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人の死を巡り噴飯するマイノリティー

Dai

Gaiko

 九月一日、我が家にモルモットがやってきましたが、二ヶ月もすぎるとかなり大きくなってきました。最初は人間に“ひいて”いましたが、最近では慣れてきたのか、さかんに自己主張するようになってきました。うるさいほどです。

 「うちの子供に生命に関して学んでもらうためには、やはり動物を飼い、その生き死にを見てもらうのが一番いい」と、細君が判断し、飼い始めましたが、以前から飼っていた熱帯魚や金魚、亀なんかに比べると世話が大変ですね。ただし、その分、生命に対する畏敬を学ぶ機会は増えているのかなアとも思ったりします。

 人の生き死に関連した学の領域に“死生学”という学問が存在する。死生学の開拓者の一人、フィリップ・アリエス(Philippe Ariès)によれば、「人間は死者を埋葬する唯一の動物」である。確かに、ともがらのなきがらを埋葬する動物は人間以外に存在しない。

 さて、現代社会とは、システムとして基本的に死を捨象したところに存在し、死をタブー視する世界観で構成されている。振り返ってみれば、近代以前においては「死を想え」と訳されるメメント・モリ(Memento mori,ラテン語で「自分が必ず死ぬことを忘れるな」という意味)との警句に代表されるように、死は最も重大な思索の対象であった。

 しかしながら、近世以降、宗教的な権威が低下し、相対的に世俗化が加速するところに成立した近代社会は、人間生活から死を追放しはじめる。それまでは、国王の死や王家の断絶によって、文字通り“死”を迎えたのが前近代的な国家であるが、それとは対照的に、18-19世紀以降に形成されてくる近代国家(国民国家体制)においては、観念上の「国家」が死ぬことはありえない。近代国家は、国民の集合的な人格に立脚しているため、(名前を持たない)国民が旺盛に活動している限り、国号を変えても存続し続ける。もともと生活のなかに根ざした死や狂気はやがて研究の対象となり、人の生のみに集約された公衆衛生(学)が誕生すると、生活から病を追放した文化が形成され、いつしか死は病院に囲い込まれ、神や仏とは無縁のしらないところで人は死んでいく。

 第一次世界大戦は、そうした傾向を加速化させる。騎士と騎士とが名誉をかけた一騎打ちや英雄たちは戦場から消え去り、代わって登場したのが機関銃、戦車、航空機、毒ガスなど、国民皆兵と近代産業にささえられた総力戦(total war)の登場である。総力戦とは、国家が国力のすべて、すなわち軍事力のみならず経済力や技術力を平時の体制とは異なる、総動員態勢で争う戦争の形態である。その勝敗が国家の滅亡そのものと直結するために、途上で終結させることが難しい。またその影響は市民生活の隅々にまで及んで、“根こそぎ”動員してあらゆる国力が戦争に運用されるのである。

 さて、根こそぎ動員の要になるのは国民たちだ。兵士だけでなく、産業に従事する健康な壮青年の確保・育成・メンテナンスが国家の前途を左右する。福祉国家という美名のもと、死と切りはなされた生の持続と増産が国家的なプロジェクトとなるのである。

 死はどこへいくのであろうか--。

 「哲学は死のリハーサルである」といったのはソクラテスであり、プラトンは「哲学とは死の練習である」と語った。「人間存在とは常に死に関わっている〈死への先駆的存在〉である」と語ったのはハイデガーである。

 ながながと書きましたが、<死>と切りはなされた<生>が謳歌され、<死>が隠蔽された社会のひずみと人間のゆがみを感じる宇治家参去です。

 七月に、北海道(札幌市)へ大学の通信教育部のスクーリングに行って来ましたが、そこでも、<死>と<生>の問題が話題となりました。なにせ、科目が『倫理学』ですので、当然検討課題になるわけですが、受講された婦人の学生さんから、小学生の死生観の報告があり、驚愕したのを覚えております。詳しくは、最後にその新聞記事を載せますが、端的に言えば、ひとびとがますます「人の死」に無知になってきているという事実でした。

 宗教的には「死んだ人間は生き返る」と考えることは普通であるし常識だ。仏教では成仏を説き、キリスト教でも、永遠の生を説く。その意味で文字通り「死んだ人間は生き返る」。ただし、今のひとびとが考える「死んだ人間は生き返る」のはそうした文脈ではなく、物理的に、死んだ翌日に、死ぬ前とおなじカタチで“よみがえる”ということだ。「テレビやビデオのドラマで事件や事故、自殺等で死んでも、翌日の別の番組で生きて出演しているから」「生き返る」のだそうな。

 まともに考えれば噴飯ものだが、噴飯する方がマイノリティーなのが現状なのでしょうか。恐ろしい未来をかいま見たような気がします。

 ともあれば、うちの子供は、ダイくん(モルモット)の生老病死を目撃することで、生命の死を見つめてほしいとおもう宇治家参去でした。

◇高橋悦男「『人の死』に無知な子供たち 現実直視させる教育を」、「私の発言」、『北海道新聞』(2004年9月18日(土)付)。
 六月に長崎県佐世保市で起きた小六女児殺害事件は、今でも信じられない出来事であった。事件の後、私が代表を務める「北海道教育問題企画」は、子供たちの死に対する考え方を知るために、全道の小学六年生千人を対象にアンケートを行った。この組織は一九九八年に設立され、現在、現役・退職教師、主婦ら約五千人の会員がいる。調査は六月から七月にかけ、元会員などの協力も得ながら、離島も含め道内の約二百校を直接訪れて質問要旨を渡し、児童らに答えてもらった。その結果、驚くべき実態が分かった。
 質問は二つ。初めに「あなたは人が死んだらどうなると思いますか」と尋ねた。答えは五つの選択肢から選んでもらった。結果は「生き返ると思う」が85%と最も多く、「この世からいなくなると思う」が6%、「土に返ると思う」が4%、「天国に行く」が3%、「分からない」が2%と続いた。
 二つ目は「生き返ると思う」と答えた子供たちに理由を尋ねた。この答えも選択形式で、「テレビやビデオのドラマや事件や事故、自殺等で死んでも、翌日の別の番組で生きて出演しているから」が55%、「マンガや劇画で死んでも返信して活躍しているから」が25%、「家のじいちゃんばあちゃんがずっと長生きしているから」が7%、ほかに「家の親戚で人が死んだことがないのでよくわからないが生き返ると思う」など13%だった。
 ある程度は予想していたとはいえ、これだけ多くの子供が人の死に無知なのには衝撃を受けた。原因を分析してみると、第一に考えられるのは核家族化、少子化、高齢化社会により家族の死という経験が少なくなっていることだ。第二はドラマやマンガ、劇画の影響。第三は死について家庭や学校で現実の世界の出来事として具体的に教えず、むしろ避けてきた結果だと思う。
 このままでいると子供たちがいつ被害者や加害者になるか分からない。悲惨な事件の再発を防ぐために、家庭や学校での人の死について具体的に事実を教え、簡単に「生き返る」という妄想をかみ砕いて払しょくすることが必要である。さらに「生命に対する畏敬の念」をじっくりと育てていくことが大切だ。家庭と学校の密接な連帯があらためて求められている。(北海道教育問題企画代表=札幌)

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