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自由という物語①

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「平等という概念は、ふたつの異なったタイプの多様性に直面している。すなわち、(一)人間とはそもそも互いに異なった存在であるということであり、(二)平等を判断するときにもちいられる変数は複数存在するということである。(中略)人間は互いに異なった存在であるために、異なった変数によって平等を評価すると多様な結果が導かれる。(中略)「人類の平等」という強力なレトリックは、このような多様性から注意をそらしてしまう傾向がある。このようなレトリック(例えば、「人は生まれながらにして平等である」)は、平等主義の重要な要素と見なされているが、個人間の差異を無視することは実に非常に反平等主義的であり、すべての人に対して平等に配慮しようとすれば不利な立場の人を優遇するという「不平等な扱い」が必要になるかもしれないという事実を覆い隠すことになっている。(中略)しばしば人間の多様性は、「人間の平等」という「崇高な」見地からではなく、単純化の必要性という現実的な「低い」見地から無視されてきた。その結果、平等に関する中心的で重要な特質を無視することに繋がっている」(アマルティア・セン(池本幸生ほか訳)『不平等の再検討--潜在能力と自由』(岩波書店、1999年))。

「万人平等」という考え方は、あたかも永遠不変な真理であるかのように語られ、信じられている思想である。学習の習熟度別のクラスに対する反対、運動会におけるかけっこの廃止、はては男らしさ、女らしさの否定まで、多くの事例が「万人平等」を根拠に主張されているのは周知の事実である。宇治家さんは別に「万人平等」という考えを否定した、貴族的・権威主義的ヒエラルキー型の社会構造(不平等で当たり前・価値・社会制度として不平等を固定化させるあり方)を主張するものではない。しかし「万人平等」という考え方、およびその適用(社会政策のあり方)に関しては一考が必要では無かろうかと思う一人である。

 こうした状況に関して鋭い指摘をしたのが、アジア人としてはじめてノーベル経済学賞を受賞したインド人経済学者アマルティア・センである。先にセンの言葉を引用したが、安直な平等主義に対する批判としては至言である。

 センが言うように現実に生きている人間には実に多様な有様が存在している。性別・性格・努力・才能・門地環境--等々、誰一人として同じ人間は存在しない。万人は異なった人間である。したがってそうした状況で平等を論じる場合、「崇高な」天の視点から「平等」を語るのでなく、現実的な「低い」見地から考え直すのが必要なのではないか、センの言葉はそうした示唆を与えてくれる。センの場合は、「何の平等か」というのがその一つの観点である。

(以下、そのうちの次回)

ようやく、今月28日締切の紀要掲載用の論文の2/1がまとまった。けれども半分の時点ですでに予定枚数を倍近く超過してしまう。どうしよう……?

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