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己処不欲、勿施於人

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気の毒な彼は総理大臣になるべき人ではなかったと思う。
彼自身もそれを求めたことであろうが、ただ「担がれた」だけ。
「仲良し」はいても、同志はいない。門地はよくても、閥がない。
冷静に考えれば適任ではなかった……。

然し、テレビニュースを見ていると、胸くそ悪くなるもの事実です。
ほとんどの人は「罵倒」を浴びせるのみ。朝昇龍の次はおまえかよ、と。

無能な首相であったし、政治的判断も誤りっぱなし彼ですが、人格誹謗まではご遠慮願いたい。公人だからとか私人だからとかいうまえに、発言者の側のモラルの問題のような気もします。所詮、安全地帯から、スケープゴートに仕立て上げられた彼を罵倒することで、一種のカタルシスを得ているだけじゃないのかなあと思います。「斜めから見て」も何も見てないのが事実では?

確かに、問題の多かった人物です。「担がれて」改憲と愛国イデオロギー教育と日米同盟の強化を唱えましたが、本当は単なるタレント性で「担がれただけ」。存在理由もいってみれば元来「無」であった。

そうであったとしても、そのタレント“性”を斜めから罵倒するのではなく、こう考える方が素敵ではありませんか?という形で弁証法的な建設的提議(もし可能であれば)を、マスコミやら政治を語りたがる連中には、叫んでほしかったと思います(もちろん実現可能な領域から)。

孔子のいう「子曰、中庸之為徳也、其至矣乎、民鮮久矣(子の曰く、中庸の徳たる、其れ至れるかな。民鮮なきこと久し)」(『論語』巻第三・雍也第六)の現代かなと思います。良きせよ悪しきにせよ、極端にはしるのがかっこいいのですかね。

そーゆう人は、特にメディア関係者は、スラヴォイ ジジェク(鈴木晶訳)『斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ』(青土社、1995年)でも読んでください。 作品にゆがんで書かれた対象を見るとき、こちらも斜めから見なければ、その像を読み取ることができません。ですけど、斜めから見てしまうことにより、またひとつの崩壊が起きてしまうのも事実です。

再度孔子先生の登場です。
「仲弓問仁、子曰、出門如見大賓、使民如承大祭、己処不欲、勿施於人、在邦無怨、在家無怨、仲弓曰、雍雖不敏、請事斯語矣(仲弓、仁を問う。子の曰わく、門を出でては大賓を見るが如くし、民を使うには大祭に承えまつるが如くす。己れの欲せざる所は人に施すこと勿かれ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し。仲弓が曰く、雍、不敏なりと雖も、請う、斯の語を事とせん)」(『論語』巻第六・顔淵第十二)

わたしは誰も罵倒しません。罵倒されることに生来的嫌悪があるからです。自分のイヤなことはひとにしたくありませんね、本当に。それが弱いとか、生ぬるいと呼ばれようとも。

Book 斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ

著者:スラヴォイ ジジェク
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