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善はその本質において実践的なもの

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◇三谷隆正「パウロとニコデモス」、『三谷隆正全集 第2巻』岩波書店、一九六五年。
生活の中で善悪を分別し、善をなす上での要衝に関して、三谷隆正が良い文章を残しているので、紹介だけ。

 中学を卒業して専門学校に入学した頃の青年、即ちわれに眼醒(めざ)め始めた頃の青年がよく言う、善を為せというが、その善がわからない、何が善であるかが分からない。これが善だとはっきり分かれば、その善を実践するにやぶさかなるものではないが、善が善と分からないのに、ただ実践せよ善戦せよと言われたって、小学生ではあるまいし、そんな勧説に唯々諾々と盲従するわけには往かない。盲従すべきものでないと思う。そういう風に青年たちはいう。つまり青年たちは知を求めているのだ。そうして知を求めるのは正しい。これは善いことだ。すくなくともこの一善はかれらもまた善と知っているのだ。だが道徳的善は先ずこれを実践してからでないと、善が善とはっきり分からないような性質のものなのである。何故なれば善はその本質において実践的なものであり、従って又実践的にしかこれを把握する道がないからである。例えば水泳を学ぶようなものである。水泳についての理論的知識は単に水泳の可能性について議論し得るに過ぎない。そういう議論をいくら重ねたところで、水泳の現実は会得できるものでない。現実の水泳は、現実の水に現実に飛び込んで泳ぎを実践してみるのでなければ、他にこれを会得する方法がないのである。畳の上の水練では現実の水を泳ぐことはできないのである。善もまたかくの如し。善はただ善の実践を通してのみ知らるるのである。そうして人生の究極の善はいさ知らず、日常茶飯の現前の小善事がひとつもわからぬということはない。盗むなかれ。欺くなかれ。姦淫するなかれ。懶(なま)けるなかれ。虚心にして善を追求すれば、足前数歩の光明を得られぬということはない。得られぬとは言わせない。得ようとしないのだ。足前数歩の光明を頼りに先ず立って歩くが良い。歩いて躓くなら躓いてみるが良い。かくして真摯に実践するものは、進むも躓くも必ず得るところがあるのである。それによって善を把握し進むのである。
 だからわれらの実践生活における最も根柢的な問題は知識ではないのである。悪は無知の生むところではないのである。そもそも善を追い求めようとする熱心がないのである。熱心がないから善を追い求めず。追い求めないから善を知らず、知ろうともせず。随って又善を為さず、為そうともしないのである。即ち人間の悪の根柢にあるものは、善知識の貧困であるよりは、善意志の欠乏である。カントのいわゆる根元的悪性である。

「善はその本質において実践的なものであり、従って又実践的にしかこれを把握する道がない」。畳の上での水泳の稽古を喩えて説明する三谷の文章は読んでいて面白い。

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コメント

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投稿: 中だし健ちゃん | 2007年9月 4日 (火) 00時40分

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