« The plan was frustrated. | トップページ | これって素敵でしょ?という言い方 »

評価的意味と記述的意味の混同

Dsc00094

 議論を重ねるうちに、話が錯綜・混乱してしまう原因は、対象についての評価的意味と記述的意味が混同されることに由来する。

例えば、悪についての議論は百家争鳴、喧々囂々で、大きく見解が分かれる部分もあるけれど、議論が錯綜するのは、実は、「悪の意味」についての議論(評価的意味)と、「何が悪かという実例」についての議論(記述的意味)が往々にして混同されるからなのだ。

 イギリスの道徳哲学者R・M・ヘアの指摘だが、例えば、ある首狩り族の共同体にキリスト教の宣教師が訪れて布教活動に成功したとする。そうすると、首狩り族の人々
は、布教前は「敵の首を多く狩ってくること」が「善いこと」だったが、キリスト教を受け入れた後はそれは一転して「悪いこと」になった。しかし、この転換によって「善いこと」や「悪いこと」という意味が全く変わったわけではない。

 「善いこと」とはその社会において賞賛されること・推奨されることがらであり、「悪いこと」とはその社会において非難されること・禁止されることである。

 ヘアは善悪の「評価的意味」と「記述的意味」を明確に区別する。
 

ヘアの議論に従うならば、キリスト教の宣教師の布教前と布教後において、社会で賞賛されることが善いことであり非難されることが悪いことである、という善悪の「評価的意味」は全く変わっていない。ただ、「敵の首を狩ってくること」の善し悪しという「記述的意味」は逆転する。

 ただし、こうした善悪に関する二重の意味を確認した上で、なおかつ配慮しなければいけないのは、ほとんどの人にとっては、悪の「評価的意味」よりもはるかにその「記述的意味」が生きるうえで重要な問いだという現実である。

道徳の言語 (双書プロブレーマタ 1) Book 道徳の言語 (双書プロブレーマタ 1)

著者:R.M.ヘア
販売元:勁草書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Crucible of Reason: Intentional Action, Practical Rationality, and Weakness of Will Book Crucible of Reason: Intentional Action, Practical Rationality, and Weakness of Will

著者:Keith David Wyma
販売元:Rowman & Littlefield Pub Inc
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« The plan was frustrated. | トップページ | これって素敵でしょ?という言い方 »

哲学・倫理学(現代)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 評価的意味と記述的意味の混同:

« The plan was frustrated. | トップページ | これって素敵でしょ?という言い方 »