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書き殴り 無責任論

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昨日、終業後、バイト君から“強引”に誘われ、飲みに行く。
前日まで私が不在で、職場が混乱、きつかったとのこと。
彼の直属上司(私とは指揮系統がちがうのだが)の無能さにあきれたとのこと。
ああいう大人にはなりたくないとのこと。
なりたくない大人とは、すなわち、“無能”というよりも“無責任”な人のことである。その上司が無能なのか、無責任なのか、ここではひとまず措くが、その彼に限らず、無責任なヤツ、すなわち、清水幾太郎の表現を使えば「無礼者」「田舎者」というひとびとだ。

バイトでも正社員でも、家庭の主婦でも、紅白粉つけた姉ちゃんからそこらのにいちゃんにいたるまで、無責任な連中が多くなった(と批判しているわたしも無責任なオトナかもしれませんが、どちらかといえば、植木等に近いかな)。

無責任だけではありませんが、そうした背骨の抜けた近代人のあり方を批判したのが、スペインを代表する哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセトである。詳しくは大衆社会論の嚆矢といわれる『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)を紐解いて頂きたいが、いわゆる「慢心しきったお坊ちゃん」である。

現代の大衆人は、波のまにまに漂う人間であり、そこには生の計画は存在しない。デモクラシーとテクノロジーという過保護の保育器で育たれた彼等は「お坊ちゃん」と化し、自分を取り巻く高度で豊かな生の環境=文明を、それが空気であるかのように錯覚し、文明を生み出しそれを維持している才能や文化資本に対する感謝の念を忘れ、自分があたかも「自足自律的人間」であると錯覚してしまう。その結果、あらゆる他者の言葉に耳を貸さない不従順で自己閉鎖的な「野蛮人」=「慢心しきったお坊ちゃん」へと堕してしまった。

自足自律的な存在など神か野獣の他に存在しないのが実情だ。しかし、極限の自己集中へ専念するお坊ちゃんたちにとっては、他の人間の存在は見えてこない。そこにいる人間はモノであり、自己の手段にほかならない。そんなところから責任の概念など出てこようか。

そうしたことを考え合わせると、責任のある人間というのは、じつはかっこいい人間ではないかと思う昨今です。
(手元に文献が無くうろ覚えで失礼ですが)昔、雑誌『太陽』(平凡社)で池波正太郎の特集をしてたのが、あったが、そこで氏のダンディズムに関して論評された一文があった(たぶん常盤新平氏の文章だったと思う)。
すなわち、池波のダンディズムとはつまるところ自己節制(自分に対する厳しさ・しつけ生き方というソフトウェアから身のこなし・モノの扱い方というハードウェアに至るまで)から出てきているというような話であったと記憶している。

自己節制、言葉を換えれば自分で自分を正しくコントロールすること。それができるとできないとでは自己に対する接し方だけでなく、他者に対する接し方も大きく変わってくることになる。そのことは必然的に責任の問題にもなってくると思うのだが--。

その意味では、野蛮人だらけの現代社会は、まさにかっこわるいオトナとださいガキしかいないなと酒を飲みながら議論した昨日でありました。

本日、6年以上前に買って、部屋の中で散逸した乙川優三郎の小説『蔓の端々』(講談社)を発見。デビュー当時、藤沢周平の再来といわれたが、なかなかどうして、自己の文体で清冽な時代小説を次々と発表しており、いつも楽しく読んでいる。6年ぶりの邂逅となるとが、楽しみにページを紐解きたい。

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著者:乙川 優三郎
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