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フーコーの思い出

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 ともかく、ひとつのことがたしかなのである。それは、人間が人間の知に提起されたもっとも古い問題でも、もっとも恒常的な問題でもないということだ。比較的短期間の時間継起(クロノジー)と地理的に限られた截断面--すなわち、十六世紀以後のヨーロッパ文化--をとりあげることによってさえ、人間がそこでは最近の発見であるという確信を人々はいだくことができるにちがいない。知がながいこと知られることなくさまよっていたのは、人間とその秘密とのまわりをではない。そうではなくて、物とその秩序に関する知、同一性、相違性、特徴(カラクテール)、等価性、語に関する知を動かした、あらゆる変動のなかで--すなわち<<同一者>>のこの深い歴史のあらゆる挿話のなかで--一世紀半ばかり以前にはじまり、おそらくはいま閉ざされつつある唯一の挿話のみが、人間の形象を出現させたのである。しかもそれは、古い不安からの解放でも、千年来の関心事の光かがやく意識への移行でも、信仰や哲学のなかに長いこととらわれてきたものの客観性への接近でもなかった。それは知の基本的諸配置のなかでの諸変化の結果にほかならない。人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
 もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲り角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば--そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。
    --M.フーコー(渡辺一民・佐々木明訳)『言葉と物』(新潮社、1974年)。

ミッシェル・フーコーの『言葉と物』(原著は1966年)の末尾から。

フーコーのこの作品は、副題にあるとおり「人文科学の考古学」の試みである。フーコーは有る時代の文化のなかにあらわれた具体的な学問や思想ではなく、その根柢部分をなすものをエピステーメーと呼ぶ。知識を表象する言説それ自体ではなく、表面的に把握不可能なこのエピステーメーは、知識の諸配置のなかで、その変動に注目することでしか知ることが出来ない。だからそれを明らかにする作業が、フーコーによれば、「歴史学」ではなく「(知の)考古学」ということになる。

学生時代飽くことなく読みふけったのがフーコーですが、最近、さっぱりと読まなくなったものです。倫理学を学んでいた頃、フーコーやその他のフランスの現代思想家と呼ばれる人々の文献を乱読したもので、その難解な言い回しに翻弄された思い出が懐かしいです。

フーコーによれば、ルネサンスの時期までのヨーロッパの思考を支配してきた概念が「類似」である。その時代、言葉と物は同一の地平に存在していたが、17世紀以降、言葉は物の世界から離れ、ひとつの自立的な秩序を形成するようになる。この時代、「分類」がなされ、博物学や一般文法が誕生し、ひとびとは「交換」に注目し、富を分析するようになる。さらに時代がくだって、18世紀末になると、大きな截断がエピステーメーの中で生じる。すなわち、「分類」にかわり「歴史」が登場し、「交換」にかわって「労働」が、そして「生命」や「言語」が新しい知の諸配置を形成する。

そしてこれらの概念をつらぬいているのが「人間」という「主体」であり、ここに至りようやく、今日的な意味での人文科学が成立する。

フーコーの時代の切り方の鮮やかさに当時は驚愕したものです。

フーコーがいうように“主体的な人間”という概念がヨーロッパにおいて“最近”になって“発明”されたものだとすれば、それは時間や空間を超えた普遍的な概念ではない。
ヨーロッパで発明された“主体的な人間”という概念が制限をもったローカルな考え方であるとすれば、おそらく、エピステーメーが過去に大きな截断をうけたように、主体的な人間という概念も永続的ではなく、やがて消滅してしまうのではないか、むしろ消滅ははじまりつつあるのではないか、--そう預言めいた言い方で、『言葉と物』は引用部分のようにクローズする。

人は自分の思考や歴史性をついつい時間や空間の制約を超えた普遍的なものと思いがちだが、普遍とは何か、個とは何か、今ひとつ考え直さないとなァと思う昨今でした。

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