« ブルックス・ブラザーズとマイルス・デイヴィス | トップページ | 善はその本質において実践的なもの »

地獄の黙示録

01_4_2

◇地獄の世界
やわらかい話題が続いたので今日は真面目な噺でも。
前々日、市井の仕事が急遽出勤となり、昨日は振り替え休。仕事が終わった頃の時間に飲み仲間のバイト君から、悲鳴のようなメールが届いていた。
いわく、その日のバイトが地獄だったと。
レジ打っているとお客さんににらまれたそうな。まじ辞めようかと思った次第です。ハイ(彼はレジじゃないんですけどね)。

たしかに最近、市井の勤務先、勤務内容が地獄のような現場ですね。
そろそろ書こうかと思っていましたが、よーするに学問で喰っていけない分、どこかで食い扶持を稼いでこないといけない宇治家さんですが、ぶっちゃけ何をやっているのかと言えば、今は学問をしながら、業界で言えば中堅のGMSのナイトMgrをやっています。つまり総合スーパーの時間帯責任者みたいなもんですが、お客さんもいろんな人がいたり、仕事も山のように夜の時間帯に積み重ねられたりして、心身共にへろへろになるような職場です。会社自体も沈みかけた泥舟です。
ま、一生やる訳でもない分、気楽ですが、現実に働いて扶持米をもらっている分はきちんとやっていこうと思いますが、現実は結構つらいですね。

そういえば、実存主義の哲学者サルトルは、戯曲「出口なし」(『サルトル著作集』第5巻(人文書院、1961年))の中で「他人は地獄だ<L'enfer, c'est les Autres.>」と言ってますが、人間は人間に苦痛を与える生き物です。サルトルによれば、誰かが誰かに苦痛を与えているという場合、必ずそこには「頑なさ」が存在しているというが、その「まわりの状況に気づかない(あるいは認めたくない)頑なさ」こそが「地獄である」とのオチに、人間という生き物は、まさに棘でもあり、花実でもあると実感する毎日です。

◇神か野獣
さて、倫理学の授業でも話ましたが、現在自分が、この世の中で生き、その様子を内省し、それを言葉として表象してみると、いつも痛感するのが、「野獣化」という現象です。“社会全体の野獣化”というのが痛感する印象です。家庭では優しいお母さんである人が、巷では大クレーマーになったり、会社ではいい上司がその逆でもあったり--。なんかルール(倫理)を持った生き物であるはずの人間が、カント的に言えば、内なる道徳律をうち立てず、自然界の掟に従って(個人の趣向)、野放図に生はじめた・・・そんな人に多く出会います。

この野獣という言葉はアリストテレスの『政治学』で出てくる言葉ですが、その部分を見てみましょう。

「そして共同することの出来ない者か、或は自足しているので共同することを少しも必要としない者は決して国の部分ではない、従って野獣であるか、さもなければ神である。」(アリストテレス(山本光雄訳)『政治学』岩波文庫、1961年)

人間はひとりで生きていくことはありえない。人間はその自然本性に基づき、社会をつくり、ポリス(共同体)に生きるいきものである。アリストテレスは、人間の生における善の達成を、全体としては、共同体における善の達成に見出し、人間存在は次のように定義する。すなわち、「人間は社会的(ポリス的)動物」なのである、と。
アリストテレスの言葉に耳を傾けると、誰の手も借りずに自分一人だけで生きていると錯覚しているような人間は、“悪”なる存在と言うほかない。すなわちアリストテレスの批判は、孤人主義的生き方への批判である。共同生活の出来ない人間は社会の一員ではなく、「神」か「野獣」であるに違いない。神は他者の存在がなくとも自存できる存在であり、野獣は、峻厳な自然の掟・本能のルールに従って“動く物”(動物)である。そうした生き方を人間は選んでいないのである。

◇中庸に慣れろ
ですけど……。変なヤツ多いよな(自分も含めて?)、というのが実感です。
我が儘、放逸、過度の自己優先……他者の存在が見えてないヤツが多すぎます。
今、社会問題化している教育現場での<理不尽クレーム>もその一つです。「喫煙を注意されたが、人に迷惑をかけていないので指導は必要ない」とか、「授業妨害をする児童の母を指導すると『先生に魅力がないから』と反論された」など子供の非を棚上げするケース、「不登校の子が家でストーブをけり倒した。学校が弁償してほしい」「いじめに遭う我が子を転校させるので、通学の交通費を出してほしい」「義務教育は無償なので野球部のユニホームは学校で洗濯すべきだ」……。めちゃくちゃですよね。

肯定したり与したりするわけではありませんが、反動的な復古勢力の人々なんかは、やはりそういう現状に対して、“昔の秩序”“美しい日本の復活”なんて言い方で建策を出してくるわけですが、そういう対処とは異なる方向性で、個と共同体の距離観の問題を考え、対応をしたいなぁと思ったりもします。

人は皆、自分自身の幸福を追求する。しかし、その自分と同じように、また隣にいる人間も、幸福を追求して生きている。アリストテレスの言葉は、そうした共同体の中で生きている事実を自覚し、自分も相手も互いに尊敬・尊重しあえるような社会的な流儀・生き方を学ぶべきではないか、またそこで生きていくことが、ひとりで生きているように錯覚して生きるよりも、生き方として最高善に近いのではないのか、との警鐘に思えて他ならない。

石は数千回投げても空を飛ぶように慣らすことはできない。しかし、人間の徳は習慣(エートス)によって完成することができる。古代ギリシアでは、人間はエートスを身につけることによって、はじめて人間的な暮らしができると考えたが、石を投げるわけではありませんけど、徳を身につけるコツは、慣らすことである。
では、何に慣れれば良いのか--。アリストテレスは「中庸」の徳を身につけるべし、と説いた。中庸とは、超過または不足している悪徳を避ける態度である。

その中庸の徳に関しては、また次回。
先走れば、例えば、名誉の中庸は「高邁」である。過剰は「虚栄」、不足は「卑屈」。
高邁に生きたい宇治家参去さんでした。

YouTubeで“地獄の黙示録”OPでもどうぞ。

政治学 (西洋古典叢書) Book 政治学 (西洋古典叢書)

著者:牛田 徳子,アリストテレス
販売元:京都大学学術出版会
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« ブルックス・ブラザーズとマイルス・デイヴィス | トップページ | 善はその本質において実践的なもの »

現代批評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/451663/7775655

この記事へのトラックバック一覧です: 地獄の黙示録:

» 京都 結婚式 [京都 結婚式 サイト]
結婚に関する情報サイトです。様々な情報がありますので参考にしてみて下さい。 [続きを読む]

受信: 2007年9月 2日 (日) 15時47分

» オークション(カルティエライターと煙草盆など) [みんなのVIDEO]
木で竹細工のように組んだ煙草盆とライター。その他サングラスやメガネを格安で出品中。 [続きを読む]

受信: 2007年9月 3日 (月) 19時01分

« ブルックス・ブラザーズとマイルス・デイヴィス | トップページ | 善はその本質において実践的なもの »