ビールVSソクラテス
◇ビール!ウフォォ!!
学問だけじゃ喰っていけないので、市井の仕事もしています。今日はそこで働くバイト君との話から・・・(一応、バイト君を使う身分)。
学問だけじゃ喰っていけないので、市井の仕事もしています。今日はそこで働くバイト君との話から・・・(一応、バイト君を使う身分)。
バイト君曰く、「ビール飲みたいッス」。勤務開始一時間後の話である。金のない二人は何とか工面しつつ、終業後、居酒屋へ。
彼が飲みたいのは暑いからだけではない。そのモチベーションは、すべての物事に〝意味〟を求め、心から納得したいから、との熱意である。詳しい話はおくが、こうした彼との対話のなかから、自分もそうであったなぁ~と思いつつ、今ではそうした環境と折り合いをつけつつ生きている自分を自覚する。
◇メメント・モリ2・ソクラテス・無知の知
(それなりに飲みましたが、まじめなことも書いておこう)
で・・・
ソクラテスとは〝覚悟の人〟である。
『ソクラテスの弁明』のなかで、彼は死について語る。
「(人々が死を恐れる理由について--引用者註)なぜならば死を恐れるのは、自ら賢ならずして賢人を気取ることに外ならないからである。しかもそれは自ら知らざることを知れりと信ずることなのである。思うに、死とは人間にとって福の最上なるものではないかどうか、何人も知っているものはない、しかるに人はそれが悪の最大なるものであることを覚知しているかのようにこれを怖れるのである。しかもこれこそまことにかの悪評高き無知、すなわち自ら知らざることを知れりと信ずることではないのか」(プラトン(久保勉役)『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫、1964年))。
ソクラテスの有名な〝無知の知〟の概念を死に関して語った場面である。人は知らないことに恐怖する。故に知らないことを知ったかぶりするのではなく、無知を自覚すること(無知の知)が重要で、それによって生も死も当人にとってきわめて正確に理解できるのではないかとの問いかけである。
人間はすべて、自己自身であることに配慮すべきである--ソクラテス-プラトンをつなぐ重要な論点であるが--との主張は、いわばソクラテスのマニフェストである。自己自身に対する配慮(いうまでもないがそこには自分自身に深く関わる世界と他者への視点も含まれ、自己中心的な、自閉的な視座とは世界と自分との位置づけが根本的に異なる)そのこと以外、すなわち自分にとって付属物であるようなものを優先すべきではない。
ソクラテスの弟子・プラトンは言う。
「身体のもとが腐っていたら、どれだけ食物があり、飲み物があったところで、また富や権力を与えられるとしても、人生は生きるに値しない」(プラトン(藤沢令夫訳)『国家(上)』岩波文庫、1979年)。
プラトンの言う、〝身体のもと〟とは、ソクラテスの言う自己自身の〝魂〟のことである。人は、自己自身の生命を見つめ直し、それを良くすること以外に〝幸福〟へと至る道はない。
ソクラテスは、それを無知の知を分別し、真の知を愛し求めることにより人は幸福を実現できるとといた道筋なのであろう。
高校の教科書にも書かれている〝無知の知〟の自覚とは、単に、ものごととして知らないことを〝知っている〟という〝自覚〟ではなく、生き方に対する〝自覚〟である。
(と書きつつ、ビールを飲んでいる)。
彼が飲みたいのは暑いからだけではない。そのモチベーションは、すべての物事に〝意味〟を求め、心から納得したいから、との熱意である。詳しい話はおくが、こうした彼との対話のなかから、自分もそうであったなぁ~と思いつつ、今ではそうした環境と折り合いをつけつつ生きている自分を自覚する。
◇メメント・モリ2・ソクラテス・無知の知
(それなりに飲みましたが、まじめなことも書いておこう)
で・・・
ソクラテスとは〝覚悟の人〟である。
『ソクラテスの弁明』のなかで、彼は死について語る。
「(人々が死を恐れる理由について--引用者註)なぜならば死を恐れるのは、自ら賢ならずして賢人を気取ることに外ならないからである。しかもそれは自ら知らざることを知れりと信ずることなのである。思うに、死とは人間にとって福の最上なるものではないかどうか、何人も知っているものはない、しかるに人はそれが悪の最大なるものであることを覚知しているかのようにこれを怖れるのである。しかもこれこそまことにかの悪評高き無知、すなわち自ら知らざることを知れりと信ずることではないのか」(プラトン(久保勉役)『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫、1964年))。
ソクラテスの有名な〝無知の知〟の概念を死に関して語った場面である。人は知らないことに恐怖する。故に知らないことを知ったかぶりするのではなく、無知を自覚すること(無知の知)が重要で、それによって生も死も当人にとってきわめて正確に理解できるのではないかとの問いかけである。
人間はすべて、自己自身であることに配慮すべきである--ソクラテス-プラトンをつなぐ重要な論点であるが--との主張は、いわばソクラテスのマニフェストである。自己自身に対する配慮(いうまでもないがそこには自分自身に深く関わる世界と他者への視点も含まれ、自己中心的な、自閉的な視座とは世界と自分との位置づけが根本的に異なる)そのこと以外、すなわち自分にとって付属物であるようなものを優先すべきではない。
ソクラテスの弟子・プラトンは言う。
「身体のもとが腐っていたら、どれだけ食物があり、飲み物があったところで、また富や権力を与えられるとしても、人生は生きるに値しない」(プラトン(藤沢令夫訳)『国家(上)』岩波文庫、1979年)。
プラトンの言う、〝身体のもと〟とは、ソクラテスの言う自己自身の〝魂〟のことである。人は、自己自身の生命を見つめ直し、それを良くすること以外に〝幸福〟へと至る道はない。
ソクラテスは、それを無知の知を分別し、真の知を愛し求めることにより人は幸福を実現できるとといた道筋なのであろう。
高校の教科書にも書かれている〝無知の知〟の自覚とは、単に、ものごととして知らないことを〝知っている〟という〝自覚〟ではなく、生き方に対する〝自覚〟である。
(と書きつつ、ビールを飲んでいる)。
ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫) 著者:プラトン |
国家〈上〉 (岩波文庫) 著者:プラトン |
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