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2007年11月

【覚え書】「大川周明:未発表原稿見つかる 大物右翼・頭山満の評伝」

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 戦前の代表的な思想家の一人に大川周明(おおかわしゅうめい、1886年-1957年)がいる。敗戦後、A級戦犯として起訴されるが、病を理由に不起訴扱いとなった人物だ。法廷で、東条英機の頭をたたいたことでも有名である。大川が博士論文を提出する際、吉野作造とも交流があったことでも知られている。
 さて、その大川周明に関する記事があったので、覚え書として以下に紹介します。

◇「大川周明:未発表原稿見つかる 大物右翼・頭山満の評伝」、『毎日新聞』(2007年11月29日(木)付)。
 戦前の右翼・国家主義者でA級戦犯だった大川周明(おおかわ・しゅうめい=1886~1957年)が、第二次世界大戦の終結前後に書いたとみられる未発表の原稿が見つかった。大物右翼、頭山満(とうやま・みつる=1855~1944年)の評伝で、自由民権運動の評価を詳しく記すなど、大川の歴史観を示す重要な資料だ。【鈴木英生】

 原稿は00年、中央公論新社の社屋引っ越しの際、廃棄予定の書類の山から同社関係者が掘り出した。執筆時期は1945年7~8月とみられ、200字詰め原稿用紙318枚分。中島岳志・北海道大准教授(アジア研究)の調査で、未完ながら頭山伝の草稿と分かった。

 大川は革新右翼の代表的論客として活躍し、5・15事件の支援などで国家改造を目指した。頭山は政治結社・玄洋社を設立。伝統的な尊皇思想とアジア主義を掲げ、政界に影響力を広げた。2人は運動の方法論などで大きく違うが、大川は頭山を尊敬していた。

 伝記は明治維新から始まり、日露戦争前までの内容。「尊皇と民選議院とは、表面一致せざるが如(ごと)くにして、実は同一精神に出(い)でて居る」など、明治期の自由民権運動から出発した頭山の思想への支持を述べ、大川自身の立場と重ね合わせている。

 執筆の背景には、戦時中の言論弾圧である横浜事件(42~45年)がある。事件の影響で44年に廃業(戦後に再建)した中央公論社から、朝日新聞社出版部に転職した編集者、佐藤哲男が頭山の死去した同年10月、大川に執筆を依頼。終戦を経て出版が立ち消えとなった後、佐藤は原稿を古巣に託したものの、結局、忘れられたらしい。

 中島准教授は「伝統右翼の頭山を、革新右翼の大川がどう見たかが分かり、貴重だ。大川が自由民権運動を、ナショナリズムの文脈に位置づけていた点も興味深い」と話している。この原稿は「頭山満と近代日本」(春風社)と題し、12月1日に刊行される。

大川周明 (岩波現代文庫) Book 大川周明 (岩波現代文庫)

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大川周明と国家改造運動 (拓殖大学研究叢書・社会科学) Book 大川周明と国家改造運動 (拓殖大学研究叢書・社会科学)

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柿でもひとつ

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 秋の果実で、子供のころから好きだったのは柿だろう。
 幕末のころ、アメリカの使節を幕府が饗応するとき、やわらかい柿に味醂(みりん)をかけまわし、デザートとして出したところ、大いに好評を得たそうな。
 戦争中に食料が不足となったとき、干し柿の甘味は、まことに貴重なものだった。
 一茶が「夢に、さと女を見て」と前置きして、

 頬ぺたに、当てなどすなり赤い柿

 の一句をよんでいる。
 また去来には、

 柿ぬしや 梢はちかき嵐山

 の句がある。
 柿は端的に、そしてあざやかに秋の情景を表現する。
    --池波正太郎『味と映画の歳時記』(新潮文庫、昭和61年)。

ひとりぐらしをしていた学生時代には、柿などに見向きもしなかったが、結婚してから、子供時代の時のように、ふたたび、柿を食べるようになった。
池波氏がいうように、柿は、あざやかに秋の情景を表現する。

ひとりで暮らしていた学生時代は、ひとりでも生きていけるぞ!なんて粋がっていた部分もありますが、今思い起こしてみると、それは、浮間に漂う根無し草的な実存であったような気がします。
では、今は地に足がついた生活なのかと問われると、いささか自信はないものの、伴侶や子供によって、有る意味、無理矢理つけられ、そろそろ馴染んできたというところでしょうか。

さて、さきほど、子供が幼稚園から帰ってきた。

喧噪が部屋を支配する。

宇治家参去さんは、これから仕事です。

単調な日常を鮮やかに浮かび上がらせる柿でもほおばりながら、地に足をつけた一日をおくっていきましょうかね。

Book 味と映画の歳時記 (新潮文庫)

著者:池波 正太郎
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宇宙へ帰る

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「優しさを失わないでくれ。弱い者をいたわり、互いに助け合い、どこの国の人達とも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。
たとえその気持ちが何百回裏切られようと。それが私の最後の願いだ」。
    --ウルトラマンA最終回『明日のエースは君だ!』より。

子供とともに、ウルトラマンAを鑑賞する。

話の筋は、ヤプール人(地球侵略を試みる異次元人)の残党がエースに復讐するため、サイモン星の宇宙人の子供に化けて登場する。「ヤプールから逃れるため」として地球に降り立ち、子供たちにいじめられていたところをTAC(Terrible-monster Attacking Crew )に保護される。
地球人に友好的な宇宙人を装い、ヤプールに狙われているように自作自演しながら、裏では超獣ジャンボキングを操って街を破壊する。
ウルトラマンAこと、北斗星司にだけはテレパシーを使って正体を明かし挑発、その最終目的は人間の子供から優しさを奪い、ウルトラマンAを地上から抹殺することであった……。

エースの叫びは、現代世界に必要とされている、原初の心の叫びなのでしょうか。

ちなみ……、エースは北斗星司と南夕子の二人が合体して変身する設定(のちには北斗一人だけですが)のため、「性差を越えた完全な超人」というコンセプトから、その姿は観音菩薩をモチーフとしており、他のどのウルトラマンにも似ていない。

さて……
エースはこのあとは、宇宙へ帰っていきますが、わたしの子供も、
「パパ、宇宙へ帰るよ」
というと、厭がります。

曰く……
「地球でお仕事してください!」

当分は、地球で頑張ってみましょうかね。

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フーコーの思い出

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 ともかく、ひとつのことがたしかなのである。それは、人間が人間の知に提起されたもっとも古い問題でも、もっとも恒常的な問題でもないということだ。比較的短期間の時間継起(クロノジー)と地理的に限られた截断面--すなわち、十六世紀以後のヨーロッパ文化--をとりあげることによってさえ、人間がそこでは最近の発見であるという確信を人々はいだくことができるにちがいない。知がながいこと知られることなくさまよっていたのは、人間とその秘密とのまわりをではない。そうではなくて、物とその秩序に関する知、同一性、相違性、特徴(カラクテール)、等価性、語に関する知を動かした、あらゆる変動のなかで--すなわち<<同一者>>のこの深い歴史のあらゆる挿話のなかで--一世紀半ばかり以前にはじまり、おそらくはいま閉ざされつつある唯一の挿話のみが、人間の形象を出現させたのである。しかもそれは、古い不安からの解放でも、千年来の関心事の光かがやく意識への移行でも、信仰や哲学のなかに長いこととらわれてきたものの客観性への接近でもなかった。それは知の基本的諸配置のなかでの諸変化の結果にほかならない。人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
 もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲り角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば--そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。
    --M.フーコー(渡辺一民・佐々木明訳)『言葉と物』(新潮社、1974年)。

ミッシェル・フーコーの『言葉と物』(原著は1966年)の末尾から。

フーコーのこの作品は、副題にあるとおり「人文科学の考古学」の試みである。フーコーは有る時代の文化のなかにあらわれた具体的な学問や思想ではなく、その根柢部分をなすものをエピステーメーと呼ぶ。知識を表象する言説それ自体ではなく、表面的に把握不可能なこのエピステーメーは、知識の諸配置のなかで、その変動に注目することでしか知ることが出来ない。だからそれを明らかにする作業が、フーコーによれば、「歴史学」ではなく「(知の)考古学」ということになる。

学生時代飽くことなく読みふけったのがフーコーですが、最近、さっぱりと読まなくなったものです。倫理学を学んでいた頃、フーコーやその他のフランスの現代思想家と呼ばれる人々の文献を乱読したもので、その難解な言い回しに翻弄された思い出が懐かしいです。

フーコーによれば、ルネサンスの時期までのヨーロッパの思考を支配してきた概念が「類似」である。その時代、言葉と物は同一の地平に存在していたが、17世紀以降、言葉は物の世界から離れ、ひとつの自立的な秩序を形成するようになる。この時代、「分類」がなされ、博物学や一般文法が誕生し、ひとびとは「交換」に注目し、富を分析するようになる。さらに時代がくだって、18世紀末になると、大きな截断がエピステーメーの中で生じる。すなわち、「分類」にかわり「歴史」が登場し、「交換」にかわって「労働」が、そして「生命」や「言語」が新しい知の諸配置を形成する。

そしてこれらの概念をつらぬいているのが「人間」という「主体」であり、ここに至りようやく、今日的な意味での人文科学が成立する。

フーコーの時代の切り方の鮮やかさに当時は驚愕したものです。

フーコーがいうように“主体的な人間”という概念がヨーロッパにおいて“最近”になって“発明”されたものだとすれば、それは時間や空間を超えた普遍的な概念ではない。
ヨーロッパで発明された“主体的な人間”という概念が制限をもったローカルな考え方であるとすれば、おそらく、エピステーメーが過去に大きな截断をうけたように、主体的な人間という概念も永続的ではなく、やがて消滅してしまうのではないか、むしろ消滅ははじまりつつあるのではないか、--そう預言めいた言い方で、『言葉と物』は引用部分のようにクローズする。

人は自分の思考や歴史性をついつい時間や空間の制約を超えた普遍的なものと思いがちだが、普遍とは何か、個とは何か、今ひとつ考え直さないとなァと思う昨今でした。

Book 言葉と物―人文科学の考古学

著者:ミシェル・フーコー,Michel Foucault
販売元:新潮社
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Les Mots Et Les Choses Book Les Mots Et Les Choses

著者:Michel Foucault
販売元:Editions Flammarion
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きわめて日本的でした……

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「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(『マタイによる福音書』2:1-2)

イエスの誕生時にやってきてこれお拝んだとされる東方の三博士の登場シーンです。彼らはマリアとイエスを見て拝み、乳香、没薬、黄金を贈り物としてささげたと、聖書に記されています。

どうも宇治家参去です。

最初に、東方の三博士の登場シーンをマタイ伝から引用しましたが、夕方、東方の三博士に出会いました。

どこかって?

バス停ですよ、ハイ。

目の前の小学生のランドセルの名札入れに、「三博士来訪」の聖画(カード)が入っていました。おそらくミッションスクールに通う学生さんなんでしょう。

意味をしっているのかどうか分かりませんが、なんとなく、無性にほほえましくなりましたが……

その日、その時、そのほほえましさを裏切るアイテムが同伴していました。

カードの少し上の部分をみると「○○総社」と書かれたお守りが……。

きわめて日本的ですね。雑居していました……。

クリスチャンでもない、仏教徒でもない、日本教でした。

 (日本においては)むしろ過去は自覚的に対象化されて現在の中に「止揚」されていないからこそ、それはいわば背後から現在の中にすべりこむのである。思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない。一定の時間的順序で入ってきたいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけで、いわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。

 新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向き合わずに傍らに押しやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる。

 加藤周一は、日本文化を本質的に雑種文化と規定し、これを国粋的にあるいは西欧的に純粋化しようという過去の試みがいずれも失敗したことを説いて、むしろ雑種性から積極的な意味をひきだすよう提言されている。(中略)が、こと思想に関しては若干の補いを要するようである。
 (中略)私がこの文でしばしば精神的雑居という表現を用いたように、問題はむしろ異質的な思想が本当に「交」わらずにただ空間的に同時存在している点にある。多様な思想が内面的に交わるならば、そこから文字通り雑種という新たな個性が生まれることも期待できるが、ただ、いちゃついたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい前述した不毛な論争が繰り返されるだけだろう。
    --丸山真男『日本の思想』(岩波新書、1961年)

異質な他者の雑居に創造性はない。
異質な他者同士の真摯な交わりにこそそれがあるのではなかろうかと思う宇治家参去でした。

P1020279

日本の思想 (岩波新書) Book 日本の思想 (岩波新書)

著者:丸山 真男,丸山 眞男
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酔っぱらうと要求できない

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Russell

どうも宇治家参去です。

そういえば、2-3日まえ、市井の職場(GMS)に“へんなおじさん”が来ました。

購入した商品が不良で、本当は、交換してもらいに来たのだが、既に酔っぱらっており、「交換してくれ」の一言がでない……。

「一体、どういうことだ!」の連発で、すなわち、要求ができないので、こちらも誠心誠意謝るほか手がない。

そのうち、「交換しますので……」、「ご返金の対応でよろしいですか?」と声をかけるも、「そうじゃないんだ!」と大声でわめき散らすありさまです。

あまりにも大声をだすので、他のお客様もびっくり(+「いったいどうしたんだ?」と興味津々も若干あり)。

しまいには、そのへんなおじさんの横を通る、ほかのお客様に対してまで、「なんだおメェ、文句あんのか」というような始末で……トホホな人でした。

結局、1時間ぐらい、お話を伺い、商品交換で案件はクローズ。

そのへんなおじさんは、“ゴネ得”を狙った常習的な、「理不尽な要求をも辞さない請求者」ではない。

おそらく、今日、買ったこの商品では利用できないから、間違いのない同じ奴と交換してくれ!の一言で済む予定だったんでしょうが、なにぶん、酔っぱらっており、頭の中で考えている思いが、言葉にならない。そのもどかしさを抱えながら、同じ言葉がループする。そして、こちらが補足すると頭にきてしまう……。

そんなおじさんでした。

往々にして人は不利益を被ると、感情的になりやすい。感情的になってしまうと、本来の目的を見失いお互いに不利益を蒙ってしまう。

とりあえず、酔っぱらって来ない方がいいと思いますよ。

そのおじさんだけではありませんが、気をつけないとね。

動物は、健康で、食べる物が十分にあるかぎり幸福である。人間も当然そうだと思われるのだが、現代世界ではそうではない。少なくとも、大多数の場合そうではない。もしも、あなた自身が不幸であれば、不幸なのは自分だけではないことを、たぶん、進んで認めるだろう。もしも、あなたが幸福であれば、はたして何人の友人が幸福だろうか、と自問してみるとよい。そして、友人たちの点検を終えたならば、人の顔つきを読む技術を自分に教えるとよい。ふだんの生活の中で出会う人びとの気分を汲みとれるようにするのだ。
    --ラッセル(安藤貞雄訳)『ラッセル 幸福論』(岩波文庫、1991年)。

「自己欺瞞に基づく満足は、決して堅実なものではない。そこで、真実がどんなに不愉快なものであっても、きっぱりとそれに直面し、それに慣れ、それに従ってあなたの生活を築きあげるようにしたほうがいい」(前掲書)生活をおくりたいものですね、ホントに。

ラッセル幸福論 (岩波文庫) Book ラッセル幸福論 (岩波文庫)

著者:B. ラッセル
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たまには

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昨日またしても痛飲する。
北海道の酒はうまいなあ。
帰宅後さらに飲んだのがいけなかった。

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起きたら出勤直前でした。
とほほ。

日本の酒 (岩波文庫 青 945-1) Book 日本の酒 (岩波文庫 青 945-1)

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ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ

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Seneca

 昨日から市井の仕事が六連勤の宇治家参去です。忙しいのは分かっていますが、忙しさに流されたり、忙しさに酔って、己の本分を忘れぬ日々でありたいと思います。

 人間といういきものは、まことに不思議なもので、時間がある時は、無為に過ごし、時間がないときに頑張ろうとする、ぎりぎりになるまでは仕事に手を付けないが、その一方で、締切直前になると無性に部屋の片づけをしたくなる--。
 そうした感情を抱きたくなるのはおそらく宇治家参去ひとりではあるまい。

 われわれが短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。けれども放蕩や怠惰のなかに消えてなくなるとか、どんな善いことのためにも使われないならば、結局最後になって否応なしに気付かされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。全くそのとおりである。われわれは短い人生をうけているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく、われわれがそれを短くしているのである、われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。
    --セネカ(茂手木元蔵訳『人生の短さについて 他二篇』(岩波文庫、1980年)。

 古代ローマを代表するモラリスト・セネカの言葉は、至言である。
 ただしかし、それは冷静に考えれば、ありがたいおことばや高邁なモラルの宣言ではなく、過去・現在・未来の時間軸の中で、自分自身を率直に見直した結果の偉大な常識にすぎない。

 しかしながら、人は、こうした偉大な常識から眼をそらし、どこか遠くへ永遠不変の真理や原理を求めがちである。日常生活と乖離したところに人間の道はおそらく発見できないのではないか--そう実感する宇治家参去です。

 ひとは日常生活の繁忙さのなかで、おのれを見失い、気がついたときには、壮老に達してしまうということが多々あるが、そうならぬためにも、ときにふれては、己自身を見つめ直し、反省しながら明日へ向かってふたたび歩き直すことが重要であろう。

 その瞬間が夕暮れ時である。哲学者のヘーゲルは「ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ」といったそうだが、ミネルヴァとは、知恵すなわち“哲学の女神”であり、フクロウはその象徴である。様々な人間の活動についての知恵=哲学は、日常的な活動が一段落した夕暮れに動き始める。そのことをヘーゲルはミネルヴァのフクロウと表現した。
 このフクロウとは面白いたとえで、フクロウは、単に世界を認識する、というかかわり方で世界に関わっているのではない。行為という関わり方もしている。獲物だけを認識しても、飛び立ち捕らえる行為がないとフクロウは生きてゆけないからだ。
 ひともおそらく同じである。夕暮れ時に、ふと立ち止まり自分自身を見つめ直す(=哲学)する瞬間を、ときにふれてもつことで、有限な時間の中で、何が一番大切で、今なにをやるべきか、課題がおそらく見えてこようというものである。

そうした瞬間に写したのが、昨日と同じ、夕方の富士山です。

 田子の浦に うちいでてみれば 真白にぞ ふじの高嶺に 雪は降りける  山部赤人

    --佐佐木信綱編『新訂新訓・万葉集』(岩波文庫、1954年)。

 霊峰の雄大な姿に、今日一日の自分自身を向かい合わせながら思索する宇治家参去です。

 では、最後にセネカの言葉をもう一発。

 暇のある人というのは、自分の暇の何であるかについても気付いている人である。ところが、自分の体の有様を知るのに他人に教えてもらう必要のあるような人間が、一体どうして時間の主人となりうるであろうか。

人生の短さについて 他二篇 (岩波文庫) Book 人生の短さについて 他二篇 (岩波文庫)

著者:セネカ
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新訂 新訓・万葉集〈上〉 (岩波文庫) Book 新訂 新訓・万葉集〈上〉 (岩波文庫)

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新訂 新訓・万葉集〈下〉 (岩波文庫) Book 新訂 新訓・万葉集〈下〉 (岩波文庫)

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富士の高嶺を知らざるか……。

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 ときどき無性に読み返したくなるのが中国の古典です。最近、思い出したように読み返しているのが『孟子』です。

 えっ、『孟子』なんて、儒教のそれでしょ?
 儒教なんて、封建制度をささえた古臭いイデオロギー、もしくは道徳でしょ?

 そんな声が聞こえてきそうですが、実際、読んでみますと、面白いものです。
 評価(体制イデオロギーとしての儒教)と実際(孔孟の肉声)は、かなりちがうところを実感できます。

 その実感とは、とやかくいわれていますが、偉大な人物ほど、その真の姿が伝わりにくいということである。
 さて……
 偉大であればあるほど、神格化されたり、その逆に、ときには厳しい批判に晒されるのが人間世界の現実である。孟子や、その先達となる孔子も、そうした典型的な思想家の一人である。
 儒教は、漢の武帝によって国教化された結果、官学として大きな地位を保つことになった。それにともない孔子や孟子の神格化が進み、官学としての儒教の地位は揺るがないものになった。その権威が地に落ちるのは辛亥革命(1911)を待たなければならない。
官学となった儒教や孔子たちの神格化は、儒教が封建的な支配体制を支え、強化する思想として、政治によって利用された結果でもある。体制維持のために思想や宗教がつかわれるとき、もともと保っていた思想の清新さや溌剌さは、固定化したイデオロギーへと転化してしまう。その結果、思想は生き生きとした性格や息吹を失い、むしろ時代や人間の進展を阻害することにもなる。
 封建制度を支え、強化したイデオロギーとしての儒教は批判されても当然であろう。

 しかし、しかしながらである。

 洗い桶から産湯を棄てるとき、お湯と一緒に赤子まで捨て去る必要はない。
 なぜなら、孔子や孟子の(彼等が書いたと伝えられる)著作には、等身大の人間主義に徹した彼等の魂の叫びが聞こえてくるからである。

 今日はその『孟子』からひとつ。

孟子見梁恵王、王曰、叟不遠千里而来、又将有以利吾国乎、孟子対曰、王何必曰利、又有仁義而已矣、王曰何以利吾国、大夫曰何以利吾家、士庶人曰何以利吾身、上下交征利而国危矣、萬乗之国弑其君者、必千乗之家、千乗之国弑其君者、必百乗之家、萬取千焉、千取百焉、不為不多矣、苟為後義而千利、不奪不厭、未有仁而遺其親者也、未有義而後其君者也、王亦曰仁義而已矣、何必曰利、
    --『孟子』巻第一 梁恵王章句上(小林勝人訳注『孟子(上)』(岩波文庫、1968年))

孟子梁の恵王に見ゆ。王曰く、叟(そう)、千里を遠しとせずして来る。亦将に以て吾が国を利するあらんとするか。孟子対(こた)えて曰く、王何ぞ必ずしも利を曰はん。亦(ただ)(惟)仁義あるのみ。王は何を以て吾が国を利せんと曰い、大夫(だいふ)は何を以て吾が家を利せんと曰い、士・庶人は何を以て吾が身を利せんと曰いて、上下交(しょうかこもごも)利を征(と)(取)らば、而(すなわ)(則)ち国危からん。万乗の国、其の君を弑する者は、必ず千乗の家なり。千乗の国、其の君を弑する者は、必ず百乗の家なり。万に千を取り、千に百を取るは、多からずと為さず。〔然れども〕苟も義を後にして利を先にすることを為さば、奪わざれば厭(あ)かず。未だ仁にして其の親を遺(す)つる者はあらざるなり。未だ義にして其の君を後(あなど)(忽)る者はあらざるなり。王亦仁義を曰わんのみ。何ぞ必ずしも利を曰わん。

孟子がはじめて梁の恵王にお目にかかった。王がいわれた。「先生には千里もある道をいとわず、はるばるとお越しくださったからには、やはり〔ほかの遊説の先生がたのように〕わが国に利益をば与えてくださろうとのお考えでしょうな。」孟子はお答えしていわれた。「王様は、どうしてそう利益、利益とばかり口になさるのです。〔国を治めるのに〕大事なのは、ただ仁義だけです。もしも、王様はどうしたら自分の国に利益になるのか、大夫は大夫でどうしたら自分の家に利益になるのか、役人や庶民もまたどうしたら自分の身に利益になるのかとばかりいって、上のものも下のものも、だれもが利益を貪りとることだけしか考えなければ、国家は必ず滅亡してしまいましょう。いったい、万乗(まんのくるま)の大国でその君を弑(あや)めるものがあれば、それは必ず千乗(せんのくるま)の領地をもらっている大夫であり、千乗の国でその君を弑めるものがあれば、それは必ず百乗(ひゃくのくるま)の領地をもらっている大夫であります。万乗の国で千乗の領地をもらい、千乗の国で百乗の領地をもらうのは、決して少なくはない厚録です。それなのに〔彼らが〕十分の一ぐらいでは満足せず、その君を弑めてまでも〔全部を〕奪いとろうとするのは、仁義を無視して利益を第一に考えているからなのです。昔から仁に志すもので親をすてさったものは一人もないし、義をわきまえたもので主君をないがしろにしたものは一人もございません。だから王様、どうかこれからは、ただ仁義だけをおっしゃって下さい。どうして利益、利益とばかり口になさるのです。」

 『孟子』の冒頭部分です。利益ばかり血眼になって探求する指導者に対して、孟子先生は「利益、利益といいなさんな、それより先に考える・探求べきことがあるんじゃねえの」とぴしゃり。

 聴いている方が青くなるようなやりとりです(よくも殺されなかったもんですよ)。

 孟子は利益そのものを否定しているわけではない。
 利益を求める人間の欲望は無限大である。そうした欲望の虜になった結果、己を見失い、最後には自滅するのが人間である。
 現実には、(例えば何か修行とかによって)欲求や欲望を100%滅却することは不可能である。そうであるとするならば、そうした自己の暗部を直視しながらも、振り回されずに、コントロールしながら、人間関係のありかたの基礎となる普遍的な徳(仁義)をおさめ、自己と自己との関係において、そして自己と他者との関係において、そして自己と環境(宇宙)との関係において、よりよき関係を構築していった方が賢明であろう。
 孔子や孟子の言葉に耳を傾けると、自己の矛盾を自覚しながらも、振り回されず力強く生きていく励ましのように思えて他ならない。

 ついでに言えば、先に引用した冒頭部分のやりとりを、論語とかの言葉をモットーに掲げる政治屋さんとか、自分しか見えていない巷の傍若さんたちにきかせてやりたいものです。

 さてさて……。
 写真は、市井の職場からの夕景。
 この季節、寒いのは寒いのですが、透明度が増し、景色が美しいですね。
 富士の高嶺を知らざるか……。
 富士のシルエットの美しい武蔵野の夕景でした。

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「深川・千鳥橋」

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 町へ出た五郎蔵は、かの相模の彦十の住居へ入った。彦十は、本所・三笠町一丁目の裏長屋に暮らしている。
 「大丈夫でございましょうか、五郎蔵ほどのものを野放しにしておいて……」
 酒井祐介が不安げに問うや、
 「五郎蔵は、万三の顔をよく知っているそうな」
 「それならば、鰻やの金兵衛とか申す男を捕え、泥を吐かしましたほうが……」
 「それならわけもないことさ。だが、そうしたら、このおれが五郎蔵を騙して口を割らせたことになる。大和屋金兵衛に手はかけぬと約定したおれの一言。これはな、酒井。男の約束というものだ。相手が将軍様(うえさま)であろうとも、もと盗賊であろうとも、おれにとっては変わらぬことよ」
    --池波正太郎「深川・千鳥橋」、『鬼平犯科帳 5』(文春文庫、2000年)。

 大工の万三は、盗賊仲間では〔間取りの万三〕とよばれ、盗賊に家屋敷の間取り図をうりつける裏の稼業をもっている。病気〔労咳〕で死期を悟った万三が、情婦に金を残そうと、盗賊・鈴鹿の弥平次に接触する。鈴鹿の弥平次といえば盗賊界の老舗の一つだが、ためらいもなく急ぎばたらきをこなす冷酷無惨な兇賊になりはてていた。万三は弥平次の罠に陥るのか……。密偵・大滝の五郎蔵の初仕事を描いた作品が上に引用した「深川・千鳥橋」です。

 金鉄の一言ともいうべき男の約束を守る長谷川平蔵の活躍を無心に読み続けると心が洗われます。
 約束を守らず、ひとを平気で裏切り、恩を仇で返す連中が横行するこの世の中で、そうした矛盾を自覚しつつも、(相手が将軍様(うえさま)であろうとも)これだけは譲れない一点を持ち、筋を通していく生き方と言葉に、自分を見つめ直す・ヘタレの宇治家参去です。
 恩は押しつけるものではなく、報恩を感謝できる心をもつ人間が無心に光らせる人間力であると実感します。

 おそらく、それを長谷川平蔵は行動だけでなく、そのこころとからだから紡ぎ出す真実の言葉がそれを解き放っているのではないかと思わざるを得ません。
 鬼平の語ることばは、おそらく、耳から耳へ流されてゆく、音としての言葉ではなく、心に留まり、なおも余韻をひきずる真実の人間の叫びに違いない。

さて、この話のラストから。

 一味(引用者註--兇賊・鈴鹿の一味)が引き立てられ、高張り提灯がこれを取り巻いて、油堀沿いの道を西へ進んで行った。そのあとに駕籠が一つ。
 「万三」
 「へい」
 「あの駕籠へ乗れ」
 「えっ……?」
 「乗って、あの女と共に、好きなところへ行け」
 「げえっ……」
 「こいつ、よくおどろくやつだの」
 平蔵が、小判を懐紙へ包んだものを、きょときょとしている万三のふところへ入れてやり、
 「お前、あと三月(みつき)も保(も)てばよいほうだな」
 「へ……」
 「死にぎわは、きれいにしろよ」
 突き入れるように万三を駕籠の中へ押しこみ、お元へ、
 「行けい」
 「は、はい」
 駕籠は、道を東へすすむ。
 油堀へかかる千鳥橋を北へわたって行く、その駕籠の提灯のあかりをながめている平蔵の傍らへいつの間にか屈みこみ、これも凝(じつ)と駕籠の行方を見送っている大滝の五郎蔵へ、
 「これで、よいな」
 と、長谷川平蔵がいった。
 返事のかわりに、五郎蔵の号泣がおこった。
 いつしか、風は絶えていた。
    --池波正太郎「深川・千鳥橋」、『鬼平犯科帳 5』(文春文庫、2000年)。

002

 今日は軽く「金麦」です。日曜に、市井の仕事で米を売り場から撤去する際、腰を痛めてしまい痛飲すると、腰から右背中上まで激痛なものですから……とほほ。

 さて……
 “ほんとう”に「男が泣く」姿は美しい。

 こうした涙を流さなくなって久しいが、学生時代は11月によく泣いたものです。またほんとうに「泣く」男たちをよく見かけました。ノスタルジアで終わらせたくない青春の一頁です。

鬼平犯科帳〈5〉 (文春文庫) Book 鬼平犯科帳〈5〉 (文春文庫)

著者:池波 正太郎
販売元:文藝春秋
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おやすみなさい おつきさま

P1020213

 月曜日が、宇治家参去的には一番きつい一日ですね。

 土・日が、市井の仕事で24時まで勤務、月曜が昼から大学で講義。
 講義が終わると、そのまま市井の仕事で、心身とも疲れます。
 といっても……ま、家族を養っていく責任と共に自分が選んだ道でもありますので、正面からその現実を受け止めて、こなしていくしかないわけですけど。

 さて、今日は、『哲学入門』の方ですが、先週までで一通り哲学(史)の流れを概観しましたので、中盤の今回は、「哲学と文学」と議題を掲げて講義する。

 いつの時代になっても、年嵩の世代から若い世代への訓戒として、いわれるのが「本を読め」ということ。そこで、いつも、講義の中盤で、何故、本を読んだ方がよいのか、時間を割いて話すようにしております。何故なら、世界的な名著を読んでいる若い人(わたしもまだ若いと思っているのですが)が少なくなってきているのを実感するからです。とはいえ、やはり教室には一人か二人は、“おっ”と言わせるような“まともに読んでいる人”もいますのでまだまだ大丈夫なのでしょうかね。

で……
 哲学が人の考え方や生き方、社会への関わり方を決定するのと同様に、若き日の文学体験(=古典名著の読書)は、その人間の一生の土台になると思います。
哲学は最高の文学であり、すぐれた文学作品は、そのまま偉大な哲学書である。そこには、人生の透徹した智慧、社会のあり方、人間の持つ偉大さと愚かさ等々――が描かれており、総じて言えば“人間という存在の探求”が偉大な文学と哲学に共通した要素ではないかと思います。

 パスカル曰く「人間は考える葦(あし)である」(『パンセ』)。その「考える」ためには読書が不可欠である。読書こそ“考え行動する”人間の証であり、「人間だけができる特権」であると思います。また人間に与えられた時間は有限である。生まれた瞬間から史に向かって歩き続けているわけだから、すべての出版物に目を通すことは不可能だ。であるならば、読む本も心して選ぶ必要がある。

 そういう話をしたわけですが、一番インパクトがあるのは、実際にそれを数字で示してみせる時です。

 たとえば……
 年平均50冊(=月平均だいたい4~5程度)の本を読む18歳の女性がいたとする。その人が80歳まで生き、同じペースで読書を続けたとしても、死ぬまでに読める本は3100冊である。
 学生さんが月4-5冊読む、というのは現実には大変な作業のようで、それにも驚きますが、それだけ読んだとしても、死ぬまで読むことのできる量が3100冊だと知ると、みな一様に驚きます。月4-5冊は大変だけど、それで読み続けても死ぬまでに3000冊程度なんて--、そんなかんじです。

 読みたい本を勘定していくとすぐさま3000冊なんて超えてしまう。岩波文庫を全部読もうなんて思ってみても、総刊行点数はすでに5000冊を突破している。

 まさに有限です。

 であるので、一冊の良書との出会いを大切にしたいものです。

 これに奮発され、是非、学生さん(だけでなく平蔵さん自身もですが)、良書に挑戦する日々を積み重ねていきたいところです。

 では、疲れてきましたので、そろそろ寝ましょうかね。

「おやすみ おへや」
   「おやすみ いすさん」
      「おやすみなさい おつきさま」

おやすみなさいおつきさま Book おやすみなさいおつきさま

著者:マーガレット・ワイズ・ブラウン
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『おやすみなさいおつきさま』ができるまで Book 『おやすみなさいおつきさま』ができるまで

著者:L.S.マーカス,M.W.ブラウン,C.ハード,せた ていじ,中村 妙子
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存在論的な孤独を考える清酒・久保田

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P1020191

 孤独の深刻さは、いかなる点にあるのだろうか。陳腐な言い方ではあるが、われわれは決して単独で実存しているのではない。われわれは様々な存在〔人々〕や事物にとり囲まれ、これらの存在や事物と様々な関係を保っている。視覚、触覚、共感、共働などを通して、われわれは他者たちと共にある。このような関係はすべて、他動詞的である。すなわち、私はある対象に触れる、私は<他者>を見る。しかし、私は<他者>であるのではない。私はまったくの独りきりである。それ故、私のなかの存在、私が実存しているという事実、まさに私の実存することこそが、絶対的に自動詞的な要素を、つまり、志向性や関係性をもたない何ものかを構成するのである。<実存すること>を除けば、すべては存在相互の間で交換され得る。その意味では、存在するということは、<実存すること>によって孤立することである。
    --エマニュエル・レヴィナス(原田佳彦訳)『時間と他者』法政大学出版局、1986年。

人は自己の実存を直視したときに(自動詞的自覚)、孤独と出会うのであろうか。ここでいう孤独とはおそらく感傷的な感情ではなく、存在論的な孤独ということであろう(か)--。

市井の仕事を終え帰宅後、明日の授業の仕込みを終えた後が宇治家さんの贅沢な時間です。(とりあえずの目の前の)喫緊の課題を終わらせ、次の日を待ち眠る前の、わずかな時間、独り、酒をのみつつ、哲学を読むのがわたしの贅沢です。

この感情と行為は、家族には理解されませんけど、細君が、れいのごとく、湯豆腐を用意してくれていたので、ま、間違いのない清酒・久保田(千寿)で、一杯です。

レヴィナス老師の言葉は、しんしんと音の絶えた深夜にひびく、紡ぎ出された言葉である(だけでなく過酷なその人生史に裏付けられたほんものの言葉である)ことに心を打たれつつ、晩秋を惜しむ宇治家参去でした。

さぁ寝よ、寝よ。

Book 時間と他者 (叢書・ウニベルシタス)

著者:エマニュエル・レヴィナス
販売元:法政大学出版局
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月日は……

P1020212

今日で、結婚して7年経っていた。

月日の経過に驚くばかりです。

次の7年は、過ぎ去った7年と違う歳月にしたいと思う宇治家参去でした。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
    --松尾芭蕉(萩原恭男校注)『芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄』(岩波文庫、1979年)。

一日一日の造作を大切にしたいものです。

芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄 (岩波文庫) Book 芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄 (岩波文庫)

著者:萩原 恭男,松尾 芭蕉
販売元:岩波書店
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孤人間の対立

P1020201

今日は、朝から勤務先の短大の公募推薦入試で八王子へ。

自宅からバスで駅まで向かうのですが、バス停では、私の前に、老婦人がふたり、そしてわたし、その後に、0歳時と父母が1組、バスを待っていました。

バスが到着すると、その列の最後尾にいた、これまた、老婦人が猛ダッシュ!
唖然とする搭乗者たちをよそに、空いた席を見つけて、ご満悦でした。

いろいろと倫理や哲学の問題を考えると、「世代間の価値観の対立」という永遠のテーマがいつも出てきますが、さすがに、最近の状況は世代間の価値観の対立というよりも、野獣と化した孤人間の対立のように思えて他なりません。

さて、入試の面接官として、応募者への面接を行いましたが、これはこれで、かなり疲れました。詳細は割愛しますが、今年から初めて面接官をやったのですが、良い経験でした。

帰りは、教員バスで、日頃は時間割の都合であまり顔を合わせることのない教員のひとびとと一緒に八王子駅まで帰りましたが、やっぱり様々なジャンルの専門の人との学問の話題はよいものですね。疲れが吹き飛びました。
今日は、異文化理解(異文化コミュニケーション)の一環として、オーストラリア先住民のアボリジニの宗教観を研究しているN先生とすこし雑談。
オーストラリアなどでは先住民の文化を保存するという名目で、先住民族の白人化(キリスト教化)政策がかつては進められたそうですが、彼等の受容したキリスト教は表面的には白人のそれであるが、内在的には、上から押しつけられた宗教としてではなく、苦悩する人のもとに真っ先に駆けつけた原初のキリストのイメエジを伴ったキリスト教であったということです。
「谷中に神あり」と叫び、足尾鉱毒で苦しむ農民たちと苦難を共にしたキリスト者・田中正造翁を思い出しました。

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さて、その先生が面白い本を紹介してくれたのでひとつ。
(わたしの言い方が若干断片的ですが)「JFKがアボリジニのムラにやってきた!」という彼等の伝承の背景には何があるのか、解明した一冊です。最近のアボリジニ研究では第一級の著作だとか。

保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』御茶の水書房、2004年。

早速AMAZONに注文してみました。わくわく。

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Uragasumi

へろへろで帰宅すると、レタスしゃぶしゃぶ。
これはこれでイケますね。
安定した旨味の「浦霞」でいっぱいやって寝ます。

Book ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

著者:保苅 実
販売元:御茶の水書房
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生命の大地―アボリジニ文化とエコロジー Book 生命の大地―アボリジニ文化とエコロジー

著者:デボラ・バード ローズ
販売元:平凡社
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ホワイト・ネイション-ネオ・ナショナリズム批判 ホワイト・ネイション-ネオ・ナショナリズム批判

著者:ガッサン・ハージ
販売元:平凡社
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田中正造文集〈2〉谷中の思想 (岩波文庫) Book 田中正造文集〈2〉谷中の思想 (岩波文庫)

販売元:岩波書店
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平屋の人生と多層階の人生

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◇宗教を学ぶわけ(宗教学の意味)
宇治家さんの指導教官(鈴木範久先生、学問の師匠)は、宗教を学ぶわけ(宗教学の存在意義)に関して以下の三点を指摘する。

①他者理解(すべての事象を表面的に見るだけでなく、その心の内奥より理解しようとする姿勢)。
②立体的なものの見方。
③宗教を見る目の形成(宗教に対する批判的精神の形成)。

以上の三点がそれである。

本日は②の立体的なものの見方に少し触れたい。

第二は立体的なものの見方である。
(中略)
 それは、おそらく、宗教思想のもつ大きな特徴による。たとえば、宗教に無縁の人が、かりに一部屋だけの現世のみの平屋に住んでいるとするなら、宗教者は来世や天国、地界もある二階と地下室つきの家に住んでいると言える。あるいは海と山に二つの別荘をもつ思想と言えるかもしれない。
 それにより、思想が、一部屋だけの窮屈さを離れ、ある程度の自由と解放を与えられるのである。このような宗教者のもつ思想の立体的なしくみを学んだなら、それを自分の生き方にも応用することである。そうして小さなことへのこだわりや堂々めぐりの悩みから脱却を味わえる。今の世の中だけで価値のある金銭、名誉、地位、権力をほしがる思想に対して、宗教は現世を超える価値を教える。超現実的価値のもつ大きな意味とはたらきとに目を見開かせてくれる。
--鈴木範久『日本宗教史物語』(聖公会出版、2001年)。

今日は市井の仕事の終業後、バイト君ニャンじょー君と飲みに行く。ニャンじょー君はミュージャンとしてこの世で自分の使命を果たそうとしている雄偉な青年だ。昨日、ライブで、ライブあけで仕事に来てくれた。ひとまず、感謝。彼の仕事は最高だ。

で--飲みに行っていろいろと話をするが、まぁ20歳なのでしょうがない部分もあるのだが(経験値不足に由来)、何かをめざす上での自分の根本原理が肝要であり、そこが決まっていない限り、本来的な前進ができないよな!って話になりました。
いわずもがな(私も含めてですが)、そこがハッキリと決まっていない限り、人間は、七転八倒の不の輪廻から脱出することは不可能だ。

そこで思い出したのが上述の引用です。
このことは、主語を宗教だけにおかずに、自己の信念・思想・哲学と置き換えてもいいと思うのですが、腹が決まっていない限り、いずれにせよ、本物には到達できないよなァと実感しました(ニャンじょー君だけでなく宇治家さんも含め)。

ただし、腹を決め、一人荒野に立つほんものの人間は、一部屋に住む住人ではなく、迫り来る物事に様々な角度から対処できる多層階の住人であることだけは理解できる。

さて、酒を飲みながら(「一の蔵」高いぞぉ!飲み屋に対して!!)、グッチ裕三のハッチポッチステーションの音楽性は高いなぁ!!と心地よく語りあった時間でした。

ニャンじょー君、ありがとう!!

さて、いずれにしましても……、
「我以外皆我師」(吉川英治)というこころねが欠落した、開き直った増上慢になった人間には、人生の前進はない!間違いない!

人は往々にして「我以外皆我弟子」と開き直り、一部屋の平屋が全世界だと錯覚しながら、二階の世界に不平をいう、つまらない人生を送りがちになるモノですから、。

すこしよっぱらいモードの宇治家参去でした。

つーか酔っぱらっている宇治家参去です。

You Tube で グッチ裕三、ハッチポッチステーションはこちらから!!!

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「葡萄のみのり」

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Photo

「葡萄のみのり」
思ひ出の空虚なる時
頭の中に歌う秘言、
聴け、そは、わが血の歌ふ声…
はるかなる幽けき、音楽。

霊魂の飛び立ちし時、
聴け、そは、わが血の咽び泣き、
曽て聞きたるためしなく
いくほどもなく 黙す声。

赤き葡萄の血のうから、
かぐろき脈の 葡萄酒よ、
おお酒、おお血、神と崇めむ。

歌へ、泣け、思ひ出を逐ひ
霊魂を遣らひて、暗闇に
哀れなるわが脊椎を呪縛せよ。
    --P.ヴェルレエヌ(鈴木信太郎訳)『ヴェルレエヌ詩集』(岩波書店、昭和28年)。

さて、いよいよ解禁ですね。ワインも時々楽しむ宇治家参去さんです。取り立てて、ボジョレーが好きというわけではありませんが、旬のものを旬に楽しむことは大事です。

春は筍、夏はトマト、秋は松茸、冬の白菜……。
一年中楽しむのは、日本酒とビールですが、それにアクセントを添えるのが、ワインでしょうかね。

本日、23時より解禁の準備を終え、先ほど帰宅しました。
陳列されたワインたちは、まるでお花畑のようです。

さて今年はどんな味でしょうかね。

冒頭の「葡萄のみのり」は、フランスを代表する象徴派の巨匠ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)の詩集から。
ヴェルレーヌは詩における音楽的要素を重視し、多彩に韻を踏んだ特徴が作品には見られます。数々の名詩をつむぎだしたその生涯は破滅的であったそうです。

「秋の日の ヴィオロンの……」で始まる詩が最も人口に膾炙された詩でしょうかね。
第二次大戦終盤、ノルマンディー上陸作戦が敢行される際、その開始を告げるラジオ放送での秘密暗号にこの詩が使われました。

Chanson d'automne   Paul Verlaine

Les sanglots longs
Des violons
 De l'automne
Blessent mon coeur
D'une langueur
 Monotone.

Tout suffocant
Et blême, quand
 Sonne l'heure,
Je me souviens
Des jours anciens
 Et je pleure

Et je m'en vais
Au vent mauvais
 Qui m'emporte
Deçà, delà,
Pareil à la
 Feuille morte.

落葉
秋の日の
ヰ゛オロンの
ためいきの
身にしみて
うら悲し。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。
    上田敏『海潮音―上田敏訳詩集』(新潮文庫、1952年)。

「さだめなく とび散らふ 落葉」に思いを馳せながら、ワインでも飲みましょうかね。

Book ヴェルレーヌ詩集 (新潮文庫)

著者:堀口 大学,ヴェルレーヌ
販売元:新潮社
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海潮音―上田敏訳詩集 (新潮文庫) Book 海潮音―上田敏訳詩集 (新潮文庫)

販売元:新潮社
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人の死を巡り噴飯するマイノリティー

Dai

Gaiko

 九月一日、我が家にモルモットがやってきましたが、二ヶ月もすぎるとかなり大きくなってきました。最初は人間に“ひいて”いましたが、最近では慣れてきたのか、さかんに自己主張するようになってきました。うるさいほどです。

 「うちの子供に生命に関して学んでもらうためには、やはり動物を飼い、その生き死にを見てもらうのが一番いい」と、細君が判断し、飼い始めましたが、以前から飼っていた熱帯魚や金魚、亀なんかに比べると世話が大変ですね。ただし、その分、生命に対する畏敬を学ぶ機会は増えているのかなアとも思ったりします。

 人の生き死に関連した学の領域に“死生学”という学問が存在する。死生学の開拓者の一人、フィリップ・アリエス(Philippe Ariès)によれば、「人間は死者を埋葬する唯一の動物」である。確かに、ともがらのなきがらを埋葬する動物は人間以外に存在しない。

 さて、現代社会とは、システムとして基本的に死を捨象したところに存在し、死をタブー視する世界観で構成されている。振り返ってみれば、近代以前においては「死を想え」と訳されるメメント・モリ(Memento mori,ラテン語で「自分が必ず死ぬことを忘れるな」という意味)との警句に代表されるように、死は最も重大な思索の対象であった。

 しかしながら、近世以降、宗教的な権威が低下し、相対的に世俗化が加速するところに成立した近代社会は、人間生活から死を追放しはじめる。それまでは、国王の死や王家の断絶によって、文字通り“死”を迎えたのが前近代的な国家であるが、それとは対照的に、18-19世紀以降に形成されてくる近代国家(国民国家体制)においては、観念上の「国家」が死ぬことはありえない。近代国家は、国民の集合的な人格に立脚しているため、(名前を持たない)国民が旺盛に活動している限り、国号を変えても存続し続ける。もともと生活のなかに根ざした死や狂気はやがて研究の対象となり、人の生のみに集約された公衆衛生(学)が誕生すると、生活から病を追放した文化が形成され、いつしか死は病院に囲い込まれ、神や仏とは無縁のしらないところで人は死んでいく。

 第一次世界大戦は、そうした傾向を加速化させる。騎士と騎士とが名誉をかけた一騎打ちや英雄たちは戦場から消え去り、代わって登場したのが機関銃、戦車、航空機、毒ガスなど、国民皆兵と近代産業にささえられた総力戦(total war)の登場である。総力戦とは、国家が国力のすべて、すなわち軍事力のみならず経済力や技術力を平時の体制とは異なる、総動員態勢で争う戦争の形態である。その勝敗が国家の滅亡そのものと直結するために、途上で終結させることが難しい。またその影響は市民生活の隅々にまで及んで、“根こそぎ”動員してあらゆる国力が戦争に運用されるのである。

 さて、根こそぎ動員の要になるのは国民たちだ。兵士だけでなく、産業に従事する健康な壮青年の確保・育成・メンテナンスが国家の前途を左右する。福祉国家という美名のもと、死と切りはなされた生の持続と増産が国家的なプロジェクトとなるのである。

 死はどこへいくのであろうか--。

 「哲学は死のリハーサルである」といったのはソクラテスであり、プラトンは「哲学とは死の練習である」と語った。「人間存在とは常に死に関わっている〈死への先駆的存在〉である」と語ったのはハイデガーである。

 ながながと書きましたが、<死>と切りはなされた<生>が謳歌され、<死>が隠蔽された社会のひずみと人間のゆがみを感じる宇治家参去です。

 七月に、北海道(札幌市)へ大学の通信教育部のスクーリングに行って来ましたが、そこでも、<死>と<生>の問題が話題となりました。なにせ、科目が『倫理学』ですので、当然検討課題になるわけですが、受講された婦人の学生さんから、小学生の死生観の報告があり、驚愕したのを覚えております。詳しくは、最後にその新聞記事を載せますが、端的に言えば、ひとびとがますます「人の死」に無知になってきているという事実でした。

 宗教的には「死んだ人間は生き返る」と考えることは普通であるし常識だ。仏教では成仏を説き、キリスト教でも、永遠の生を説く。その意味で文字通り「死んだ人間は生き返る」。ただし、今のひとびとが考える「死んだ人間は生き返る」のはそうした文脈ではなく、物理的に、死んだ翌日に、死ぬ前とおなじカタチで“よみがえる”ということだ。「テレビやビデオのドラマで事件や事故、自殺等で死んでも、翌日の別の番組で生きて出演しているから」「生き返る」のだそうな。

 まともに考えれば噴飯ものだが、噴飯する方がマイノリティーなのが現状なのでしょうか。恐ろしい未来をかいま見たような気がします。

 ともあれば、うちの子供は、ダイくん(モルモット)の生老病死を目撃することで、生命の死を見つめてほしいとおもう宇治家参去でした。

◇高橋悦男「『人の死』に無知な子供たち 現実直視させる教育を」、「私の発言」、『北海道新聞』(2004年9月18日(土)付)。
 六月に長崎県佐世保市で起きた小六女児殺害事件は、今でも信じられない出来事であった。事件の後、私が代表を務める「北海道教育問題企画」は、子供たちの死に対する考え方を知るために、全道の小学六年生千人を対象にアンケートを行った。この組織は一九九八年に設立され、現在、現役・退職教師、主婦ら約五千人の会員がいる。調査は六月から七月にかけ、元会員などの協力も得ながら、離島も含め道内の約二百校を直接訪れて質問要旨を渡し、児童らに答えてもらった。その結果、驚くべき実態が分かった。
 質問は二つ。初めに「あなたは人が死んだらどうなると思いますか」と尋ねた。答えは五つの選択肢から選んでもらった。結果は「生き返ると思う」が85%と最も多く、「この世からいなくなると思う」が6%、「土に返ると思う」が4%、「天国に行く」が3%、「分からない」が2%と続いた。
 二つ目は「生き返ると思う」と答えた子供たちに理由を尋ねた。この答えも選択形式で、「テレビやビデオのドラマや事件や事故、自殺等で死んでも、翌日の別の番組で生きて出演しているから」が55%、「マンガや劇画で死んでも返信して活躍しているから」が25%、「家のじいちゃんばあちゃんがずっと長生きしているから」が7%、ほかに「家の親戚で人が死んだことがないのでよくわからないが生き返ると思う」など13%だった。
 ある程度は予想していたとはいえ、これだけ多くの子供が人の死に無知なのには衝撃を受けた。原因を分析してみると、第一に考えられるのは核家族化、少子化、高齢化社会により家族の死という経験が少なくなっていることだ。第二はドラマやマンガ、劇画の影響。第三は死について家庭や学校で現実の世界の出来事として具体的に教えず、むしろ避けてきた結果だと思う。
 このままでいると子供たちがいつ被害者や加害者になるか分からない。悲惨な事件の再発を防ぐために、家庭や学校での人の死について具体的に事実を教え、簡単に「生き返る」という妄想をかみ砕いて払しょくすることが必要である。さらに「生命に対する畏敬の念」をじっくりと育てていくことが大切だ。家庭と学校の密接な連帯があらためて求められている。(北海道教育問題企画代表=札幌)

存在と時間〈1〉 (中公クラシックス) Book 存在と時間〈1〉 (中公クラシックス)

著者:ハイデガー
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Sein Und Zeit Sein Und Zeit

著者:Martin Heidegger
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わが身一つの 秋にはあらねど

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月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど
大江千里
    --「巻第四、秋歌上」『古今和歌集』より

ようやく晩秋らしくなってきました。
宇治家さんはこの季節が一番好きです。

澄みきった清泉な空気と風のにおひ。

そして、遙か彼方までつづく秋の空の藍さ。

冬の訪れを予感させる凍てつく寒さの月光の夜もすばらしい。

学生時代、この季節になると、大学祭の準備の打ち合わせや用意で、1ヶ月近く、日吉周辺を訪れていました。
早朝打ち合わせをして、その後、学食で朝食をとり、一服して、部室で仮眠(仮眠が本眠になってしまい、そのまま授業をすっとばす事の方が多かったですが)。その後、三田まで授業を受けに行き、その後、また日吉周辺へ戻るという生活は、どこか夢の世界のようでありました。
秋の月にでも魅了されたものでしょうか。なにものにも代え難い学生時代だったと思います。

さて、その学食関連ですが--、
今日は日中、講義で大学へ出講。久しぶりにはやくついたので、学食で昼飯を食べました。この大学には、学食といいますか、食事をとれるところが、6-7カ所あり、おそらく多い方でしょう、まだ全部は制覇していません。

今日は、日替わりランチ(肉)。鶏肉と茄子を素揚げしたものを、大根おろしと出汁で煮込んだもの(なんといえばいいのでしょうかね)と、白飯、味噌汁、麻婆豆腐の小鉢がついて420円。

やっぱり安いよな。

現在では、学食はほとんど利用しないのですが、たまにはいいもんですね。

古今和歌集 (岩波文庫) Book 古今和歌集 (岩波文庫)

著者:佐伯 梅友
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【覚え書】「晩秋の日本酒」

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新聞を読んでいたら、日本酒に関する記事が載っていたので紹介します。

◇大島透「晩秋の日本酒」、『毎日新聞』(2007年11月11日(日)付)。
 若山牧水のこの歌を思い出すと、日本酒が無性に飲みたくなってくる。
 白玉(しらたま)の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり
 秋が深まると、なぜ酒が恋しくなるのだろう。肌寒くなるので温まりたいという単純な理由がある。しかし、ここは想像を広げてこう考えたい。農耕民族の古代の記憶が秋の酒を求めるのだと。
 大陸と孤絶し、四方を海に囲まれた日本は、独特の酒を育ててきた。日本酒の味わいは、この列島内で純粋培養された。世界に類似の酒はない。稲作が生んだ日本酒は、村人たちが豊作を神に感謝するため、神とともに集団で飲むものだった。だから実りの秋と新酒は切り離せないのである。
 ところが農業と同様、日本酒も国際化の波に翻弄(ほんろう)されている。日本酒造組合中央会によると、清酒の輸出が増える一方、国内の消費量は減り続け、10年前の6割足らずになってしまった。海外で広がる日本食ブームとは逆に、国内では洋食や中華など「食卓の国際化」が進み、清酒と合わなくなってきたのだ。
 造り酒屋の数は10年前の2185から1798に減った。387もの個性的な味覚を持った小さな文化の灯が消えたことになる。そこで言いたい。この列島の歴史を背負った、世界に類のない文化を、列島の住民が守れなくてどうする。
 --と、まあ、いろいろな理由を見つけては、そのつど酒を飲みたがるのが、昔からの酒好きの習性のようです。そんなわけで今夜も、季節柄おいしくなる鍋物でも用意して、ささやかながらわが国の農業と文化の保護に貢献したい。(報道部)

文化に対する気負いはないが、造り酒屋の減少にはおどろいた。たしかに「個性的な味覚を持った小さな文化の灯が消えた」のでしょう。

そうならないように、わたしも“貢献”していきます。

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吉野博士を語る

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博士論文の執筆を再開した宇治家参去です。

研究対象は、いわゆる、吉野作造です。

吉野といえば、大正時代、「民本主義」を唱え、大正デモクラシーをリードした論壇の雄です。歴史の教科書なんかで、そっと、そんなことが書かれていると思いますが、吉野作造は単なる政治学者・評論家ではなく、存在基盤の根柢に信仰をずしりと据えたクリスチャンデモクラットです。
お恥ずかしながら、わたしも、大学院で吉野作造と出会う前、彼がキリスト者だったということは知りませんでした。
ただ彼の文献を読み始めると面白いこと、面白い。
吉野といえば、いわゆる「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」をはじめとした政治論文が有名ですが、実は、一番面白いのはエッセーとか批評です。論文ではなく、そうした文章にその人柄でてくるのだなアと実感します。

ま、ひとつ。

西洋で帽子を取るのが礼だとなつて居るのは男子に限るので、婦人については却つて帽子を取らないのが礼である。人の家などへ行つて帽子を取る必要を感ずると、御免下さいと断つてから取る。男子の礼儀を見て之を一般西洋通有の礼儀と誤解した日本の警察官などが、貴顕の前に盛装して出た西洋婦人に脱帽を命じて彼等を呆然たらしむることが屡々ある。自分でいゝと思つて居ることが、対手方の誤解からわるい事と評価されて面喰らうと云ふ事は官憲との交渉に於て昨今我々の屡々経験する所である。殊に思想問題について、分けても国家に関する思想の問題について、斯う云つたやうな社会的矛盾は最近頻繁に目撃させられた事は言ふ迄もない。
    --吉野作造「現代通有の誤れる国家観を正す」、『中央公論』1921年1月号。

吉野の民本主義論には、主権の所在を問わないなど、もちろん時代的制約がある。しかし、それを批評しているのは制度としての民主主義が一応は存在している現在からの視点である。しかし、時代的なコンテクストをふまえた場合、それは、確かに現代的には欠陥のある方法であったとしても、それは発言に対する制限が当たり前であったあの時代に、ぎりぎりのところでの攻防戦をやっていたことは評価せざるを得ません、といいますか拍手喝采です。同時代人ではありませんが、それは言い過ぎだろう!なんて、読んでいるこっちまで冷や汗が出るような言い方なんかもしていますが、ともかく、彼の論法で面白いのは、現場での特殊的問題(日本には日本のやり方があるんだから、外から文句をいうなー的な開き直った権力者たちにの主張)に対して、根柢を覆すような、一段上位のスタンダードを示しながら、やんわりと、権力者たちに「とは言っても、アナタ形のやっていることは、冷静に考えると、チトおかしいよナ」という言い方です。

上に引用した、帽子の礼儀に関しても、文字を追うだけでも痛快です。

さて……

 デモクラシーが徹底的に社会の各方面に実現するが為には、人格主義が人類の間に生きた信念として働て居ることを必要とする。理論は之よりかゝる信念の活動力を助けるには相違ない。然し活動力の本源は何処までも之を宗教的信仰に求めねばならない。而して人格主義が其信仰の内容として一層著しく活躍して居るものは吾が基督教ではないか。吾々は総ての人類を神の子として総ての人類に一個の神性を認め堅く基督に結んで居る。之れ程確実な人格主義の信念がまたと世にあらうか。故に基督教の信仰は夫れ自身、社会の各方面に現はれて直にデモクラシーとならざるを得ない訳である。
    --吉野作造「デモクラシーと基督教」、『新人』1919年3月。

 人間の仕事を社会的なもの、経済的なもの、政治的なもの、純粋に宗教的なものというように完全に区分することはできない。私は、人間の活動から遊離した宗教というものを知らない。宗教は他のすべての活動に道義的な基礎を提供するものである。その基礎を欠くならば、人生は「意味のない騒音と怒気」の迷宮に変わってしまうだろう。
    --M・ガンジ、K・クリパラーニー編(古賀勝郎訳)『抵抗するな・屈服するな--ガンジー語録』(朝日新聞社、1970年)。

 上の言葉は吉野作造とガンジーの言葉から。基盤をおく宗教や文化的伝統に関して両者をみると全く異なる出自だが、宗教を人間存在の根柢におき、そこから社会のあり方や人間の意味を問い続けた二人の思想は、どうやら共鳴しあっているように思われる。

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投獄された智の勇者たち

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日本の民俗学の草創者の一人にして、民俗学という枠にとどまらず、生涯、博覧強記の智の巨人であったのが、南方熊楠(みなかた・くまぐす)である。
その彼の思想を読み解く優れた入門書の一冊が、鶴見和子『南方熊楠』(講談社学術文庫・昭和54年毎日出版文化章受賞作)である。
この本との出会いが、宇治家さんを、南方熊楠の著作を片っ端から読ませるようになったきっかけだ。熊楠の著作を読まなくなって久しいが、青春時代に熱中した人物の一人である。
さて、昨日、本棚を整理しながら、再び手に取った同書に吸い寄せられるように再読する。著者の鶴見和子女史に関しては、これまで何度も日記で書いているのでくどくどかき立てるまでもないが、彼女自身も社会学というちっぽけな学問の枠組みにとらわれず、優れた業績を次々と残していった智の巨人である。

南方熊楠に関する文献や論文を読んでいるとどうしても、熊楠の思想的な方法論としての「南方曼荼羅」とか、東西文明を広汎にわたって狩猟した民俗論とか、そうしたものに眼が向きがちになってしまう(とはいえごく最近の関連論文は読んでいないのですけどネ)。たしかに熊楠の持つ思想の卓越した独創性を無視することはできない。しかし、それだけにとどまらない、世界史的な智の巨人としての側面が存在すると思われる。そうしたところを本書はそっと教えてくれるのである。

その一つが彼女のいう「南方熊楠とヘンリー・ディヴィッド・ソローの親近性」というところである。

 自己の考えを、生活の中で実践したという意味で、二人とも思想家であった。南方が『方丈記』の訳業を終えたのは、イギリスから帰国して、紀州那智の山奥に独居していたときである。那智山中の独居が、ソローのウォルデン湖畔の自然の中の「孤独」に深い共感をよびおこしたと考えられる。
 ソローと南方の劇的な類似は、投獄事件である。ソローは米墨戦争に反対して、六年間人頭税を払わなかったために、一八四六年七月投獄され、一夜を牢獄の中で明かした(ソローがたった一夜で開放されたのは、多分伯母がソローには知らせずに、人頭税の滞納金を支払ったからだともいわれている)。たった一夜のおかげで、ソローは不朽の名著「市民の不服従」を書いた。これを読んだガンジー(Mahatma Gandhi,1869-1948)、キング(Martin Luther King,1929-1968)等によってうけつがれ、非暴力不服従運動の世界史的な潮流を創った。一九七〇年代には、『ソローが牢獄で過ごした一夜』という劇が書かれ、オハイオ州立大学を皮きりに、アメリカ全土の大学およびコミュニティ劇場で、およそ百回におよび上演され、ベトナム反戦運動の高潮期に、非常な反響をよんだ。
 南方は、神社合祀反対運動に十年のたたかいを続け、その間に、十八日間投獄された。そして数通の合祀反対意見書および書簡を、書いた。
 ソローの米墨戦争反対--投獄と、南方の神社合祀反対--投獄とは、現代につらなる重要性において、またその独創的で劇的な運動形態において、東西の双璧である。にもかかわらず、ソローの「市民の不服従」ほどに、南方の「神社合祀反対意見書」は読まれていない。ソローも、南方も、いわゆる「政治的」な人間ではなかった。非政治的人間が、自分の学問的、哲学的信念から、行動をおこすとき、後の代にまで感動の余韻をのこすような、すぐれて政治的な結果をよびおこす、という意味でも、二人は近似している。
    --鶴見和子『南方熊楠』(講談社学術文庫、1981年)。

非政治的人間が、自分の学問的、哲学的信念から、行動をおこした余韻は、どこまでも続いていく。目の前の不正や虚偽に対して、心底から、溌剌としたNOを叫ぶ時、それは本物になるのであろう。

ともあれ、投獄された智の勇者たちこそ、“本物”の“等身大”の“人間”である。

 さて、最後に、南方熊楠には「日本にあるほどのことはヨーロッパにあり、ヨーロッパにあるほどのことは日本にもある」という人間の普遍性についての信念がある。地球的規模で固有性と普遍性をどのように識別し説明するかが、南方熊楠の課題であったと鶴見和子は解説するが、水俣病へ深い関心を示した彼女の横顔を思い出すと、どうしても鶴見和子と南方熊楠が重なって見えてしまうのは、おそらく宇治家参去ひとりではあるまい。

ちなみに以下はその記念館のURLです。
http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/

南方熊楠―地球志向の比較学 (講談社学術文庫 528) Book 南方熊楠―地球志向の比較学 (講談社学術文庫 528)

著者:鶴見 和子
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人材育成を放棄した組織に未来はない

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 何らかの閉塞状況を前にした人間の取りがちな行動は、“極端”と“徹底”であり、性急に白黒をつけたがる。

 ご多分にもれず、市井の職場(業界中堅GMS)でも、成果主義のかけ声がけたたましくこだまする。

 いうまでもなく成果主義の目的は従業員のやる気を“煽って”会社の業績を向上させることにあるが、その裏、実は、成果をあげぬ従業員を“炙り出して”人員を“整理”することに大きな目的が存在する。
 とはいえ、この発想自体は経営学的には初歩的な対処方法である。“使えない”社員を整理し、人件費を圧縮させることに異論はない。

 ただ……しかし……、ここには見逃しがち大きな落とし穴も存在する。
 ひとつは、“整理”という美名のもとで、その組織が「人材」を失う可能性が存在することである。成果主義の徹底は、長期雇用という視点に立って考えるならば、組織内での“人材育成”を放棄することにつながりかねない。人材育成とは即席栽培とは全く異なる、時間もカネもかかる大事業である。長期的スパンで見た場合、恒常的な人材育成は不可欠だ。しかし、目先の利益にとらわれた組織は、そうした教育や薫陶といった部分を“極端”に切り捨ててしまう。

 しかし、長い時間で見た場合、そうした傾向はいかがなものか……。
 結果は、「人物」が育たず、長い目でみれば大きな不安定材料を内部に抱え込むことになってしまう。後継者を自分で切り捨てた結果は、組織外から莫大な労力を払って人材をスカウトする状況になってしまう。

 さてもう一点は、成果主義の徹底は、過度の結果主義を招くことである。一度達成された結果が水準となり、より高い目標を要求されるようになると、人は過度の心理的圧迫を蒙ることになる。たしかに、より高い目標を設定し、前進していくことは重要だ。しかし、結果しか見られなくなってしまうと、目標に対する“プロセス”や“新しい発想”は出てこなくなる。「なにをやったか」だけで評価され、「なにをやろうとしているのか」に目が向かなくなる。ここには創造性は皆無である。

 社会全体としては、景気は回復基調にあるといわれるが、まったく実感もなく、職場には創造性も触発も、高い目標をクリアする工夫も感じられないと実感する宇治家参去です。
 ご多分に漏れず、うちの職場も、今月、管理職限定だが、全社で、500人ちかい50代プラスマイナス5歳くらいの人々が、早期退社する。すぐれた人材もかなり退社するのですが、「去るも地獄・残るも地獄」です。

「世の中は黒か白かという単純なものでなく、中間色のさま ざまな色合いがあり、理屈で割り切れるものではない」
    --池波正太郎『男の作法』(新潮文庫、1984年)。

 たしかに業績を出したのか否か白黒を決着させる視座は必要だ。しかし、さまざまな取り組みや創造性を否定し、人を育てることを拒否した組織はどんずまりだ。

 その民間企業に、いつまでも居る気がない分気楽ですが、居ざるを得ない人をみていると、胃が痛みます。

 とりあえず、本日は、風邪をおして出勤してきてくれたバイト君を励ます為に、終業後焼き肉です。

 で……帰宅すると、夕食がテーブルの上に存在していた……。

 食べとかなきゃ、細君は怒るだろうな……。

 黒白でもない、中間色をさまよう宇治家参去でした。

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怪獣は御府内に現れない

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 あらためて、わたしが思ったのは、果たしてウルトラマンは東京に現れたのだろうか、という疑いである。何故ならば、ウルトラマンは江戸を引き継いだ東京の範囲には、あまり現れていないからである。
 文政元年(一八一八年)江戸城を中心として、いわゆる朱引きで定められた江戸の範囲(御府内)は、東は荒川に及んでいるが、西は現在の区制でいえば、山手線の外はほとんど入っていない。練馬も、中野の大半も、渋谷の一部も、杉並も、世田谷、目黒、品川、大田の各区も蚊帳の外である。
(中略)
 わたしの抱いた疑いは、御府内ではなく、西方の東京郊外に、怪獣や宇宙人やウルトラマンたちが頻繁に現れたのでは、ということだ。撮影所がそっち方面にあったから当り前だ、といわれればそれまでだが。
(中略)
 ウルトラマンは昭和後半の申し子だと思う。アトム、仮面ライダー、マグマ大使、鉄人28号、ガンダムなどなど、とならんで、戦後を彩ったヒーローのひとりである。
 昭和三十年代後半から四十年代にかけては、ヒーローや怪獣があばれるにふさわしい街の佇まいが、東京にはあったのだ。ゴジラが再生して、新宿副都心に立ったときの卑小な感じを見て、怪獣も出現しにくい世の中になった、と思ったことがある。その感じは、現在さらに増幅され、ほとんど怪獣や超人は現代の東京には現れないだろう、という気持ちを抱いている。
 ビルの高さが百メートルを超え、怪獣がそれを蹂躙し、ヒーローと四つに組むと、人間とのバランスはさらにわからなくなる。
    --実相寺昭雄『ウルトラマンの東京』(ちくま文庫、2003年)。

 四年前まで中野坂上に住んでいましたが、久しぶりに訪れると、変化のスピードに驚いた。中野には、大学入学以来、結婚するまで、かれこれ十五年近く住んでいましたが、あれよあれよと駅ビルがそびえたち、木造の安アパートが壊され、瀟洒なマンションへと再開発がすすみ、かつての面影がなくなりつつある現在です。

 仙人のような暮らしをしていると変化のスピードについていけない宇治家参去です。
 今日は子供が風邪で幼稚園をお休み。
 懐かしい怪獣消しゴムで遊んでいました。

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「慎みながら」「楽しんで」

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 今日は、休みなんですけど、健康診断のため、昼過ぎに市井の職場へ向かう。
到着した途端、細君から電話が……。
 幼稚園から帰ってきた子供が熱っぽかったので、細君が子供を病院へ連れて行ってたのですが、家の鍵を持たずに出ていたらしい。面倒なのですが、再度自宅へ戻り、鍵を渡すはめに。予想外の運動で、検診を受ける前に疲れ果ててしまう。

 さて、検診はいつもの如く、肝臓がひっかかる。すこし酒の量を考えないとなぁ。
 ただ、医者からは別に酒はほどほどにとは、言われなかった。
 「慢性的に風邪っぽいです」と言ったので、そちらの方が重点的な対象となったからだろう。医療機関で再度検査を受けろとのことでした。

 いずれにせよ、酒もタバコもほどほどにしておいた方が一般論としてはよいのだろうが、不思議なもので、酒やタバコが良いか悪いかは個々人によって異なる部分も多々存在する。
 酒もタバコもやりつつ90過ぎまで元気な人間もいれば、その逆もいる。もちろん酒やタバコをやったばかりに早死にした人間の数は多いには多いのに決まっているが、それは、あくまでも平均の話にすぎない。自分にそれがあてはまるかどうかは自分に聞くしかない。

 宇治家さんは、酒を毎日飲む。酒が旨いうちは毎日飲んでも大丈夫だろうと思っているが、時々いきなりまずくなる時がある。体がもう飲むのはやめろ、といっているのだろうと思う。そういう時は、それ以上飲まない。タバコも同じである。

 ただし……節制は必要でしょうね。

節制(TEMPERANCE)
あらゆる種類の酩酊を克服した徳。したがって恐怖は節制ではない。なぜなら、それはつねに動物的部分に負けることであるから。慎重さは一種の節制であり、これは一種の酩酊である無謀さと対立する。官能的酩酊はもっとも恐ろしいものの仲間だ。賭け事の情念は一種の酩酊である。
アリストテレスから。「慎みながら、楽しんでいる者は節制家である。慎みながら、慎んでいるのを嘆いている者は不節制な人である」。
    --アラン(神谷幹夫訳)『アラン定義集』(岩波文庫、2003年)

無謀さを避けながら、「慎みながら」「楽しんで」酒を飲む宇治家参去でした。

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感情はあとからついてくる

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平蔵は曲折に富んだ四十余年の人生経験によって、思案から行動をよぶことよりも、先ず、些細な行動をおこし、そのことによってわが精神(こころ)を操作することを体得していた。
絶望や悲嘆に直面したときは、それにふさわしい情緒へ落ちこまず、笑いたくなくとも、先ず笑ってみるのがよいのだ。
すると、その笑ったという行為が、ふしぎに人間のこころへ反応してくる。
(中略)
(よし、来い!!)
呼吸がととのい、勇気がわき出てきた。
    --池波正太郎「兇剣」、『鬼平犯科帳 11』(文春文庫、2000年)

感情への惑溺は、錯覚をもたらし、勘を鈍らせる。
感情が行動を規定するわけではないが、感情に引きずられることが人生には多々存在する。
しかしそうとは考えず、ある行動をとれば、それに相応しい感情がついてくると考えるのはどうだろうか。思考の堂々巡りから脱却できるように、人間の躰の仕組みはできているではないかと考える宇治家参去です。

そういえば、授業の前に煙草を吸っていたら、カマキリを発見する。固まっているので死んでいるのかとおもったら、生きていた。

晩秋のカマキリ……おそらく死ぬ前のカマキリだろう。

Book 鬼平犯科帳〈11〉 (文春文庫)

著者:池波 正太郎
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上橋菜穂子『精霊の守り人』(新潮文庫)読了する

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どうも宇治家参去です。

 土曜の夕方は大学で研修でした。
 到着が18時前。もはや真っ暗ですが、ちょうど秋期スクーリングを終えた学生さん達の帰宅時間。八王子駅行きのバス停は大混雑。
正門でおりたので、本部棟へいくのは真逆で遠いのですが、ちょうど、正門では、菊の展覧会をやっており、その美しさに疲れが吹き飛びます。

 慣習的に国花と同等の扱いを受けるのが、この菊と桜ですが、またまた酒の話で恐縮ですが、確か春の園遊会には、「桜正宗」、秋の園遊会には「菊正宗」が指定されているとかされていないとか聴いたことがありますが、秋に満開を迎える菊は恐ろしく美しいですね。

 研修は30分程度おわり、そのまま市井の仕事へ直行し、なんとかこなし、ようやく家で一杯です。菊正宗を飲みたいところですが、今日は「一の蔵」でした。火を入れるのがめんどうなので、冷や奴でやりましょうかね。ショウガをすり下ろして。

 さて10/30の日記に記した上橋菜穂子さんの作品ですが、結局ブックオフでゲットできたのは、野間児童文芸賞新人賞を受賞した『精霊の守り人』(新潮文庫、平成19年)でした。いわゆる『守り人』シリーズの巻頭をかざる一冊で、独自の異世界を舞台にした女用心棒を主人公にしたハイ・ファンタジー作品といわれています。

 「バルサ(引用者注--本書の女主人公)が鳥影橋を渡っていたとき、皇族の行列が、ちょうど一本上流の、山影橋にさしかかっていたことが、バルサの運命を変えた。」

 ちょうど冒頭の部分です。運命の転変を地の文で表現する作品は、諸刃の刃で難しい書き方だと思うのですが、この物語はすんなりすすんでいくといいますか、読み手を熱中させる一冊です。ちょうど大学への往復の間に読んでしまったので、正直いって「面白い」一冊です。あまり期待してなかった部分もあったのですが、話の変化の付け方(ストーリー転変)、ディテールと女性の描き方がうまい。

 著書はアボリジニを専門とする文化人類学の研究者で知られるが、そういえば『ゲド戦記』を書いたル=グィンの両親も文化人類学者だった。そして、ファンタジー小説の大家としてC・S・ルイスやトールキンがどちらも文学や言語学の学者であったことを考える合わせると、そこには、世界の秩序を自分なりの言葉で表現したい、解明したいという強い動機を感じさせられるが、上橋菜穂子さんの作品もそうした“臭い”が濃厚だ。

 その意味で、読み捨て御免の亜流ファンタジーとは一線を画した、
 (本物の作品)
 であることは保障できます。

 興味のある方は是非。

 宇治家さんもその足で再びブックオフへ向かい、第二弾の『闇の守り人』(新潮文庫、平成19年)を早速入手したので、一の蔵でも飲みつつ、秋の夜長をたのしもうと思います。

 最後に……

 人というのは、つくづくくだらないものだ、とシュガは思った。天の理(ことわり)を知ることを一生の仕事に選んだはずの人びとが、出世の階段を駆け上がっているシュガへのねたみで身をこがしている。逆の立場だったら、自分もああいう顔をするのだろうか、と、シュガは自分に問うてみた。--そんなことはしないだろう、と思う反面、いや、やはり、ひどくねたむだろう、とも思われた。
    --上橋菜穂子『精霊の守り人』(新潮文庫、平成19年)。

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「君子の交わりは淡きこと水の如し」

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 交通ルールは何のためにあるのか。もちろん事故を減らして、死んだりケガをしたりする人を減らすためだ。しかし、国家というシステムはひとたび法律が制定されると、何のために法律があるのか忘れて、法律を守らせること自体を人々に強制する装置になってしまう。たとえば、シートベルトの着用を義務づける交通ルールがある。シートベルトを装着しないで損害をこうむるのはシートベルトをつけていない本人なのだから、これを法律で強制することはバカげている。究極のパターナリズム(おせっかい主義)である。国家の決めることは何でも正しく、国民は無知な子供みたいなものだから、国家の言うことをハイハイと言って聴いていればよい、という考えである。
 パターナリズムを許しておくと、しまいには体にいいから毎日運動をしろとか、毎日野菜を食べろと言い出しかねない。違反した奴は罰金だ。ここまで書けば、誰だってそんな制度はおかしいと思うだろう。余計なお世話だと思うだろう。オレが何を食おうとオレの勝手ではないか。しかし、そう思っているアナタが、シートベルトの着用を義務づける交通ルールをおかしいと思っていないとしたら、アナタはすでにパターナリズムに冒されている。国家指定の健康野菜を毎日律儀に食べ、国家公認の健康体操を毎日律儀にするようになるのも時間の問題かもしれない。
    --池田清彦『他人と深く関わらずに生きるのは』(新潮文庫、平成18年)。

 著者の池田清彦氏は、昆虫を専門とする科学者。「構造主義科学論」をひっさげ、代々木系の科学の真理論を批判しつづけたことでも知られる論争屋。その評論活動は、多数派の情緒的正義を討つもので、激論かつ毒舌だが、いつも読んでいて納得する部分がおおいのも事実である。

 本書のタイトルは、『他人と深く関わらず生きるのは』。しかし「他人と深く関わらずに生きる」とは「自分勝手に生きる」ということではない。自分も自由に生きるかわりに、「他者の自由な生き方も最大限認める」ということに他ならない。
世の中には様々な人間が存在する。他人と深く関わって生きたい人も、ヘソ曲がりも、お人好しも、(志向としての)ヘンタイもいる。これらの人が、皆それなりに幸せに生きるには、互いに相手の自由を尊重する必要がある。しかし、自分にある程度、(精神的・物質的なモノをふくめて)余裕ががなければ、他人の自由を尊重する寛容さを維持するのは難しい。

 問題は人だけでもない。社会全体が不況続きで、社会のなかの余裕がうすっぺらくなってしまい、どちらかというと原理主義に傾きやすくなっているのが昨今の現状だ。しかし、その社会全体も、個々の人間から形成された集団であることも忘れてはならない。

 いずれにせよ人間は一人ではいきていけない。19世紀のアナキストたちが夢想したように社会や国家というシステムを破壊し、荒野で独り生きていくことは不可能だ。だからこそ国家や社会というシステムを絶対視するのでも、滅却視するのでもなく、相対化していく視点が必要だろう。そういう意味で、そろそろ国家というコントロール装置の馴致から脱却したいものである。

とか……書きつつワーキングプアの宇治家参去です。
これから、大学へ出かけて、個人情報保護に関する「教職員研修会」です。自分の個人情報が不手際に扱われるの嫌であるとすれば、自分が他人のそれを扱う場合も、自分が嫌だと思うような扱い方をしてはならないだろう。それが互いに相手の自由を尊重する生き方の流儀の原初にあるものである。ただ、しかし、個人情報に限らず、そうした生き方の流儀が勉強会だとか研修になってしまうと、なんだかつまらないモノになってしまうのも事実である。不思議なモノですね。

秋晴れの天空と風の心地よい午後ですね。
さあ、出かけますかね。

他人と深く関わらずに生きるには (新潮文庫) Book 他人と深く関わらずに生きるには (新潮文庫)

著者:池田 清彦
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秋の『鳴門鯛』

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「人間(ひと)とは、妙な生きものよ」
「はあ……?」
「悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく。こころをゆるし合う友をだまして、そのこころを傷つけまいとする。ふふ……これ久栄。これでおれも蔭へまわっては、何をしているか知れたものではないぞ」
「お粥が、さまてしまいまする」

    --池波正太郎「明神の次郎吉」、『鬼平犯科帳 第8巻』(文春文庫、2000年)。

今日はとりあえず非番なので、外へ飲みに行くが、家族つれです。
国分寺駅北口『一文銭』で、名物の辛ミソ鍋に舌鼓をうちつつ、のどかな休日を過ごす。
初めて飲んだ徳島の酒『鳴門鯛』(辛口・純米吟醸)が五臓六腑にしみわたる。

秋はいいなぁ。

とりあえず、寝ます。

Book 鬼平犯科帳〈8〉 (文春文庫)

著者:池波 正太郎
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仮象に振り回されず

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十一月一日
コリント人への第一の手紙十五の一〇。「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、賜った神の恵みはむだにならなかった。……」--これは、おそらくあなたがたが、パウロとともに、あなた自身に許してよいかもしれない謙遜なほこりであり、そして、地上のほかのどんな名声や好評よりも、はるかにまさるものである。詩篇第九二篇、ピリピ人への手紙二の五-九。
 これに反して、この世のほまれはつねに悩みをともなうものである。これはたやすく観察できることで、特に新聞の称讃について、そうである。だから、新聞の称讃に敏感であったり、けなされた場合に腹立たしさを覚えたりする人は、よかれあしかれ、自分のことにふれた新聞記事を一切読まないのが一番よろしい。
    --ヒルティ(草間平作・大和邦太郎訳)『眠られぬ夜のたに 第二部』(岩波文庫、1973年)

スイスの哲学者で、国際法の大家であったカール・ヒルティの言葉から。
限定チルドビールを飲みながら、ヒルティの語る哲学的断章にしみいる宇治家参去です。
ヒルティといえば、三大幸福論の一書としてあげられる『幸福論』(岩波文庫)で有名ですが、こちらの『眠られぬ夜のために』も含蓄深い、明確な言葉に満ちた人生の書です。

 ひとは、この世の賛否の渦に投げ出され、その仮象に振り回されているのが現実世界である。
 称讃は人を尊大にさせ、中傷は人をめいらせる。人はだれでも、妬みや僻み、高慢と尊大の気持ちを心底に宿している。聖人君主にいわせれば、それは“卑しい感情”になるのであろうが、その心を完全に滅却することは不可能である。
 ただ、それを持っていることを認めてなお自制するのが理性ある大人ではなかろうか。他人の気持ちを斟酌することなく、己の感情の奴隷となり、自分の都合や利益を優先して、他人を自己の手段と見なすのが“卑しい人間”である。
 己に巣くう獣性を自覚したもののみが獣道を歩まずに済むのである。

 他人の評判の上に自分の安心を築こうとせず、おのれのやるべきことを自覚して、そのことにひたすら打ち込むことが肝心だ。

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫) Book 眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

著者:ヒルティ
販売元:岩波書店
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