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きわめて日本的でした……

Dr

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(『マタイによる福音書』2:1-2)

イエスの誕生時にやってきてこれお拝んだとされる東方の三博士の登場シーンです。彼らはマリアとイエスを見て拝み、乳香、没薬、黄金を贈り物としてささげたと、聖書に記されています。

どうも宇治家参去です。

最初に、東方の三博士の登場シーンをマタイ伝から引用しましたが、夕方、東方の三博士に出会いました。

どこかって?

バス停ですよ、ハイ。

目の前の小学生のランドセルの名札入れに、「三博士来訪」の聖画(カード)が入っていました。おそらくミッションスクールに通う学生さんなんでしょう。

意味をしっているのかどうか分かりませんが、なんとなく、無性にほほえましくなりましたが……

その日、その時、そのほほえましさを裏切るアイテムが同伴していました。

カードの少し上の部分をみると「○○総社」と書かれたお守りが……。

きわめて日本的ですね。雑居していました……。

クリスチャンでもない、仏教徒でもない、日本教でした。

 (日本においては)むしろ過去は自覚的に対象化されて現在の中に「止揚」されていないからこそ、それはいわば背後から現在の中にすべりこむのである。思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない。一定の時間的順序で入ってきたいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけで、いわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。

 新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向き合わずに傍らに押しやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる。

 加藤周一は、日本文化を本質的に雑種文化と規定し、これを国粋的にあるいは西欧的に純粋化しようという過去の試みがいずれも失敗したことを説いて、むしろ雑種性から積極的な意味をひきだすよう提言されている。(中略)が、こと思想に関しては若干の補いを要するようである。
 (中略)私がこの文でしばしば精神的雑居という表現を用いたように、問題はむしろ異質的な思想が本当に「交」わらずにただ空間的に同時存在している点にある。多様な思想が内面的に交わるならば、そこから文字通り雑種という新たな個性が生まれることも期待できるが、ただ、いちゃついたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい前述した不毛な論争が繰り返されるだけだろう。
    --丸山真男『日本の思想』(岩波新書、1961年)

異質な他者の雑居に創造性はない。
異質な他者同士の真摯な交わりにこそそれがあるのではなかろうかと思う宇治家参去でした。

P1020279

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