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2007年9月

カントは男らしくてかっこいい

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自分で考えるということ……カントの啓蒙概念から

 啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである、ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある、というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。それだから「敢えて賢こかれ(Sapere aude)」、「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」――これがすなわち啓蒙の標語である。
    --カント(篠田英雄訳)『啓蒙とは何か 他四篇』(岩波文庫、1974年)。

月曜日はいつも『哲学入門』を短大で講じていますが、その仕込みをしつつ、カントの『啓蒙とは何か』(岩波文庫)を再読する。
池波正太郎ではありませんが、「カントはいいねぇ、いつ読んでも男らしくて、かっこいい」。

カントは啓蒙を、人間が自分の精神的な未成年状態から、他人の力ではなく、“自分”で脱出することであると定義している。啓蒙と聞けば、なにか“人に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと”というようなイメージがつきまどうが、そうではない。

人ではない、自分である。

カントによれば、人がこのような他人まかせの状態にとどまっている原因は、その当人に知性が欠けているからではなくて、自分の知性を自分自身で敢えて使用しようと(=自分で考えよう)としない怯懦に由来する。ゆえに啓蒙とは、人から諭されたり、書籍にひらめくわけではない。ゆえに引用文の最後のことば、「敢えて賢こかれ」、「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」が出てくるのである。

日本において高等学校までの教育はほぼ義務教育と化しているが、そこでは、教師が教科書に沿った内容を教示する学としてのシステムが中心だが、大学以上の教育においては、教師は補助者にすぎない。参考を示し、結局は自分でものごとを考え、解答を導くものであると思う(それがたとえ、教員の示した解答や教科書に記載されている解答とおなじであったとしても)。

 しかし、自分で考えることは、個人の自由を前提としなければならない。自由は人間精神の根源的な要求であるからだ。精神の自由があってこそ、やがてそれは行動の自由(責任をともなった)に発展するのが道理である。それが本物の大人へ至る道である。

悩み・考えながら、自分で考える楽しさを、授業を通して理解して頂ければ幸いです。

今日は今期初の湯豆腐です。一の蔵のひやおろしでいっぱいやって寝ますかね。

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『暗黒日記』を読む

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◇四月三〇日(金)
 一、朝のラジオは、毎日毎日、低級にして愚劣なるものが多い。否、それだけの連続だ。昨朝は、筧〔克彦〕博士というのが、のりとのようなことをやった。最初にのりとを読んで、最後に「いやさか、いやさか」と三称してやめた。ファナチックが指導しているのだ。
 精神主義の限界はある。精神に徹せよ、といっても、徹した後にいかにするかの具体的方法がなくては何にもならぬ。それで今行きつまった。

ラジオをテレビに入れ替えると現今のメディア環境そのままである。
上の日記は、戦前の自主独立の評論家・文筆家清沢洌の『暗黒日記』(ちくま学芸文庫)から。この日記は、戦後に外交史を書くための資料とするために書かれたもので、戦時下の政治や社会に対する冷徹な観察と批判の記録である。敗戦を見ることなく、三ヶ月前の五月に清沢は亡くなったから、生前には刊行されていない。
清沢が批判したのは目に見える軍部政治・軍国主義ではない。日本人のもつ官僚主義、形式主義、あきらめ主義、島国根性……等々である。ただその批判はたんなる冷笑ではなく、日本の再生を熱烈に希求した人物のことばであるだけに、現代人にとってもなおなまなましく迫る自己批評の記録といえよう。

◇三月二三日(火)
 『毎日新聞』に某という陸軍中将が思想戦を論ず。彼等が用兵作戦のことを論ずるは可なり。彼等の専門なればなり。しかし彼等に「思想」を論ずる資格何処にありや。現時、思想の低調さはその指導者の故なり。

 指導者がこないだ交代した。前よりはよくなりそうだが、彼等に「思想」を論ずる資格はない。選ばれた人ではなく、選ぶ人間がまともにものごとを考え、少しづつ世の中をいい方向へ動かしていける時代へしたい、またそういう一人でありたいと思う。それが道理に従った生活ではないかと思います。

『暗黒日記』の「序に代えて わが児に与う」にいい言葉があったので最後にひとつ。

 お前が大きくなって、どういう思想を持とうとも、おまえのお父さんは決して干渉もせねば、悔いもせぬ。赤でも白でも、それは全然お前の智的傾向のゆくままだ。
 しかしお前にただ一つの希望がある。それはお前が対手の立場に対して寛大であろうことだ。そして一つの学理なり、思想なりを入れる場合に、決して頭から断定してしまわない心構えを持つことだ。(中略)
 お前は一生の事業として真理と道理の見方になってくれ。道理と感情が衝突した場合には、躊躇なく道理につくことの気持ちを養ってくれ。これは個人の場合にもそうだし、国家の場合でもそうだ。日本が国を立って以来道理の国として、立っている以上は、道理に服することが日本に忠実でないというようなことがあるものか。
 西洋の誰かは『私は自分が生まれた時より、自分の死ぬ時の方が、少し世の中をよくしたと信ずることが願いだ』といった。お前は世の中を救うの何のという夢のような考えを持たないでいい。一生道理のあるところに従った……そういう確信を持ったようになれば、それでお前のお父さんの願いはたりるのだ。
    --清沢洌(橋爪文三編)『暗黒日記 I』(ちくま学芸文庫、2002年)

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人生の綱渡り

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えー、お疲れさんです、自分自身へ。
なんとか締切の紀要掲載用の論文提出完了。
前日は、終業後、市井の職場の送別会。
あとから参加して、すこしどんびき。

帰って飲み直し、論文の最終校閲。
一睡して、最終チェック。
メールにて送信、無事完了。

夜、家族と慰労会という名の寿司屋へレッツゴー。
澤之井と八海山で心身を回復。

で・・・寝ましょうかね。

疲れた。風邪も治らない。

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趣味の噺でも……

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一番好きなカメラがバルナックライカです。

はるか15年前--当時、大学2-3年頃でしょうか--最初に購入したのがIIIfとエルマー50mm。カメラは小学生の時、叔父からNew Canonnet(GIII QL17)という国産RFをもらって写真をとる楽しみを覚えましたが、高校時代は写真から遠ざかっていました。
その後、大学時代、写真を撮っている友人からふたたび撮る喜びを教授され、カメラを購入した記憶があります。

その友人はNikon党でしたが、いろいろと調べる中で、やはりカメラはライカといきつき、IIIfを購入したわけです。

最初のライカは売却し手元にありませんが、写真を撮る楽しみと、クラシックカメラをもつ喜びを教えてもらいました。

バルナックはいくつか使っていますが、今よくつかうのは、あの憧れのIIIg。M3登場後に再び設計・製造されたバルナックライカです。高価なわりにあまり使われていない、単に所有欲をみたすだけのカメラと評価されることが多いですけど、使ってみるとなかなかどうして--あなどりがたい仕様です。もちろんアンリ・カルティエ・ブレッソンじゃありませんが、ストロボ撮影はしませんけどね。

つーか、こんなこと書いている場合じゃない。
風邪も治らないし、論文提出まであと数十時間じぁあ!!!

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何とか--

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9/28金曜提出締切の論文の草稿がようやくまとまる。あとは提出用に、体裁を整えたり、誤字脱字・引用箇所の照会を再度おこなう段階までにまとまったが、いつもながら、遅筆とぎりぎりになるまでやらない自分に腹が立つ。
風邪引きで、鼻とのどもやられ、へろへろですが、今晩も仕事なので、あと1時間くらい、もう一度見直してから寝ます。でも煙草も酒も止められないんだな、これが。

いつもぎりぎりのところでいきている宇治家さんです。

疲れた~。

昨日の夜、焼き肉を囲み、家族で観月会。飲んでいるビールジョッキのまわりを怪獣で固められてしまった、子供に。これじゃア飲めないよ。

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暴力と聖性

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なんとか無事にガイダンスおよび、導入の講義をすませる。
前日風邪をひいたので、結構きつかったですが、履修される皆さん、1月まで宜しくお願いします。
哲学とはおそらく遠い異世界にあったりするのではない。
身近な日常生活の狭間でふと立ち止まり、事態に疑問をもち、権威に従って回答を準備するのではなく、自分の頭と心と体で悩み答えを見出す知的営みだと思います。
もちろん実際に哲学書は難解であり、初学者を当惑させる側面を持っています。しかしながらそれだけではない。過去のひとびとも、今活きている自分と同じように自分の頭と心と体で悩み、苦闘してきたのだと思います。その表象が哲学書として現代に残されているのだと思います。そうだとすれば、おそらく、それは確かに難解ではあるにもかかわらず、人類の知の遺産であり、宝の山であると思います。

そんな哲学や思想家の中で、(専門ではありませんが)今一番注目しているのが、やはりエマニュエル・レヴィナスという思想家です。レヴィナスは20世紀を「約束なき時代、手を差し延べることなき神の時代」と呼び、自らの人生を「二度の世界大戦--数多の局地戦争--スターリニズム--さらにはスターリン批判--強制収容所--ガス室--テロリズム--失業--、ひとりに人間がその生涯に経験するには、少なからざる出来事である。たとえそのひとが単なる証人でしかなかったとしても」と語っています。

深いユダヤ的体験からハイデガー哲学との対決を通して、人間存在と暴力について根源的な問いを発した彼の倫理思想は現実の悲劇の経験の上に構築されています。現代哲学の世界において、西洋哲学の主題や哲学そのものが批判の対象となっていますが、少なからず批判のための批判になっている部分もあります。しかしながら、レヴィナスの西洋哲学のもつ暴力性の批判には、やはり経験に裏付けられた強烈な力強さが存在します。言葉を慎重に選び惜しむように語る彼の言葉に是非耳を傾けてほしいと思います。

ちょうどある漫画家が、そのレヴィナスに関して語っていますので、そこを紹介します。

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 現在の作品、『残酷な神が支配する』をめぐって
 最近は、愛と暴力の表裏一体性に興味を持っています。ポーランド系ユダヤ人のレヴィナスという哲学者がいて、彼は強制収容所からの生還者なんです。彼は要するに、「世界自体は今既に崩壊している、この世界をもう一度呼び戻すには、愛しかないんだ」というんです。もっと複雑な言葉を使っていますが、わたしに理解できる言葉の範疇で言えば、そういうことです。
 さらに、「わたしたちには他の人に対する有責性がある」というんです。自分の知っている人に対してもあるし、知らない人にもある。自分が今ここで何かすることによってどこかの誰かが影響を受ける、それにも責任があるんですね。そう考えると、わたしたちには神の英知が必要になるじゃないですか。それで、レヴィナスに話を聞いていたインタヴュアーが、「みんなを公平に愛するのはとてもたいへんじゃありませんか? ある人をたくさん、この人はちょっとしか愛せない、ということがあるんじゃないですか?」と聞いたら、レヴィナスは、「そうです、愛には順列がある、そこに暴力性が存在します」と答えるんです。溜息をつきたくなりますね。愛があればうまくいくなんていうのは、夢なんだなぁと思うんです。そういうことをずっと考えているのが今の『残酷な神が支配する』です。

    --立花隆+東京大学教養学部立花隆ゼミ「萩尾望都にきく」、『二十歳のころ II 1960-2001』(新潮文庫、平成十四年)。
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愛という言葉を再び考える必要があると思いますね、ほんとにネ。

で・・・この漫画家さん「萩尾望都」さんという方で、『トーマの心臓』、『銀の三角』、『メッシュ』、『イグアナの娘』、『海のアリア』等々が代表作で、インタビューで触れている『残酷な神が支配する』は、第一回手塚治虫文化賞マンガ優秀賞を受賞した作品です。
どの作品も読んだことがありませんが、おすすめの作品があれば是非、どなたかご教授してください。

さいごに、重なってしまいますが、おまけで、萩尾さんが、レヴィナスの思想を語っているだろう部分の原本を以下に掲載します。

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ポワリエ 他人はみなそれぞれかけがえのないものですけれども、私たちは全員をひとしく愛することができません……
レヴィナス まさしく、それゆえに、私たちは、私が倫理的秩序あるいは聖性の秩序あるいは慈悲の秩序あるいは愛の秩序あるいは慈愛の秩序と呼ぶものから出てゆかねばならないのです。いま言ったような秩序のうちにあるとき、他の人間は、彼がおおぜいの人間たちの間で占めている位置とはいったん切れて、私とかかわっています。私たちが個人として人類全体に帰属しているということをとりあえずわきにおいて、かかわっています。彼は隣人として、最初に来た人として、私にかかわっています。彼はまさにかけがえのない人であるわけです。彼の顔のうちに、彼がゆだねた内容にもかかわらず、私は私あてに向けられた呼びかけを読みとりました。彼を放置してはならない、という神の命令です。他なるもののために、他なるものの身代わりとして存在すること、という無償性の、あるいは聖性のうちにおける人間同士の関係がそれです!
ポワリエ 質問を繰り返すことになりますが、私たちは全員をひとしく愛することができません。私たちは優先順位をつけ、判別します……
レヴィナス というのも「全員」(Tout le monde)という言葉が口にされたとたんにすべてが変わってしまうからです。その場合には、他人(l'autre)はもうかけがえのないものではなくなります。この聖性の価値--そしてこの慈悲の高まり--は、全員が同時に出現するという事態になれば、他の人たち(les autres)との関係を排除することも、無視することもできなくなります。ここで選択という問題が出てきます。私は「内存在性からの超脱」(des-interessement)を果たしながら、今度はいったい誰が際立って他なるもの(autre par excellence)であるのかを特定することを迫られるのではないでしょうか?評価(ratio)という問題が出てきます。裁きの要請が出てきます。そのときまさしく、「かけがえのないものたち」(uniques)のあいだで比較を行うという要請が、彼らを共通の種属に還元するという要請が出てくるわけです。これが始原的暴力(premiere violence)です。かけがえのない唯一性(unicite)に対する異議申し立てです。
     エマニュエル・レヴィナス、フランソワ・ポワリエ(内田樹訳)『暴力と聖性--レヴィナスは語る』国文社、1991年。
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レヴィナスと愛の現象学 Book レヴィナスと愛の現象学

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残酷な神が支配する (1) (小学館文庫) Book 残酷な神が支配する (1) (小学館文庫)

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【覚え書】愛と暴力--レヴィナスの視座

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ポワリエ 他人はみなそれぞれかけがえのないものですけれども、私たちは全員をひとしく愛することができません……
レヴィナス まさしく、それゆえに、私たちは、私が倫理的秩序あるいは聖性の秩序あるいは慈悲の秩序あるいは愛の秩序あるいは慈愛の秩序と呼ぶものから出てゆかねばならないのです。いま言ったような秩序のうちにあるとき、他の人間は、彼がおおぜいの人間たちの間で占めている位置とはいったん切れて、私とかかわっています。私たちが個人として人類全体に帰属しているということをとりあえずわきにおいて、かかわっています。彼は隣人として、最初に来た人として、私にかかわっています。彼はまさにかけがえのない人であるわけです。彼の顔のうちに、彼がゆだねた内容にもかかわらず、私は私あてに向けられた呼びかけを読みとりました。彼を放置してはならない、という神の命令です。他なるもののために、他なるものの身代わりとして存在すること、という無償性の、あるいは聖性のうちにおける人間同士の関係がそれです!
ポワリエ 質問を繰り返すことになりますが、私たちは全員をひとしく愛することができません。私たちは優先順位をつけ、判別します……
レヴィナス というのも「全員」(Tout le monde)という言葉が口にされたとたんにすべてが変わってしまうからです。その場合には、他人(l'autre)はもうかけがえのないものではなくなります。この聖性の価値--そしてこの慈悲の高まり--は、全員が同時に出現するという事態になれば、他の人たち(les autres)との関係を排除することも、無視することもできなくなります。ここで選択という問題が出てきます。私は「内存在性からの超脱」(des-interessement)を果たしながら、今度はいったい誰が際立って他なるもの(autre par excellence)であるのかを特定することを迫られるのではないでしょうか?評価(ratio)という問題が出てきます。裁きの要請が出てきます。そのときまさしく、「かけがえのないものたち」(uniques)のあいだで比較を行うという要請が、彼らを共通の種属に還元するという要請が出てくるわけです。これが始原的暴力(premiere violence)です。かけがえのない唯一性(unicite)に対する異議申し立てです。
     エマニュエル・レヴィナス、フランソワ・ポワリエ(内田樹訳)『暴力と聖性--レヴィナスは語る』国文社、1991年。

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今日から新学期

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◇今日から新学期
今日から新学期です。
09-10月は月曜が休日パターン多めのため、授業がつぶれてしまうため、本日は祝日ですけど、昼から『哲学入門』の第1回講義(ガイダンス中心)を開始します。

(読んでる人はいないと思いますが)受講されるみなさんへ、宜しくお願いします。

準備は前日にすませておいたので、資料を鞄に入れるだけなんですけど、今週は金曜が論文の締切ということもあり、バタバタになりそうな予感。

全力で最高の授業を行うことに、まずは専心。
すませて論文の仕上げ。

そうすると市井の仕事が三連休。
やっとおそい、ほんものの夏休み。

なにか学問の噺でも書きたいところですが今日はこのへんで、ばいばいき~ん。

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Photoブログ始めました

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えー、お疲れさんです。

表題通り、フォトブログ始めました。
実は趣味が写真(クラシックカメラ収集)なので。
宇治家さん、新しいモノもすきですが、実は古いモノが大好きです。
時計も銀塩カメラも基本はマニュアルしか使いません。
といってもカメラはデジカメですませることが多くなりましたが。

興味のある方はどうぞ。

【Photo】 Essais d'hermeneutique
http://aquinas.exblog.jp/

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父、我が子をサルベージ。

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◇子供の回収
本日は昼から細君、用事があるため、我が子の回収(お迎え)に宇治家参去さんが赴く。本日仕事は休みだけど一応、ブルックスのスーツでばっちりかため、サルベージだ。少しといっても2-3分だが、普段の細君が到着するより遅かったため、園内は、子供と親御さんで満員電車状態。事前に言われていた園内の一角へいくと愚息が不安そうに待っていた。Tシャツや半ズボンの婦夫子供をかき分け、子供を回収すると、ミスマッチな子供搭載用ママチャリで帰路へ。

帰りのママチャリで、我が子がよくしゃべる、よくしゃべる。普段もうるさいぐらいしゃべっているが、本日の出来事を語ってくれる。もう4-5年するとこんな語らいはなかろうに思うので、熱く応対。コンビニに寄りたいというので、コンビニで寄り道。1個210円もするウルトラマンの食玩を3つ購入される羽目に。トホホです(細君は一つしか買わない!)。

うちのガキんちょは元気でよいのだが、すぐ泣くのが玉に瑕。有名人になってくれとは思わない。だけど、“独立自尊”の人間になってほしい。

夜--。
論文を仕上げながら、KIRINビールの新商品を飲む。黒生ビール“STOUT”だ。黒ビールといえば、バス・ペールエールが定番でそれを飲み慣れているひとからすれば、“STOUT”はきわめてクセが無く飲みやすい。軽く飲んで、母親から聞いていた“梅錦・純米大吟醸”(愛媛県)に舌鼓。
宇治家さん、四国出身なんですが、四国で有名な地酒って何?って母親(実母)に聞いたら、「梅錦かな。だけど、かなり甘口だよ」と聞いていたが、飲んで悶絶。いつも端麗辛口ばかりだったので、濃厚で豊潤で口内にぐ~んとひびく梅錦に驚く。だけどすんげぇぇ~旨かった。

辛口党の皆さんにも是非味わってほしい。

最後に--。ココまで読んでもらった皆さんへのお土産でも。

「遊びは全体的な現象である。遊びは人間の活動と野心の全体に関心をもっている。それゆえに教育学から、歴史学と社会学を経て数学にいたるまで、それぞれの学問方法によって、遊びを有効に研究できないような学問はない。しかし、それぞれの特殊な展望の中で得られた結果が、理論的、実際的にいかなる価値を持つにせよ、遊びの分割不能の世界が提出している中心的問題との関連において解読されないならば、これらの結果は無意味であり、真に効力あるものとはなるまい。遊びの興趣は、なによりもまずこの分割不可能の世界から引き出されてくるものなのだ」。
    --ロジェ・カイヨワ(多田道太郎・塚崎幹夫訳)『遊びと人間』(講談社学術文庫、1990年)。

 大人の視線とは、デカルトの言うような単純・明晰・分轄・延長の視座である。そのように世の中をくみ取ることで、ひとは大人になる。しかし、精神のうちにおいては分轄不可能な視座も両義的に必要であるとおもう宇治家さんでした。

寝る。

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遊びと人間 (講談社学術文庫) Book 遊びと人間 (講談社学術文庫)

著者:多田 道太郎,塚崎 幹夫,ロジェ カイヨワ
販売元:講談社
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「夜の学校」

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「人間という生きものは、苦悩・悲嘆・絶望の最中(さなか)にあっても、そこへ、熱い味噌汁が出て来て一口すすりこみ、
(あ、うまい)
と、感じるとき、われ知らず微笑が浮かび、生き甲斐をおぼえるようにできている。
 大事なのは、人間の躰にそなわった、その感覚を存続させて行くことだと私は思う」
    --池波正太郎「私の正月」、『日曜日の万年筆』(新潮文庫、昭和59年)。

池波先生の言葉に耳を傾けると、人生の悲哀を冷徹に見つめながらも、そこからまた再び歩き出そうとする一条の光・勇気を感じる宇治家です。

「人間の躰にそなわった、その感覚」を存続させていくためにも、自然のリズム、季節の移り変わりに敏感であるべきと思う。生活の中で風の音や匂いを気にかけながら、季節には季節の「旬」を味わうべきと心がけています。それは決して贅沢ではない。
自然の運行に敏感になるだけでなく、ひとの世界にも敏感であろうと心がけています。ひとの世界とはすなわち相対(あいたい)の世界である。いいヤツばかりの世の中ではない。であるにもかかわらず、そこから何かを学び、自分の生きる流儀を学んでいく。
何をやるわけじゃありませんが、少しだけ世界に敏感になることで、今より少しだけ素敵な人生を楽しむことが出来ると思います。

昨日も終業後、軽く飲みに行く、いつもの若い衆と。
そういえば、こないだの休肝日がいつだったか思い出せない--ほど飲んで喰っている宇治家さんです。
飲みつ飲まれつ、語らいながら、悩みは若者の特権--を実感しつつも、悩みを乗り越えて自己を打ち立てていく力をもっているのが青年。若さはすばらしい。波濤を乗り越え、人生を切り拓いていってほしいと切に祈る。

「旬」といえば、秋刀魚は食べ過ぎているので、「戻り鰹」をたたきのように少し炙ったのをカルパッチョ風にあしらった肴で一献傾けました。ほのかに薫る炭火と脂ののった濃厚な味わいに舌鼓(携帯フォトのため画像悪くすいません)。

季節から酒の話に脱線しましたが、季節ついてで、フランスの哲学者アラン(本名はエミール=オーギュスト・シャルティエ)の季節をめぐるエッセーがあるので一つ紹介します。アランといえば、日本では『幸福論』(岩波文庫)が有名ですが、『四季をめぐる51のプロポ』(岩波文庫)も面白い。リセの哲学教師で、過去の偉大な哲学者たちの思想と、アラン自身の思想を絶妙に絡ませた彼の哲学講義は、当時の学生たちの絶大な支持を受け、教え子の中からは、シモーヌ・ヴェイユをはじめ数多くの哲学者たちが輩出しております。

では、ひとつ。
「 語源的には、「きのう」は「夕方」と同族関係にあり、「あす」は「朝」とも言われる。それはよく考えてみると驚くべきことだが、すぐに理解される。人が時のことを考えるのは一日の真ん中ではない。すべてを行動に傾けている。時間にすっかりとらわれて、時のことを考える暇などない。時のことを考えるのは朝であり夕方である。夕方はやり終えた畑を考え、朝はやるべき畑を想う。休憩と疲労がこれらの考えと一致する。夕方は〔事実を〕認める。朝はつくり出す。したがって、夕方のイマージュは過去の観念と結びつき、朝のイマージュは未来の観念と結びついている、。同じ傾向が季節においても見られる。一年は一日のようである。
そうしたことすべてに、人間は抗う。ランプを灯して、本を読み、考える。考えすぎることもある。眠りが十分でないこともある。秋の教えているところを無視しすぎることもある。しかし、すべての進歩はこの反抗とかかわりがある。われわれはマーモットでありたくない。したがって、まさにこの時期に、小さな子らが本の詰まったサックを引きずっているのはいいことだ。学校に明かりが灯るのはいいことだ。もうミツバチをたたえている時ではない。ミツバチが眠っている時、その時こそわれわれは、意志によって眼をさまさなければならない。夜の学校は人間のものである。一九〇九年十月六日」
    --アラン(神谷幹夫訳)「秋--年の暮れ」、『四季をめぐる51のプロポ』(岩波文庫、2002年)。

秋の夜長を散漫に過ごすことなく「意志のよって眼をさま」して、自分の「夜の学校」を充実したものにさせたいと思います。

Book 日曜日の万年筆

著者:池波 正太郎
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四季をめぐる51のプロポ (岩波文庫) Book 四季をめぐる51のプロポ (岩波文庫)

著者:神谷 幹夫,アラン
販売元:岩波書店
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事実はただ問題を導くだけであり、解決を導きはしない

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◇出戻るひとびと
「(六・四四)神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」。
    --ウィトゲンシュタイン(野矢茂樹訳)『論理哲学論考』(岩波文庫、2003年)。

 上の言葉は、オーストリア・ウィーン出身の哲学者で、言語哲学、分析哲学に強い影響を与えたルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが生前に出版したただひとつの哲学書『論理哲学論考』(Tractatus Logico-philosophicus)から。こうした難解な著書が手軽な文庫に収録されるところに、日本の出版業界にも少しは良心がのこっていたのかと安心する。

さて、神秘というか、不思議というか、話でしか聞いたことがない事を初めて経験した。いわゆる「刑務所に出戻る人たち」のことである。複数回服役し、しかも刑期が満了してわずか数カ月で再び同じような罪を犯して監獄へ戻るひとびとのことである。
刑務所暮らしが長くなると社会復帰が難しくなると言われるが、刑務所という場所をハードウェアな側面だけに絞って考えるならば、そのなかにいれば、雨露をしのげるだけでなく、飯も食えれば、医療の心配もない、世界である。
高齢の服役囚の場合ならなおさらで、今更、社会に放り出されても喰うあてもなければ、住みかもない……だとすれば、軽微な犯罪を再度犯して、我から望んで塀の中へ帰っていくケースが多いと聞いたことがあります。
刑法の専門家から適切な発言や言い分があると思いますので、その善し悪しは、ひとまず、ここでは触れません。当人だけの問題でなく、社会構造やそこに住まうひとびとの問題にもなってくると思いますので……。

で・・・話だけで聞いていた「出戻る人たち」のことですが、我が市井の職場にもやってきました。事件自体は、すでに先週の話です。売り物の靴を履いたまま交番へ直行し、自首した人がいたそうです。その方は高齢で、食事や住みかのあてがなく、再び塀の中へ戻ろうと、うちの職場の売り物を万引きしそのまま自首したそうです。
事後処理は当日、担当者が警察署へ出向きすませてきましたが、起訴後の手続きのために警察官さん、本日、再度来店。本日は、宇治家さんが担当することになりました。
忙しい時間だったので、結構面倒だったのですが、他のMgrへ仕事を依頼し、応対。その後どうなったのか伺いましたが、裁判所が判断するだろうから、わからないよね、とのこと。

豊かがよいのか、貧困がわるいのか、はたまた価値観の問題なのか……考えさせられた一日でした。

先に引用したウィトゲンシュタインは、同書の冒頭で次のように語っています。
「(一・二)世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている」。

真実と違い事実は存在する。
人は話にだけきいたことで事実だと思ってしまうことがありますが、実際に経験してみると事実の迫真性を考えさせられます。
しかしながらも「(六・四三二)事実はただ問題を導くだけであり、解決を導きはしない」のもその通りである。

身動きとれませんね。

そして独り考えながら、「美少年 冷やおろし」を頂く。「冷やおろし」とは、冬場に仕込み、火入れを施した後の日本酒を、まず、寝かせます(春、夏を越して半年の間、貯蔵・熟成)。そして、秋風の吹く頃、外気温くらいに冷えた清酒に、火入れを行わず、そのまま生詰めして出荷されたものが「冷やおろし」です。爽やかな吟香と軽快な味わいの中に、程よいコクの美少年に舌鼓をうちつつ、子供のためにヤフオクでゲットしたゴドラ星人(『ウルトラセブン』第4話「マックス号応答せよ」(1967年10月22日放送)に登場)を眺めているところです。

実際に造形としてのソフビ人形を手に取ると、映像で観ていた記憶と違う感触があります。洒落たデザインだと理解していましたが、手に取り下から見上げると、恐ろしい部分もありますね。

論理哲学論考 (岩波文庫) Book 論理哲学論考 (岩波文庫)

著者:ウィトゲンシュタイン
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DVD ウルトラセブン Vol.1 DVD DVD ウルトラセブン Vol.1

販売元:ハピネット・ピクチャーズ
発売日:1999/06/25
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人それぞれ……だけじゃないよな

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社会や人間に関わる問題に関して、ひとびとが、より強くより深く考え、そうしたものをめざして漸進していくことで、困難な現実にも対処できると宇治家さんは考えます。

ものごとをより強く深く考え、対話によってひとびとと考えを摺り合わせ、さらに洗練されたかたちで共有していく方向--それが哲学の営みであるとすれば、思索する現況は貧しく、広がりを失っていると思います。もちろん哲学や思想に関する専門誌はいくつも存在しているし、真摯に考える哲学者、思想家と呼ばれひとたちもいないわけでない。しかし、例えばアカデミズムとは縁のない、日々を生きるふつうのひとびとのなかに、思想や哲学というものが生きているのだろうかと考えた場合、考えあい・語り合うことへの希望と信頼は死に絶えている。

多くの人が「人それぞれですから」とよく口にする。

もちろん、趣味のようなものは「人それぞれ」でいいのだし、またそうでなくてはならない。しかし、生きている人間の間には、共通な課題、共通な困難も確かに存在している。

共同体や社会という共通な局面だけでなく、一人一人の個人的な生の実存のなかにも、共通な困難は存在していると思われる。そこを手がかりに、ともに考えあう・ともに語り合うことができるなら、そうした営み(=哲学)は、ひとびとのあいだの“つながり”を回復し、希望をもたらすかもしれない。

しかし多くの人語る「人それぞれ」という言い方は、つながりを絶ち、思索の営みを破壊する。話のテーブルにつくこと自体を、それとなく拒否してしまうのだ。

だからといって、宇治家さんは、「人それぞれ」を口にするひとびとを批判したいのではない。そもそも、そういう考え合う・語り合うプロセスから何かが拓けてくる--そういう実感をもったことがないからこそ、そうした営みに参加する気がおきないなのだろうから……。

それよりも問題なのは、むしろ、現代思想や最先端の哲学が「人それぞれ」の感覚を強化するようなものになってしまっていることを、考えないといけないのだと思う。

たしかに20世紀後半の思想と哲学にとって、古代以来の哲学者の語る“客観的真理の存在”や“真理の絶対性・普遍性”という観念を批判することは、きわめて重要な課題だったと思う。歴史を振り返ってみれば、真理の普遍性・絶対性という方向性が、多様な実存のあり方や声なきひとびとの生を踏みにじってきたのも事実であり、批判されても当然だと思われる。しかし、批判のその結果、現代思想は明らかに、相対主義や懐疑主義となり、深く根本的に考えるという可能性を断ち切ってしまった。

現代思想においてさまざまな新しいテーマが次々と登場し、一見社会への批判が豊かに繰り広げられるように見えても、批評の後には、不毛の大地が横たわるだけになってしまっている。現代の批判思想が、その立脚点をどこに置くべきか、新たな社会構想はどのようにして可能なのかを曖昧にしたまま、ひたすら現実を批判しつづけるている……ただそれだけですよね。

普遍的な真理とは、プラトンが考えたように、ひとびとの実存とかけ離れた、どこか天空に存在するとは思われない。むしろ、真理は現実に根ざしていると志向したアリストテレスに共感する。すなわち、ひとびとが考え、語り合うなかで、共有された考え方、たとえば、(趣味的・感覚的には納得できない場合があるかもしれないが)「こう考えざるを得ないよな」というオチが、普遍的な真理に上り詰めていくのではないかと宇治家さんは考えたりもします。

宇治家さんの考え方は、一見すると古臭い“真理主義”の哲学です。しかし、ひとびとが、現実の生活のなかで真面目に考える、そしてその考えたことを対話のなかで洗練させてゆき、共有していくことによって到達される“真理”は、現実世界に内在し、世の中をよりよき方向へ導くことの出来る“真理”に思えて他なりません。

裸の聖者・ガンジーは、自身のおこなった非暴力・不服従運動を、“サティヤ・グラハ”と名付けましたが、“サティヤ・グラハ”とはすなわち、“真理の掌握”を意味する言葉です。ひとびとが自分自身で真理を掌握することで、その人の生活だけでなく、時代は大きく転換すると思います。

ですけど、ひとりよがりは禁物・だからこそ対話による自己吟味が不可欠です。

フランスを代表する啓蒙思想家ヴォルテールは、「君の意見に賛成できないが、君が意見を述べる権利は死んでも守る」( Monsieur l'abbé, je déteste ce que vous écrivez, mais je donnerai ma vie pour que vous puissiez continuer à écrire.)と述べましたが、その言葉をかみしめたいものですね。「人それぞれ」さん!

来月、子供が運動会(幼稚園・年少)なので、細君の強い要請で、デジタルビデオカメラを買いました。ヤフオクで3万。2006年モデルなので、HDではありませんが、値段のわりにまあまあ使えそうです(CanonDC40)。

Book 世界の名著 35 ヴォルテール・ディドロ・ダランベール (35) (中公バックス)

著者:ヴォルテール
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「二十歳のころ」

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◇二十歳のころ

「(引用者註--学問で人生の道を切り拓いていくことの対して)血ヘド吐いて地べたに這いつくばって一年間やって駄目だと言われたのならやめてアッパレだと思うんだけれど、まだなんか出来るような気がした。要するに、自分はまだやめる条件を満たしていないと思ったんですね。勉強でも、仕事でも、女でも(笑)、もうとことんやって万策尽きた時、その時にはやめるといいんだと思う。ところが、結構多くの人が、逃げの為の余裕を少し残しておいて、他の道に進もうとする。結局気に食わないのが、「俺だってやれば何とかなるよ」という人ね。こういうのは、何の意味もない命題なんですよね。僕はそういう人間にはなりたくないと思った。とことんやり尽くした人間と、途中で逃げた人間とでは、たとえ結果的にどちらもその道を究めきれなかったとしても、両者には大きな違いがあるんですよ。とことんやってみないと見えないことって確かにあるんだ。つまり、やってつぶれて駄目だった方が、やればできたかもしれないという余韻を残すよりいい」。
    --立花隆+東京大学教養部立花ゼミ「秋山仁にきく」、『二十歳のころ II 1960-2001』(新潮文庫、平成十四年)。

「並外れた努力と、反骨精神に裏付けられた堅固な意志力」(同前)をもった数学者・秋山仁が、大学院時代、才能のなさから、今後の人生をどうすべきか、考えていた時の結論が引用部の言葉である。同書では、今をときめく数学者秋山仁の若かりし頃エピソードが満載で読んでいて面白い。

さて--「二十歳のころ」である。
本日、市井の仕事でいつも一緒に汗をながしている、バイト君A(らりったほー○い野郎)が、24時をもってして「二十歳」になった。本日は連休最終日ということもあり、業務も比較的楽でしたが(宇治家さんは意味不明のクレーム処理で忙殺されましたが)、らりったA君、20歳祝いをなんかしてほしーなぁービーム全開でしたので、いつも三人で飲むことの多いバイト君B(仲○し・きんに君)と一緒に、焼肉に連れて行きました。

宇治家さん、ビールで腹がふくれ、あまり食えなかったですが、二十歳前後ふたり、いい喰いっぷりです。肉と一緒に、次から次へ白飯を食らい、見事な喰い様でした。
宇治家さん、対照的ですが、実は白飯、一週間で1-2合しか喰ってない状況です。二人のくいっぷりを観ながら、若い時には、米がダイレクトなエネルギー源になっているのを実感しました。

自分が二十歳になった時は何をしていのか?
いまから一〇年以上昔です。ちょうど、留年が決定する前の大学二年生だったと記憶しております。バブル崩壊に伴う就職氷河期開始の年(1992年)でした。
今でも覚えています。
大学の後期試験後の人気のない三田キャンパスで食通の先輩と待ち合わせて、新橋・銀座グルメーツアーを敢行しました。
まず小津安二郎が『東京暮色』で“珍々軒”として映画に盛り込んだ新橋のラーメン屋(名前は失念しました)を皮切りに、銀座のインド料理店マハラジャを経由し、とんかつの銀座梅林で閉めた思い出があります。
あのころは胃袋が大きかったんだと思いますが、目の前で肉と飯を食らう二人の姿に若い自分を思い出しました。

で・・当時、それを“誕生日祝いだから”と総ておごってくれた先輩にも大感謝です。それ以後、その人と、かなり無茶な食通ツアーを何度も敢行しましたが、ここ2-3年やっていません。またやりたいなぁーと思ったりもします。

で--現在にもどりますが、一緒に肉を食らったバイト君たち、お世辞抜きにふたりは良くやってくれているというか、頑張ってくれています。二人と仕事を組んだ日は、言い方はヘンですけど、ぶっちゃけ、楽です。二人との巡り合わせに感謝です。

ちなみに、らりったA君は音楽で、仲○し・きんに君Bは文学で(でもたぶんサラリーマンかなというぼやきもあり)、自己の道を究めたいそうだが、そういうところで、上の秋山仁のエピソードは参考になるのかと思ったりした、飲酒後です。
やるならとことんやれ!でも人間の人生(時間)は有限だぞ。区切りをつけてとことんやれ!!がんばれA君、B君。こんなところです。

で--。気持ちよく帰ってきたら・・・
久保田の山(しかも“万寿”)。細君からのプレゼント。ラッキー!。

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立花隆+東京大学教養部立花ゼミ「秋山仁にきく」、『二十歳のころ II 1960-2001』(新潮文庫、平成十四年)

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武蔵野の夕暮れ

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 茶屋を出て、自分らは、そろそろ小金井の堤を、水上のほうへとのぼり初めた。ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。なるほど小金井は桜の名所、それで夏の盛りにその堤をのこのこ歩くもよそ目には愚かにみえるだろう、しかしそれはいまだ今の武蔵野の夏の日の光を知らぬ人の話である。
 空は蒸暑い雲が湧きいでて、雲の奥に雲が隠れ、雲と雲との間の底に蒼空が現われ、雲の蒼空に接する処は白銀の色とも雪の色とも譬えがたき純白な透明な、それで何となく穏やかな淡々しい色を帯びている、そこで蒼空が一段と奥深く青々と見える。ただこれぎりなら夏らしくもないが、さて一種の濁った色の霞のようなものが、雲と雲との間をかき乱して、すべての空の模様を動揺、参差、任放、錯雑のありさまとなし、雲を劈く光線と雲より放つ陰翳とが彼方此方に交叉して、不羈奔逸の気がいずこともなく空中に微動している。林という林、梢という梢、草葉の末に至るまでが、光と熱とに溶けて、まどろんで、怠けて、うつらうつらとして酔っている。林の一角、直線に断たれてその間から広い野が見える、野良一面、糸遊上騰して永くは見つめていられない。
 自分らは汗をふきながら、大空を仰いだり、林の奥をのぞいたり、天ぎわの空、林に接するあたりを眺めたりして堤の上を喘ぎ喘ぎ辿ってゆく。苦しいか? どうして! 身うちには健康がみちあふれている。
           --国木田独歩『武蔵野』(岩波文庫、2006年)

上の一節は、国木田独歩の『武蔵野』から。
武蔵野の夕暮れを写したので、そのついでの噺でも。

この文章は、ワーズワースに心酔した独歩が、郊外の落葉や田畑の小道を散策して、その情景や出会いを描いた作品です。もっと続きを読みたい!と思わせる、およそ百年前の独歩の筆致に驚かされます。
 キリスト教を専門として研究するまで知りませんでしたが、実は国木田独歩という作家はクリスチャンなんですね。一番町教会(のちの富士見町教会)で植村正久から洗礼を受けています。キリスト教や社会正義の意識に目覚めた、明治日本を体現したような独立自尊の青年だったといわれています(もちろんそこに由来する不幸もたくさん経験していますが)。

で……その植村正久ですが、植村正久といえば、横浜バンドの中心者で、明治期日本において福音主義の信仰を確立するため心血を注ぎ、教界の橋頭堡を守り抜いた人物として知られています。現在でも通有するような日本人キリスト者のイメージをつくった人物と言うことも出来ると思います。
植村で面白いのは、神学者・牧師として活躍するだけでなく、実は近代の西洋文学をいち早く日本に紹介した人物であり、国木田独歩が心酔したワーズワースのほか、カーライル、テニソンの紹介や翻訳も行っていることです。

例えば、トルストイを評して曰く
「伯(引用者註--トルストイ)は快濶なる男児なり。胸中に無声の感覚思想鬱勃として禁ずること能はず、胸襟を寛げ、満腔の熱血を絞りて、之を文字の上に発表したるなり。故にその文や芸術の細則に束縛せられず、其の小説の美は自然の長江大河を観るが如く、峻嶺の雲に聳ゆるを仰ぐが如し。伯は社会の預言者なり。真理を伝ふるの天職を奉じたる人なり。小説は其の預言を四方に伝へ、万民を教へんと欲するの手段に過ぎざるなり。伯は真実無妄、熱心燃ゆるが如く、其の口に説き、筆に唱ふる所は忌み憚る所なく、至るところに之を実行せんことを試みるの人なり。口に逸楽安居を咎め、筆に一視同仁の大義を唱ふれば、自ら進んで農民の群に入り、糞士の間に居起し、手づから耕耘に従事すと聞く。其の節操の清烈貴ふべきに非ずや。伯は剛勇不撓の士なり。其の主義のために如何なる結果あるをも顧みず、水火も刀鋸も之を沈黙せしむること能はざるべし。トルストイ伯は写実小説のの巨擘なり。其の社会の実際を写すや理想の情熱内に溢るゝの心を以てせり。故に其の小説は時として伝奇異常の帯を帯ぶることあり。日本のトルストイ何処にか在る。」
           --植村正久「トルストイ伯」、『植村正久文集』(岩波文庫、1939年)

これは1890年(明治23)に植村が書いたトルストイ評です。前半でトルストイの略歴を紹介した上で、手短にその思想をまとめた文章ですが、日本におけるトルストイ評の嚆矢でありながらも、今読んでみても、内容としても正鵠を射ているものです。

近代日本の知識人の言説を読み直すことが(仕事上)比較的多いのですが、特に明治第一世代(生まれは江戸末期~明治初年)の博学さ、マルチタレントぶりには驚かされます。また国木田独歩じゃありませんけど、青年の熱と力を、彼らの言説からいつも感じ取らされています。興味のある方は、読みにくい文体かもしれませんが、ゆっくりと味わいながら読んでほしいと思います。

※写真は仕事で現場確認・記録用に使用している古いデジカメNikonCoolPix2500ですが、5年前のモノにしては好くうつりますね。やはりニッコールレンズの力でしょうか。

武蔵野 (岩波文庫) Book 武蔵野 (岩波文庫)

著者:国木田 独歩
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イェルサレムの久保田さん

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市井の仕事後、例の如く、バイト君ABと軽く飲みに行く。
A氏は音楽、B氏は文学、それがあれば何も必要ない、生きていけると熱く語る。A氏、B氏ともに、他のバイト君たちと比べ一歩ぬきんでた存在である。
別にどこにでもいるようなひとびとだが、自分の中に大切な何かを持っている人間、道を決めている人間は強いと実感する。
秋刀魚と芋煮は旨かった。
昼間はまだまだ暑いが、夜は上着が必要ですね。

で・・・脈絡無くハンナ・アーレントの話でも。

1960年5月11日、イスラエルの情報機関は、アルゼンチンで初老のドイツ人男性を逮捕した。その男の名前は、アドルフ・アイヒマン(1906-62)。彼こそ元親衛隊中佐、ナチス戦犯の大物の一人である。戦争犯罪摘発の手をのがれ、潜伏先のブエノスアイレスで捕捉されたのである。アイヒマンは、かの悪名高いユダヤ人の「最終解決(抹殺)」が決定されると、その最終的解決法(ガス室による大量虐殺)を考案し、その実行責任者として指揮を執った。このような男であるから、アイヒマンとは凶暴で冷酷なタフな男であるはずだ――、そう人々は見ていたが、実際の彼はイメージと大分かけ離れた人間であったようである。
 アイヒマンは、逮捕直後「命だけは助けてくれと何度も哀願していた。臆病者の見本のような男」で、裁判でも「私は命令に従っただけ」を繰り返し、無罪を主張した。検察官は「この気の弱そうな人物が、本当にあんな冷酷なことが出来たのか」と驚いたほどである。
この裁判を傍聴し、のちに『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)として悪の問題を世に問うたのが、ユダヤ人女性哲学者ハンナ・アーレント(1906-75)である。
彼女によれば、アイヒマンには「考える能力――つまり誰か他人の立場に立って考える能力――の不足」が特徴的だと論じられている。彼は、紋切り型でしか話すことができないから、われわれは「アイヒマンとは意思の疎通が不可能である。それは彼が嘘をつくからではない」。アイヒマンは言葉と他人の存在に対する「想像力の完全な欠如という防御機構で身を鎧(よろ)っているからである」。さらに、「(彼は)愚かではなかった。完全な無思想性――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。このことが<陳腐>であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してみてもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない」。以上のようにアーレントは評している。
悪行を犯すのは、ヒトラーやスターリンなど、いかにも“悪党”面(づら)した人々だけではない。ごく普通の人間だと思っていた人が、凶悪な事件を犯すことがあることあるのである。上からの命令に盲従したり、システムや機械の力を過信したり、無責任なことをしたり、私利私欲のためだけに何かを決定したり・・・・。誰か他人の立場に立て考える能力=想像力の欠如、なかんずく“普通の人”の“想像力の欠如”が20世紀の悲劇を招く原因となったことを忘れてはいけない。

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イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告 Book イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告

著者:ハンナ アーレント
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自由という物語①

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「平等という概念は、ふたつの異なったタイプの多様性に直面している。すなわち、(一)人間とはそもそも互いに異なった存在であるということであり、(二)平等を判断するときにもちいられる変数は複数存在するということである。(中略)人間は互いに異なった存在であるために、異なった変数によって平等を評価すると多様な結果が導かれる。(中略)「人類の平等」という強力なレトリックは、このような多様性から注意をそらしてしまう傾向がある。このようなレトリック(例えば、「人は生まれながらにして平等である」)は、平等主義の重要な要素と見なされているが、個人間の差異を無視することは実に非常に反平等主義的であり、すべての人に対して平等に配慮しようとすれば不利な立場の人を優遇するという「不平等な扱い」が必要になるかもしれないという事実を覆い隠すことになっている。(中略)しばしば人間の多様性は、「人間の平等」という「崇高な」見地からではなく、単純化の必要性という現実的な「低い」見地から無視されてきた。その結果、平等に関する中心的で重要な特質を無視することに繋がっている」(アマルティア・セン(池本幸生ほか訳)『不平等の再検討--潜在能力と自由』(岩波書店、1999年))。

「万人平等」という考え方は、あたかも永遠不変な真理であるかのように語られ、信じられている思想である。学習の習熟度別のクラスに対する反対、運動会におけるかけっこの廃止、はては男らしさ、女らしさの否定まで、多くの事例が「万人平等」を根拠に主張されているのは周知の事実である。宇治家さんは別に「万人平等」という考えを否定した、貴族的・権威主義的ヒエラルキー型の社会構造(不平等で当たり前・価値・社会制度として不平等を固定化させるあり方)を主張するものではない。しかし「万人平等」という考え方、およびその適用(社会政策のあり方)に関しては一考が必要では無かろうかと思う一人である。

 こうした状況に関して鋭い指摘をしたのが、アジア人としてはじめてノーベル経済学賞を受賞したインド人経済学者アマルティア・センである。先にセンの言葉を引用したが、安直な平等主義に対する批判としては至言である。

 センが言うように現実に生きている人間には実に多様な有様が存在している。性別・性格・努力・才能・門地環境--等々、誰一人として同じ人間は存在しない。万人は異なった人間である。したがってそうした状況で平等を論じる場合、「崇高な」天の視点から「平等」を語るのでなく、現実的な「低い」見地から考え直すのが必要なのではないか、センの言葉はそうした示唆を与えてくれる。センの場合は、「何の平等か」というのがその一つの観点である。

(以下、そのうちの次回)

ようやく、今月28日締切の紀要掲載用の論文の2/1がまとまった。けれども半分の時点ですでに予定枚数を倍近く超過してしまう。どうしよう……?

不平等の再検討―潜在能力と自由 Book 不平等の再検討―潜在能力と自由

著者:池本 幸生,野上 裕生,佐藤 仁,アマルティア・セン
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己処不欲、勿施於人

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気の毒な彼は総理大臣になるべき人ではなかったと思う。
彼自身もそれを求めたことであろうが、ただ「担がれた」だけ。
「仲良し」はいても、同志はいない。門地はよくても、閥がない。
冷静に考えれば適任ではなかった……。

然し、テレビニュースを見ていると、胸くそ悪くなるもの事実です。
ほとんどの人は「罵倒」を浴びせるのみ。朝昇龍の次はおまえかよ、と。

無能な首相であったし、政治的判断も誤りっぱなし彼ですが、人格誹謗まではご遠慮願いたい。公人だからとか私人だからとかいうまえに、発言者の側のモラルの問題のような気もします。所詮、安全地帯から、スケープゴートに仕立て上げられた彼を罵倒することで、一種のカタルシスを得ているだけじゃないのかなあと思います。「斜めから見て」も何も見てないのが事実では?

確かに、問題の多かった人物です。「担がれて」改憲と愛国イデオロギー教育と日米同盟の強化を唱えましたが、本当は単なるタレント性で「担がれただけ」。存在理由もいってみれば元来「無」であった。

そうであったとしても、そのタレント“性”を斜めから罵倒するのではなく、こう考える方が素敵ではありませんか?という形で弁証法的な建設的提議(もし可能であれば)を、マスコミやら政治を語りたがる連中には、叫んでほしかったと思います(もちろん実現可能な領域から)。

孔子のいう「子曰、中庸之為徳也、其至矣乎、民鮮久矣(子の曰く、中庸の徳たる、其れ至れるかな。民鮮なきこと久し)」(『論語』巻第三・雍也第六)の現代かなと思います。良きせよ悪しきにせよ、極端にはしるのがかっこいいのですかね。

そーゆう人は、特にメディア関係者は、スラヴォイ ジジェク(鈴木晶訳)『斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ』(青土社、1995年)でも読んでください。 作品にゆがんで書かれた対象を見るとき、こちらも斜めから見なければ、その像を読み取ることができません。ですけど、斜めから見てしまうことにより、またひとつの崩壊が起きてしまうのも事実です。

再度孔子先生の登場です。
「仲弓問仁、子曰、出門如見大賓、使民如承大祭、己処不欲、勿施於人、在邦無怨、在家無怨、仲弓曰、雍雖不敏、請事斯語矣(仲弓、仁を問う。子の曰わく、門を出でては大賓を見るが如くし、民を使うには大祭に承えまつるが如くす。己れの欲せざる所は人に施すこと勿かれ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し。仲弓が曰く、雍、不敏なりと雖も、請う、斯の語を事とせん)」(『論語』巻第六・顔淵第十二)

わたしは誰も罵倒しません。罵倒されることに生来的嫌悪があるからです。自分のイヤなことはひとにしたくありませんね、本当に。それが弱いとか、生ぬるいと呼ばれようとも。

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「祈り働け」(Ora et Labora)

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◇北海道三昧

今日も最後は楽勝で帰宅と思いきや、最後に一発かまされました。市井のお仕事の最終業務が、施設の安全管理点検および防犯監視盤のセットなのですが、なかなかオールグリーンになりません。何度も指摘箇所を点検するが異常なし。どうしようもないので、警備会社に見てもらう。おかげで1時間残業になってしまう。

買い込んでいた北海道セット(?)で、これから一杯です。ちなみに本日の獲物は、北海道限定のSAPPOROクラシック、あわせて大好物のトラピストクッキーが戦果です。もちろんクッキーを肴にビールをあおるわけではありませんが、7月に北海道に行った際、SAPPOROビールばかり飲んでいましたが、北海道限定のクラシックは群を抜いたうまさで度肝を抜かれました。未体験の人は是非。

さて、トラピストクッキーですが、ご存じの通り、トラピスト修道院(宗教法人燈台の聖母)が製造販売しております。ほかにもトラピストビール(ベルギー、オランダ産)もありますがこちらは未体験です。

豆チシキですが、トラピスト会、正式名称は「厳律シトー修道会」(Ordo Cisterciensium Strictioris Observantiae)。岩波の『岩波キリスト教辞典』(2002年)によると、フランスのラ・トラップ修道院の規則に従うシトー会の修道院の総称だとか。祈り、沈黙、禁欲、労働といったシトー会の伝統的精神をより厳しい規律を付して実践する修道会です。日本では、1896年男子トラピスト会が来日、女子は98年来日、北海道を中心に霊性、宣教、司牧、教育、福祉の分野で活躍しています。

近代・現代以降、世界的な世俗化が進行する中で、霊性を尊び、活動する姿には、まさに脱帽です。修道会はもともと「祈り働け」(Ora et Labora)をモットーに連綿とその歴史が刻まれてきましたが(もちろん負の歴史もありますが)、祈りと働きの調和と統合を通して神を賛美する理念は、神を信じるとか信じないとか、私はクリスチャンじゃないとか、そうだとか、そうした垣根をとっぱらってみた一人の人間として(何に祈るかは、ここではといませんが)、そうした人の祈りや労働を純粋に見つめ直す視点は、こんな現代だからこそ大切な考え方だと思います。
わたしも「祈り働き」ます。

で・・・『トラピストクッキー』。濃厚なバターと豊潤なミルクの味わいに悶絶します。

ビールの壁の前で暴れるメカゴジラ2004は息子に頼まれた物件です。

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What's Going On

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「9・11」より6年過ぎましたね。
当日、宇治家参去さんは、挙式を2ヶ月後に控え、嫁さんの実家で挙式準備(式次第の作成)をしている最中でした。TVを流しながら、打ち合わせをしていた自分の姿が昨日のように思えます。

で・・・
今日は自分の意味不明の語りはよしましょう。
以下、ノーム・チョムスキーのインタビューから。
Marvin Gayeの“ What's Going On”じゃないですけど、世界はどこに行くのでしょうか……。

で・・・
なくて自分で決めて生きていくのでしょうかね。

YouTubeで、Marvin Gaye "What's Going On はこちらから

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◎「「9・11」から6年 「テロとの戦い」逆効果 チョムスキー氏に聞く」、『毎日新聞』(2007(H19)年9月11日(火)付)

 世界で最も影響力がある社会批評家の一人、米マサチューセッツ工科大のノーム・チョムスキー教授(78)が、米同時多発テロ(01年9月11日)から6年になるのを前に毎日新聞のインタビューに応じた。同教授は9・11後のブッシュ米政権の対応がむしろ、テロの脅威を増大させていると指摘した。【ケンブリッジ(米マサチューセッツ州)で小倉孝保、写真も】
--同時多発テロが世界に与えた影響は。
◆9・11の直後から予測されたことだが、いろいろな国が「テロからの保護」を口実に市民の管理を強めた。そして最も大きなインパクトを与えたのが(米軍による)イラク侵攻だった。これによりテロの脅威は明らかに増大した。
 いろいろなテロ専門家がそれを具体的に報告している。米中央情報局(CIA)の専門家だった一人は、ブッシュ(大統領)は(同時多発テロの首謀者とされる)ウサマ・ビンラディン(容疑者)の盟友だとまで言った。イラク侵攻によりビンラディンは、イスラム社会に自分を正当化できるようになったのだから。
--ブッシュ米政権は「テロとの戦い」と主張している。
◆米国が「テロとの戦い」を宣言したのは初めてではない。レーガン政権も「テロとの戦い」を口実に中米、南部アフリカ、中東を軍事攻撃した。不幸なことに、これは強国がプロパガンダとしてよく取る手法であり、ブッシュ政権も同様だ。イラク侵攻は戦争犯罪であり、日本やドイツの指導者が(第二次大戦で)裁かれたのと同じものだ。
 アフガン侵攻も戦争犯罪だ。(アフガンを実効支配した)タリバンは米国に、9・11とビンラディンとの関係を示す証拠を出せと要求したが、米国はこれを拒否した。ビンラディンの引き渡しを求める場合は祥子を示さねばならない。タリバン政権転覆のため米国が爆撃したことこそ国際テロの見本だ。
--9・11とビンラディン容疑者の関係を示す証拠が十分でないと。
◆事件から8ヶ月を経て米連邦捜査局(FBI)は9・11は誰が実効したか分からないと報告した。何も証拠はなかったのだ。
--米国はどう対処すべきだったのか。
◆テロ攻撃は犯罪であり、警察による捜査手続きが行われるべきだった。最近、ドイツがした(テロ容疑者を逮捕)ように捜査を行い、そして、もしそれが国際的な問題だったなら国連のような機関で対応しなければならない。ビンラディンのような人物を暴力で攻撃すると、怒りを増大させるだけに終わる。証拠を積み上げ警察的な手法で解決するしかない。
--米政府はテロに対応するためには、警察的な手法では無理と考えたのでは。
◆イラク侵攻でテロの脅威は増大した。テロの脅威を減らすには、警察的なやり方しかない。なのになぜ米国はイラクに侵攻したのか。それは、米国の政策決定者にとって、テロへの対応が最重要の政策課題ではないからだ。テロリストが国内に入るのを避けるため、カナダとの国境警備を強化すべきだとの声を無視し、ブッシュ政権が国境監視員を減らしたことでも分かる。今では誰でも、核爆弾の入ったスーツケースを持ってカナダ国境を越えられる。
--9・11と米外交政策に関連は。
◆関連は当然、ある。長年の米国の中東政策がアラブ人に反米感情を植え付け、9・11へとつながった。第二次世界大戦以降、米国にとって石油資源の支配が重要な課題になり、それに即した政策を米国は取った。自国が石油を使用するためではなく、石油を支配することで日本のような産業国への拒否権を確保しようとしたのだ。
--日本では、アフガンでの米軍支援についての議論が盛んだ。
◆アフガンに必要なのは戦争ではなく、開発と復興だ。アフガン人が麻薬の栽培を必要としないための支援をすべきだ。
〔解説〕米は「加害者」の過去も問え
チョムスキー教授はインタビューの最後、秘書が「そろそろ次の予定が」と催促するのを無視して「これだけは言っておきたい」と切り出した。「01年は2度目の『9・11』です。最初の『9・11』は73年に米国の支援を受けたチリの郡部が民主政権を転覆させた事件です」
 教授が指摘するのは、ピノチェト氏率いる軍が、民主的に選ばれたアジェンデ社会主義政権を打倒したチリのクーデターのことだ。ピノチェト氏は翌年、大統領に就任して左派勢力を弾圧。約3000人が死亡・行方不明となり、約3万人が拷問などの被害を受けたとされる。
 チョムスキー教授は「これによって中南米では、反対派を暗殺して独裁政権を打ち立てる歴史が始まった」と語り、後世に与えた影響として「最初の9・11の方が、2度目よりはるかに大きな悪影響を世界に与えた」と主張した。
 ブッシュ政権は、9・11後、民主主義、自由を世界に拡大するためイラクでフセイン政権を倒したと説明した。しかし歴史をみれば、チリだけでなく、イランでは53年、民主的に選ばれたモサデク政権を米国はCIAを使って転覆させパーレビ独裁体制を敷かせた。現在でも、米政府はアラブの独裁国家を強力に支持している。チョムスキー教授はこうした米国の外交政策が、間接的に「9・11」へとつながっていると考えている。
 同教授の話は、米国人には耳の痛いものだ。しかし政府を厳しく批判する知識人を自国に抱えておくのもまた、米国の強さの源泉だと思う。
 被害者として「9・11」を考える時、加害者としてもう一つの「9・11」に思いをはせるべきだ。それなくしてテロの恐怖は消えない。教授が伝えたかったのは、そういうことではないか。【小倉孝保】
◆ノーム・チョムスキー氏 略歴
(Noam Chomsky)1928年12月7日、米東部ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。父はウクライナ、母はベラルーシの出身でともにユダヤ人。51年にハーバード大特別研究員、61年からマサチューセッツ工科大教授。57年に変形生成文法と呼ばれる理論を提唱し、言語学の世界に革命をもたらした。
 65年に米軍が北ベトナム空爆を開始すると反戦運動に立ち上がり、以来、米国の外交政策を厳しく批判。米同時多発テロ直後に出版されたインタビュー集「9・11」では、「米国に報復する資格はない」と主張した。その後、米軍によるアフガン攻撃やイラク侵攻のほか、米国主導のグローバリズムを強く批判し続け、ロックバンドU2のボーカル、ボノは「あくなき反抗者」とたたえた。
 しかし、徹底した政府批判に対し米保守系メディアを中心に、「あまりにばかげている」との反応もあり、最近は、国内メディアでは疎んじられる傾向もある。

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でも浜岡賢次『浦安鉄筋家族』(秋田書店・写真は『元祖!浦安鉄筋家族』)は面白い。こんな風景が日本のどこにもあれば、銃声は聞こえない。

9・11―アメリカに報復する資格はない! (文春文庫) Book 9・11―アメリカに報復する資格はない! (文春文庫)

著者:ノーム チョムスキー
販売元:文藝春秋
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元祖!浦安鉄筋家族 17 (17) (少年チャンピオン・コミックス) Book 元祖!浦安鉄筋家族 17 (17) (少年チャンピオン・コミックス)

著者:浜岡 賢次
販売元:秋田書店
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秋来にけり 耳を訪ねて 枕の風

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◇逃げてゆく残暑
 この年--寛政五年の残暑は、まことにきびしかったが、
「残暑め、いつの間に逃げて行きゃあがったか……」
 めずらしく、険友・岸井左馬之助が盃を口にふくみつつ、冗談をいったので、長谷川平蔵がくすくすと笑った。
「御頭(おかしら)、なにが可笑しい?」
 と、このごろの左馬之助は、もういっぱし、火付盗賊改方の一員になったつもりでいるらしい。
(中略)
 さわやかに晴れわたった秋の空をながめながら、親しい友とのんびり酒をくみかわすことが、
「いまのおれの気ばらしになってしまった。おれもじいさまになったものよ」
 平蔵はほろ苦く笑った。

    --池波正太郎「五年目の客」、『鬼平犯科帳 4』(文春文庫、1976年)

今年の夏は、まことにきびしかったが、朝な夕なに秋の装いを感じるようになった。
『鬼平犯科帳』ではありませんが、
「残暑め、いつの間に逃げて行きゃあがったか……」を実感します。

仕事を終え、商店街を抜けると、秋祭の準備のためか、提灯がちらほら目立つ。帰宅すると、まずオクラ納豆で一盃。単純な肴だが、最近、嫁さんが比較的リクエストどおりのつまみを準備してくれているのがありがたい。本人曰く、料理するのは嫌いだが、野菜がたくさんあると、つくり甲斐があるとのこと。本物の平蔵さんではありませんが、最近、肉とかよりも、野菜や魚を旨く感じる自分を実感する。「脂気がおちてきたのか」と。
新鮮な食材で丁寧にこしらえた単純な肴で、ワンランク上のビールをのむと、ビールと肴の味わいの両者が引き立ちます。焼き肉やステーキもいいですが、たまにはこうした肴も捨てがたいです。

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◇語法が停止する瞬間

「語法が停止する瞬間がある(それは非常な努力の末に獲得される瞬間である)。この残響なき断絶が、禅の真理と俳句という簡素で空疎な形式を同時に成立させるのである。(……)俳句は私たちが経験したことのないことを私たちに思い出させる。俳句のうちに私たちが見出すのは、起源をもたないものの再来、原因のない出来事、誰も思い出す人のいない記憶、浮遊するパロールである」(ロラン・バルト(宗左近訳)『表象の帝国』(筑摩書房、1996年)。

『表徴の帝国(L'Empire des signes)』とは、フランスの哲学者ロラン・バルト(Roland Barthes)の日本論です。フランスの文化使節の一員として訪日した際の記憶を記号論の立場からまとめた印象録で、この中で、バルトは、西洋を「意味の帝国」と呼び、日本を「表徴(=記号)の帝国」と分類します。西洋世界が記号に意味を満たす世界理解をとるのに対し、後者は、意味の欠如を尊ぶ世界理解があると分析しています。
バルトは実例(天ぷらや皇居)をあげながら、意味から解放された日本世界の自由さ述べていますが、意味ではなく“かたち”からものごとに入っていく方向は確かに存在すると実感します。しかしながら、今の人たちは、意味や物語を消費する方向の方が多いのでは、と思ったりもします。

で・・・「語法が停止する瞬間」の“俳句”で面白いのがあるので一つ紹介します。

「秋来にけり 耳を訪ねて 枕の風」(松尾芭蕉)
じっくりと読めばわかりますが、藤原敏行の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」(古今和歌集)をパロディー化した作品。芭蕉もお茶目です。

鬼平犯科帳〈4〉 (文春文庫) Book 鬼平犯科帳〈4〉 (文春文庫)

著者:池波 正太郎
販売元:文藝春秋
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表徴の帝国 (ちくま学芸文庫) Book 表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)

著者:ロラン バルト
販売元:筑摩書房
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お互いの沈黙

Yaspers

◇青が散る

「「哲学すること」は、根源を目ざまし、自己へ還帰し、内的行為においてできるだけ自らを助けるという決断であります。
日々の課題や要求に従うと言うことは、もとより現存在においては、明らかにもっとも大切なことであります。しかしそれで満足しないで、単なる仕事や、目的物に没頭することがすでに自己忘却への道であり、同時に怠慢と罪であることを知ることが、哲学的な生活態度への意志なのであります。こうして幸運と侮辱、成功と断念、暗黒と混乱などの人間に関する経験が真剣に取り上げられるのです。忘却ではなくて内的に自己のものとすること、半途にして道をそれることでなくて内的に貫徹すること、片づけることでなくして徹底的に開明すること、これが哲学的な生活態度なのであります。
このような哲学的な生活態度はつぎの二つの道をとります。あらゆる種類の反省を通じてなされる孤独な思弁と、共同活動・共同討議・お互いの沈黙、などにおいて行われるあらゆる種類の相互理解による人びとの交わり、がそれであります」(ヤスパース(草薙正夫訳)『哲学入門』(新潮文庫、昭和47年))。

これまた学生時代(学部1年の春)、ヤスパースの本をぱらぱらめくっていると、宮本輝の『青が散る』(文春文庫、1985年)を読んでいた先輩から「青臭いな」と言われた記憶があります。「ヤスパースは青臭いのか」--なんだか、よく分かりませんでしたが、おそらくラカンやデリダでも読んでいた方が、「青臭く」なかったのかもしれません。
結局、その後1年あまり、ヤスパースを紐解くことはなかったのですが、初めて読んだときには、“人間の生”に注視するヤスパースの強烈な筆致に驚いたことがあります。
冒頭に引用したのは、ヤスパースの著作の中で比較的入手しやすい『哲学入門』(新潮文庫、昭和47年)の中からの一節です。この本は、ヤスパースがバーゼル放送局の依頼に応じて12回にわたって試みたラジオ講演『哲学入門』の全訳です。
現代の哲学界では、『哲学入門』のような作品など、ほとんどの大物哲学者は著してはいませんが、その中でも異色とも言うべき、大家の手によるすぐれた哲学への入門書です。もちろん、クロニクルな叙述ではありませんが、テーマ別に上り詰めていくスタイルで、読み物としても面白い作品です。
ヤスパースは、本来の哲学とは単なる講壇哲学ではなく、哲学が人間として人間にかかわるものであるかぎり、市井の人間存在の中で深く根を張っていかねばならないと考えていましたが、そうした彼の根本主張をこの本から読み取ることが出来ます。
「青臭い」と言われましたが、ヤスパースのコトバは文献渉猟や専門書の山で食傷した心をいやしてくれる力をもっています。

引用箇所の末尾で、ヤスパースは、哲学的な生活態度の二つの道を次のように語っていますが、すなわち、「あらゆる種類の反省を通じてなされる孤独な思弁と、共同活動・共同討議・お互いの沈黙、などにおいて行われるあらゆる種類の相互理解による人びとの交わり、がそれであります」、哲学することの基礎になる“孤独な思弁”はいうまでもありませんが、哲学する人間の社会性を表現する上で、ヤスパースが“お互いの沈黙”と表現しているのは興味深いです。人間の社会性に関して、“共同活動・共同討議”というフレーズは比較的だれでも言いますが、“お互いの沈黙”をも自己と他者の向き合う場として指摘しているのには驚嘆です。ヤスパースは実存主義の哲学者と評されますが、実存主義といえば、とかく自己の存在原理が第一に語られる傾向が強いのに対し、ヤスパースがそれをふまえながらも、自己と全く異なる他者と自己との原理を示唆している点は再考の余地があるのかなとも思います(専門家からは失笑されそうですが)。

◇お互いの沈黙

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もうすっかり空は秋。日中の陽気に汗は流れますけど、夜気はじょじょに心地よくなってきています。
で・・・
昨日も、共同活動・共同討議・お互いの沈黙をしてきました。
市井の仕事の話ですが、今頑張っているバイト君(昨日が6連勤の4日目)、仕事とプライベートで肉体が限界に近づいているようでしたので、別部門のMgrと一緒に軽く飲みに行きました。茄子が今は旬ですね。焼き茄子とサッポロビール、疲れをぶっ飛ばすトーキングで心身共に復活。彼も私も今日から再びがんばります。
晩夏から初秋の夕方からおちる夜の帷は美しいです。
そんな夜空を背景に、Smokey & Miraclesの“Tracks Of My Tears”なんかに耳を傾けると、夏に疲れた心身をほぐしてくれます。

YouTubeで“Tracks Of My Tears”動画はココ

Book 哲学入門

著者:ヤスパース,草薙 正夫
販売元:新潮社
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マリタンとタチ 二人のジャック

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      「暗黒と全面的混乱の時代において、人類にとって最悪の誘惑は、道徳理性を放棄しようという誘惑である。理性は決して座をゆずってはならない。倫理学の仕事は謙遜であるが、しかし、不幸な世界の苦難の真只中においても、そこに人間性の微光が見えているかぎり、不可変な道徳的諸原理の可変的な適用を導くとき、その仕事は高邁なものである。」

◇70にしてラテン語をならう人
上の一節は、ネオ・トミストのオピニオン・リーダとして広く世界に知られた思想家ジャック・マリタン(Jacques Maritain)の言葉である。むかーし、学生時代、先輩に勧められてというか、その言い方をそのまま表現すると「近代、現代社会の構造を理解するには、ネオ・トミズム、またその基盤となっているトマス・アクィナス(St.Thomas Aquinas)を読め」といわれたことがあります。もちろん当時も(今も)中世スコラ学の専門でもありませんでしたし、不案内なところもありましたので、そこでその導入として、ネオ・トミストと知られるジャック・マリタンの著作を勧められた記憶があります。マリタンをひもときながら、トマス・アクィナスそのものへ入っていくのも一つの手だよ、とその先輩はいっていました。

今になっても、その道筋がいいのか、わるいのかわかりませんが、実際読んでいておもしろいのも事実です。またおかげでトマス・アクィナスそのものも読むようになりました。話がそれますが、このジャック・マリタンを初めて日本に紹介したのが、戦前のカトリック系詩人哲学者・吉満義彦です。流れで吉満義彦も読むようになりましたが、その縁で出会った人たちもたくさんいます。ある修道院では、吉満義彦を顕彰する催しを毎年行っていたりしていて、そこで出会った初老の男性のエピソードですが、もうすでに定年している年代でしたが、そこから一からラテン語の勉強をはじめ、今こつこつと、トマス・アクィナスのスンマ(『神学大全』)をゆっくり読み始めました、という話を聞いたことがあります。

その話には、本当に驚愕しました。自分からいえば、自分の祖父ほどもあろうその人が、ラテン語を勉強し始め、スンマを読み始めた。そのことに奮起し、自分もラテン語をはじめた懐かしい思い出があります。

◇人間のため
で・・・脱線しましたが、最初に紹介した一節は、マリタンの『人間と国家』(創文社)から引用です。この本では、はじめに、民族、国家、人民の元意を整理した上で、主権の概念、手段の問題、人権、民主主義、教会と国家が論じられ、最後に世界政府の問題が検討される、内容的にいえば、政治学的な趣のある一冊です。その所論を一貫して流れるテーマは何か、といえば、「人間が国家のためにあるのではなく、国家こそ人間のためのものである」ということです。いうまでもないような、基本中の基本の約束事が、実は中心に据えられています。国家の位置はどこにあるべきか、それは人間のため、デモクラシーのため、世界平和のため、所詮は人間そのもののために、国家を本来のあるべき位置にすえるべきとの主張です。しかしその論調はたんなる講壇哲学やきれい事のショーケースとは全く異なるぎりぎりの独白であることに驚きます。理想と現実との間の、理論と実際との間の、そして原理(普遍的真理)と具体的問題との間の深いつながり、せめぎ合いが語られており、それが故に、歯に浮くコトバでなく、読み手の心を揺さぶります。これにはおそらくマリタン自身、バチカンのフランス大使をつとめた現実の経験が大きく影響を与えているのだと思いますが、興味のある方は是非読んでみてください。
「政治学的な趣のある一冊」と上に書きましたが、実は読んでいるときわめて倫理的、神学的著作であることにも二重に驚きます。是非!!

◇ジャック・マリタン(久保正幡・稲垣良典訳)『人間と国家』創文社、昭和37年。

ちなみに、ジャック・マリタンからみで(でもないですが)、おなじくフランス人ジャックといえば、ジャック・タチ(Jacques Tati)の映画も最高です。映像だけでなく音楽も最高です。こちらも是非!!

YouTubeの「ぼくの伯父さんの休暇」(Les vacances de M. Hulot)の Trailerはココから

Man and the State Book Man and the State

著者:Jacques Maritain
販売元:Catholic Univ of Amer Pr
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ぼくの伯父さんの休暇 DVD ぼくの伯父さんの休暇

販売元:アスミック
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血を吐きながら続ける、悲しいマラソン

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台風一過。雲一つない青空。今日も始まる灼熱地獄。
冷房の利いた部屋で、子供とDVDでウルトラセブン第二六話を鑑賞する。

有名な話ですが、地球防衛軍のセガワ博士・マエノ博士らは惑星攻撃用の破壊兵器「超兵器R1号」(新型水爆8000個の威力という)を完成させる。強力な対侵略者用兵器の誕生に喜ぶ隊員たちをよそに一人苦悩するウルトラセブンことモロボシダン。実は、R1号の実験には、ダンだけが反対していた。地球を守るために、生物がいない(とされていた)星を実験と宇宙へのアピールのために消し飛ばす。そんなことをして良いのだろうか?
ダンの言葉に耳を貸すものは誰一人としていない。
むしろ次のような言葉がぽんぽんでてくる始末である。
「地球がこんな兵器を持っていることが分かれば、誰も侵略に来ないさ」
「持っているだけで平和になれるなんて、素晴らしい」

ダンはいらだちながら聞き続ける。
「もし、宇宙人がもっとすごいミサイルを開発したらどうするんですか?」
しかし……
「そしたら、こっちがもっと破壊力のある兵器を開発すればいい」
博士やほかの隊員たちの考えに打ちのめされたダンは、悲しみを込めて呟く。

「それは血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ」

そして実験は行われる。

話の背景にあるのは、まさに、冷戦時の核配備競争における核武装肯定派論調である。
大人が見ても十分楽しめるウルトラセブンは、時代と思想を映し出す鏡である。

今年は、ウルトラセブン生誕四〇周年。毎年恒例のウルトラマンフェスティバル2007は、いうまでもなく、ウルトラセブン生誕40周年特集。7/31に息子といったが、我が子もセブンが一番好きみたい。

DVD ウルトラセブン Vol.7 DVD DVD ウルトラセブン Vol.7

販売元:ハピネット・ピクチャーズ
発売日:1999/08/25
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思いつき コトバ イミ チシキ

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  ◇モルツ
台風の影響で木曜(9/6)、夕方より断続的に暴風雨となる。早めに仕事を切り上げ、いつものように軽く飲む。相手はいつも通り市井の勤務先のバイト君。来週自分のバンドのライブを行うとのこと。先月一週間休んだので、他のメンバーを休ませるための振り替え出勤で六連勤。ご苦労様です。
学校が始まったとのことで、生活パターンをなおしたり、ライブに向けて一生懸命にならなきゃいかんのだそうですけど、なかなか日々流されてしまうとのこと。音楽で生きていきたいとのことだが、なかなか現実が空回りして七転八倒しているとのこと。
何かを目指す、夢を求めることは人間が生きていく上で大切なことだが、ともすると現実との乖離で、夢ばかりでなく生きてる自分自身がつぶれてしまうことがよくある。しかし、そうならないためにも、日々のハードル、眼前の課題を一つ一つこなしながら、一人で階段を上っていくしかないと実感する。宇治家参去さんは別にミュージシャンを目指しているわけではないが、やはり、目指すものがあり現実と格闘(?)しているという意味では同じなので、まずできるところからお互い手をつけ、くじけそうになったときは、励まし合おうと約して帰宅する。
店を出たのが午前1時、上陸直前の大暴風雨、チャリンコだが、当然傘をさすなんてことは不可能。びしょ濡れになりながら帰途へ。

◇デューイを読む
帰宅後、ぼちぼち、授業の仕込みをと思い、あまり手をつけていなかったところを重点的に、古典で読む。本日は、ジョン・デューイ(John Dewey, 1859年10月20日-1952年6月1日)の『哲学の改造』(岩波文庫)をぱらぱらめくる。アメリカの20世紀前半を代表する哲学者、いわゆるプラグマティズムを代表する思想家である。
市民的な思考の道具として「考える」ことを再構築したその思想は、ふつうの人間のレベルに立ってものごとを考え、発言してきたデューイの軌跡である。日常生活に生きている人間が、だれもおこなっているふつうの「経験」から出発し、最後はまた、そこへ戻ってくる--哲学を一般人から離れたところにある“崇高な学問”だななどとはデューイは考えない。デューイの思想は、世俗のあわただしい生活のなかで、その生活自身が反省的に自己自身を道理に即して理解しようとする営みである。その意味でデューイは哲学教師でなく、哲学的にものごとを考えるということの意味をしめしてくれる人間である。

併せて読んでいた鶴見和子のデューイ論に面白いことが載っていたので紹介する。

 「デューイは、現在の社会のしくみはかえられなければならない、経済は社会化されなければならない、と考えた。しかし、そのつくりかえの方法は、組織された権力に対して、民衆が自らの力を組織することによるべきではなく、民衆の間で、そして民衆と権力者の間で、どこまでも話しあいをすることにより、互のふるい考え方をなおしあってゆくことによるべきだし、そうすることが可能だと信じた。すでにかたちづくられた常識を科学によって批判し、あたらしい習慣をかたちづくり、それを民衆の常識としてしみわたらせること、この常識と科学の交流の、なかだちをするのが、哲学の役目だとデューイは主張した。常識と科学の交流は、ひととひととの話しあいをとおしてのみ可能であることを強調したデューイの哲学は、「話しあいの哲学」であった。
 自由な話しあい→科学による常識の批判→習慣のつくりかえ→社会のしくみのつくりかえ、この一つの公式がデューイの思想の重要なほねぐみをなしている。
  *
 デューイの「話しあいの哲学」は、かれがそこで人格形成の時期をおくった開拓時代の村落デモクラシーの生活体験にねざしていた。
 「こいつぁおれがおもいついたばっかしじゃしょうがねえ。いつかはひとさまにしらせなくっちゃあ。」
 眼に一丁字もないひとりのキコリがいった。このことばをデューイは、いつまでもわすれなかった。そうだ、もともと思いつきというものは、ひとりよがりで自分の心の中にあたためている間は、チシキではない。思いつきは、それをコトバにして、ひとびとにつたえ、ひとびととおなじイミを分ちあい、そしてそれが自分をふくめてひとびとの生活の中に、行動をとおして働きだしたときに、はじめてチシキとなる。(コミュニケイションは、チシキを形成する場である。)」(鶴見和子「デューイののこしたもの」、『コレクション 鶴見和子曼荼羅 I 基の巻--鶴見和子の仕事・入門』(藤原書店、1997年)

著者の鶴見和子は、2006年に亡くなるが、つくづく惜しい人をうしなった。実践と学問と道楽をひとつの生き様として華やかに貫いたその生涯に最敬礼。

で--「話しあいの哲学」。人との話し合いを大事にしたいと思う宇治家さんです。酒があるとさらによいのですが、いろんな人からも言われますが、飲み過ぎは毒です。すこし休肝日を考える飲み方にしていこうと思います。

ひとびとのなかで、自分の思いつきをコトバにして語り、ひとびととおなじイミを分かち合い、チシキへとそれを高め合う--そういう人生は素敵である。

Book 哲学の改造

著者:ジョン・デューイ
販売元:岩波書店
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コレクション 鶴見和子曼荼羅〈1〉基の巻―鶴見和子の仕事・入門 Book コレクション 鶴見和子曼荼羅〈1〉基の巻―鶴見和子の仕事・入門

著者:武者小路 公秀,鶴見 和子
販売元:藤原書店
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【覚え書】毎日新聞 内田樹インタビュー(2007/09/01朝刊)

ひと:内田樹さん=「私家版・ユダヤ文化論」で第6回小林秀雄賞
◇ミステリアスな問いに自分なりに答えた--内田樹(うちだ・たつる)さん

 「批判は慣れているが、評価されたことは記憶にない。驚いています」。移動中のタクシーで受賞を知り、急きょ東京都内の会見場へ。血色のいい顔をほころばせた。

 受賞作は、日本人のユダヤ人観から説き起こし、自身が研究している哲学者レビナスをはじめとするユダヤ的思考の根源を探った。フロイトらユダヤ系の思想家の言葉の生成を自在に論じた「切れ味、明晰(めいせき)さ」(選考委員の養老孟司さん)が高く評価された。

 「題に私家版とつけたのは、誰が書いたものかを問われない、一般的な視点から書かれたユダヤ人論はありえないから。その中で、反ユダヤ主義と無縁だった日本人は、議論の枠組みそのものの問い直しを比較的自由にやれるのです」

 フランス現代思想の研究から出発し、映画論、武道論から教育論、憲法問題まで幅を広げる気鋭の論客だ。若者の学力低下、ニートの問題を扱った「下流志向」はベストセラーになった。ブログも活用し、「リアルタイムで書くのは僕にとって生産的作業」と話す。

 合気道や居合道などに励む武道家。「身体」はキーワードのひとつである。大学の講義ノートをもとにした受賞作では、教壇に立つ緊張感がプラスに働いた。

 「目の前の学生を眠らせてはいけない。ユダヤ文化論という学生に縁もゆかりもないテーマが、実は縁もゆかりもあるんだと。その僕の実感を言語化する苦闘そのものがこの本です」<文・米本浩二/写真・内藤絵美>

==============

 ■人物略歴

 東京都生まれ。東京都立大大学院博士課程中退。神戸女学院大教授。「『おじさん』的思考」など著書多数。神戸市在住。56歳。

毎日新聞 2007年9月1日 東京朝刊 2面

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書) Book 私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

著者:内田 樹
販売元:文藝春秋
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七転八倒人生流転 七転八起厚顔無恥

『ヨイトマケの唄』を聴け!!(YouTube動画はここをクリック)

◇ヨイトマケの唄
三輪明宏の絶唱を聞きながら……、号泣。

(歌詞より)
帰っていたよ 学校へ
勉強するよと 云いながら
勉強するよと 云いながら

あれから何年 たった事だろ
高校も出たし、大学も出た

今じゃ 機械の世の中で
おまけに 僕はエンジニア

苦労 苦労で 死んでった
母ちゃん 見てくれ この姿
母ちゃん 見てくれ この姿

僕の母ちゃん死んでないけど、「母ちゃん 見てくれ この姿」と言える自分になりたい。そのための努力を惜しまない。日々負けない。政府や他者でなく、「自分に負けない」男、母ちゃんの息子、嫁さんの夫、クソガキの父ちゃんでありつづけるぞ!!!!

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ヨイトマケの唄/いとしの銀巴里/人の気も知らないで ヨイトマケの唄/いとしの銀巴里/人の気も知らないで

アーティスト:美輪明宏
販売元:キングレコード
発売日:2003/10/01
Amazon.co.jpで詳細を確認する

『本生クリアブラック』(ASAHI)、期待したほど旨くなかった。

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野人、松茸、秋刀魚の秋

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◇野人たちと
このところハードな話題が続いたので、今日は柔らかな陽光で。
月曜深夜(といっても既に9/4火曜)、野人たちと再び飲む。野人たちとはすなわち宇治家さんの市井の勤務先で使っているバイト君たち。最初は、お約束通り職場の話題から。野人Aは勤務し始めて1ヶ月弱。野人Bはちょうど1年。業務のコツや人間観察を語りつつ、話題は、音楽・文学・映画へと進展する。

若い野人たちとの語らいは宇治家さんにとってなによりの楽しみのひとつ。利害も見栄もない語らいにあっという間に時間はすぎていく。

ジョン・レノンとビートルズ、忌野清志郎と美輪明宏。ゲーテとドストエフスキー。谷崎潤一郎と池波正太郎……。
語らいはいっこうに終わらない。野人たちありがとう!

ふたりと分かれて自転車での帰路で、「ヨイトマケの唄」を歌いながら。

三輪明宏による“ヨイトマケの唄”の動画(YouTube)はこちらから

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◇松茸、秋刀魚
宇治家さんはよく飲んでいます。
ですけど、宇治家参去さんだけ飲むのはよくない!と感じ、今日は家族に寿司をごちそうする。

夕方寿司屋へ向かうが、寿司屋まであと300メートルのところで夕立に遭遇。濡れ鼠になりながら、入店。タオルをもってきてくれた店長さんに感謝。夕方の夕立。ほぼ貸し切り状態で旬の肴を堪能する。
今日の舞台は、花小金井の「ととやみち」。すかいらーく資本の回転すしだが、それなりにいいネタをつかっており(逆に言えば資本力)、週末は繁忙時は1-2時間待ちはざら。今日は平日早めで一番乗り。

好みもあるが、寿司といえば、中トロもすてがたいが、この季節、一番うまいのはなんといっても秋刀魚。脂ののった秋刀魚と薬味のネギが絶妙にマッチ。かけつけ3カンほど喰ってしまう。
限定の焼き松茸に舌鼓をうちつつ、明日からまたがんばろうと思う宇治家三去さんでした。

季節の味覚に感謝。握る板前さんに感謝。そして一緒に食卓を囲む家族に感謝。ついでに、人に感謝できる自分にも感謝。

店から出ると、雨はやんでいた。

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「ととやみち」はこちらから

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飲みながら書く letzte Menschen

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◇また飲んでいるのですか?
終業後、同僚の別部門のMgrより飲みに誘われる。こ一時間杯を交わし、後にする。
こう、書いているといつも飲んでいるばかりの宇治家参去です。というか実際に飲んでます。

◇天職倫理の問題から・・・
大学というアカデミズムとは対極にある、現実の世俗の活動に身を投じる中、いつも将来の展望と現実とのギャップに悩まされる経済活動の現場ですが、やることはやる!、後ろ指さされるような仕事はしない、というのが参去さんの“職業倫理”です。どちらが偉い、卑しいというわけでは全くありませんが、本当に“お金を儲ける”というのは実に大変な現実だと実感しながらも、妙にさばさば生きている自分に感心もしたりします。

で・・・今日はマックス・ヴェバーの噺でも。
これまで、古代哲学者の話題が続いていましたので、近代の社会学者の知見に耳を傾けるのも興があるのではないかと思い、論を進めてみましょう。
マックス・ウェバーといえば、名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』や宗教社会学関連の草分けとして名高い学者です。細かいところでは、現実にその論のすすめ方や、出典やソースの扱い方で見直しが迫られている部分もありますが、再度、手にとって読み直すとやはり「大物」ですね。うちの先生(指導教官)も次のようにいいますが、すなわち、「小者を読むな、大物を読め(大物を研究しろ)」ですが、功罪含め、真摯に検討できる対象はやはり「大物」の“思想家”なんだろうな、と実感します。

営利の追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく関与したという逆説の論考であるヴェバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』から・・・。

「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの傾向をおびることさえ稀でない。将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、まったく新しい預言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも--そのどちらでもなくて--一種の異常な寛大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、まだ誰にも分からない。それはそれとして、こうした文化的発展の最後に現れる「末人たち」>>letzte Menschen<<にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階まですでに登りつめたと、自惚れるだろう」と。」
          マックス・ウェバー(大塚久雄訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫、1989年)

同書をしめくくる有名なくだりである。とくに「精神のない専門人、心情のない享楽人」との言葉は、現代の人間性批判としての典拠として常に用いられてきた部分である。たしかに現実にはそういう連中はたくさんいる。しかし、生きている人間として、現実の世俗的経済活動を全否定することはもちろんできない。
私のような“流しの学者”なんかはひやがってしまうのが現実である。「しかしなお・・・」。経済的活動に限られた話題ではないが、現実の泥水を飲みながらも、「しかしなお・・・」--こういった部分は、折に触れて見直したいところである。

なんか説教くさくてすいません。
つーか、寝る。明日も観照はできないので。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫) Book プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

著者:マックス ヴェーバー
販売元:岩波書店
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【覚え書】ダブルバインド

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◇誰が倫理を保証するのか

 「フーコーとドゥルーズは、自分たちの理論(の問題点)を棚上げすることで、ダブルバインド(矛盾した心理的拘束による葛藤)を回避しました。だから、彼らの議論は現実の構造に組み込まれ得ないのです」
 スピヴァク氏の分析は難解だが、大づかみに言えばこうだ。フーコーらは資本主義下での抑圧構造を分析し、抑圧される側が社会変革の主体であるかのように説いた。しかしその理論は、経済発展を遂げた先進国でしか妥当しないという。しかも、先進国の住民は金持ちも貧乏人も、第三世界の経済的犠牲の上にいる「勝ち組」だ。ところが2人は、第三世界の被抑圧者を無視するか、先進国のそれとまるで同列で扱う。こうして、現実の世界の複雑な問題から目を背けている。
 さらに、インドの女性を例にして、フーコーらに表れた西欧の視点の問題性を示す。ヒンズー教的な文化の抑圧下にいる貧しい女性たちは、背景が西欧とは違いすぎる。だから、そのまま西欧人の理解できる文脈に即して自らを語ったり、社会変革の主体になったりはできない。むしろ、この女性たちの主体は西欧の文脈からこぼれ落ちるところにあるという。
 なのに西欧の側は、インドの女性のような立場を自分たちの社会的文脈に無理やり当てはめて理解する。たとえば「ヒンズー教の犠牲者を西欧文明の力で救い出す」というように。こうして彼女たちは、やはり自分自身の声を奪われ続けるという。
 もちろん、西欧人の理解できる表現で語れないからといって、弱者が抑圧されたままで良いわけがない。
 「グラムシは『サバルタン(引用者註--サバルタン=「多様な被抑圧下層民)が自ら語れるようになるために、知識人が法的、教育的なインフラを構築すべきだ』と主張しました」。そこでスピヴァク氏は、彼女たち下層民のただ中に入りながら、教育者として振る舞う。故郷のもっとも貧しい地域に、教師養成の学校を開いている。ただし、その現場にべったり張り付いているわけではない。
 「一方、私はニューヨークで博士課程の学生に教えています。両極を行き来しながら、グラムシの言う有機的な知識人について考えています」
 最下層の人々と触れ合うインドの女性知識人が、最下層の犠牲で成り立つ資本主義の中心で、最先端の研究と教育に携わる。この矛盾に居続けることこそが大切なのだ。有機的知識人とは「専門バカ」の対極にある、常に人々とかかわり、説得し続けるような存在だという。
 彼女のような世界的知識人ではなくとも、あらゆる人はダブルバインドの中で生きている。たとえば、インドでの教育活動の協力者は、教師養成学校の開校日に漏らした。
 「この学校は、(建設に協力した)政治組織の腐敗した構造を利用しなければ実現できなかった」と。
 「生きることはダブルバインドそのもの。しかし生きて何かをするというゲームから降りることはできません」
 理想とほど遠い現実でも、それを直視して、行動しなければ、なにも始まらない。この思いこそが、スピヴァク氏を支えているようだ。(「ポストコロニアル批評 スピヴァク・米コロンビア大教授に聞く/第三世界の知識人の役割とは」(『毎日新聞』2007年07月23日付))

モノゴトを、アレかコレか一方的かつ一元的に分類するのではなく、矛盾に満ちたダブルバインドという現状をそのまま直視し、できるところから動いていく、変えていく、覚めたしたたかな人間の一人一人がそれを担っていくことになるのだろうと思う。
人間はたしかに生きている。しかし、「生きて何かをするというゲームから降りることはできません」。

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー) Book サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

著者:G.C. スピヴァク
販売元:みすず書房
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デリダ論―『グラマトロジーについて』英訳版序文 (平凡社ライブラリー (524)) Book デリダ論―『グラマトロジーについて』英訳版序文 (平凡社ライブラリー (524))

著者:田尻 芳樹,G.C.スピヴァク
販売元:平凡社
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モンテーニュは、いつ読んでも、男らしくていいねえ

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◇男の楽しみ
寝る前に、一人池波正太郎の作品を再読するのが無上の楽しみである。
池波正太郎は、いつ読んでも、かっこいい。
「夜半、書庫から〔モンテーニュ随想録〕を二冊ほど出してきて、久しぶりに読む。その中の〔鍛錬について〕の章で、モンテーニュは、こういっている。

……睡眠は死に似ているから、自分の睡眠をよく観察せよと教えるのも、決して道理のないことではない。(中略)ひょっとすると、我々から、あらゆる行動とあらゆる感覚をうばう睡眠という働きは、いかにも無用な、また自然に反したことのように思われるかも知れないが、実はこれによって、始めて自然が我々を生と死の両方のために作ったことを教えられるのである。(関根秀雄訳)

モンテーニュは、いつ読んでも、男らしくていいねえ。」(池波正太郎『池波正太郎の銀座日記〔全〕』(新潮文庫、平成3年))

「モンテーニュは、いつ読んでも、男らしくていいねえ。」
かっこいいー!

池波正太郎の銀座日記 (新潮文庫) Book 池波正太郎の銀座日記 (新潮文庫)

著者:池波 正太郎
販売元:新潮社
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新選 モンテーニュ随想録 Book 新選 モンテーニュ随想録

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永久(A級)の恥さらしども

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◇遠藤農相の辞任、小林参院議員辞職の流れ--
このくには、ついにここまで来てしまったのか……。
その昔、日中戦争から太平洋戦争の指導者たちが、戦後になって自己弁護する姿に接し、唯一の民間人のA級戦犯容疑者であった大川周明は、次のように嘆じた。

「誰も彼も反対したが戦争が始まつたといふのだから、こんな馬鹿げた話はない。日本を代表するA級の連中、実に永久の恥さらしどもだ」(『大川周明日記』(岩崎学術出版社、1986年))。


◇朝青龍、モンゴルへ飛ぶ
それを報道するマスコミも脳死状態。TVをつけると連日朝青龍のおっかけがそのほとんど。どーでもいいじゃん、という話題で、“放っとけば”と思わざるを得ないネタが第一のニュースとなっている。メディアに課せられた使命は、正確な社会理解のための信頼にたる基礎資料をオーディエンス(読者・視聴者)に提供する、そして市民の生命を守ることが本来のそれである。もちろん報道だけでなく、娯楽、教養、教育のバランスが求められるのは当然だが、現実には娯楽傾向だけを肥大させ、論理的な説明は一切ない。しかもテレビに関して言えば、総務大臣による免許がなければ事業展開ができない。意図的にそうしているのだろうか。

「あるべき政治は社会的弱者をつくらず、犠牲にせず、より多くのひとに幸せを演出する芸術である」(渡辺武達『市民社会と情報倫理』(第三文明社、2001年))。

善く生きようとする意志をなえさせる時代になった。でも負けないぞ。
照りつける夕日に背中を灼かれながら、耳にこだまするJefferson Airplane の White Rabbit が心地よい。

Book 市民社会と情報変革

著者:渡辺 武達
販売元:第三文明社
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Surrealistic Pillow Music Surrealistic Pillow

アーティスト:Jefferson Airplane
販売元:RCA/BMG Heritage
発売日:2003/08/19
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善はその本質において実践的なもの

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◇三谷隆正「パウロとニコデモス」、『三谷隆正全集 第2巻』岩波書店、一九六五年。
生活の中で善悪を分別し、善をなす上での要衝に関して、三谷隆正が良い文章を残しているので、紹介だけ。

 中学を卒業して専門学校に入学した頃の青年、即ちわれに眼醒(めざ)め始めた頃の青年がよく言う、善を為せというが、その善がわからない、何が善であるかが分からない。これが善だとはっきり分かれば、その善を実践するにやぶさかなるものではないが、善が善と分からないのに、ただ実践せよ善戦せよと言われたって、小学生ではあるまいし、そんな勧説に唯々諾々と盲従するわけには往かない。盲従すべきものでないと思う。そういう風に青年たちはいう。つまり青年たちは知を求めているのだ。そうして知を求めるのは正しい。これは善いことだ。すくなくともこの一善はかれらもまた善と知っているのだ。だが道徳的善は先ずこれを実践してからでないと、善が善とはっきり分からないような性質のものなのである。何故なれば善はその本質において実践的なものであり、従って又実践的にしかこれを把握する道がないからである。例えば水泳を学ぶようなものである。水泳についての理論的知識は単に水泳の可能性について議論し得るに過ぎない。そういう議論をいくら重ねたところで、水泳の現実は会得できるものでない。現実の水泳は、現実の水に現実に飛び込んで泳ぎを実践してみるのでなければ、他にこれを会得する方法がないのである。畳の上の水練では現実の水を泳ぐことはできないのである。善もまたかくの如し。善はただ善の実践を通してのみ知らるるのである。そうして人生の究極の善はいさ知らず、日常茶飯の現前の小善事がひとつもわからぬということはない。盗むなかれ。欺くなかれ。姦淫するなかれ。懶(なま)けるなかれ。虚心にして善を追求すれば、足前数歩の光明を得られぬということはない。得られぬとは言わせない。得ようとしないのだ。足前数歩の光明を頼りに先ず立って歩くが良い。歩いて躓くなら躓いてみるが良い。かくして真摯に実践するものは、進むも躓くも必ず得るところがあるのである。それによって善を把握し進むのである。
 だからわれらの実践生活における最も根柢的な問題は知識ではないのである。悪は無知の生むところではないのである。そもそも善を追い求めようとする熱心がないのである。熱心がないから善を追い求めず。追い求めないから善を知らず、知ろうともせず。随って又善を為さず、為そうともしないのである。即ち人間の悪の根柢にあるものは、善知識の貧困であるよりは、善意志の欠乏である。カントのいわゆる根元的悪性である。

「善はその本質において実践的なものであり、従って又実践的にしかこれを把握する道がない」。畳の上での水泳の稽古を喩えて説明する三谷の文章は読んでいて面白い。

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地獄の黙示録

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◇地獄の世界
やわらかい話題が続いたので今日は真面目な噺でも。
前々日、市井の仕事が急遽出勤となり、昨日は振り替え休。仕事が終わった頃の時間に飲み仲間のバイト君から、悲鳴のようなメールが届いていた。
いわく、その日のバイトが地獄だったと。
レジ打っているとお客さんににらまれたそうな。まじ辞めようかと思った次第です。ハイ(彼はレジじゃないんですけどね)。

たしかに最近、市井の勤務先、勤務内容が地獄のような現場ですね。
そろそろ書こうかと思っていましたが、よーするに学問で喰っていけない分、どこかで食い扶持を稼いでこないといけない宇治家さんですが、ぶっちゃけ何をやっているのかと言えば、今は学問をしながら、業界で言えば中堅のGMSのナイトMgrをやっています。つまり総合スーパーの時間帯責任者みたいなもんですが、お客さんもいろんな人がいたり、仕事も山のように夜の時間帯に積み重ねられたりして、心身共にへろへろになるような職場です。会社自体も沈みかけた泥舟です。
ま、一生やる訳でもない分、気楽ですが、現実に働いて扶持米をもらっている分はきちんとやっていこうと思いますが、現実は結構つらいですね。

そういえば、実存主義の哲学者サルトルは、戯曲「出口なし」(『サルトル著作集』第5巻(人文書院、1961年))の中で「他人は地獄だ<L'enfer, c'est les Autres.>」と言ってますが、人間は人間に苦痛を与える生き物です。サルトルによれば、誰かが誰かに苦痛を与えているという場合、必ずそこには「頑なさ」が存在しているというが、その「まわりの状況に気づかない(あるいは認めたくない)頑なさ」こそが「地獄である」とのオチに、人間という生き物は、まさに棘でもあり、花実でもあると実感する毎日です。

◇神か野獣
さて、倫理学の授業でも話ましたが、現在自分が、この世の中で生き、その様子を内省し、それを言葉として表象してみると、いつも痛感するのが、「野獣化」という現象です。“社会全体の野獣化”というのが痛感する印象です。家庭では優しいお母さんである人が、巷では大クレーマーになったり、会社ではいい上司がその逆でもあったり--。なんかルール(倫理)を持った生き物であるはずの人間が、カント的に言えば、内なる道徳律をうち立てず、自然界の掟に従って(個人の趣向)、野放図に生はじめた・・・そんな人に多く出会います。

この野獣という言葉はアリストテレスの『政治学』で出てくる言葉ですが、その部分を見てみましょう。

「そして共同することの出来ない者か、或は自足しているので共同することを少しも必要としない者は決して国の部分ではない、従って野獣であるか、さもなければ神である。」(アリストテレス(山本光雄訳)『政治学』岩波文庫、1961年)

人間はひとりで生きていくことはありえない。人間はその自然本性に基づき、社会をつくり、ポリス(共同体)に生きるいきものである。アリストテレスは、人間の生における善の達成を、全体としては、共同体における善の達成に見出し、人間存在は次のように定義する。すなわち、「人間は社会的(ポリス的)動物」なのである、と。
アリストテレスの言葉に耳を傾けると、誰の手も借りずに自分一人だけで生きていると錯覚しているような人間は、“悪”なる存在と言うほかない。すなわちアリストテレスの批判は、孤人主義的生き方への批判である。共同生活の出来ない人間は社会の一員ではなく、「神」か「野獣」であるに違いない。神は他者の存在がなくとも自存できる存在であり、野獣は、峻厳な自然の掟・本能のルールに従って“動く物”(動物)である。そうした生き方を人間は選んでいないのである。

◇中庸に慣れろ
ですけど……。変なヤツ多いよな(自分も含めて?)、というのが実感です。
我が儘、放逸、過度の自己優先……他者の存在が見えてないヤツが多すぎます。
今、社会問題化している教育現場での<理不尽クレーム>もその一つです。「喫煙を注意されたが、人に迷惑をかけていないので指導は必要ない」とか、「授業妨害をする児童の母を指導すると『先生に魅力がないから』と反論された」など子供の非を棚上げするケース、「不登校の子が家でストーブをけり倒した。学校が弁償してほしい」「いじめに遭う我が子を転校させるので、通学の交通費を出してほしい」「義務教育は無償なので野球部のユニホームは学校で洗濯すべきだ」……。めちゃくちゃですよね。

肯定したり与したりするわけではありませんが、反動的な復古勢力の人々なんかは、やはりそういう現状に対して、“昔の秩序”“美しい日本の復活”なんて言い方で建策を出してくるわけですが、そういう対処とは異なる方向性で、個と共同体の距離観の問題を考え、対応をしたいなぁと思ったりもします。

人は皆、自分自身の幸福を追求する。しかし、その自分と同じように、また隣にいる人間も、幸福を追求して生きている。アリストテレスの言葉は、そうした共同体の中で生きている事実を自覚し、自分も相手も互いに尊敬・尊重しあえるような社会的な流儀・生き方を学ぶべきではないか、またそこで生きていくことが、ひとりで生きているように錯覚して生きるよりも、生き方として最高善に近いのではないのか、との警鐘に思えて他ならない。

石は数千回投げても空を飛ぶように慣らすことはできない。しかし、人間の徳は習慣(エートス)によって完成することができる。古代ギリシアでは、人間はエートスを身につけることによって、はじめて人間的な暮らしができると考えたが、石を投げるわけではありませんけど、徳を身につけるコツは、慣らすことである。
では、何に慣れれば良いのか--。アリストテレスは「中庸」の徳を身につけるべし、と説いた。中庸とは、超過または不足している悪徳を避ける態度である。

その中庸の徳に関しては、また次回。
先走れば、例えば、名誉の中庸は「高邁」である。過剰は「虚栄」、不足は「卑屈」。
高邁に生きたい宇治家参去さんでした。

YouTubeで“地獄の黙示録”OPでもどうぞ。

政治学 (西洋古典叢書) Book 政治学 (西洋古典叢書)

著者:牛田 徳子,アリストテレス
販売元:京都大学学術出版会
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ブルックス・ブラザーズとマイルス・デイヴィス

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◇ブルックス・ブラザーズ
昨日も仕事が終わってからバイト君らりほー氏と屋根のあるところ軽く飲む。ジョッキの生ビールを選ばず、久しぶりに瓶ビールを飲む。瓶ビールもなかなかいい。
で……表題通りですが、バンドをやっているらりほー氏、ライブ用の衣装を買ったとのことなので、ファッションの話題でも。
自分の体型の問題もあるので、ジーンズなどは一切はかないし、Tシャツ一丁で出歩くことも先ずない。スーツというか上着で暑くても出歩いてしまいます。そんなスーツやジャケットとして選ぶのは、いうまでもなく、ブルックス・ブラザーズに行き着く。量販店に行けば、それなりの生地で、それなりのスーツを安く買うことは出来るが、そこにはないプラスアルファがブルックスの衣類には存在する。それはいうなればアメリカン・トラッドの自己確信である。
かつて帝王マイルス・デイヴィスは自伝『MILES』(JICC出版局、1990年)のなかで、彼がかつてどれくらいブルックス・ブラザーズの服に憧れて、胸を熱くしていたのか述懐しており、その様がよく分かる。1950年代から60年代前半にかけてマイルスはブルックス・ブラザーズ一辺倒で、今から思えばいかにもミスマッチな感じもいなめないが、その当時は、ブルックスのトラッド・スーツが彼にとってJAZZだったとのだ思う。そんなCDジャケットのマイルスの姿に憧れた宇治家参去でした。

◇坂本九の髪型
「でも、これもまた僕の私見にすぎないわけだが、洋服の着こなし、纏いかたという観点にしぼってものを言うと、最近のアメリカにはそういうかつてのようなカリスマ性を持った「ヒーロー」が見当たらないようだ。音楽においても、映画においてもその傾向はあるけれど、政治家はとくにひどいですね。ブッシュ(引用者註--親父の方)はまああのとおりの、あっち方面の人だからスクエアで古臭いのはしょうがないかとも思っていたのだが、今度の若きビル・クリントンもどうもぱっとしない。上等そうなスーツを着てはいるのだけれど、なんとなくスーツに「着られている」という感じがする。もちろん着こなしがぱっとしなくたって、べつにそれで政治家としての職務に差し支えるわけではもちろんないのだが、でもジョン・ケネディーのスタイルがあの坂本九の髪型まで変えさせたことを思うと、やはりいささか淋しい気がしないでもない。結局のところ、ちょうどアメリカ車の不振がそのままアメリカ経済の地盤低下を象徴しているように、アメリカ的洋服、着こなしの影響力の衰退はそのままアメリカ社会のエスタブリッシュメントの自己確信の衰退に繋がっているのではあるまいか……というのはいささか強引な結論づけかもしれないけど」(村上春樹『やがて哀しき外国語』(講談社文庫、1997年))。

ケネディ兄弟やマイルスの着こなしには、はっとする素敵ななにかがある。彼らはアメリカン・トラッドを実に見事に自信を持って着こなしていた。そこには「洋服を着る」という単純な行為を越えた深く重いもの、すなわちエスタブリッシュメントの自己確信がそのまま、自然な形で滲み出ていたのだと思いますけど、そうすると、有名人だけでなく、自分も、服を着るのか、それとも、クリントンのように「着られている」のか--虚心に見つめ直す一点のように思われてなりません。ネクタイ一本しめる仕草にもちからがはいってしまいます。

やがて哀しき外国語 (講談社文庫) Book やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

著者:村上 春樹
販売元:講談社
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モルモットが来た!

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うちにモルモットが来ました!
とりあえず、名前は、ダイ君(ダイク・雄)。

モルモットについていろいろと調べてみると、日本でのモルモットという言葉の由来は、幕末の1843年、長崎にモルモットが伝来したとき、オランダ語の「マルモット」 (Marmot) が訛ってモルモットとなったことだそうな。純粋な外国語の呼び名ではなく、和製外国語であることに驚き。

うちの子供に生命に関して学んでもらうためには、やはり動物を飼い、その生き死にを見てもらうのが一番いいと、嫁さんが判断し、飼い始めました(犬猫は建物的にNGなので)。

日に2回ぐらい、ケージから出してさわらせていますが、モルモットはどんびきですが、子供は大喜びです。

名前は、冒頭で記したとおりダイ君(ダイクん?)。
ダイクといえば、Band of Brothers のヘタレ中尉・ノーマン・ダイクを思い出すのは私だけでしょうか?

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宇治家参去の好きな言葉①

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◇静謐・・・
はぁ・・・。
今日は疲れました、市井の仕事で。

で……。女房と子供が東京に帰ってきたので、朝からうちの“静寂”は破られたわけですが、静寂ついでに、“静謐(せいひつ)”の噺でも。
静謐とは、大辞林(三省堂)なんかをぱらぱらめくると、「しずかでおだやかなこと。世の中が治まっているさま。静穏。」という言葉の意味が紹介されています。
静謐……私の大好きな日本語の一つです。
沈香の音も魂の鼓動もしんしんと響くスケールの大きな寂静を想像してしまいます。まさに自然との対話、自己自身との対話が私にとっての静謐です。

この静謐をいつも感じるのが、萩原朔太郎の詩です。朔太郎といえば、虚無と倦怠(初期)とか、近代抒情詩の頂点と評価されるのが普通ですが、平蔵にとっては、静謐を感じます。とくに感じるのが、以下に引用する「竹」です(以下引用はすべて、萩原朔太郎(三好達治選)『萩原朔太郎詩集』(岩波文庫、1981年)より)。

「竹」

光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

◇萩原朔太郎の詩から倫理・道徳を論ず
「竹」は「月に吠える」抄に収められた作品です。光る地面と竹の生命の脈動に、逆説的ですが、“静謐”を感じます。詩といえば、読み捨て御免の詩をのぞき、やはり西洋古典文化になじんだ者であれば、ゲーテやシラー、ユゴーにホイットマンにそのオーソドクス(古典の古典らしさ)を感じることが多いと思いますが、萩原の詩も捨てたものではありません。もちろん、ゲーテなんかに比べうべきものは、ある意味ありませんが、私はそれでもなお好きです。
特に心に残るが、詩そのものものよりも、詩集の序文です。
例えば……

「人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。
原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも単位で生まれ、永久に単位で死ななければならない。
 とはいへ、我々はぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。
 我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生まれるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生まれるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない」

これは、「月に吠える」抄の著者による序文からの引用である。すきとおった文体で、虚無と倦怠を論じながら、口語自由詩を確立するべく苦闘した朔太郎。実生活でも苦労した生涯でした。その言葉の言下には、現実における苦闘の血涙・血汗がにじみ出ている。そこから出てきた美しい言葉と、彼の語る、人類間、そして自然間の『道徳』と『愛』がある。そんなことに思いをはせていると、大学なんかで倫理学なんか講じていますと、何か、現実と浮世離れした書物の中だけの話でおわってしまいそうな部分が多々ありますが、倫理や道徳、そして愛の立ち上がる現場は、現実以外の世界にないことを実感します。ただ市井の人は、自分の背中でそれを語り、詩人や哲学者はそれを言葉で表現し後世に伝えたのだと実感します。言葉で綴った先人たちの思索をたどりながら、現実を反省し、次に語る言葉を捻出しようとする毎日です。また言葉で語れない市井の人の振る舞いにも新しい発見を感じる毎日でありたいと思います。

また、最後が説教くさくなって、申し訳ございません。
ちなみに、女房が帰ってきて最初に作ったのは、夏の太陽からうま味を引き出した自家製(栽培)のゴーヤをつかったチャンプルーとしめ鯖のなますでした。久々の家庭料理に舌鼓。

萩原朔太郎詩集 (岩波文庫) Book 萩原朔太郎詩集 (岩波文庫)

著者:三好 達治,萩原 朔太郎
販売元:岩波書店
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三つの“ぽう”

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◇静寂を破る
先週の噺ですが、女房と子供が20日あまり、実家に帰省しており、その間は一人暮らしを満喫しておりましたが、いよいよ、その先週ですけど、宇治家さんの静寂を破る嫁さんと息子さんが東京へ帰ってきた。久しぶりに逢った為、子供は大はしゃぎで、私と戯れながら、一段落つくと、ウルトラマンに集中し始めました。その姿を見守ると、集中する対象の善し悪しは別にしても、その集中力は、そら恐ろしいほどの集中力だなと実感します。嫁さんの方は暑さでやられ、へなへなになっていました。 またそのふたりのパワーに圧倒された参去さんもへなへなです。

◇3つのぽう
嫁さんについでに、新渡戸稲造がおもしろい文章を残しているので、一つ。

「私の知人の世の中を永く見た人が言うたことがある、世の中は三つのぽうで治まッておる。一つは鉄砲、これはマア吾々が今日新聞を取ッて見てもすぐ分る。第二は説法というので即ち宗教というのであろう、本願寺を始めとして到る処に建ッておる教会を見ても分る。第三のは女房というやつ、これは恐ろしい勢力を持ッておるものだそうです。この三つのぽうで世の中が治まッておるのであるという。このうちに最も勢力のあるという女房というのは、マアこの辺から出られるのであろう。」
   新渡戸稲造(鈴木範久編)『新渡戸稲造論集』(岩波文庫、2007年)

これは新渡戸が津田梅子の女子英学塾(現在の津田塾大学)第三回卒業式で行われた演説の講演筆記である。題目は「人格の養成」。ユーモアに富んだ新渡戸の演説にさぞ学生たちも喜んだことであろう。ちなみに新渡戸は津田梅子と親しく、津田の英学塾では「アンクル・ニトベ」と呼ばれ、たびたび講演をおこなっている。

さて、いうまでもなく、世の中を構成する三つのぽう〔鉄砲(武力)、宗教、女房(女性)〕をどのように扱っていくのか。この話題は新渡戸に限らず、現代においてもなお真摯に考え、追求されるべきテーマである。古来、この3つのぽうは、乱暴な言い方をすれば、国家に代表される権力がいかにうまく支配していくか、という支配・管理の対象であった。歴史を振り返りながら権力による管理の功罪を勘案した場合、今日においては、どのようにつきあっていくのがよいのか考えた場合、それは国家や権力による管理に任せるのではなく、一人一人の民衆が自分自身で考え、それと自分との関係においてよりよき生きる流儀を身につけるべき問題であるように思われる。
特にさいごのぽう--この問題は、自分自身にとっても切実な問題である。嫁さんが元気で、一家の中で生き生きとした太陽のような存在でありつづければ、家庭の些事は吹き飛ばされる。そのように扱い(?)、接していく、そのような環境を維持するのが、愚夫の努めなのかなと、思ったりもします。

しかし、朝、乱暴に起こされる(そうでないと起きられない自分にも問題があるが)のは、結構つらいです。

新渡戸稲造論集 (岩波文庫 青 118-2) Book 新渡戸稲造論集 (岩波文庫 青 118-2)

著者:新渡戸 稲造
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