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2007年10月

「い」がつく言葉

5

1998年1月18日の朝日新聞の読者欄に次のような投書があったそうな。

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「鬼平犯科帳」が大好きな小学3年生の娘。「い」がつく言葉を集めなさいという宿題に「いそぎばたらき」「いちみのかしら」と書いていた。(新潟市・先生の顔を想像した母・39歳)

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    --里中哲彦『鬼平犯科帳の神髄』(2002年、文春文庫)

『鬼平犯科帳の神髄』の著者・里中氏は、同書で朝日の投書を紹介しながら、次のように続けている。

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  朝ごはんを食べながら、のけぞった。
  娘よ、いくらなんでも「いそぎばたらき」はやめなさい。

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出典の朝日を確認してみたい今日このごろです。とはいえ、「い」がつく言葉を集めなさいという宿題がでるものなのか頭を抱えてしまいます。

さて、最近、うちの子供へ、あいうえおを教えているのですが、“い”がつく言葉を尋ねると“イカルス星人”だった。

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著者:里中 哲彦
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上橋菜穂子『狐笛のかなた』(新潮文庫)

2

今日は市井の仕事が休みなので、授業の仕込みを終え、中間レポートの内容確認に忙殺される。1/3ほど目を通したところで一休み。

今回は、学生さん達に、これまで読んだ本の中で、友達に勧める自分の一冊を簡潔に紹介してください、というのがお題です。

最近出版された本が中心ですが、読んでみたいと思った本が1冊。

学生のレポートから。

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◇上橋菜穂子『狐笛のかなた』(新潮文庫)
・敵対する隣国とそこに暮らす人々の話です。「憎しみ合い争うことの愚かさ」を物語る作品であり、現代社会に照らし合わせることが出来る内容だと思います。
 また主人公小夜の「何故、憎み合うのか?」「どうして自分のことしか考えられないのか?」という素朴で率直な疑問から、行動に移す姿--その姿に、他人の心も国をも動かすことが出来る人間の力を学びました。たった一人の行動の大切さ、また人が持つ愚かさに気づかされる作品なのでオススメです。純粋に和風ファンタジーとしても楽しめる一冊と思います。
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著者は、アボリジニの研究者らしいです。

息抜きに、ブックオフにでもよって探してみようかな。

ちなみに117年前の昨日、『教育勅語』が発布されました。
そういう、うちのばあさんもいまだに最初から最後までそらんじていえます。
三つ子の魂百までも……。

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著者:上橋 菜穂子
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「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよいのか」

4

短大での哲学第五回講義(『哲学入門』)無事終了する。
今回は、ソフィストからソクラテスあたりをおさえる。

ソフィストたちの相対主義の問題を扱い、ソクラテスープラトンの相対主義ののりこえ方を対比させる。

思えば、当時、高度に民主制が発達したアテナイを崩壊させたのは、外患ではなく内患である。制度ではなく、それを支えるひとびとのエートスがいかようにあるべきか考えさせられる。

人は民主主義といえば、選挙や代議制などシステムとしての民主主義を想起しがちだが、そうではない。アマルティア・センがどこかで語っていたことだが、合議の空間がきちんと確保された環境でのひととひととの対話の場が民主主義なのであろう。

制度を押しつけても受け入れることは不可能だ。本来、制度としての民主主義にも多様なあり方が可能なのではないかと思う宇治家さんです。

さて……
宇治家さんは、授業の中で、いつもディスカッションを入れます。
本日は、いつもながら(哲学の講義でも倫理学の講義でも行っているテーマですが)、「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよいのか」というテーマで議論させる。

ディスカッションのあと、その内容を報告してもらうのだが、たまにアッと驚く発言(いい意味ですけど)が出てきます。答えは用意していたのですが、先に出されたため驚きの連続です。

人間の安全保障 (集英社新書) Book 人間の安全保障 (集英社新書)

著者:アマルティア セン
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「羊飼いよ、汝は哲学を持つや」

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夕方は凄かったですが、台風はあれよあれよという間に、それていきましたね。

宇治家参去です。
本日より市井の仕事三連チャン。まったく疲れます。
今日から、衣料品Mgr代行となり、閉店まで、衣料品業務。慣れない品だし等、退職予定の現Mgrより教わる。
セーターの畳み方、グラデーションに従った衣類の色での配置、採寸、学ぶことが多いです。
衣料品道奥深し。

さて、2-3日、柔らかい話題が続いたので、少しまともな話題でも。

日本を代表する哲学者にして、宇治家さんの大好きな大人に鶴見俊輔氏という逸材がいますが、彼へのインタビュー集から。
鶴見氏は、名門家系の生まれですが、放蕩無頼を尽くしたあげく、米国へ留学させられます。戦前ですが、ハーヴァード大学に学び、戦後は、まともに自分で考え行動を起こすという、日本の哲学界には希な存在として活躍します。そんな鶴見氏の米国滞在中の末期、日米開戦ということになり、敵性国民およびアナーキスト容疑でFBIに逮捕されるのですが、そのへんのところから……。

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 私は十五歳の時からアメリカにいて、全くアメリカ育ちなんだよ。アメリカの憲法は知ってても、日本の憲法は読んだこともなかった。アメリカは本当に自由な国だと思っていた。だからFBIが敵性外人の調査に来たときにこう言ったんだ。
 「自分はこの戦争に反対で、日本は負けると思っている。自分は無政府主義者だから、帝国主義戦争を支持しない。どちらの側も」
 それでやられちゃったんだよ。飛んで火にいる夏の虫だった。思想の自由は、アメリカ人にだけ保障されているんだよ。逮捕されて、そのことが分かったね。
 ただ、捕まってから飯がちゃんと食えるようになった。自由なときより飯がいい。拷問も受けなかったし。だから、アメリカンデモクラシーの岩床に足の裏が触れたという実感をもったね。公聴会も受けられた。そこには何の圧迫もなかった。それで公聴会でも同じことを言ったんだ。ははは、それでアウトだ。
 (中略)
 (引用者注、その後、鶴見氏はフォートミード陸軍基地内の捕虜収容所に収監され、そこである日本人が本の差し入れをしてくれる)
 そのとき都留重人が差し入れてくれた本が、プラトンの『共和国(国家)』の英語版。留置所の大部屋で、ドイツ人とイタリア人と一緒だったけれど、ドイツ人の水夫が「これは面白そうだ。貸してくれ」と言って、そのプラトンの『共和国』を一昼夜夢中で読んでいたんだよ。それで、「面白かった」って返してくれた。感動したね。プラトンの『共和国』というのは、英語なら大学にも行っていない人間が読めるようなものなんだよ。日本語でも訳は出ているけど、当時の訳だったら、小学校を卒業しただけの人では到底読めない。たとえば天野貞祐訳のカント『純粋理性批判』は、ドイツ語をかなり知っている人が「あのドイツ語を日本語にするとこうなるのか」というふうに原本と照らし合わせてでないと、意味を判読できない。
 哲学と言語の結びつきが、非常にはっきりと分かった。ヨーロッパ語圏では、哲学用語・学術用語は二千五百年かかって、日常言語からゆっくりと蒸留されてできたものなんだ。哲学の基本的な用語も、日常用語の中に根があるんだよ。日本では、明治に入って、漢訳仏教から苦心して受け皿を作ったでしょう。一晩で言葉を作った。だから日常語の中に根がない。
 私は十五歳でアメリカに行ったけれど、その中で覚えた哲学は、「みみずにも哲学がある」ってことだね。ウィリアム=ジェームズの『哲学入門』では、ごく初めの部分に「羊飼いよ、汝は哲学を持つや」と書いてある。哲学というのは、生きていることのしるべなんだ。

    --立花隆+東京大学教養部立花隆ゼミ「鶴見俊輔にきく」、『二十歳のころ I 1937-1958』(新潮文庫、平成十四年)。
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凝縮されたインタビュー記事の語感から学ぶべき点は多い。宇治家さんがまとめるほどでもないが……

・アメリカンデモクラシーの明暗。
・日常言語の中に根ざす哲学(用語)
・(そして)「みみずにも哲学がある」

鶴見氏が生涯を通して叫び続けたように、哲学は日常生活の中に確乎として存在し、人間の生き方を基礎づけているように思われる。

「羊飼いよ、汝は哲学を持つや」

かっこいいですね。こういう冒頭で哲学を語れる力をつけたいものです。

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The Republic Music The Republic

アーティスト:Plato
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発売日:2000/10/09
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牛のように眠る

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 火付盗賊改方の長官(おかしら)・長谷川平蔵宣以は、その生いたちが生いたちだけに、
 「四十をこえてみて、わしは、その二倍も三倍もの年月を生きて来たようにおもえる。さればさ、もう生きているのが億劫になった」
 と、妻女の久栄に、よく語りもらすことがある。
 つまり、それだけ多彩な人生を体験してきたからであろうが、いまになってみると平蔵、つくづくとこうおもうのである。
 (つまりは、人間(ひと)というもの、生きて行くにもっとも大事のことは……たとえば、今朝の飯のうまさはどうだったとか、今日はひとつ、なんとか暇を見つけて、半刻か一刻を、ぶらりとおのれの好きな場所へ出かけ、好きな食物(もの)でも食べ、ぼんやりと酒など酌みながら……さて、今日の夕餉には何を食おうかなどと、そのようなことを考え、夜は一合の寝酒をのんびりとのみ、疲れた躰を床に伸ばして、無心にねむりこける。このことにつきるな)
 若いころ、義母に勘当同然のあつかいをうけて、無頼の仲間へ入り、父のいる屋敷へも帰らず、やれ〔本所の鬼銕〕だとか〔入江町の銕〕だとか評判され、のむ打つ買うの三拍子に明け暮れたこともある平蔵だが、いまは公儀御役目によって悪党どもを取締まるため、ろくに正月の雑煮も落ちついて祝えぬ身となってしまった。

    --池波正太郎「寒月六間堀」、『鬼平犯科帳(七)』(文春文庫、2002年)。

 宇治家参去です。
 長谷川平蔵ではありませんが、あと五年もすると四十の大代です。
 いかように生きてきたのかを確認しつつ、人間(ひと)としての生き方を組み立て直す時期がきているのかなと感ずる昨今です。ただ間違いなく実感するのは、飲む量が減ってきました……。

 さて、昨日は、ニャンじょー君を自宅に招いて、すき焼きをしました。
 ウルトラマンのお土産ありがとう!
 軽く飲んで近くまで送り届け、更に居酒屋で軽く一杯やって帰宅。
 帰宅後、再度、一合ほど飲んでから牛のように眠りこけました。
 久しぶりに人が寝始める時間に寝て、朝起きました。
 人間の躰に備わっている時間に従い、寝て・起きる……単純なことですが、躰と心にたまった疲れがとれたようです。

Book 鬼平犯科帳〈7〉 (文春文庫)

著者:池波 正太郎
販売元:文藝春秋
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わたしの学問の師匠①

前日から復習しつつ時系列で。

※だけど、飲みながら書いているので……。

木曜午前2時頃まで、市井の職場の同僚と飲んで、疲れて帰宅。
別部門のMgrがステップアップの為、店内での配置換えのためストレスとのこと。
まあ、よくある話。
仕事の話にはふれず、馬鹿話炸裂。2次会へいったニャンじょーゲロ炸裂。

素直に別かれて帰宅後、プレミアムモルツロング缶2本飲んで、菊正宗2合のんだら3時。翌朝10時起床予定(博論指導のため)で就寝。

うぇっっぷうとのたうち回りながら起床です。
Asahi飲料モーニングショットを飲むが気合いはいらず、ホットコーヒーで眼をさまし、西武新宿花小金井駅へ向かう。

昼過ぎ、先生の事務所(仕事場)へ。

今回は博士論文の目次の調整と、削除加除部分の確認および提出までのタイムスケジュール(進行予定)の確認、そして、近代日本キリスト教史の雑談。
指導教官の名誉教授・鈴木範久先生は、ほんとうにすごいです。
まさに日本キリスト教史の生き字引といいますか、他の追従を許さぬ高嶺です。
おそらく前にも先にも、これほど、資料と思想に裏付けられた最高峰の学者は存在しません。

よく、同業者から、おめぇの先生はすごいよなぁといわれていましたが、いまいち実感できてなかったのですが(すいません)、ほんとうに凄いです。なんといいますか、そうした最高峰の師匠に師事できる幸せと、あと何年、そこから学べるのかというタイムリミットに直面させられながら、一言一句たりとも聴き逃すまいとする2時間でした。

私の主観的評価だけでなく、世界的も近年、英語圏を中心に近代日本の宗教史(キリスト教以外もふくめ)に対する関心が高まっていますが、結局誰も彼も鈴木先生抜きには、語れないのが現実なんですね。

今年の夏以来、そうした鈴木先生の人格と学識に打たれっぱなしです。ふがない弟子に対する慈愛に感謝です。

ぶっちゃけ、1/5まで仕上げところで、博士論文だすのを途中で挫折していたのですが、鈴木先生の激励と叱咤で、なんといいますか、激しく学問への情熱がマグマの如く胎動し始めました。

これまで何度も、学問の師は、鈴木先生と決めていたのですが、これまではどうも名目上のような感じでしたが(なんというか履歴書に経歴をなんとなく書いていたような状況)、仕事で打ちひしがれながら、今年に入って何度も先生とやりとりをするなかで、先生の慈愛に、今回は腹を決めさせれたような2時間でした。俺が決めて俺がやっていく。

……絶対に裏切れない・その心に応え、その名を宣揚していくのが、私の決意であり、使命であると実感する毎日です。
なので、鈴木先生を知らずに批判したり、小馬鹿にするヤツは許しません!
それがなんか師弟なのかとも思いました。

がんばるぞ。(なんか飲みながら書いていて、emotinal-writingですいません、神学者・哲学者にあるまじき風体で)。

ちなみに生活指導の師匠は池波正太郎です。
ちなみに……、まぁいいや。

で……後日談風に。

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本川越(西武新宿線)経由で、伺ったわけですが、その際、本川越周辺を散策しております。いつも気になっていたのが、川越市は“やきとりの街”というキャッチフレーズ。
それなら確かめてやろう!ということで、東武東上線川越市駅前のやきとり屋さん「ぼたん」にて串焼き三品もちかえり。

論文指導のあと、市井の仕事をがっつりやって、さきほどオーブンで再加熱し、恵比寿飲みながら、喰いながら、書きながら……という感じです。

で……。

マジで旨いです。

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最近の驚き--。

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最近の驚き--。

マツコ・デラックスが、生物学的な意味では男だったこと。

--。

終業後(24:00)、飲みに行って、帰ってきてからも飲んでいるので、へろへろです。

明日というか、本日は、博論の指導が入っているので、寝ます。

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言論嫌いが人間嫌いへ

Hemlock

 「対話」と「会話」の違いとはなんだろうか。

 『大辞林』によると次の通り。
 対話:双方向かい合って話をすること。また、その話。
 会話:複数の人が互いに話すこと。また、その話。

 「対話」が向き合ってお互いに真剣に話し合うものであるとすれば、「会話」はまさに字の如く、話を交わすものと理解できるが、上の説明だけだとわかりにくい。

 そこで、多田孝志『対話力を育てる―「共創型対話」が拓く地球時代のコミュニケーション』(教育出版、2006年)を手がかりに考えてみる。

 氏によると、「対話」とは、人間の信頼関係の中で語り合いによって何かを創造していくことを目的とするものであるのに対し、「会話」とは、例えば井戸端会議のように、とりたてて目的があるのではなく、とりとめのない話であったり、楽しさの共有に意味をおくものと説明されている。

 現在の子どもたち(だけでなくオトナもそうだが)に多く見られるのは、「会話」であって「対話」ではない。

 本書ではその原因をいくつかあげているが、第一は、子どもたちに自信がないこと、あるいは自己肯定感が持てないこと。第二は、諸外国に比べると日本の学校教育においては、対話をする環境が少ないということ。第三は、聴いてもらう体験がきわめて少ないこと。そして第四は、褒められていないことが指摘されている。ゆえに、現在の子どもたちの傾向として「対話からの逃避」の傾向が見られるわけである。

 「自分が言ったことが誤解されて伝わってしまった過去の体験から、他人を信用できないと感じ、過度に人間嫌いになったり、あるいは恐れと失望のため、自分の世界に閉じこもったりしてしまう傾向がある。引きこもりも、会話拒否も、携帯電話やインターネットへの執心も、結局はしっかり他人と向き合い、話をするということ自体からの逃避である」

 たしかに子どもたちの話に耳を傾けると、発信や自己主張は多いが、相互作用や意味形成をもとめるやりとりはなかなか見えてこない。対話の欠如は顕著に存在する。

 思うに、人との対話であれ、歴史、あるいは自然や宇宙との対話であれ、語らいを通した開放された空間の中でのみ、人間の全人性が保障される。なぜなら、人間は生まれ落ちたまま人間であるのではなく、“言葉の海”“対話の海”の中で鍛え上げられて初めて、自己を知り他者を知り、真の人間へと成長するからだ。

「……しかし、先ず、われわれはある出来事に襲われないように気をつけよう」とあのお方は言われました。
「どんな出来事でしょうか」と私は訪ねました。
「言論嫌いにならないようにしよう、ということだ。ちょうど、ある人々が人間嫌いになるように。というのは、言論を嫌うよりもより大きな災いを人が蒙ることはありえないからである。言論嫌いと人間嫌いとは同じような仕方で生じてくる。」
    --プラトン(岩田靖夫訳)『パイドン 魂の不死について』(岩波文庫、1998年)。

 言論嫌いが(ミソロゴス)が人間嫌い(ミサントローポス)に通じていくことを諄々と若者に諭す『パイドン』の美しい一節の消費期限は、今なお切れていない。言葉(対話)や人間の存在と切りはなされ、孤立した個人(=弧人)の自閉的空間とは、人間精神の自殺の場にすぎない、淋しい空間である。

 ソクラテスが最後には、毒杯を仰いだように、言論、対話に生き抜く人生は確かに茨の道である。しかし、そこにしか人間が人間となる道はない。

 アテナイ中を経巡り歩き、相手を見つけては、対話に明け暮れたソクラテス--。自分自身を見つめ直し、弱さも強さも知り、勇気をもって前進したその生涯の最後は荘厳であった。

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 さて、子供が幼稚園の芋掘りで、どでかいサツマイモ2本を持ち帰ってきた。
 さあ、いかように調理すべきか。

対話力を育てる―「共創型対話」が拓く地球時代のコミュニケーション Book 対話力を育てる―「共創型対話」が拓く地球時代のコミュニケーション

著者:多田 孝志
販売元:教育出版
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ソクラテスの弁明・クリトン (講談社学術文庫) Book ソクラテスの弁明・クリトン (講談社学術文庫)

著者:プラトン
販売元:講談社
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パイドン―魂の不死について (岩波文庫) Book パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

著者:プラトン,Plato
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マエサワの大連  

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 かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらったあとで、首を静かに横に振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。もしもう一度、あの懐かしい通りの中に立ったら、おろおろして歩くことさえできなくなるのではないかと、密かに自分を怖れるのだ。
 それは、彼が生れ、幼年時代と少年時代を送った町である。いや、それだけではない。第二次大戦があと五箇月ほどで終ろうとしていた頃、東京のある大学の一年生であった彼が、抑えがたい郷愁にかられ、病気でもないのに休学して舞い戻った、実家のあった町、そして、やがて祖国の敗戦を体験し、そのあと三年もずるずると留ることとなり、思いがけなくも結婚した町である。
 もっとも、今は、地図や地球儀を眺めても、大連という都会は見つからない。かつて大連と印刷されていたあたりには、旅大という名前が見えるだけである。手頃な辞書をひけば、旅大についてはこんなふうに簡単に書かれているだろう。――中国東北区遼寧省の遼東半島の西南端にあり、大連、旅順、金州、そしてその周辺をあわせた市で、ほぼかつての日本の租借地であった関東州にあたる。

    --清岡卓行『アカシヤの大連』(講談社学芸文庫、1988年)

生まれ育った町でも、長く住んだ町でもない、都下の雑踏のなかで夜風に吹かれながら、「マエサワ(東久留米市前沢)の大連」をめざす。
昨日、終業後、かなり腹が減ったので、バイト君で地元っ子へ、24時以降も開(や)っている安くてうまい店はないのか?とヒアリングの上、ニャンじょーとレッツらゴー。

深夜にもかかわらず大盛況。
屋号が「大連」(前沢店)にもかかわらず、中華屋というよりも定食屋。街道沿いのせいか、朝6時までの営業。しかしその4時間後には開店という20時間営業の定食屋である。

メニューも中華やラーメンだけでなく、酒の肴も豊富で、まさに肉体労働者の居酒屋の風情をかもし出し、結構お客さんが入ってる。帰宅途中のサラリーマン、長距離トラックの運ちゃん、ガテン系の陽気な若者集団、そして、閉店後のお客さんと流れてきたスナックのママさん集団。独り浮いているのが宇治家さんとニャンじょーさんでした。

さて、とりあえず、ビールで乾杯。宇治家さんは、焼き餃子と冷や奴で一杯やりつつ、〆にしょうゆラーメン。ニャンじょーさんは、肉辛味噌炒め定食+らいすおかわりでがっつり食らう。ビール二本飲んで、適当にくっても3000円。ボリュームの割に安い。下手なチェーン店の居酒屋でいっぱいやるよりは魅力的です。

ただ量が多すぎ。

神無月の夜空に乾杯!

アカシヤの大連 (講談社文芸文庫) Book アカシヤの大連 (講談社文芸文庫)

著者:清岡 卓行
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これって素敵でしょ?という言い方

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哲学の第4回目の講義無事終了する。

今回は、哲学の主題と全体の見通しを話した上で、次節、哲学の起源と開かれた対話(フォアゾクラティカーからソクラテス、プラトン、アリストテレス)までの話を講義する。
これまで哲学とは何か--といった概論を続けていたのでいよいよ、具体的な人物、思想を題材に講義できるので、すこしは話がしやすくなる。
ただ、哲学を講じているときに、一番注意しなければいけないのは、

「結局哲学って答えないじゃーん」
「一人の人間が頭の中で考えているだけ」

という、すなわち、哲学とは、難しくて自分には関係ない、独りよがりな考え方、と聴講者に結論づけられないように教授することである。

たしかに、上のような意見も哲学とか思想のある一面ではあるが、それだけではないだろう。
確かに、哲学の出発点としては、自分自身で、人間とは何か、世界とは何か、と考える地平から立ち上がる。しかし、その思想や内容を、ひとりでオシマイにしてしまうのであれば、それはとてつもなく淋しく・悲しい営みなってしまう。

たとえば、私はこのことに関して、これまでのところこう考えたけれど、これって素敵でしょ?という形で、他者と摺り合わせ洗練させ(その中で“他人とは地獄である”他者との出会いもあるのだが)、共有していく方向性の方がより魅力的で生き生きとした営みになるのではなかろうかと思う。

それがおそらく対話という営みであろう。
人は自分自身との対話、自然との対話、他者との対話を通じて人間になる。
それは、ソクラテスが自身の対話を“産婆術”と読んだように--。

さて、急いで先ほど帰宅し、これから市井の仕事です。
今週より、週1回だけ、衣料品Mgr代行となるので、その研修です。
さて、がんばるか。

パイドン―魂の不死について (岩波文庫) Book パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

著者:プラトン,Plato
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評価的意味と記述的意味の混同

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 議論を重ねるうちに、話が錯綜・混乱してしまう原因は、対象についての評価的意味と記述的意味が混同されることに由来する。

例えば、悪についての議論は百家争鳴、喧々囂々で、大きく見解が分かれる部分もあるけれど、議論が錯綜するのは、実は、「悪の意味」についての議論(評価的意味)と、「何が悪かという実例」についての議論(記述的意味)が往々にして混同されるからなのだ。

 イギリスの道徳哲学者R・M・ヘアの指摘だが、例えば、ある首狩り族の共同体にキリスト教の宣教師が訪れて布教活動に成功したとする。そうすると、首狩り族の人々
は、布教前は「敵の首を多く狩ってくること」が「善いこと」だったが、キリスト教を受け入れた後はそれは一転して「悪いこと」になった。しかし、この転換によって「善いこと」や「悪いこと」という意味が全く変わったわけではない。

 「善いこと」とはその社会において賞賛されること・推奨されることがらであり、「悪いこと」とはその社会において非難されること・禁止されることである。

 ヘアは善悪の「評価的意味」と「記述的意味」を明確に区別する。
 

ヘアの議論に従うならば、キリスト教の宣教師の布教前と布教後において、社会で賞賛されることが善いことであり非難されることが悪いことである、という善悪の「評価的意味」は全く変わっていない。ただ、「敵の首を狩ってくること」の善し悪しという「記述的意味」は逆転する。

 ただし、こうした善悪に関する二重の意味を確認した上で、なおかつ配慮しなければいけないのは、ほとんどの人にとっては、悪の「評価的意味」よりもはるかにその「記述的意味」が生きるうえで重要な問いだという現実である。

道徳の言語 (双書プロブレーマタ 1) Book 道徳の言語 (双書プロブレーマタ 1)

著者:R.M.ヘア
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Crucible of Reason: Intentional Action, Practical Rationality, and Weakness of Will Book Crucible of Reason: Intentional Action, Practical Rationality, and Weakness of Will

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The plan was frustrated.

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どーも。宇治家です。

今日は休日だったのですが、予定していた計画が総て頓挫。
前夜、がっつり飲んでいたので、昼前に起きて、ゆっくり朝食。
子供が遠足で、家も静まりかえっているハズなので、ゆっくりと論文の資料整理の予定でしたが……。

まず、痛飲後3時間ぐらいで叩き起こされてしまいました。
細君が風邪で調子悪いので、遠足に行く子供を幼稚園まで連れて行けとのこと。ひげ剃って、とりあえずネクタイ絞めましたが、息が酒臭い。しょうがないけど、子供を幼稚園まで連れて行き、園長先生の講話をうつらうつら聞きながら帰宅する。

さぞ、へんな親父がきていたことだろうと思われているのではないかと思うが、帰宅後、逆に疲れて再度寝てしまう。

起きると13時。心身を整え、資料整理にかかると、今度は、PCが不調となり、ケーブル不良で、HDD1個にアクセスできなくなってしまう。解決まで1Hかかり、さぁやるぞという気力が萎えてしまう。

とどめは、夕食。カツカレーと思ってかぶりつくと、チキンカツだった!

合掌。

 「もとはといえば、稲垣信濃守様の家中で起きた喧嘩沙汰から、佐々木典十郎が敵討ちの旅へ出たのが、はじまりなのだ。それがために滝野川村の小娘がひどい目に会い、ひいては盗賊の神取一味へまで波紋がひろがり、このため、長崎屋と釜屋の二つの商家が難をまぬがれた……となると佐々木典十郎の愚かな所業が、二つの商家の人びとのいのちを兇賊どもの手から救ったことにもなる。なんとおもしろいではないか、左馬之助」
 「なるほどなあ……」
 腕をこまぬいた岸井左馬之助が、深刻な顔つきとなって、すっかり考えこんでしまったのをながめやりつつ、長谷川平蔵は煙管に煙草をつめた。
 「どうした、左馬……」
 「いや、その……妙に、胸が重くなってきて……」
 「うふ、ふふ……」
 「可笑しいですかな?」
 「いや、別に……なあ、左馬之助。これが浮世の仕組みというものなのだよ」
 「浮世の仕組み、ね……」
 「人が何かを仕出かすことは、必ず、何らかの結果をまねくことなのだ。当り前のことだがね」
 「ははあ……」
 「その当り前のことを、人という生きものは、なかなかに、のみこめぬものなのさ、このおれもそうだが……」
 いいさして平蔵は、さも、うまそうに煙草のけむりを吐き出し、
 「のみこめていりゃあ、人の世の苦労もねえわけだが……」
 わだと伝法な口調で、こう、つけ足した。
 「そのかわり、つまらねえ世の中になってしまうだろうよ」
 雨足が、強くなってきている。
    --池波正太郎「浮世の顔」、『鬼平犯科帳 新装版(十四)』(文春文庫、2000年)。

浮世に漂いながら、明日の再起を期す宇治家参去でした。

鬼平犯科帳〈14〉 (文春文庫)

著者:池波 正太郎
販売元:文藝春秋
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不発弾処理

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ウィィーす。
飲んだくれの宇治家参去です。

本日市井の職場(GMS)で、クラスター爆弾の不発弾が2発爆発。
爆発の余波で、痛風で両足が激痛。

さて……、
1つは、今月採用した、(仮称)AV男優くん、退社。
2つは、職場の星とでもいえばいいでしょうか、頑張り屋の(仮称)らりった○ーけいボーイ君、ストレス爆発。

疲れました……。
AV君は、面接時の約束守れず(これもやってもらうよ!って言っていたのに、やりたくないッスだって、おとといきやがれ!)、直属上司と1Hの論戦後、退職届。
面接は、私がやったのですが、やっぱりな、というのが実感。若干情緒不安定で、経歴に問題あるな、でしたので、採用の見送りを提言したのですが、人が集まらないので採用したのですが、結局ぽしゃり。

らりった○ーけいボーイ君は、よく頑張ってくれています。
ただ、めまぐるしくかわる業務内容(それでも必死に食らいついてきてくれたのですが)に対するストレスで爆発。直属課長へ手短に思いの丈(といっても1/10ぐらいでしょうか)を語ってもらいました。

AV君はどーでもいいのですが(といっても彼もいい年なので、そのようじゃア、何処に言っても繰りかえすのだろうと思いつつ)、らりった君は、戦力的に重要な要、ぶっちゃけ辞められると困る人材です。
およそ組織には、居てほしい人、居ても居なくてもよい人、居ない方がよい人の3パターンがあると思いますが、AV君は、居ない方がよい人であり、らりった君は居てほしい人です。

ただ、らりった君の叫び、入社時の契約内容と違うし、今の自分はいっぱいいっぱいで、これ以上現状改革がないならば、辞めざるを得ませんという彼の爆発は正当な怒りです。
しかしながら、それに答えられない現状は異常です。ただ、なだめすかしつつ、一緒に仕事している身としてはつらい部分。

終業後、とりあえず、飲みに行き、話を伺うことしかできない無力な宇治家参去さんでした。

すまん、らりった君。

だけど、なんとか改革というか、正常に戻して、退社するのが俺の使命かと自覚しました。

おまえに、つらい思いはさせないぞ!と誓いつつ、帰宅後、PC前で、「朝日山」をがっつり飲んでいる宇治家参去さんでした。

と……思いつつ、寝る前のメール確認をしていると、本業的に良い知らせが。
人生の地殻変動があればいいのですけどね。

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Wasting time

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 最近、再び浴びるように聞いているのが、キング・オブ・ソウル、Otis Reddingです。誰かがアメリカの北島三郎と言っていましたが、北島とは正反対に、26歳の若さで無くなります。そんなOtisの作品の中でも死の3日前にレコーディングしたアルバム「The Dock of The Bay」が最高です。

 高校時代よく聞いていましたが、大学時代はほとんど聞かず、最近再びOtisの歌声に耳を傾ける今日この頃です。何故Otisを聞いていたのかは、思い出せませんが、60年代のStaxの作品を比較的よく聞いていました。その後は、Jazzばかり聞くようになりましたが。時をおいてふと聞きたくなるのがOtisの作品です。

(Sittin' On) The Dock Of The Bay
Sitting in the morning sun / 朝日を浴びて座っている
I'll be sitting when the evening comes / 夕方になっても座っているだろう
Watching the ships roll in / 船が港に入って来るのを見ながら
And I watch 'em roll away again / そして船がまた港を出るのを見ながら

Sitting on the dock of the bay / 港の埠頭に座って
Watching the tide roll away/潮の満ち引きを見ながら
I'm just sitting on the dock of the bay/ただ港の埠頭に座って
Wasting time/時間をつぶす

波止場に座り込んで過去を振り返る男の心情を歌ったのが“(Sittin' On) The Dock Of The Bay”です。アルバムに収録された他の曲とあまりにもかけはなれた雰囲気のこの曲を聞くと、まさか死を予感していたのかとも思わせる凄みがあります。

とても26歳の歌声とは思えません。

ただ近くに海がないのが、残念です。
公園のベンチに座って、潮の満ち引きを想像する宇治家さんでした。

Music Sittin on the Dock of the Bay & Other Hits

アーティスト:Otis Redding
販売元:Rhino Flashback
発売日:2007/09/18
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ふたつの始源

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最近、体調不良の宇治家さんです。

さて、月曜、短大にて哲学の第参回目の講義、無事終了する。

「けだし、驚異することによって人間は、今日でもそうであるが、あの最初の場合にもあのように、知恵を愛求し(哲学し)始めたのである」
    --アリストテレス(出隆訳)『形而上学』(岩波文庫、1961年)。

 哲学は驚きから始まる--アリストテレスの言葉をたよりに、人が哲学し始める契機を驚きとそれに対する問いかけから始まった事情を紹介しながら、問いの分析、問いを発する人間存在の状況(他者論)を確認した上で、一応の哲学の定義づけを行った。次回哲学の存在意義を確認する予定である。
 学生さん達にとっては、哲学とは遠いどこかの遙か彼方の世界に存在する、堅苦しい難しい学問というイメージが大半であるが、そうではなく、人間存在の根本に関わる、身近な人間学であることを理解させるのが序盤での哲学教師の役割である。本年で、4年目となるが、この序盤が一番ムズカシイ。
 自分の言葉は自分で理解出来るのはともかく、学生さん達にも分かる言葉と喩えで、学を語るというのは、専門用語を駆使した論文作成よりもなお一層の労力が必要だが、その難行を繰りかえす中で、自分の哲学力が試され、強化されていくのもよくわかる。

 授業終了後、市井の職場でそのまま仕事。業界○位のGMSのナイトMgrやっていますが、近く地殻変動が起こりそうな気配です。
一生やる訳じゃないので気楽ですが、残るも地獄・去るも地獄の状況へ変貌しそうです。
 溜息が多くなりそうですね。とはいえ、力を一番入れるのは本業ですが。今月は、博士論文指導が数回入っているので、期日までに課題をこなしていかないと大変です。

 では最後にレヴィナスの言葉から。脈絡ありませんけど(少しだけ有るかも)。

 「ほんとうの生活が欠けている」。それなのに私たちは世界内に存在している。形而上学が生まれ育まれるのは、このような不在を証明するものとしてである。だから形而上学は、「べつのところ」「べつのしかた」「他なるもの」へと向かっていることになる。思考の歴史をつうじて形而上学が身にまとうことになった、もっとも一般的なかたちのもとでは、形而上学はじっさい--どのような未知の大地がその世界の縁を囲っていようと、またその世界がなお未知の大地を隠していようとも--私たちになじみ深い世界から旅だち、私たちが住まっている「わが家」をはなれて、見知らぬ自己の外部、向こう側へとおもむく運動としてあらわれるのである。
    --レヴィナス(熊野純彦訳)『全体性と無限』(岩波文庫、2005年)。

形而上学〈上〉 (岩波文庫) Book 形而上学〈上〉 (岩波文庫)

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全体性と無限〈下〉 (岩波文庫) Book 全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)

著者:レヴィナス
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Totalitet infini Book Totalitet infini

著者:Emmanuel Levinas,E. Levinas
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【覚え書】Thou Shalt Not Kill, Except in a Game at Church

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New York Times に面白い記事があったので、覚え書風に。

Thou Shalt Not Kill, Except in a Game at Church
by MATT RICHTEL
New York Times,October 7, 2007
First the percussive sounds of sniper fire and the thrill of the kill. Then the gospel of peace.

Across the country, hundreds of ministers and pastors desperate to reach young congregants have drawn concern and criticism through their use of an unusual recruiting tool: the immersive and violent video game Halo.

The latest iteration of the immensely popular space epic, Halo 3, was released nearly two weeks ago by Microsoft and has already passed $300 million in sales.

Those buying it must be 17 years old, given it is rated M for mature audiences. But that has not prevented leaders at churches and youth centers across Protestant denominations, including evangelical churches that have cautioned against violent entertainment, from holding heavily attended Halo nights and stocking their centers with multiple game consoles so dozens of teenagers can flock around big-screen televisions and shoot it out.

The alliance of popular culture and evangelism is challenging churches much as bingo games did in the 1960s. And the question fits into a rich debate about how far churches should go to reach young people.

Far from being defensive, church leaders who support Halo -- despite its ''thou shalt kill'' credo -- celebrate it as a modern and sometimes singularly effective tool. It is crucial, they say, to reach the elusive audience of boys and young men.

Witness the basement on a recent Sunday at the Colorado Community Church in the Englewood area of Denver, where Tim Foster, 12, and Chris Graham, 14, sat in front of three TVs, locked in violent virtual combat as they navigated on-screen characters through lethal gun bursts. Tim explained the game's allure: ''It's just fun blowing people up.''

Once they come for the games, Gregg Barbour, the youth minister of the church said, they will stay for his Christian message. ''We want to make it hard for teenagers to go to hell,'' Mr. Barbour wrote in a letter to parents at the church.

But the question arises: What price to appear relevant? Some parents, religious ethicists and pastors say that Halo may succeed at attracting youths, but that it could have a corroding influence. In providing Halo, churches are permitting access to adult-themed material that young people cannot buy on their own.

''If you want to connect with young teenage boys and drag them into church, free alcohol and pornographic movies would do it,'' said James Tonkowich, president of the Institute on Religion and Democracy, a nonprofit group that assesses denominational policies. ''My own take is you can do better than that.''

Daniel R. Heimbach, a professor of Christian ethics at Southeastern Baptist Theological Seminary, believes that churches should reject Halo, in part because it associates thrill and arousal with killing.

''To justify whatever killing is involved by saying that it's just pixels involved is an illusion,'' he said.

Focus on the Family, a large evangelical organization, said it was trying to balance the game's violent nature with its popularity and the fact that churches are using it anyway. ''Internally, we're still trying to figure out what is our official view on it,'' said Lisa Anderson, a spokeswoman for the group.

There is little doubting Halo's cultural relevance. Even as video games have grown in popularity, the Halo series stands out. The first Halo and Halo 2 sold nearly 15 million copies combined. Microsoft says that Halo 3 ''is on track to become the No. 1 gaming title of all time.''

Hundreds of churches use Halo games to connect with young people, said Lane Palmer, the youth ministry specialist at the Dare 2 Share Ministry, a nonprofit organization in Arvada, Colo., that helps churches on youth issues.

''It's very pervasive,'' Mr. Palmer said, more widespread on the coasts, less so in the South, where the Southern Baptist denomination takes a more cautious approach. The organization recently sent e-mail messages to 50,000 young people about how to share their faith using Halo 3. Among the tips: use the game's themes as the basis for a discussion about good and evil.

At Sweetwater Baptist Church in Lawrenceville, Ga., Austin Brown, 16, said, ''We play Halo, take a break and have something to eat, and have a lesson,'' explaining that the pastor tried to draw parallels ''between God and the devil.''

Players of Halo 3 control the fate of Master Chief, a tough marine armed to the teeth who battles opponents with missiles, lasers, guns that fire spikes, energy blasters and other fantastical weapons. They can also play in teams, something the churches say allows communication and fellowship opportunities.

Complicating the debate over the appropriateness of the game as a church recruiting tool are the plot's apocalyptic and religious overtones. The hero's chief antagonists belong to the Covenant, a fervent religious group that welcomes the destruction of Earth as the path to their ascension.

Microsoft said Halo 3 was a ''space epic'' that was not intended to make specific religious references or be more broadly allegorical. Advocates of using the game as a church recruiting tool say the religious overtones are sufficiently cartoonish and largely overlooked by players.

Martial images in literature or movies popular with religious people are not new. The popular ''Left Behind'' series of books -- it also spawned a video game -- dealt with the conflict preceding the second coming of Christ. Playing Halo is ''no different than going on a camping trip,'' said Kedrick Kenerly, founder of Christian Gamers Online, an Internet site whose central themes are video games and religion. ''It's a way to fellowship.''

Mr. Kenerly said the idea that Halo is inappropriately violent too strictly interpreted the commandment ''Thou shalt not kill.'' ''I'm not walking up to someone with a pistol and shooting them,'' he said. ''I'm shooting pixels on a screen.''

Mr. Kenerly's brother, Ken Kenerly, 43, is a pastor who recently started a church in Atlanta and previously started the Family Church in Albuquerque, N.M., where quarterly Halo nights were such a big social event that he had to rent additional big-screen TVs.

Ken Kenerly said he believed that the game could be useful in connecting to young people he once might have reached in more traditional ways, like playing sports. ''There aren't as many kids outdoors as indoors,'' he said. ''With gamers, how else can you get into their lives?''

John Robison, the current associate pastor at the 300-member Albuquerque church, said parents approached him and were concerned about the Halo games' M rating. ''We explain we're using it as a tool to be relatable and relevant,'' he said, ''and most people get over it pretty quick.''

David Drexler, youth director at the 200-member nondenominational Country Bible Church in Ashby, Minn., said using Halo to recruit was ''the most effective thing we've done.''

In rural Minnesota, Mr. Drexler said, the church needs something powerful to compete against the lure of less healthy behaviors. ''We have to find something that these kids are interested in doing that doesn't involve drugs or alcohol or premarital sex.'' His congregation plans to double to eight its number of TVs, which would allow 32 players to compete at one time.

Among parents at the Colorado Community Church, Doug Graham, a pediatric oncologist with a 12-year-old son, said that he was not aware of the game's M rating and that it gave him pause. He said he felt that parents should be actively involved in deciding whether minors play an M-rated game. ''Every family should have a conversation about it,'' he said.

Mr. Barbour, the youth pastor at the church, said the game had led to a number of internal discussions prompted by elders who complained about its violent content. Mr. Barbour recently met for several hours with the church's pastor and successfully made his case that the game was a crucial recruiting tool.

In one letter to parents, Mr. Barbour wrote that God calls ministers to be ''fishers of men.''

''Teens are our 'fish,'' he wrote. ''So we've become creative in baiting our hooks.''

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『蔓の端々』

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「父がこう言っていた、どんな境涯にあっても明日のことを考えぬ人間は惨めだ、不幸や憎しみを忘れるのはむつかしいが、忘れなければ立ちよどむばかりだ……」
    --乙川優三郎『蔓の端々』(講談社文庫、2003年)

乙川優三郎『蔓の端々』読了する。雰囲気は、藤沢周平の『蝉しぐれ』(文春文庫)に近いものがあるが、若き武士・瓜生禎蔵のラストの選択は乙川ワールド。

詳しくは後日、待たれい。

って、後日ネタ多くてすいません。

疲れがとれなくて・・・。

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痛飲

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飲み過ぎた。
タクシー9000円かかった。

だけど良かった。

詳しくは後日。

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有朋自遠方来

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今日はこれから、大学時代の仲間たちと逢います。
10周年の同窓会というか、会合というか、総会というか。

楽しみです。

慶應万歳。

子曰。学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方来。不亦楽乎。人不知。而不慍。不亦君子乎。(論語・学而第一・1)

現代語訳 論語 (岩波現代文庫) Book 現代語訳 論語 (岩波現代文庫)

著者:宮崎 市定
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あぶらげ丼

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◇あぶらげ丼
市井の勤務先のバイトのS君は、俗に言う苦学生。ただし学校は卒業し、一度つとめた後のフリーターなので、正確には苦フリーター。CGムービーなどの美術作家(とでもいえばいいのでしょうか)で一本立ちするのが夢だが、生活はバイトでまかなっている。若干夢への食い付きが甘いところはあるが、誰にも頼らず一人でまかなっているところには敬意を表しています。
その彼、いうまでもなく、やはり金が無いのであまりいいもの喰っていませんので、いつも何を喰っているのかよく聞くのですが、昨日実家から米とか送ってもらったとのことで、昨日のバイト後、白飯を炊き、“あぶらげ丼”なるものをつくってたべるそうです。『24』を見ながら。

“あぶらげ丼”?
彼の言う“あぶらげ丼”とは、要するに、親子丼で、肉の代わりに油揚げをいれたどんぶりで、彼の創作料理の中では、ベストファイブに数えられる、絶品の料理だそうです。

油揚げをそのように使う発想に、まずは驚愕するところです。興味のある方はどうぞ。

さて、今週来週は、仕事のシフトが若干変則的でかつ、学問系のアポイントメントやら大学の同窓会なんかも予定されており、なかなかタイトな毎日です。

◇哲学者と哲学・学者
学生さん達の質問への回答を準備してメールで送信しなければいけないので、今日明日はまとめないときついです。毎回、同じような質問もありますが、たまにハッとしたり、?と感じる質問もありますが、自分も18-19歳ぐらいのころは、そんな感じだったのかなとも思います。

「哲学書を著す人というのは、哲学をどのように受け止めているのか知りたいです。知識として受けとめているのか?書いていることそれを本当の哲学として受けとめているのか?」

こういう質問には驚きます。解説科目の一つとしての「哲学」の存在意義に対する根本的疑問といえるかと思います。知識としてうけとめ、教授するなら、「哲学・学者」のそれであり、書いている・講義している内容を自身のものとしてうけとめて発信しているとすれば、それは「哲学者」のそれであると思います。
哲学などという一見、銭にも薬にもならないような学問を講じていると、常にこの両方のジレンマといいますか、哲学者であろうとしながらも、知らないうちに哲学・学者になってしまったりする場合がありますが、常に自戒しつつ、哲学者として生きていきたいと思う者です。しかし銭にならない学問です。

カントは50代になってやっと大学の正規の教員のポストを得たといわれていますが、カントまでは待てないので、力強く生きながら人生を切り開いていくしかない昨今です。
ただ、私は“あぶらげ丼”は遠慮しておきます。

続きを読む "あぶらげ丼"

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狐の反逆

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ギリシアの詩人アルキロコスの詩作の断片に、「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている」という一行がある。この謎めいた言葉をどう解釈すべきかについては、学者の意見はさまざまであった。それは、ずる賢い狐も、防禦一本槍のハリネズミには負けてしまうということしか意味していないのかもしれない。しかし、比喩的に解すれば、その言葉に作家と思想家、ひいてはおそらく人間一般を大別するもっとも深い一つの差異を指し示すような意味を持たせることもできるであろう。

--バーリン(河合秀和訳)『ハリネズミと狐--『戦争と平和』の歴史哲学』(岩波文庫、1997年)

ラトビア生まれのユダヤ系政治哲学者の言葉から。トルストイの大著『戦争と平和』を材料に、トルストイの歴史観を探り、思想的源流を探る作品である。訳文も読みやすく、内容も大変示唆に富み、面白い作品ですの興味のある方は一読どうぞ。

訳者の河合秀和氏の解説がわかりやすいので少々引用を。

---
 バーリンは、二〇世紀のもっとも首尾一貫した自由主義の思想家という評価を得ている。いくらか技術的にいえば、多元主義という新しい見方を打ち出した思想家とも言われている。本書の表題を引いていえば、多元主義とは狐の思想である。ハリネズミの一元主義は、人間の求める多様な価値は何らかの最高価値のもと調和した一つの体型を成していると信じる。バーリンによれば、それは少なくともプラトン以来二千年以上にわたるヨーロッパの伝統であって、もちろんきわめて多様な形態のもとに展開されてはいるものの、知的には普遍妥当的な真理の存在を、社会的には合理的秩序(ユートピア)の実在を、また歴史的には必然法則の支配を信じてきた。しかし、古来「人はパンのみにて生きるものにあらず」といわれているように、人はただ一つの価値によって生きるものではない。少なくともいくつかの基本的な価値はそれぞれに独立しており、他の価値に対して上下の関係や目的-手段の関係に封じ込められるものではない。極端な状況では対立することになり、したがって人に選択を迫ることになるであろう(例えば「よい」価値を集約的に表現しているとされている真善美にも、対立の契機が孕まれている。真が善である訳はなく、善が美である訳でもない)。
 こうして狐の多元主義は、いたるところでハリネズミの一元主義を掘り崩そうとする。政治思想史において、特に一八世紀の啓蒙主義思想が一元主義を代表しているがために、バーリンの目から見た近代の思想史はハリネズミに対する狐の反逆の歴史であった。
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ケセラセラの相対主義と異なる意味での多元主義の必要性は、何も政治哲学の世界だけではない。文化・風俗・宗教・人のもつ些細な価値観に至るまで、必要とされている考え方である。今、必要なのは、自己の存在と自己と全く異なる存在者の両者の存在を肯定する寛容さである。

しかし寛容さには、強靱な忍耐と勇気が必要だ。寛容とは、なんでもかんでも飲み込んでしまう東洋的肯定とは異なる原理である。

今一度ヴォルテールの言葉を味わってみたいものである。
「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利には賛成だ」

さて、写真の如く、日本酒のおいしい季節となった。一人娘に舌鼓をうちつつ、秋の夜長を楽しむ昨今です。

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『形相』を詠む

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忙しくまともな文章を書き残すことが出来ない今日この頃です。
今静かに読んでいるのが南原繁の歌集『形相』(岩波文庫)です。

南原繁といえば、内村鑑三門下の無教会主義キリスト教の熱心な信徒で、一高校長の新渡戸稲造からもつよい影響を受けた良識人です。戦後、東大総長に就任し、サンフランシスコ講和条約をめぐり、単独講和を主張した当時の内閣総理大臣・吉田茂に対し全面講和論を掲げ、論争となったことでも知られる人物です。このとき、南原は吉田茂から「曲学阿世の徒」と名指しで批判されたことでも有名です。
同郷人のよしみもあり、宇治家さんは、南原の文章をよく読みます。内村門下・新渡戸の弟子として連なる人物には、荒野に一人立つ良心と智を兼ね備えた巨人が多いですね。南原しかり、矢内原しかり、三谷しかり。

無教会主義そのものが、いわば教会のメインストリームから外れた独自のあり方であり、生き方そのものも峻厳である。己に対して峻厳であるゆえに、他者に対する本物の優しさが滲み出てくるのかと思ったりもします。

南原の詩集『形相』より、昭和16年12月8日の一首。

人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦ふ

Nanbara

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南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由 Book 南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由

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右足大爆発

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爆睡してしまった……、いつものことながら。

おととい、朝四時頃まで飲んでいて、昨日9時前に起きて、大学へ。
そのあと、家に戻って、市井の仕事。おとといの前の日が、子供の運動会で、体力・精神力ともに限界の昨日、酒がとどめをさしてくれ、爆睡の世界へ。

月曜は、勤務先の大学の大学祭(白鳥祭)に家族とともに出かけました。
嫁さんが、卒業生なので。恩師(ゼミの先生)にも再会、子供とそれななりに楽しみ、足がくがくで帰宅し、仕事へ行った次第です。

で、終業後酒飲んで、昼過ぎに起きて、資料整理、それをすませるともう夕方、家族に約束どおり、きりたんぽ鍋の準備。なかなか自分の時間がとれませんね。ほんとうに。

と思いながら、右足に激痛。やってきました、痛風の季節です。自愛しないとな。

とりあえず、今日は難しい話なしで、飲んで寝ます。

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The Courage to Be

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世の中は三連休ですね。
宇治家さんは、三連勤です。
平日休んで日曜出勤するようになりどれくらいの日が経たことだろうか。
学問で喰っていけるようになれば、日曜は休みになるのかも知れないが。

という愚癡を語っている時間があったら、早く寝た方がいいかな。
明日も朝一で外出のため。さっさと酒を飲み干して寝ます。

で……、いつもの如く、飲みながら読書。

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「勇気は、人間の行為として、また価値づけの表現として、一つの倫理的概念である。勇気は、普遍的本質的な自己肯定として、一つの存在論的概念である。生きる勇気とは、それによって人間が、彼の実存のなかにあるその本質的な自己肯定に反逆するような諸要素に抗して、彼自身の固有な存在を肯定するところの倫理的行為である」
    --P.ティリッヒ(大木英夫訳)『生きる勇気』(平凡社、1995年)

自伝的文章(「境界線上に立って」)の「ほとんどあらゆる領域にわたって、あれかこれかという実存の可能性の間に立ち、そのいずれにも安住することなく、しかもそのいずれか一方を決定的に退けるような決断も下さないというのが、私の運命であった」と生涯を語る神学者・パウル・ティリッヒ(Paul Tillich)の言葉から。

人間は自分自身が意識してるにせよしてないにせよ、自己肯定と自己否定の狭間で漂い存在している生き物なのだろう。

さ、とっとと寝よ。

The Courage to Be (Yale Nota Bene) Book The Courage to Be (Yale Nota Bene)

著者:Paul Tillich
販売元:Yale Univ Pr
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エイヤーの叫び

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「たんに道徳的な判断を表現しているにすぎない文章はなにごともいってはいない。それは純粋に感情の表現であって、それゆえ真や偽のカテゴリーにあてはまらない。それは、苦痛の叫びや命令の言葉が検証不可能であると同じく、検証不可能である」

「彼が、彼の知識を経験的に検証可能な命題の形で述べることができなければ、彼は自らをあざむいているのだといってよい」

上の言葉は、派手な交際家で女たらしとして有名なイギリスの論理学者エイヤー(Sir Alfred Jules Ayer)の著書『言語・真理・論理』(吉田夏彦訳、岩波書店、1955年)から。

エイヤーによれば「善」とか「~なすべし」といような言い方やそうした言葉を含む命題は、美醜への感嘆、あるいは信仰告白と同じく、けっして客観的に検証することの出来ないものである。いわば「叫び声」とか「感嘆符」以上のものではない。ゆえに一般的な倫理的命題とは、それを聞く者の感情に訴えて、相手を説得させようとするものにすぎない。
「~すべきです」とか「するな」というような倫理的言説は、すべて、検証不可能な感情の表現(叫び)にすぎないと断ずるエイヤーの主張は、初めて接した時強烈だった。いささか極端なきらいもなくはないが、日常生活を振り返ってみると、しらずしらず反省しないで、こうした表現を使っているのも事実である。とくに子供に対して。このような状況を顧みると、“道徳は押しつけだ”と嫌われるのも、言葉遣いに配慮しないところから起きているのかも知れないと思う宇治家さんです。

最近、子供が幼稚園で“馬鹿”という言葉を覚えて帰ってきた。さて、どう扱えばいいのか。母親は愛の鞭で、父親は状況に呆然としている状況です。

Language, Truth and Logic (Penguin Modern Classics) Book Language, Truth and Logic (Penguin Modern Classics)

著者:A.J. Ayer
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a sports day

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子供よりオトナの親が疲れた運動会。

終了後は、市井の仕事です。

つらいのぉ。

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書き殴り 無責任論

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昨日、終業後、バイト君から“強引”に誘われ、飲みに行く。
前日まで私が不在で、職場が混乱、きつかったとのこと。
彼の直属上司(私とは指揮系統がちがうのだが)の無能さにあきれたとのこと。
ああいう大人にはなりたくないとのこと。
なりたくない大人とは、すなわち、“無能”というよりも“無責任”な人のことである。その上司が無能なのか、無責任なのか、ここではひとまず措くが、その彼に限らず、無責任なヤツ、すなわち、清水幾太郎の表現を使えば「無礼者」「田舎者」というひとびとだ。

バイトでも正社員でも、家庭の主婦でも、紅白粉つけた姉ちゃんからそこらのにいちゃんにいたるまで、無責任な連中が多くなった(と批判しているわたしも無責任なオトナかもしれませんが、どちらかといえば、植木等に近いかな)。

無責任だけではありませんが、そうした背骨の抜けた近代人のあり方を批判したのが、スペインを代表する哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセトである。詳しくは大衆社会論の嚆矢といわれる『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)を紐解いて頂きたいが、いわゆる「慢心しきったお坊ちゃん」である。

現代の大衆人は、波のまにまに漂う人間であり、そこには生の計画は存在しない。デモクラシーとテクノロジーという過保護の保育器で育たれた彼等は「お坊ちゃん」と化し、自分を取り巻く高度で豊かな生の環境=文明を、それが空気であるかのように錯覚し、文明を生み出しそれを維持している才能や文化資本に対する感謝の念を忘れ、自分があたかも「自足自律的人間」であると錯覚してしまう。その結果、あらゆる他者の言葉に耳を貸さない不従順で自己閉鎖的な「野蛮人」=「慢心しきったお坊ちゃん」へと堕してしまった。

自足自律的な存在など神か野獣の他に存在しないのが実情だ。しかし、極限の自己集中へ専念するお坊ちゃんたちにとっては、他の人間の存在は見えてこない。そこにいる人間はモノであり、自己の手段にほかならない。そんなところから責任の概念など出てこようか。

そうしたことを考え合わせると、責任のある人間というのは、じつはかっこいい人間ではないかと思う昨今です。
(手元に文献が無くうろ覚えで失礼ですが)昔、雑誌『太陽』(平凡社)で池波正太郎の特集をしてたのが、あったが、そこで氏のダンディズムに関して論評された一文があった(たぶん常盤新平氏の文章だったと思う)。
すなわち、池波のダンディズムとはつまるところ自己節制(自分に対する厳しさ・しつけ生き方というソフトウェアから身のこなし・モノの扱い方というハードウェアに至るまで)から出てきているというような話であったと記憶している。

自己節制、言葉を換えれば自分で自分を正しくコントロールすること。それができるとできないとでは自己に対する接し方だけでなく、他者に対する接し方も大きく変わってくることになる。そのことは必然的に責任の問題にもなってくると思うのだが--。

その意味では、野蛮人だらけの現代社会は、まさにかっこわるいオトナとださいガキしかいないなと酒を飲みながら議論した昨日でありました。

本日、6年以上前に買って、部屋の中で散逸した乙川優三郎の小説『蔓の端々』(講談社)を発見。デビュー当時、藤沢周平の再来といわれたが、なかなかどうして、自己の文体で清冽な時代小説を次々と発表しており、いつも楽しく読んでいる。6年ぶりの邂逅となるとが、楽しみにページを紐解きたい。

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ニーバーを読む

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休みを利用してじっくり読書と映画と日本酒三昧。
今回は、途中までしか読んでいないが、面白いニーバー(大木英夫訳)『道徳的人間と非道徳的世界』(白水社、1998年)から。
著者のラインホールド・ニーバーは、ティリッヒとともに近・現代アメリカを代表するプロテスタント系神学者。ニーバーといえば、日本では、神学者・現代政治の助言者という印象より、ニーバーの祈り(Serenity Prayer)の方が有名だろう。

O God,Give us
Serenity to accept what cannot be changed,
Courage to change what should be changed,
And Wisdon to distingusih the one from one from the other.
Amen.
(神よ、変えることのできなものを受け入れる平静を/変えるべきものを変える勇気を/そして変えることのできないものと変えるべきものとを識別する知恵を/我らに与えたまえ/Amen)

 さて、そのニーバーであるが、ニーバーのもとで学んだドイツの神学者D.ボンヘッファーもすこぶる社会的(反ナチ闘争で獄死)だが、彼に負けず劣らず社会派です。デトロイトのフォード自動車工場での労働者たちの悲惨な状況が思想形成に大きな影響を与えたと言われ、キング牧師もニーバーの影響を受けているという。神学者には、(メインストリームから評価されなくとも)社会派の思想の伝統があり、良きにせよ悪しきにせよ、社会的に影響力をもつ神学思想家なるものが存在する。しかし、そういえば、日本にはそういう坊主はいねぇよなというのも逆説的な実感。

さて、本書は、1932年に執筆され、アメリカ政治学の世界に衝撃を与えた一冊である。
冷静に社会状況を見つめ直した場合、そこにあるのは「社会は永続的な戦争状態」にある。社会においては集団の力関係が重要であり、社会には強制という要素が必ずつきまとう。ゆえに個人の道徳的訓育のみによって社会問題が解決することはありえない。この意味で道徳主義(社会問題を個人的な訓育に還元する考え方)には反対する。還元主義的道徳主義は社会問題の所在を隠蔽し、巍然と自己欺瞞を再生産するだけで、保守派のイデオロギーを強化するに過ぎない。
社会問題はモラリズムの延長では解決できなず、それ独自の戦略が必要である--これが彼の視点である。

で、、、そのあとはまた読み進め報告しますが、
人間には、個人の道徳的な訓育、すなわち人間陶冶による“まともな人間”の育成“のみ”によってあらゆる社会問題は解決するのではないかと短絡的に原理的に考えてしまう傾向がある。もちろん、そうした訓育は重要であり、人間教育は必要であろう。しかしながらそれ“のみ”によっては問題は解決しない。冷徹なニーバーの視座はそういっているように思えて他ならない。
言われればその通りで、社会には強制力も暴力も必然的に付随する。暴力の問題は横に置いておいたとしても、強制力の問題は、共同体の維持という側面からも永遠に無くなることはない。ではそうした社会のなかで、どういうあり方が可能なのか、どういうかたちの強制力が必要なのか、考える必要はある。
そうした状況を前に、ともすれば、あらゆるものを一方的に“悪”であると決めつけ、全面廃棄を主張するオプションを人は選択しがちである。しかし、あれか・これかの全面廃棄が、暴力と革命の20世紀を彩ったことも忘れてはならないだろう。

はぁぁ~これから市井の仕事です。4日ぶり、かなりだるチョフです。

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以上も以下も不可

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所属の研究所から紀要掲載用の論文の掲載可のメールが来ていた。
今回は、(いつもながら)所定の枚数を超過してしまったため、規定分を今回用にリライトし、超過分を次回掲載ように分轄した。

当初は今回分その2で終わる予定であったが、調査過程ですでに今回分をオーヴァーしてしまったため、超過分含めその後に続く部分をその3として来年掲載するようにしてしまった。

短くても駄目、長すぎても駄目……こうした一つ一つの決まりをきちんと守らないと自分以外の関係各位に迷惑をかけてしまうので、今回もすいません。

とりあえず、本日は、休み最終日。
家族のために、ちゃんこ鍋をつくった(大学時代、体躯会相撲部にいたので)。
市販の出汁をつかったが、ちょっと今ひとつ。本当は半日かけて鶏ガラから出汁をつくると旨いのだが、今回はそれで辛抱してもらった。

でも、ま、それなりにうまかった。

写真は、LeitzIIIg+Summitar 50mm f2.0 で写した連合艦隊の勇姿。
手前は竣工中の重巡・高雄、ピントは戦艦伊勢・扶桑の艦橋に合わせていますが、手前と奥のぼけ具合はさすが、ライツレンズ。

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新商品って

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新商品って、とりあえず試したりしませんか?
        しかし、おもったより、旨くなかった。
             『ぐびなま冬季限定』のほうです、『吉乃川』は常用酒。

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真理はア・ポステオリか

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第2回講義無事終了する。
本日は、哲学という言葉の語源(=智を愛する)に注目しながら哲学とは何かを講ずる。最初に世間で哲学という言葉が使われる場合(例えば、ある企業の経営“哲学”とかあるスポーツ選手の勝負“哲学”など)を分析し、一般的にどのような意味で使われているかを確認した。その上で、学問の世界ではどのように使われているのか、たとえとして、プラトン、デカルト、カントの場合を考察し、一般世間で使われる場合と、学問の世界で使われる場合の共通点・相違点を見直すことで、哲学という言葉の意味を考えてみた。

すなわち、広い意味では、哲学とは、何かを行う時の基本的な考え方・原理原則・ポリシーといった意味合いだが、それは限られた範囲で通用する基本的な考え方・ルール・原理原則という意味合いのようだ。例えば、A社の経営哲学をB社は適用する必要がないように。
しかし、どうやら哲学者(特に現代以前)が哲学という言葉を使う場合、同じように、何かを行う時の基本的な考え方・原理原則・ポリシーといった点では共通しているが、限られた範囲で通用するルール・原理原則ではなく、すべての人にかかわってくる原理原則・根本原理を探求しているように思われる(もちろんこうした側面の暴力性が現代哲学では批判されるわけですが)。そこが大きな違いではないかと思います。
さてそこで問題なってくるのが、そういう(西洋)哲学の持つ暴力性の問題(自分と全く異なる他者を自己へ同一化してしまう視座)を勘案しながらも、では、誰にでも通用するような共通了解はあるのか、果たしてそれは可能なのか、その点は深く考えていく必要があると思います。

哲学者のいう、誰にでも通用するような基本的な考え方とか原理原則といったものは、おそらくプラトンが考えたような形でア・プリオリに人間の存在に先立ち、所与のものとして存在するのではないと宇治家さんは思っています。そうではなく、ひととひとが対話によって、機軸を共有しながら、なんらかの考え方を、ひとりのものだけにするのではなく、みんなも納得できるような共通了解にもっていく努力のなかで、ア・ポステオリに立ち現れてくるのではないかと、ぼんやりと漠然と、そう思っています。

それが、おそらく哲学・学者ではなく、哲学者に課せられた使命なのかとは思いますが、いずれにせよわかりやすい講義をしていきたいと思う宇治家さんです。

ちなみにプラトンが語っている哲学者像を最後にひとつ。
「哲学者とは、つねに恒常不変のあり方を保つ存在にふれることのできる人びとのことであり、他方、そうすることができずに、さまざまに転変してやまぬ事物の中でさまよう人びとは哲学者ではない」
    --プラトン(藤沢令夫訳)『国家 下』(岩波文庫、1979年)

ただし、先週以来、風邪が全く治らず、体調はよくないが、ようやく秋らしくなり、過ごしやすいので体力的にはなんとか持ちこたえる。しかも本日含め市井の仕事が三連休。ようやく遅い夏休みです。
論文の締切は終わったのですが、今度は博士論文の目次の提出リミットが迫っているのでそちらに手をいれようと思いますが、とりあえず1日はのんびり過ごそうと思います。

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