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イェルサレムの久保田さん

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市井の仕事後、例の如く、バイト君ABと軽く飲みに行く。
A氏は音楽、B氏は文学、それがあれば何も必要ない、生きていけると熱く語る。A氏、B氏ともに、他のバイト君たちと比べ一歩ぬきんでた存在である。
別にどこにでもいるようなひとびとだが、自分の中に大切な何かを持っている人間、道を決めている人間は強いと実感する。
秋刀魚と芋煮は旨かった。
昼間はまだまだ暑いが、夜は上着が必要ですね。

で・・・脈絡無くハンナ・アーレントの話でも。

1960年5月11日、イスラエルの情報機関は、アルゼンチンで初老のドイツ人男性を逮捕した。その男の名前は、アドルフ・アイヒマン(1906-62)。彼こそ元親衛隊中佐、ナチス戦犯の大物の一人である。戦争犯罪摘発の手をのがれ、潜伏先のブエノスアイレスで捕捉されたのである。アイヒマンは、かの悪名高いユダヤ人の「最終解決(抹殺)」が決定されると、その最終的解決法(ガス室による大量虐殺)を考案し、その実行責任者として指揮を執った。このような男であるから、アイヒマンとは凶暴で冷酷なタフな男であるはずだ――、そう人々は見ていたが、実際の彼はイメージと大分かけ離れた人間であったようである。
 アイヒマンは、逮捕直後「命だけは助けてくれと何度も哀願していた。臆病者の見本のような男」で、裁判でも「私は命令に従っただけ」を繰り返し、無罪を主張した。検察官は「この気の弱そうな人物が、本当にあんな冷酷なことが出来たのか」と驚いたほどである。
この裁判を傍聴し、のちに『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)として悪の問題を世に問うたのが、ユダヤ人女性哲学者ハンナ・アーレント(1906-75)である。
彼女によれば、アイヒマンには「考える能力――つまり誰か他人の立場に立って考える能力――の不足」が特徴的だと論じられている。彼は、紋切り型でしか話すことができないから、われわれは「アイヒマンとは意思の疎通が不可能である。それは彼が嘘をつくからではない」。アイヒマンは言葉と他人の存在に対する「想像力の完全な欠如という防御機構で身を鎧(よろ)っているからである」。さらに、「(彼は)愚かではなかった。完全な無思想性――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。このことが<陳腐>であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してみてもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない」。以上のようにアーレントは評している。
悪行を犯すのは、ヒトラーやスターリンなど、いかにも“悪党”面(づら)した人々だけではない。ごく普通の人間だと思っていた人が、凶悪な事件を犯すことがあることあるのである。上からの命令に盲従したり、システムや機械の力を過信したり、無責任なことをしたり、私利私欲のためだけに何かを決定したり・・・・。誰か他人の立場に立て考える能力=想像力の欠如、なかんずく“普通の人”の“想像力の欠如”が20世紀の悲劇を招く原因となったことを忘れてはいけない。

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イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告 Book イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告

著者:ハンナ アーレント
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