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カントは男らしくてかっこいい

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自分で考えるということ……カントの啓蒙概念から

 啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである、ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある、というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。それだから「敢えて賢こかれ(Sapere aude)」、「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」――これがすなわち啓蒙の標語である。
    --カント(篠田英雄訳)『啓蒙とは何か 他四篇』(岩波文庫、1974年)。

月曜日はいつも『哲学入門』を短大で講じていますが、その仕込みをしつつ、カントの『啓蒙とは何か』(岩波文庫)を再読する。
池波正太郎ではありませんが、「カントはいいねぇ、いつ読んでも男らしくて、かっこいい」。

カントは啓蒙を、人間が自分の精神的な未成年状態から、他人の力ではなく、“自分”で脱出することであると定義している。啓蒙と聞けば、なにか“人に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと”というようなイメージがつきまどうが、そうではない。

人ではない、自分である。

カントによれば、人がこのような他人まかせの状態にとどまっている原因は、その当人に知性が欠けているからではなくて、自分の知性を自分自身で敢えて使用しようと(=自分で考えよう)としない怯懦に由来する。ゆえに啓蒙とは、人から諭されたり、書籍にひらめくわけではない。ゆえに引用文の最後のことば、「敢えて賢こかれ」、「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」が出てくるのである。

日本において高等学校までの教育はほぼ義務教育と化しているが、そこでは、教師が教科書に沿った内容を教示する学としてのシステムが中心だが、大学以上の教育においては、教師は補助者にすぎない。参考を示し、結局は自分でものごとを考え、解答を導くものであると思う(それがたとえ、教員の示した解答や教科書に記載されている解答とおなじであったとしても)。

 しかし、自分で考えることは、個人の自由を前提としなければならない。自由は人間精神の根源的な要求であるからだ。精神の自由があってこそ、やがてそれは行動の自由(責任をともなった)に発展するのが道理である。それが本物の大人へ至る道である。

悩み・考えながら、自分で考える楽しさを、授業を通して理解して頂ければ幸いです。

今日は今期初の湯豆腐です。一の蔵のひやおろしでいっぱいやって寝ますかね。

Book 啓蒙とは何か―他四篇 (岩波文庫 (33-625-2))

著者:篠田 英雄,カント
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