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anti-pureism;危険な純粋さ

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anti-pureism;危険な純粋さ

純粋さはやっかいだ。
純粋さは、お花畑に浮かぶ蝶を装いながら、スズメバチの毒針で人を刺す。
純粋さは、他者に向けるべきでなく、自己に向けるべきだ。

anti-pureism,危険な純粋さ

ここでいう純粋さとは、「○○は△△あるべきだ」とあるべき理想像の主張である。

例えば……
「クリスチャンはこうあるべし」
     「仏教徒はこうあるべし」
         「ムスリムはこうあるべし」
                    ……等々。

「○○は△△あるべきだ」という言説自体に罪はない。
そう語る当人が「○○は△△あるべきだ」と実践すれば済むことだ。
その言説を自分自身に向け、錬磨する分には誰も文句はいわないだろう。
文句どころか称讃をうけるかもしれない。

宇治家参去がいいたいのは、「純粋さ」そのものの批判ではない。
要はどこにむけるかである。

自分に向ければ、錬磨の糧となり、他者にむければ、それは、危険な刃へ変貌する。
とくに、強要したときがそうである。

そこがやっかいなのだ。

「△△あるべきだ」の強要は暴力に他ならない。

強要するのではなく、とことん語り合い、合意をめざす対話で納得の上、受け入れてもらう方向へもっていきたいものである。

「学生はこうあるべし」--実に結構である。
「サラリーマンはこうあるべし」--実に結構である。

しかし、それができない人間も存在するし、見つめ直せば、それを受け入れたくない自分自身も存在する。

しかし、一番問題のは“強要”ではないけれど、そうしないひとびとに対してシニカルになる態度がやっかいなのかもしれない。

例えば--

「クリスチャンはこうあるべし」と思っているキリスト者Aさんがいたとする。
しかし同じ信仰のBさんは、そのようなあり方を採用していない。
しかし、ふたりの間には、その問題をめぐっての話しあいが一切存在せず、Aさんは「ほんらい、○○あるべし!」なのに、「どうしてBさんはしないのか?」とひとりで、憤る時である。

その場合、Aさんも、Bさんも“損をする”。ふたりが同時に“純粋さ”に傷つけられてしまうのである。

話しあいをしましょうよ!

古代の賢者ソクラテスは、対話は完結してこそ対話である、と語ったという。

魂と魂が撃ち合うほどの対話の結末が、全く異なる道になろうと、その両者が、両者の存在をお互いに認めあえるようになれば、血は流れない。

有史以来、様々な血が流れてきたが、純粋さの強要による流血ほど、悲しい・淋しい人類の歴史はないのではあるまいか。

民族浄化や前衛理論はもうたくさんだ。

「人はいかなるときに「野蛮」になるのか?
 自暴自棄になったとき、ではない。自分が何であるかを強烈に意識したときなのだ。そしてそれにはそぐわないもの、敵対するものを駆逐することで自分の属する世界を「浄化」する。それを求める意識の働きを<純粋さへの意志>と呼ぶ。
 まず、自分が属する共同体が「善きもの」であると確信していること。そしてそれ故に「原罪」(=もともと逃れ難い罪を背負っているという意識)を持たないこと。そしてここから「純粋無垢性」が帰結される。このことと、現実の世界の混沌とを重ね合せて考えたとき、次の問いが発せられる。
 「悪はどこからきたのか?」
 もちろん、それは「私たち」に起源をもたない。ではその悪をもたらす相手(敵)を駆除せねばならない。「浄化」することが「わたしたち」の使命なのだーそういう発想を導くことになる。
 これはいわゆる原理主義のことを差していると受け取られがちだが、フランス革命もロシア革命も、ピューリタン革命も、紅衛兵の時代も、ポルポトの時代も、実はすべてこの論理で動いていたのではなかったか? 」
    --ベルナール=アンリ・レヴィ(立花英裕訳)『危険な純粋さ』(紀伊国屋書店、1996年)。

 レヴィの言う「純粋さへの意志」とは、異なる集団を認めようとしない野蛮性にほかならない。しかしそれよりも、直視し、考えなければならないのは、己の生命自体に、巣くう野蛮性(=獣性)にほかならない。矛盾をはらむ人間自身をそのものを、一人一人が真摯に見つめ直さない限り、徹底した純粋化と不断に戦い続けることは不可能だ。

まさに--
「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ」
--池波正太郎「谷中・いろは茶屋」、『鬼平犯科帳 2』(文春文庫、2000年)。

矛盾する生命を直視せずして、矛盾をコントロールすることは不可能である。

追記:すこしつかれているのでしょうかね。思いに導かれ書きましたが、誤解を招くようでしたらすいません。
「純粋な“思い”」とか「純粋な“心根”」を揶揄したり、否定したりするのが目的ではありません。ただ、向け方によっては凶器(=狂気)になる、ただそれだけなんですが--。

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著者:ベルナール=アンリ レヴィ
販売元:紀伊國屋書店
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