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宇治家参去の好きな言葉①

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◇静謐・・・
はぁ・・・。
今日は疲れました、市井の仕事で。

で……。女房と子供が東京に帰ってきたので、朝からうちの“静寂”は破られたわけですが、静寂ついでに、“静謐(せいひつ)”の噺でも。
静謐とは、大辞林(三省堂)なんかをぱらぱらめくると、「しずかでおだやかなこと。世の中が治まっているさま。静穏。」という言葉の意味が紹介されています。
静謐……私の大好きな日本語の一つです。
沈香の音も魂の鼓動もしんしんと響くスケールの大きな寂静を想像してしまいます。まさに自然との対話、自己自身との対話が私にとっての静謐です。

この静謐をいつも感じるのが、萩原朔太郎の詩です。朔太郎といえば、虚無と倦怠(初期)とか、近代抒情詩の頂点と評価されるのが普通ですが、平蔵にとっては、静謐を感じます。とくに感じるのが、以下に引用する「竹」です(以下引用はすべて、萩原朔太郎(三好達治選)『萩原朔太郎詩集』(岩波文庫、1981年)より)。

「竹」

光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

◇萩原朔太郎の詩から倫理・道徳を論ず
「竹」は「月に吠える」抄に収められた作品です。光る地面と竹の生命の脈動に、逆説的ですが、“静謐”を感じます。詩といえば、読み捨て御免の詩をのぞき、やはり西洋古典文化になじんだ者であれば、ゲーテやシラー、ユゴーにホイットマンにそのオーソドクス(古典の古典らしさ)を感じることが多いと思いますが、萩原の詩も捨てたものではありません。もちろん、ゲーテなんかに比べうべきものは、ある意味ありませんが、私はそれでもなお好きです。
特に心に残るが、詩そのものものよりも、詩集の序文です。
例えば……

「人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。
原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも単位で生まれ、永久に単位で死ななければならない。
 とはいへ、我々はぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。
 我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生まれるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生まれるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない」

これは、「月に吠える」抄の著者による序文からの引用である。すきとおった文体で、虚無と倦怠を論じながら、口語自由詩を確立するべく苦闘した朔太郎。実生活でも苦労した生涯でした。その言葉の言下には、現実における苦闘の血涙・血汗がにじみ出ている。そこから出てきた美しい言葉と、彼の語る、人類間、そして自然間の『道徳』と『愛』がある。そんなことに思いをはせていると、大学なんかで倫理学なんか講じていますと、何か、現実と浮世離れした書物の中だけの話でおわってしまいそうな部分が多々ありますが、倫理や道徳、そして愛の立ち上がる現場は、現実以外の世界にないことを実感します。ただ市井の人は、自分の背中でそれを語り、詩人や哲学者はそれを言葉で表現し後世に伝えたのだと実感します。言葉で綴った先人たちの思索をたどりながら、現実を反省し、次に語る言葉を捻出しようとする毎日です。また言葉で語れない市井の人の振る舞いにも新しい発見を感じる毎日でありたいと思います。

また、最後が説教くさくなって、申し訳ございません。
ちなみに、女房が帰ってきて最初に作ったのは、夏の太陽からうま味を引き出した自家製(栽培)のゴーヤをつかったチャンプルーとしめ鯖のなますでした。久々の家庭料理に舌鼓。

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