹に、大地に指を差しつつ、真理なるものは現実に内在すると説いたアリストテレスの学風を彷彿させる発想だとおもわれるわけですが、たしかに、現実の個物に注目しつつ、超越的なる概念を探究していくならば、簡単に「これは人間とは本当は何であるのか、ということについて彼が結論を下しえず」というのはすこぶる納得する次第です。

定義論的ファイナル・アンサーを模索したのがプラトンであるとすれば、そのファイナル・アンサーへの道程を示したがアリストテレスかもしれません。

昇っていく枠組みを確認しながら、その当人、すなわち個別存在者がその仕方において還元不可能な固有な仕方で在りつつも、普遍性へのつながりをうしなわないあり方の提示がアリストテレスの営みであり、そこになにかプラトンよりも親近感を覚えてしまう宇治家参去です。

昨年は研究所での輪読でスペイン・コルドバ生まれのイスラム神学者・哲学者イブン=ルシュド(Abu Al-Walid Muhammad Ibn Ahmad Ibn Rushd、ラテン名:Averroes,1126- 1198)の文献を独仏羅で読んでおりましたが、このところなかなか忙しく参加できないところが残念というか……忙しさを理由に、自分自身の選択肢の展開させる契機を自分で潰していることが残念なのですが、すこし状況がおちつけば真正面からとりくんでいきたいところです。

ちなみにこのイブン=ルシュドの業績がラテン訳され、中世ヨーロッパのキリスト教のスコラ学の興隆につながるわけですから、なかなか捨てたものではありません。

……ということで?

月曜は大学での講義があり、その日は、非暴力主義について講義してきましたが、この辺が実にむずかしいですね。

理念を現実に取り込んでいくといいますか、内在化させていくとでもいいかますか……しかし人間はその努力を怠ってはいけないのだろうと思う次第です。

アリストテレスの如く、定義づけはできません。
しかし、かすかな光明にして眼前にまぶしく光り輝く光明に近づいていく努力は手放してはいけないのかもしれません。

で……?
感覚とか理論として非暴力主義の真実性を理解することは容易です。
しかし、それを現実生活に適用させると、そこから脱落していくことが容易です。

なぜならば、時間がかかるからです。

学生さんたちの反応もそうした実感がありありと伺えました。

しかし、時間がかかるけれども本源的改革というものはそうした忍耐が要求されるものなのでしょう。

そしてそこでいう忍耐とは諦念としての忍耐ではなく、変革を覚知した決意としての忍耐なのだと思われて他なりません。それこそがアラン(Emile-Auguste Chartier,1868-1951)のいう「意志」としての楽観主義かもしれません。

そして“わたしはそこなしの楽観主義者だ”と自認したのはガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi,1869-1948)です。
ガンジーにおいてはアランよりも一段と高く「意志」の問題以上に「真理」論としての楽観主義者としてあったのだろうと偲ばれます。

しかしそこでおもしろい現実があります。
すなわち、ガンジーはその仕込において重々・念入りに組み立てていったということです。

仕込を重々・念入りに組み立てることを嫌悪するのが急進主義的アプローチかもしれません。そしてその青写真は妄想に産物にほかならず、現実への適用を不可能なのでしょう。

だからこそ次のような言葉が出てくるのかも知れません。

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善良さには知識が伴っていなければならない。単なる善良さはたいして役に立たぬ。人は、精神的な勇気と人格に伴った優れた識別力を備えていなければならない」という言葉にもよく表れております。
    --ガンジー(K・クリパラーニー編・古賀勝郎訳)『抵抗するな・屈服するな ガンジー語録』朝日新聞社、1970年。

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さっ、勉強しよう勉強!
善良さや強さは、賢明さの裏付けがあってこそ十全な力を発揮できるから!

しかし、その前に寝るか!
既に飲んでいて、いつも支離滅裂な宇治家参去でした。

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【研究ノート】人間より以上に神に従おうとし、国家社会主義によって布告された掟とはちがった掟に従う

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時間が無く考える暇もなく、脳死状態のようですので、【研究ノート】ということでお茶を濁しておきます。

ドイツを代表する歴史家マイネッケ()の著作をひとしきりめくっていたのですが、ちょうどドイツにおける教会闘争……すなわちトータル支配を目論むナチズムに対する福音主義教会の闘争……の部分を読みながら、ひとつ考えておかねばならない点を確認したい次第です。

常に日頃申しておりますとおり、最も人間が警戒しなければならない問題とは、人間の神化ではなかろうかと思います。

人間は全能の神とアナロギアするならば、その可能性の無限大性から、まさに全能というべき存在であると想定することはできます。
しかし、人間とはその一方で、死ぬべき存在であり、朽ちてゆくべき存在としては有限存在にほかなりません。

これをユダヤ=キリスト教的世界観においては「原罪」としての人間、そして仏教的世界観においては「凡夫」として定義されてきたわけですが、その自覚の問題をわすれてはならないということなのでしょう。

有限性の自覚が契機とならないかぎり、人間の可能性の無限大性は発動しないのだと思います。

人間の可能性の無限大性にハナから依拠してしまうことほど恐ろしいことはないのでしょう。
可能性の無限大性とは導き出されるエトヴァスであり、根拠ではありません。

そこに根拠をおき、ひらきなおってしまうと、人間を神として定置し、人間を人間として扱わない軽挙妄動がじわりじわりと出てくるのでしょう。

超越的な倫理が必要だ!

……とは申しません。

ただしかし、どこかで自分自身を相対化させる視座を失ってしまうことほど恐ろしいことはありません。

とくになんでもかんでも「のみこんでしまう」東洋的エートスにおいては、無限大性に根拠をおく「開きなおり」という発想・あり方がとめどもなく噴出してしまう可能性を大にひめております。

警戒しないといけないな……などと思う常日頃です。

……ということで、ハイネケンはやはりうまく、疲れをいやして、脳髄にビールの鮮烈さを染みこませて寝ます。

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 しかし、ヒトラーのキリスト教にたいするもっとも深い憎悪は、なんといっても、それとは別の点に向けられていたように、われわれには思われるのである。キリスト教のなかに生きている、神にだけ責任を負う独立の良心という理念、人間より以上に神に従おうとし、国家社会主義によって布告された掟とはちがった掟に従う、この世のものでない神のみ国を認めようとする要求、これらのものこそ、内外の生活の全体主義的画一化にたいする抵抗のもっとも深い泉がキリスト教のなかにさらさら音をたてて流れているという正しい認識に、ヒトラーを導いたのであった。
 そのさいかれは、キリスト教の教義についてニーメラー牧師と争うつもりは、すこしもなかった。ヒトラーの意見によれば、キリスト教の教義は、かれをそこなうことなしに、しずかに広く伝えられることが可能であった。しかしヒトラーは、良心が自主的に宗教的な審査を行う権利や、良心の圧迫にたいする反抗を、かつての潜水艦長であったこの勇敢な牧師に許そうとはしなかった。ニーメラー自身は、最初はヒトラーに希望をつないでいた。しかし、ヒトラーのなかの非キリスト教的、反キリスト教的な特徴をとつぜんあらわれるやいなや、かれの良心の義務もまたそれまでの幻想をつきやぶり、かれは抗議の説教者となり、そのダーレムへの説教壇へ、人々は全ベルリンから群れをなしてやってきた。そのためにやがてヒトラーは、一九三七年の秋からかれ自身の権力の終わりまで、ニーメラーをダハウの牢獄にとじこめたのである。
 ニーメラーはしかし、それと知らずに、たんなるかれの教会の信仰をはるかにこえたものを、代表したのであった。二千年にわたるキリスト教的な西洋の過去全体が、かれにおいて立ち上がり、この過去の強奪者に、次のように呼びかけたのであった。自分の国はこの世のものではない。おまえが建てようとする国はしかし悪魔の国だ、と神様は仰せられる、と。
 われわれは、ヒトラーに反抗したこの過去のキリスト教的性格を、まったく広い意味でとらえなければならない。自由主義やデモクラシー、その他ヒトラーが熱烈に憎んだすべてのものは、正しく理解すれば、これまたキリスト教的性格の一部をなすものだったのであり、キリスト教の地盤のうえでのみ、漸進的な成層化と世俗化を通して、歴史的に発展することができたのである。一七八九年の人権ならびに市民権の宣言は、すでに明示されているように、良心の自由にもとづく自然権のうちに、宗教的-キリスト教的な根をもっていたのであり、ロード・アイランド州(アメリカ合衆国)の民主的な清教徒たちは、この自然権をかれらの憲法の基礎に置いていたのである。
 キリスト教的-西洋的な世界の内部で、一方の積極的に信仰するキリスト教と、他方におけるあの成層化と世俗化のあいだには、従来、不和と闘争がみちみちていた。人道主義的なフリーメイスン団の会員たちとカトリック教会とのあいだの深淵は、なんと深いものにみえたことであろう。ところが、いっけん不倶戴天の敵と思われたこれらのものは、一つの新しい異教の興隆にたいして、同時にまた、一つの新しい、だがこれまでのものとはまったくちがった性質の世俗化--われわれはこれをいまこのように表現してもよいだろ--にたいして、とつぜん同一の闘争ならびに防御の戦線を形づくったのである。
 なぜなら、この新しい異教においては、在来の世俗化を教義的キリスト教に結びつけていた最後のきずなが、断ち切れていたからである。すなわち、人間の良心を神の永遠の命令の、なかんずく隣人愛という倫理的命令の布告者であると認めることは、なくなっていたからである。そしてこの隣人愛とは、つまりまた、われわれにめぐり会うどんな人のなかにも、その人がまったくの異種族に属していようとも、人間的尊厳を認めることを意味していたのである。したがってまた、民族や種族のあいだの闘争にも、倫理的な制限がついていたのである!
 この制限は、もちろん歴史の実際のなかでは、われわれがせまい意味であるいは広い意味でキリスト教的な西洋の末流とみなす人々によっても、しばしば存分にふみにじられた。しかしそれにもかかわらず、諸民族のなかにはつねに良心の針が存し続けたのであって、暴行ののちには、ふつう、倫理的な根本命令にたいするなんらかの再反省が行われた。人々は、この根本命令を原則的に廃棄しようとはしなかったのである。
 ヒトラーとその一味のものは、このことをあえてした。もっとも、まさか全面的にそうしたわけではなかった。なぜなら、もしそんなことをしたら、無秩序と混乱にいたったであろうから。それゆえやはり、隣人愛同様のあるものを通じて、部分的にはけっして効果がなくはないいろいろな事柄が、「民族の幸福」のために行われた。けれども、民族的利己主義はこれらの善行を原則的に自民族のうえにかぎり、また自民族の内部でも、国民社会主義の指導に反対せず、政治的に危険のないように思われた若干の人々だけに局限した。他のすべてのもの、なかんずく憎むべきユダヤ人にたいしては、倫理的制限も、人権や人間的尊厳の承認も、もはや存在しなかった。ヒトラー一派はこのことを公然とは述べなかったし、また戦術的な理由からまったく態度を変えることも、おうおうあった。しかし強制収容所のガス室のなかで、ついに、キリスト教的-西洋的な文化と人間性の最後の息は絶えてしまったのである。
 新しく築かれた第三帝国は、暴力的な良心の圧迫を始めたが、この圧迫は、無数の運河を通ってドイツ民族内のあらゆる個人の生活に流れよせるか、さもなければ、かすかに絶え間なくしのびよった。われわれはこの圧迫のなかに、第三帝国のやり方のうちでもっともひどくかつ有害なものをみるとともに、第三帝国に固有の原罪をみるのである。なぜなら、この良心にたいする圧迫は、他の場合に傲慢な宗教や、時には傲慢な輿論さえもが人々に加えることのできる圧迫とはちがった、それよりもいっそうくだらぬものだったからである。
    --マイネッケ(矢田俊隆訳)『ドイツの悲劇』中公文庫、1974年。

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Einmal ist keinmal.

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 自分に腹を立てているうちに、何をしたらいいのか分からなくなるのは、まったく自然なことだと思いあたった。
 人間というものは、ただ一度の人生を送るもので、それ以前のいくつもの人生と比べることもできなければ、それ以後の人生を訂正するわけにもいかないから、何を望んだらいいのかけっして知りえないのである。
 テレザと共にいるのと、ひとりぼっちでいるのと、どちらがよりよいのであろうか?
 比べるべきものがないのであるから、どちらの判断がよいのかを証明するいかなる可能性も存在しない。人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。それはまるで俳優がなんらの稽古なしに出演するようなものである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか? そんなわけで人生は常にスケッチに似ている。しかしスケッチもまた正確なことばではない。なぜならばスケッチはいつも絵の準備のための線描きであるのに、われわれの人生であるスケッチは絵のない線描き、すなわちす、無のためのスケッチであるからである。
 Einmal ist keinmal(アインマル イスト カインマル)(一度は数のうちに入らない)と、トマーシュはドイツの諺をつぶやく。一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。
    --ミラン・クンデラ(千野栄一訳)『存在の耐えられない軽さ』集英社文庫、1998年。

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ちょうど金曜の夜、1月に都立大学@東横線で一緒にひっくり返るほど飲んだ--そして事実ひっくりかえってしまった--大学の同期から電話がありました。

KOで目黒を一緒に元気にしようぢゃないか!との叱咤激励?を受けてしまい、ちょうどその土曜日から市井の仕事もあるので、チトキツイよな……などと邪念がよぎりつつも、二つ返事でうけてしまいました。

彼からの案内は断れません。

「他にも誘ってみるよ」

……とのことで、待ち合わせの改札へ向かうと、大学時代に、一緒に喜怒哀楽の全てを経験した?同期と後輩が集まっており……、

「来て正解だった!」

……と内心安堵しちょいと喜んだナイーヴな宇治家参去です。

思えば、彼らとは何でも挑戦しあえた仲だと思います。

「ぜってえ、できねえよ!」
「まぢでやるんスか?」

……っていう難関を何度も一緒に突破してきました。
学生時代のことですから、今から振り返ってみますと、まだまだネンネのおこちゃまだったかもしれませんし、そのとき「ぜってえ、できねえ!」って思ったハードルは今から思うと低かったのかも知れません。
しかし、それはそれでの後日談というわけですが、まさにそうした地球的問題群?と対峙していたきはまさに抜き差しならぬ難事であったわけですが、お互いにお互いを励ましながらひとつひとつ乗り越えていったことは何にも代え難い経験の一つなのだろうと思います。

さすがに大学を卒業してから一〇数年たっておりますので、姿形には当然変貌(成長?)がみられますが、心意気はあの一〇数年前のキャンパスでの姿と同じであり、べつに何をするわけでもないですが、会うと、また歩いていこう!と鉢巻きを締め直すことができるのは実にありがたいものです。

人間は自分で限界を設定しているのかも知れません。
そしてそれは自分だけではなく、他者としての人間も同じなのでしょう。

孤立してしまうと設定した限界に忸怩して時がすぎてしまうのが通例ですが、不思議なことに、おなじく悩み・限界を設定している人間ですが、出会うとそこからひとつづつ坑を穿つことができるのが、実に不思議なものだよな……などと思ってしまいます。

ひとりでコツコツやることももちろん大切なのですが、人間という存在自体が倫理学者・和辻哲郎(1889-1960)が描いて見せたように「間柄的存在」であるとするならば、ひとりでコツコツやるだけでなく、人間同士の切磋琢磨によって、限界を突破してみたり、凹んだところから再び歩み出したり、種々、思っても見なかった展開が現じてくるものなのでしょう。

そのことはどのような精緻な反駁理論があろうとも生命の叫びとして否定することは不可能です。

ほんとうは、皆とそのあと飲みにでも行きたい!気分でしたが、こちらは生憎しごとですし、土曜の午後、2時間あまりの同道でしたし、皆もそのあと種々スケジュールがつまっておりましたので、燦々!と散会しましたが、いや~あ、学生時代の仲間ほどよいものはありません。

……ということで、またの再会と人生での勝利を期しつつそれぞれの帰路へついたわけですが……。

朝から何も食べておりませんでした!
そして、これから24時まで仕事だろう!

……ってことで、クィックイーティングを所望しましたので、JR高田馬場駅構内で気になっていたメニューに挑戦です。

いわゆる駅中ジャパニーズ・ファースト・フードというやつです。

早稲田口改札内……ここが大切です!……改札から出てしまうと遭遇できません……に店を構える駅蕎麦屋「ちゃぶぜん」です。

蕎麦の類は何度も利用しておりましたが、いつも気になるメニューをスルーしておりましたので今回頂戴してきた次第です。

「馬場丼」がそれです。

べつにジャイアント馬場(1938-1999)がのっているわけではありませんが、丼メニューです。

写真のとおり、丼からはみ出すほど大きなチキンカツをのせた丼物です。
丼といえば、カツ丼、親子丼に代表されるように、汁で種物を煮立てたような丼とはことなり、どちらかといえば、天丼に近いサッパリ丼です。

はじめてやり、腹も減っていた所為でしょうか、実にうまかったです。

大きなチキンカツはしかしながら、かなり薄目ですので、食感としてはハムカツにちかいそれですが、そのうえにかけられたソースは麻婆なんちゃら風のあんかけソースでこれが実にスパイシーでして、カツをめくるとしゃきしゃきキャベツ、そしてキャベツをめくると鳥そぼろ……。

じつに多層的な……神学の世界でいうなれば、多元論的なコスモロジーの展開する丼でございますが、それぞれのエレメントが実にハルモニア(調和)というかたちで差異を口蓋にて讃え合っているという状況で、実に美味でした!

さて冒頭で引用したのはチェコを代表する大・現代作家ミラン・クンデラ(Milan Kundera,1920-)の主著『存在の耐えられない軽さ』からの一節。

実に読みたいのですが、読むのが惜しいので封印してきた一冊ですが、そろそろいいだろう?……ということで鞄に突っ込み本日より読み始めましたが、じつにいいです。

スタイルとしては、冷戦下のチェコスロヴァキアを舞台に、プラハの春(1968)を題材にした恋愛小説なのですが、どうしても小説として読めません。

冒頭からニーチェ(1844-1900)の「永劫回帰」の可能性が議論され、そしていきなり男女の議論へと誘われ、読み物というよりも哲学書といった方が精確だよな……と電車のなかでニヤニヤしてしまいました。
※ということは同じ電車でそのニヤニヤした宇治家参去をご覧になった方にはすいません!

さて……。
人間の人生とは、まさにクンデラがさきに描写したとおりだと思います、すなわち……、

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……それはまるで俳優がなんらの稽古なしに出演するようなものである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか? そんなわけで人生は常にスケッチに似ている。しかしスケッチもまた正確なことばではない。なぜならばスケッチはいつも絵の準備のための線描きであるのに、われわれの人生であるスケッチは絵のない線描き、すなわちす、無のためのスケッチであるからである。

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だからこそ旦那!
捨てたもんぢゃないんですよ!

無のためのスケッチほど素敵なものはありませんですワ。

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選挙とは将来に期待せらるべき自己の発達せる態度を他の人格に求むることである。

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社会評論雑談(抄)

    〔各人の利益は各人最もよく之を知る〕
 「各人の利益は各人最も能く之を知る」といふ諺がある。前世紀初頭の自由主義や不干渉政策は一つにはこの命題を主なる根拠とした。今日でも往々にして此の格言に基く一種の自由放任論を世上に見る事がある。説き様に依ては正しいが又説き様に依ては飛んでもない間違いを生ずる。
 何処が悪いのかは病人たる本人が最もよく之を知る。併し其れが何病にて如何の処置を必要とするかは医者でなければ分からない。世の中でも、「解決」は本人の要求を丁寧に聴いて専門家たる第三者が之をきめるといふ場合は普通の現象である。
 何時の世にも一知半解の徒は非常に多い。素人鑑定家、田舎政治家、劇通、角通、数へ立てれば際限もないが、概して彼等は其の道の一端を聞いて直に全斑の通を気取る。是れ虚誇人の衒ふの性分にも依らんか、一つには思ひ掛けない知識の獲得に由て有頂天になるの余り、自らを過大に評価するの錯覚に陥るのが常人に免れ難いからであらう。病人にしても同じ事だ。少し何かを聞きかぢると、やがて医者をそつち除けにして己れの病気は何病だ、何の薬を飲めば直るなどと云ふ。斯う云ふのを医者に対する病人の無政府主義と謂つてもよからうか。
 知識が広まれば専門家を必要とする程度は減ずる。之は疑がない。併し専門家を必要としないと云ふ事と聡明なる先覚者に訊るといふ事とを一所に排斥してはならない。
 「各人の利益は各人が案外に知らぬことが稀でない」。その本人を離れて之を知り得る途のないのは勿論だ。昔の専制政治は民衆と没交渉に民衆の利福を進めんとした所に抜く可らざる誤があつた。民衆の要求は到底之を聴かなければならない。立憲政治はこの真理に立脚する。併し乍ら民衆の要求は何に依て満足せられ得るかも亦民衆自身が最も能く知つて居るのかといへば、之は大なる疑問である。痛苦を訴ふる本人が其の何病たるを知らざるが如く、要求の対象の本体は案外にも本人にも分つて居ないことは普通でないか。其処で病人が医者に聴くが如く民衆は先覚者にきく。茲処に代議政治の理論的根拠がある。所謂代議政治否認論は、一面に於て「各人の利益は各人最もよく之を知る」の意味を取り違へたものと謂ふことが出来る。
 「各人の要求は各人に就て之を知るの外に途はない」。而かも如何にして各人の要求を満足すべきかは、各人自身之を知らないのが常である。茲処に指導の必要が起る。時としてまた強制の必要が起る。孰れにしても、「各人の利益は各人最もよく之を知る」といふ命題より、自由放任論をひき出すことは甚だ危険である。

    〔自由主義の根拠〕
 さればと云つて僕は自由主義に反対するものではない。僕も熱心なる自由主義者だ。たゞ僕の自由主義は人性に対する無限の信頼から来るのである。
 僕は人の性能は無限に発達するものなるを信ずる。今日の無知は必しも明日の無知ではない。故に我々は現在の無知に失望することなく、将来の聡明に期待する処なければならない。而して彼の性能は本来日に日に発達して熄まざるものなるが故に、我々の最も心して努むべきは、正しきを知ることよりも、常に正しきを知らんとする向上的態度でなければならぬ。斯くの如き倫理的態度を社会上政治上の活動に応用すれば、民衆は現在の無知を自覚して指導を聡明なる先覚者に托さなければならぬ。所謂代議制否認論は、民衆が自ら其現状に於て聡明謬る所なしと僭称するに異ならない。
 選挙とは将来に期待せらるべき自己の発達せる態度を他の人格に求むることである。他人の人格の内容によりよき己れを見出すことである。選挙権が人格の自由といふことに根拠して文化開発の上に一の重大な役目をつとむる所以は、主としてこの為である。
 人性の発達に対する無限の信頼といふことを外にして、自由主義の倚るべき基礎はない。
    --吉野作造「社会評論雑談(抄)」、『中央公論』一九二二年八月。

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哲学者ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)と聴きますと、壮大な弁証法的哲学大系の論者、すなわち怜悧な思弁的思想家としてその人物像を思い起こしてしまいそうになりますが、彼の真骨頂とはそこにはなく、むしろ数々の『政治論文集』にみられるような、情熱的な政論家であったところにあるのでは……などとフト思う宇治家参去です。

しかしヘーゲルにあってはその体系的な側面とリアルな現実との格闘は全く関係のない別個の二物であったわけではないのでしょう。

ヘーゲルの言葉に「現実のなかにこそ理性的なものは宿る」というものがありますが、ヘーゲルのかなにあってはまさに両者は有機的・弁証法的に相互作用を与えていたことは間違いないのだと思います。

さて、明治時代の末期、こうしたヘーゲルの法哲学の骨格を論じたひとりが宇治家参去が研究している……私淑している……吉野作造(1878-1933)でございます。

ちょうど吉野が大学院時代に演習の課題としてまとめたのが、『ヘーゲルの法律哲学の基礎』であり、刊行物としては吉野の処女作になり1905年、有斐閣より出版されました。

以後吉野は民本主義の旗手として論壇をリードしていくわけですが、吉野の生涯もヘーゲルと同じように理論と現実との対話の連続であったのだろうと思われます。

理論的な陥穽を突くことも、そして現実の適応論の不備を突くことも実に簡単なことなんです。

吉野を批判する同時代の論者の文献を読んでいるとそのことを痛感します。

吉野の議論の不整合をつくことは実に簡単です。

しかしその検証作業をしているとおどろくことがあります。

すなわち、突く方は、どちらかにどっぷりとひたっている……その事実です。
現実を抽捨した理論家は手厳しくツッコミを入れるわけで、理論もヘッタクレもないと血眼になり革命を模索する現実主義者は、その不備を指摘してやみません。

しかし、どちらも両極端の極端であり、理論からも現実からも遠ざかるばかりなのでしょう。

雄々しく改善しゆくためには、不備を承知で不備を修繕しながら、一歩一歩すすんでいくしかない……。

そのことを吉野の文献を紐解きながら実感する……否、せざるを得ない……宇治家参去です。

ちょうど今日から東京都都議会議員選挙のようですね。

現実の対話を拒否した理論も理想も大風呂敷も不要です。
吉野が語る如く徹底的に現実と理念の対話を忘れず、生きている人間の眼差しを忘れず、汗をかいてくれる政治家の到来を希望するのみです。

ちょうど、息子殿が幼稚園から七夕の短冊をもってかえってきてくれました。

おそらく彼が成人する頃は、時代情勢としては今よりも悪くなっているのでしょう。

百年の計とは、そこにすまう人間のために存在するはずです。

未来への責任ある行動と実践に期待したいところです。

ちなみに息子殿の書いた短冊には「大学の先生になる」と書かれておりました。

うれしいやら、かなしいやら……。

本人に何を教えるのか?って聴いたところ、

「ポケモンがく(学)の先生」

……だそうな。

大学の先生になっていただくのは結構ですが、くれぐれも神学だとか倫理学だとか、哲学の道にはすすまないように……。

……ってことで、寝ます。

明日……精確には本日から……から仕事が六連チャンなのですが、嬉しいことに?1月に目黒で飲んで一緒に死んだ莫逆の友から緊急連絡があり、仕事にいくまでちといそがしい一刻一刻を送らねばならなくなってしまいまして……はやく寝た方がよいのですが、まだ飲み足りない……という状況で……。

人間という生き物は不思議な生き物です。
うえで吉野が指摘しているとおりで、自分本位でありながら、自分本位のために自分で動けばいいのに動けないという側面があるわけなのですが、どこかそれでも自分本位って錯覚してしまいます。

目指すべき自分本位の確立とは自分自身によってのみ成就できないのが実情なのでしょう。

そこを糺してくれるのが友かもしれません。

ひととの触れあいによって、本当に自分がすすめていかなければならない自分本位に軌道修正してくれるのは実にありがたいもので……。

吉野の最後の言葉……すなわち、

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 選挙とは将来に期待せらるべき自己の発達せる態度を他の人格に求むることである。他人の人格の内容によりよき己れを見出すことである。選挙権が人格の自由といふことに根拠して文化開発の上に一の重大な役目をつとむる所以は、主としてこの為である。
 人性の発達に対する無限の信頼といふことを外にして、自由主義の倚るべき基礎はない。
    --吉野、前掲書。

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このへんを、政治屋さんたちには深く理解してもらいたいものです。

でないと、息子殿が大学教員になったご時世には、宇治家参去の時代よりも厳しき状況だと想像されますから。

しかし、くどいようですが、神学だの云々はやらなくて宜し!

つうことで、青梅の地酒「多満自慢」(佳撰辛口・石川酒造)でも頂いて寝ますワ。
何しろ昨日は日本酒を封印したものですから……。

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人間は素晴らしいものである。と同時に人間は恐ろしいものである。

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 毎日、朝食を八時半頃にとる。小説家という仕事なので夜が遅いからだ。
 ニュースのかわりにテレビのモーニング・ショーを朝食をとりながら見る。平生は私にとっては余り興味のない芸能人の話題のかわりにこの頃は幼女を誘拐して殺害したM容疑者のことばかりを、どの局でも必ずやっている。
 朝食の時にはふさわしくない話題である。ほかのチャンネルをまわすとやはり同じニュースか、あるいは事故、殺人など聞くのも辛い話題ばかりだ。
 これは私だけではないらしく、
 「あのニュースをみるのが不快でならないので、すぐテレビを切ってしまう」
 という友人が二、三人いた。
 陰湿な夏の、陰湿な事件だけに見たくないという気持ちは、誰にもあるのだろう。
 だが今度のニュースにややホッとしたことがある。
 あれほど容疑者について鵜の目、鷹の目で何でもほじくりだすマスコミが、M容疑者の妹たちについてはほとんど何も語っていないことだ。
 これはとても良いことだと思う。
 私は事件のものすごさを知るにつれ、子を失った被害者の親たちの苦しみ、悲しみ、如何(いか)ばかりかと同情にたえなかったが、同時にM容疑者の両親や妹たちの辛い心にも同情をした。
 もしマスコミがついで半分にこの妹さんたちについても書いたりニュースに流せば彼女たちの将来は滅茶苦茶な打撃をうけるにちがいない。
 妹さんたちはこのM容疑者の犯罪とは関係がない。
 だから我々は彼女たちのことを知らんふりをしてやるべきであり、その生涯にうしろ指をさすようなことをするのは、あまりに可哀想だと思う。
 被害者の幼女たちとその親の心の深傷(ふかで)を考えると泪(なみだ)を禁じえないが、しかし容疑者の妹たちも大きな打撃を今うけている筈である。
 今の日本の社会のなかでは、M容疑者の犯した事が犯した事だけに妹さんたちまで白眼視することがないとは言えぬ。彼女たちが職場で変な眼で見られないとも限らない。
 それだけに当人たちは、どんなに悲しいだろう。おそらく一生を息をこらして生きていくつもりかもしれぬ。
 だから我々はこの妹さんたちをそっとしておいてあげよう。彼女たちがその職場で気づかれずに働けるように、まだ縁談にさし障りがないように、ジャーナリズムも黙っていてあげてほしい。
 幸いなことに(私の知る限り)、マスコミは彼女たちをテレビに出したり、談話をとろうとしなかった(一度だけ、M容疑者の母親がマイクの質問に答えていたが)。このマスコミのやりかたが、いつものあこぎな姿勢とはちがっているので私など「なかなか思いやりがあるなあ」と感心をしたものだ。願わくは今後もこの方針をづっと続けてほしい。
 M容疑者についての感想もテレビを見ていると、まるで自分たちと違う特別な人間のように論じている人が多い。
 しかし戦争中、中国人捕虜を同じようにあつかった人たちは我々の周りにたくさんいるのだ。言いかえるならば我々人間のなかには、同じような要素がないとは決して言えないのだ。
 人間は素晴らしいものである。と同時に人間は恐ろしいものである。
 我々があの事件をみて不快なのは、人間のなかの恐ろしさを直視するのが不快だからだ。
    --遠藤周作「人間直視の不快」、『変わるものと変わらぬもの』文春文庫、1993年。

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遠藤周作(1923-1996)のエッセーを読み直しながら、そしてそのエッセーの根底には『海と毒薬』(1958)で示された日本の精神風土の問題も射程としては秘められているなアなどとひとりごちながら、ひとしきり情報倫理の問題に頭を悩ます宇治家参去です。

情報倫理の根幹に存在する問題とは何かといえば、手っ取り早く言えばそれはまさに人間の問題ということに収斂していくと思います。そしてくどいようですが、その問題は情報倫理に限定される問題のみならず、人間のあり方を規定する倫理の問題と等しく重なる部分です。

人間とは何か。
そして人間はどうあったほうがよいのか。
そしてその人間は、即自と等しき対自なる他者としての人間とどのようなありかたであったほうがよいのか。

そこを探究するのが倫理(学)ということになりますから、つと人間の問題に収斂して行かざるを得ません。

さて……
情報倫理において主題となるのは、まさに情報を扱う上で必要とされる倫理=あり方のことになりますが、テクニカルな議論としては、著作権をはじめとする知的財産権、プライバシー権の取扱い方や情報通信を利用する際のマナーがその主題となります。

まさに知的財産をめぐってどのように取り扱うのか。
公人と私人におけるプライバシーの問題をどのように取扱い表現するか。

そういった議論が盛んになされます。
そしてそこから価値ある取りきめとかルールといったものが提示されるわけですが、それだけが情報倫理ではりませんから、ひろく言えば、情報モラル、情報マナー、すなわち情報と向かい合う人間がどのようにその対象と関係を結んでいくのかということがその主題となるといってよいでしょう。

対象としての情報に注目した場合、活字の場合であれ、映像であれ、音声であれ、そしてデジタルデータであったとしても、それは具体的な人間のにおひからかけ離れた「データ」としての側面が強いことはどうしても否めません。

だからこそ、この人間世界において活字や映像や音声やデジタルデータetcなる対象をどのように扱っていくのか……ということがまさに議論になりますが、前述した通りどうしても実体を欠いた「データ」としての感覚を否定することはできません。

しかし、その感覚の背後には何が存在するのでしょうか。

冷静になって考えてみればわかるとおり、データを発信し・受信し・そしてそのあり方を模索する人間がかならず存在するわけで、そこを感覚に流されて看過しがちなのが現実かもしれません。

わすれてはいけないのは、流通形態・媒介としては実体を欠いた感覚的な「データ」に紛動されがちなのですが、その背後には必ず「人間」が存在するということ。

その問題を看過してしまうと、感覚的な「データ」が実に一人歩きしてしまうのかもしれません。

さて冒頭……。
有名な事件に関する遠藤の肉声といってよいでしょう。
しかし、それから20年近く過ぎた現在を概観してみるとどうでしょうか。
さらに問題ある方向性へ傾いているのが現実かもしれません。

大雑把な問題の立て分けで恐縮ですが、一方に事実の脚色、そして捏造さえいとわないワイドショー的のぞき見報道があるとすれば、一方には、「社会の木鐸」「客観報道」を金科玉条とする「冷静」なる報道が、両極の雄を締めているのがその実情でしょう。

前者に関してはそもそも問題を指摘する以前に、「ジャーナリズム」を名乗るのすらおこがましいわけですが、週刊誌や昼間の電波は相も変わらずこうした手法に加熱するのを見るに付け辟易としてしまいます。

それでは後者はどうなのでしょうか。

事実の積み重ねは実に大切です。
しかしそこで切り落とされてしまう現実の「匂い」「息吹」があるのも実情でしょう。そこにオーディエンス(聴衆)がついていけないのが現実ではないかと思います。
そのことは、2001年以来、お茶の間をにぎわしてきたテロリズム報道(対テロ戦争含む)に如実に現れているかと思います。

連日のように報道される戦争絵巻物!
それはそれで連日報道されるわけですから、後になって振り返ってみると年代記の記録のごとく、まさに連日クロニクルが重層されていっているわけですが、……原因にも、そして根拠にも全くふれることない「現象」だけの報道(官報?)は、どこか人間を見失った「客観性」にほかならない……そのような感覚を覚えてしまいます。

いうなれば、原因・根拠をスルーした「現象」だけの報道であり、そこには刹那主義とシニシズムしか生まない……結果として現実すらもスルーしてしまう風潮を助長してしまうエセ客観主義の横行へ……風潮を助長するだけでは……そのような感覚を覚えてしまいます。

客観主義的報道とは、競馬中継ではありません。

事実の絵を並べただけではないのが、現実なのでしょう。

ここ10年来、ハーヴァードを中心に、ナラティブ・ジャーナリズム(Narrative Journalism)という、いうなれば客観性の脱構築的代換え案が提示され、すこしづつ力を発揮しつつあるとか。

ナラティブ・ジャーナリズムとは、リテラシー・ジャーナリズムともいわれる手法で、事実を文学的ストーリーとして視聴者(読者)の目線で伝える報道のことです。

リテラシー・ジャーナリズムといえば「文学的」ジャーナリズムと翻訳されますが、何もこれは「創作」を目的としたものではありません。捏造・創作は週刊誌の専売特許ですから、あえてそんなことを「客観性」を謳いながらする必要もありませんから。

では、何が特徴なのでしょうか。

週刊誌の「恣意性」と極を為すのがまさに「客観性」ということですが、これまで「客観性」を“売り物”にしていたメディアが大切ににしていたのは、およそ次の部分でしょう。すなわち、社会問題を「正確」に記述し、形式としての5W1Hにこだわっていくというスタイルがそれでしょう。

それはそれで大切なんです。しかし、それを繰り返すだけではシニシズムしか招来しかねないのが現実です。

であるとするならば、何を加えていけばいいのでしょうか。

いわゆる、客観報道に特徴的な問題とは何かといえば、それは基本的に「中途半端」になってしまうということがそれでしょう。5W1Hを先鋭化すればするほど、「羅列」に終始してしまい、そこから問題の論点を判断することができにくくなってしまう……ことに問題が連日的な事案の場合……やがて「昨日と同じ、もういいや」って式なシニシズムになってしまう……。

5W1Hは確かに大切です。

しかし、同時に必要なのは、象牙の塔の学者が重箱の隅をつつくような小さな事に拘泥するスタイルでもなく、世界史年表的なの年月日だけの官報スタイルでもないのでしょう。

そうしたジレンマをさけつつ、事実の記録を残しながら、読み手を考えさせる材料の提供、それこそが大切なのかも知れません。

ナラティブ・ジャーナリズムに旗手といってよいデイヴィッド・ハルバースタム(David Halberstam,1934-2007)は、歴史の基本的流れのなかに事実をできるだけ多く並べて、読者に判断を求めるのが自分の流儀であると言い切ったそうですが……。

書き手が物語を創造することは簡単です。
そしてなにかにリードされた物語を提示することも簡単です。
それがあふれかえっているのが現在のネット・メディアの現状でしょう。

しかし、消すことのできない事実と事実と対話しながら、筋道をたてていく……情報を扱う人間は歴史家の眼差しが必要なのかも知れません。

イギリスを代表する歴史家・E.H.カー(Edward Hallett Carr,1892-1982)の言葉に次のようなものがあります。

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歴史的事実と歴史家
 このように、歴史家と歴史上の事実との関係を吟味して参りますと、私たちは二つの難所の間を危く航行するという全く不安定な状態にあることが判ります。すなわち、歴史を事実の客観的編纂と考え、解釈に対する事実の無条件的優越性を説く支持し難い理論の難所と、歴史とは、歴史上の事実を明らかにし、これを解釈の過程を通して征服する歴史家の心の主観的産物であると考える、これまた支持し難い理論の難所との間、つまり、歴史の重心は過去にあるという見方と、歴史の重心は現在にあるという見方との間であります。しかし、私たちの状況は、概念ほど不安定なものでもありません。なお、私たちは、事実と解釈という同じ対立が本講演を通じていろいろと姿を変えて--特殊的なものと一般的なもの、経験的なものと理論的なもの、客観的なものと主観的なもの--現われるのに出会うでしょう。歴史家の陥っている窮境は、人間の本性の一つの反映なのであります。生まれたばかりの乳児期とか非常な高齢とかは恐らく別でありましょうが、人間というものは、決して環境に巻き込まれているものでもなく、無条件で環境に従っているものでもありません。その反面、人間は環境から完全に独立なものでもなく、その絶対の主人でもありません。人間と環境との関係は、歴史家とそのテーマとの関係であります。歴史家は事実の慎ましい奴隷でもなく、その暴虐な主人でもないのです。歴史家というのは、自分の解釈にしたがって自分の事実を作り上げ、自分の事実にしたがって自分の解釈を作り上げるという不断の過程に巻き込まれているものです。一方を他方の上に置くというのは不可能な話です。
 歴史家は事実の仮の選択と仮の解釈--この解釈に基づいて、この歴史家にしろ、他の歴史家にしろ、選択を行っているわけですが--で出発するものであります。仕事が進むにしたがって、解釈の方も、事実の選択や整理の方も、両者の相互作用を通じて微妙な半ば無意識的な変化を蒙るようになります。そして、歴史家は現在の一部であり、事実は過去に属しているのですから、この相互作用はまた現在と過去との相互関係を含んでおります。歴史家と歴史上の事実とはお互いに必要なものであります。事実を持たぬ歴史家は根もありませんし、実も結びません。歴史家のいない事実は、生命もなく、意味もありません。そこで、「歴史とは何か」に対する私の最初のお答を申し上げることにいたしましょう。歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。
    --E・H・カー(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』岩波新書、1960年。

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……ってことで、すでにかなり飲みながら入力している宇治家参去自身ツワモノだよな……などと自惚れつつ、情報倫理からメディア論へすっとびましたが、さすがに飲んでいるようですっとんでおります。

ちなみに、肝臓数値が悲鳴をあげているようで、「毎日日本酒」は厳禁といわれましたので、今日は、米焼酎……米焼酎「しろ」@高橋酒造……にしてみましたが、なんとなくパンチが足りません。

しかし、それなりに「すっとんでいる」ということは、カラダは喜んでいるということでしょうか。

そういえば、思い起こせばラムズフェルド元国防長官(Donald Henry Rumsfeld,1932-)が、1979年、バグダッドでフセイン(Saddam Hussein,1937-2006)で激励していることもあったよなあ~。

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「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!」

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 『ところで死は? どこにいるのだ?』
 古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。いったいどこにいるのだ? 死とはなんだ? 恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。
 死の代わりに光があった。
 「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!」
 これらはすべて彼にとって、ほんの一瞬の出来事であったが、この一瞬の意味はもはや変わることがかなった。しかし、そばにいる人にとっては、彼の臨終の苦悶はなお二時間つづいた。彼の胸の中でなにかことこと鳴った。衰えきった体がぴくぴくとふるえた。やがて、そのことと鳴る音もしわがれた呼吸も、しだに間違いになって行った。
 「いよいよお終いだ!」誰かが彼の頭の上で言った。
 彼はこの言葉を聞いて、それを心の中で繰り返した。『もう死はおしまいだ』と彼は自分で自分に言い聞かした。『もう死はなくなったのだ。』
 彼は息を吸い込んだが、それも中途で消えて、ぐっと身を伸ばしたかと思うと、そのまま死んでしまった。
    --トルストイ(米川正夫訳)『イワン・イリッチの死』岩波文庫、1973年。

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凡庸な一官吏イワン・イリッチが不治の病にかかり、あらゆる肉体的・精神的苦痛を経験し、死の恐怖と孤独にさいなまれながら、最後にはある種の達観にいたるようするを、なまなましくも透徹に描ききったトルストイ(Lev Nikolajevich Tolstoj,1828-1910)の作品が『イワン・イリッチの死』ではないかと思います。

非凡な英雄よりも、凡人の小さな生活の存在感こそぬぐいがたい事実であり、トルストイの人間観察とその描写には、驚くばかりです。

この著作は、『アンナ・カレーニナ』以後のトルストイの転回・深化の出発点となる作品であり、人生の根本問題たる「死」の問題を生活のただなかで真正面から捉え直した作品になるわけですが、そこで開陳されるトルストイの死生観とは……単純化の恐れがありますが……いわば、「生も歓喜」「死も歓喜」といったところでしょうか。病に苦しみにのたうちまわるイワン・イリッチには、「死」は見えず、対象化された「恐怖」しか見えません。

しかしイワン・イリッチは自分自身の内なる声と対話をつづけるなかで、死の間際において光を見出します。

とかくまわりの状況や事件に紛動されがちな宇治家参去ですが、左右されない根本原理としての死生観とでもいえばいいのでしょうか、ラテン語の格言Memento mori(「死を想え」「死を忘れるな」)を忘れずに状況と向かい合っていきたいものだなと思う毎日です。

さて、
最近おどろいたこと3点。

ひとつめは先週、実母と電車にのりましたが、電車のなかで立っていると、座っていたお姉ちゃんが母親に席を譲ろうとしてくれたこと。
※次の駅でおりるため、こちらも遠慮しましたが。

ふたつめは短大の授業のなかで、「軍艦マーチ」の話をしたところ、「軍艦マーチ」なるものを知らない学生の方がマジョリティであったこと。

そしてみっつ目が、昨日、またしてもデジカメを紛失してしまったこと。
月曜日にパソコンの液晶をフルHDモニタに買い換えたついでに、買ったばかりのカメラです。短い人生でございました。

昨日、高尾へ家族と出かけましたが、その帰路、どこかで紛失したみたいです。

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 紛失して辛く思う感情の代わりに光があった。
 「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!」

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かくありたいものです。

高尾の写真はすべてパー!になりましたので、弔い合戦の写真でものっけておきます。

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イワン・イリッチの死 (岩波文庫) Book イワン・イリッチの死 (岩波文庫)

著者:トルストイ
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«権力者というものは、おのれの暴力行為をつねになにか宗教上の理想、世界観上の理想で飾りたてようとするものである