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ブルックス・ブラザーズとマイルス・デイヴィス

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◇ブルックス・ブラザーズ
昨日も仕事が終わってからバイト君らりほー氏と屋根のあるところ軽く飲む。ジョッキの生ビールを選ばず、久しぶりに瓶ビールを飲む。瓶ビールもなかなかいい。
で……表題通りですが、バンドをやっているらりほー氏、ライブ用の衣装を買ったとのことなので、ファッションの話題でも。
自分の体型の問題もあるので、ジーンズなどは一切はかないし、Tシャツ一丁で出歩くことも先ずない。スーツというか上着で暑くても出歩いてしまいます。そんなスーツやジャケットとして選ぶのは、いうまでもなく、ブルックス・ブラザーズに行き着く。量販店に行けば、それなりの生地で、それなりのスーツを安く買うことは出来るが、そこにはないプラスアルファがブルックスの衣類には存在する。それはいうなればアメリカン・トラッドの自己確信である。
かつて帝王マイルス・デイヴィスは自伝『MILES』(JICC出版局、1990年)のなかで、彼がかつてどれくらいブルックス・ブラザーズの服に憧れて、胸を熱くしていたのか述懐しており、その様がよく分かる。1950年代から60年代前半にかけてマイルスはブルックス・ブラザーズ一辺倒で、今から思えばいかにもミスマッチな感じもいなめないが、その当時は、ブルックスのトラッド・スーツが彼にとってJAZZだったとのだ思う。そんなCDジャケットのマイルスの姿に憧れた宇治家参去でした。

◇坂本九の髪型
「でも、これもまた僕の私見にすぎないわけだが、洋服の着こなし、纏いかたという観点にしぼってものを言うと、最近のアメリカにはそういうかつてのようなカリスマ性を持った「ヒーロー」が見当たらないようだ。音楽においても、映画においてもその傾向はあるけれど、政治家はとくにひどいですね。ブッシュ(引用者註--親父の方)はまああのとおりの、あっち方面の人だからスクエアで古臭いのはしょうがないかとも思っていたのだが、今度の若きビル・クリントンもどうもぱっとしない。上等そうなスーツを着てはいるのだけれど、なんとなくスーツに「着られている」という感じがする。もちろん着こなしがぱっとしなくたって、べつにそれで政治家としての職務に差し支えるわけではもちろんないのだが、でもジョン・ケネディーのスタイルがあの坂本九の髪型まで変えさせたことを思うと、やはりいささか淋しい気がしないでもない。結局のところ、ちょうどアメリカ車の不振がそのままアメリカ経済の地盤低下を象徴しているように、アメリカ的洋服、着こなしの影響力の衰退はそのままアメリカ社会のエスタブリッシュメントの自己確信の衰退に繋がっているのではあるまいか……というのはいささか強引な結論づけかもしれないけど」(村上春樹『やがて哀しき外国語』(講談社文庫、1997年))。

ケネディ兄弟やマイルスの着こなしには、はっとする素敵ななにかがある。彼らはアメリカン・トラッドを実に見事に自信を持って着こなしていた。そこには「洋服を着る」という単純な行為を越えた深く重いもの、すなわちエスタブリッシュメントの自己確信がそのまま、自然な形で滲み出ていたのだと思いますけど、そうすると、有名人だけでなく、自分も、服を着るのか、それとも、クリントンのように「着られている」のか--虚心に見つめ直す一点のように思われてなりません。ネクタイ一本しめる仕草にもちからがはいってしまいます。

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