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2007年12月

お約束ですが・・・

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お約束ですが・・・


皆様、本年はお世話になりました。

明年は捲土重来していこうと思います。

どうぞよろしくお願いします。

以上。

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夏のような・・・

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午前中、冷たい雨が降り出しましたが、まさに“台風一過”--。

夕方には夏のような雲がでていました。

あと数十時間で新年なのに。

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貧乏暇ナシ・考える暇ナシ

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年末で忙しく、しかも体調もよくないので、なかなか考察するとか、分析するとかできない毎日ですが、すこしで、読まないと前へ進まないので、また覚え書程度に、すこし書き残しておきます。

2 国際法の理念は、それぞれ独立して隣りあう多くの国家が分離していることを前提とする。こうした状態は、それ自体としてはすでに戦争の状態であるが(諸国家の連合的合一が、敵対行為の勃発を予防する、ということがない場合は)、しかしそれにもかかわらず、まさに、こうした状態の方が、理性の理念によるかぎり、他を制圧して世界王国を築こうとする一強大国によって諸国家が溶解してしまうよりも、ましなのである。なぜなら、法は統治範囲が拡がるとともにますます重みを失い、魂のない専制政治は、善の萌芽を根だやしにしたあげく、最後には無政府状態に陥るからである。とはいえ、これほどの国家(あるいはその元首)も望むところで、こうした仕方でできれば全世界を支配し、それによって持続する平和状態に移行しようと望んでいる。だがしかし、自然が意志することは、これとは別なのである。--自然は諸民族の混合を妨げ、かれらを分離しておくために、二つの手段を、すなわち言語のちがいと宗教のちがい(1)とを用いている。これらのちがいは、たがいに憎しみあう傾向と、戦争への口実とをともなってはいるが、それでも文化が向上し、諸原理にかんするいっそう広範囲な合致へと人間が次第に近づくことによって、平和についての同意への導くのであって、この平和は、かの専制主義のように(自由の墓地の上に)あらゆる力を弱めることによってではなく、きわめて生き生きとした競争による力の均衡によってもたらされ、確保されるのである。
(1)さまざまな宗教のちがいというのは、実に奇妙な表現である。これはあたかも、ちがったさまざまな習俗について語っているかのようである。たしかに、歴史的媒体であるさまざまな信仰方式のちがいはありうるであろう。しかしこの歴史的媒体は、宗教にではなく、宗教を促進するのに用いられるものの歴史に属し、学識の分野に属している。同様にさまざまな宗教経典(ゼンドアヴェスタ、ヴェーダ、コーランなど)のちがいもありうるであろう。だが宗教にかんしては、あらゆる人間にあらゆる時代に妥当するただ一つの宗教しかありえない。信仰方式や経典は、ただ宗教を運ぶ道具を含むだけであって、このものは偶然的であり、時代と場所のちがいに応じてさまざまでありうるのである。
    --カント(宇都宮芳明訳)『永遠平和のために』(岩波文庫、1985年)。

うえの文章は、七一歳の晩年のカントが、永遠平和の実現を念じて公表した著作『永遠平和のために』から。当時の国際情勢に対する不満が動機となって執筆され、「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされない」とカントは吐露している。

本書では、人類が殲滅戦争に突入するのを防止するための諸条項が検討され、(自由な)国家のあり方、そしてそうした自由な諸国家の連合が提唱され、常備軍の段階的廃止が訴えられている。

さて、引用部分は、「第二捕説」と呼ばれる部分で、国家が哲学者に戦争や平和の問題にかんして自由に議論させ、参加させるべきとの提言部分になりますが、哲人王思想を説いたプラトンとはちがった関与を説いています。すなわち、権力の所有は理性による自由な判断を妨げるから、哲学者が為政者になるべきではないと。むしろ現行の政体を自由に論じ、善への向かわしめるべき存在として参加せよ、そういうかんじでしょうか。権力の魔性の自覚がそこにはあるのかもしれませんが。

で--
はなしがずれてきましたが、ちょうど引用している部分の末尾で、カントが宗教を論じていますが、こういう部分を読み直しますと、宗教多元主義の議論を彷彿とさせるものを感じてしまいます。
「神は多くの名を持つ」(ヒック)ではありませんが、宗教多元主義の主張とは、さまざまな宗教が同じ社会に存在するという事実を真摯に認め、お互いの価値を認めながら共存していこうとする宗教的態度、思想である。あたりまえといえば、あたりまえの主張ですが、こうした強靭な寛容さの流儀をひとびとが身に着けていなかったがゆえに、血なまぐさい対立が続いてきたのだと思います。宗教多元主義の議論にももちろん問題性はあるのですが、現代を撃つひとつの示唆にはなっていると思います。

こうしたカントの文章を読んでみますとそういう部分もあるのかなあと思いますが、もう出勤です。

考える暇がない、宇治家参去でした。

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からだがつかれた

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やっぱり、二日続けて飲むと、チト体が疲れました。
帰宅後、再度飲んだのがいけなかった--

本年ものこり3日間。
仕事で埋まっていますが、リズムを取り戻しがんばるか。

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【覚え書】サラエボの花

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気になる新聞記事がありましたので、覚書として以下に紹介します。


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「ひと 公開中の映画「サラエボの花」監督 ヤスミラ・ジュバニッチさん(33)」『毎日新聞』(2007年12月27日付)。

 「戦争がひどくなった時、私は10代だった。レイプが本当に怖かった。私か母が犯されるという恐怖が今もリアルに残っている」。東京千代田区の岩波ホールで来年2月8日まで公開中の劇映画「サラエボの花」を監督し、初来日した。
 06年ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した映画の舞台はボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ。そこに暮らす母娘の話だが、母には娘に言えない戦時体験があった。暴力シーンは全くないが、それがかえって、見る者に主人公の不安、恐怖を抱え込ませる。
 「戦争の本当の姿が現れるのは、空爆や銃撃戦、飢餓ではない。レイプだと思う。女たちは威厳を砕かれ、ほとんど立ち直れない。あんなに醜い行為はない」
 92年から3年半も続いたボスニア紛争では、セルビア人勢力が「民族を浄化するため」と敵方の女性を組織的に犯し、妊娠させた。被害者たちに話を聞くうちに「戦争の現実より、レイプのトラウマから、被害者はどうしたら抜け出せるかに関心が向いていった」。
 そこには答えはない。「ただ、被害者に誰か愛する人がいるか、何か新たなものを生み出す創造力があれば、過去を乗り越えられるかもしれない、と思えた。作品は自分の外の世界というよりも、そんな私自身の感覚を描いたものなのです」

Jasmila Zbanic サラエボ生まれ。芸術学校の映画監督科卒。ドキュメンタリー作品が多い。夫と7歳の娘。(文・藤原章生)

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上で紹介された『サラエボの花』の公式サイトは以下の通り。
ここをクリック!



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苦労を笑い飛ばす


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浮世をただよう宇治家参去です。
きのうは、市井の職場の忘年会。
わいわいがやがやとのべつくまなく集まって騒ぐ忘年会というよりも、自分のチームの宴会といったほうがよいでしょうか--たった三名ですが、たのしい宴席を行いました。

忘年会とは、ものの本よれば、「その年の苦労を忘れるために年末に催す宴会」(『大辞林』(三省堂))だそうな。

冬の味覚に舌鼓をうちつつ、「苦労を忘れるため」の宴会といよりも「苦労を笑い飛ばす」宴会で、それぞれが、自分の飛躍を期す酒席となりましたチャップリンがヒトラーを笑い飛ばしたようなウィットで。そこには創造が存在する。


わかいヒトと飲むのは楽しく愉快でよい(自分もわかいつもりですが)。

細君によく叱られますが、どうも学生時代のノリ、学生気分が抜け出さぬ宇治家参去ですが、気がつくと、6合飲んでいた。

まだまだいけますね。

さて、さいごにひとつ。このところ三木清を読み直しているので。



伝統は元来超越的であると同時に内在的であるのである。身体のうちに沈んだ伝統はただ我々の創造を通じてのみ、新しい形の形成においてのみ、復活することができる。創造が伝統を生かし得る唯一の道である。
    --三木清『哲学ノート』(新潮文庫、昭和32年)。

忘年会ひとつとってみても、それが、酒で何ものかを忘れるための宴席であった場合、たんなる、くだらない伝統にすぎない。しかし、そこから、明日への創造と飛躍が可能であれば、創造が伝統を生かす酒席となるのでああろう。

さ、今日もこれからもう1席。
ウコンのチカラでがんばります。



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自分自身の幸福を確保することは義務である

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君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性をいつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し、決して単なる手段として使用してはならない。
    --イマヌエル・カント(篠田英雄訳)『道徳形而上学原論』(岩波文庫、1976年)。



どうも宇治家参去です。
昨日、ちょうど、詐欺に巻き込まれた(?)おじいさんの話をしましたので、そのついでに、カントの言葉を紹介します。

人格(人間の全人性)を手段としてはいけない、いついかなるときにも目的として扱わなければならない--有名なカントの名言です。

人間はともすれば、自分以外の人間を自分がなにかをなす際の“手段”として安易に“利用”してしまう傾向をもっている。ちいさなレベルから、大きなレベルにいたるまで、そうした事例には事欠かない。

オレオレ詐欺から、社保庁の役人、そしてテロリストの親玉から、反テロ戦争をけしかける政治屋にいたるまで、かれらのなかには、「他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性」を尊重する心根はまったく存在しないのだろう。彼らにとって、ほかのすべての人間は、利益を達成する手段にすぎない。

目的と手段の混同が、さまざまな悲劇を誘発してきたのが人間の歴史である。労働者のため!との叫びが、労働者自身を苦しめる結果になった革命の歴史、そして、自国民のため!とのスローガンは、結果としてその国民に塗炭の苦しみをもたらした。

まさに定言命法(君の行為の格律が君の意志によって、あたかも普遍的自然法則と〔自然法則に本来の普遍性をもつものと〕なるかのように行為せよ)ではありませんが、カントのつぶやきは、時代や歴史、そして文化と風土をのりこえ、ひとりの人間としてひろくあてはまる公理のように思えて他ならない。

さ、新年まで、あと一息。ダレることなく、「傾向によるのではなくて、義務に基づいて幸福を促進」(カント前掲書)していこうかな。

そういえば、この『道徳形而上学原論』でカントは面白いことを言っています。さいごにひとつ。



自分自身の幸福を確保することは義務である。
    --イマヌエル・カント(篠田英雄訳)『道徳形而上学原論』(岩波文庫、1976年)。



カントにおける“義務”とは、人間をしばりつける掟ではなく、人格の発展を促す跳躍板のようですね。


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著者:Immanuel Kant,H. J. Paton
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カネに使われる生活?

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先日、携帯電話の機種変更をして来ました。
ちょうど2年使っていましたので、そろそろ頃合いかなと、買い換えたわけです。
その週末の昼下がり--、手続きが終わるまで10分程度待っていると、70歳すぎぐらいのお爺さんが、来店されました。
店員へ何かを伝えようとしているのだが、いささか要領を得ない。しかし、じっくり訊いているとどうやら、怪しい(?)電話がかかってきていて、こまっているような雰囲気--。

「それは、架空請求ですよ」
じっくりと話を聞きだした店員が切り出した。

「へ?」
「(海外へ電話をかけていないのに)使ったかのように見せかけて請求しているだけですので、相手にしなくていいですよ」

変更手続きが終わったので、店を後にした。

いやはや、レトロな手法ですが、架空請求、振り込め詐欺、--盛んに展開しているようですね。皆さんもご注意を。

金銭(money n.)そいつを手放す場合を別にすれば、いくら持っていても、何の利益ももたらさないという結構な代物。教養のしるし、また社交界への入場券。持っていても苦にならない財産。
    --ビアス(西川正身編訳)『新編 悪魔の辞典』(岩波文庫、1997年)。

そこまでしてカネがほしいのでしょうかね?
カネにつかわれる生活ではなく、カネを使いこなす生活をおくりたいものです。

新編 悪魔の辞典 (岩波文庫) Book 新編 悪魔の辞典 (岩波文庫)

著者:アンブローズ ビアス
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満足の文化

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恒例ですが……
年末年始とか、夏休みになると、細君と子供さんは帰省します。
ただ、わたしの場合、仕事があるので、東京でひとり暮らしを満喫(?)です。

さて今日は非番ですので、年賀状を仕上げて投函、銀行での雑事をすませると久しぶりに休日。ブックオフにでもぶらりと立ち寄り、なんとなく眺めるための読み物をみつくろってきました。

■J・K・ガルブレイス(中村達也訳)『満足の文化』(新潮文庫、平成十年)。
■内田樹『私の身体は頭がいい』(文春文庫、2007年)。
■斉藤慶典『哲学がはじまるとき』(ちくま新書、2007年)。

しめて、950円也。

必要なものは、殆どアマゾンで済ませますが、新書や文庫は、ブックオフに限りますね。

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さて、ガルブレイスからでも読んでみましょうか。

 ……われわれが暮らしているのは民主主義、しかも満足せる快適な人々の民主主義の世界である。満足せる人々は参政権をほぼ独占している。快適な暮らしができない人々、年や農村のスラムの困窮者、不運をかこつ人々の立場を代表する立候補者などいない。これまで強調してきたように、満足せる人々の民主主義が求める政策とは、問題を先送りする短期的な政策であり、体制に迎合する政治経済思想に基づいた政策であり、制約から解放されて増強しつつある軍事力が支配する政策である。そして外交政策は、かつて決定的に重要であった他国への財政援助を中止し、軍事力に依存するようになっている。また、すでに確立されている慣習が温存され、現実的というよりは遊戯的な性格は従来どおりである。
    --J・K・ガルブレイス(中村達也訳)『満足の文化』(新潮文庫、平成十年)。

さすが、ガルブレイス。
「アメリカの最も代表的なリベラルな知識人の一人として、鋭い現代社会批判を続けてきた異端の経済学者」(あとがきより)である。
今晩は、強靱な批判精神とウィットに富むガルブレイスの文力に舌鼓です。

Book The Culture of Contentment

著者:John Kenneth Galbraith
販売元:Sinclair-Stevenson Ltd
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「哲学者の資質」

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 昨日からクリスマスイブまで世間では、三連休……。
 毎年の事ながら、年末は忙しく、宇治家参去は、市井の仕事が三連勤。
 別にどうということはありませんが、今日は、あまり忙しくなく、すこしダレてしまいました。ま、こういう一日があってもよかろうかと思いますが、すこし反省です。

 昨日、三木清の文章を紹介しましたので、その話の続きでも……。
『人生論ノート』や『哲学ノート』は壮年の三木が綴った名著ですが、本日紹介するのは、青年時代の三木が書いた哲学エッセー『語られざる哲学』から。
 末尾に「--千九百十九年七月十七日  東京の西郊中野にて脱稿」とあるとおり、大正8年の夏、青年・三木が記した内面の記録です。
 虚栄心、利己心、傲慢心の三つを排して、素直な心で、自己確立をめざす三木の語りに、引き込まれる一冊です。

さて--
本書の中盤で、三木は哲学者の資質について次のように指摘しております。

 ……私は真の哲学者の資格として次の二点を上げても間違ってはいないだろう。第一、論理的思索力の鋭さと強さ。第二、永遠なるものに対する情熱の清さと深さ。このことと関係して私が哲学者と呼ばれておる人間を三つの型に分つとしても必ずしも虚妄として退けられないであろうと思う。すなわち頭のよい哲学者、魂の秀でた哲学者、および真に偉大なる哲学者がそれである。第一の型の人々を一体哲学者と呼んでいいのかどうか私は知らない。なぜなら彼らは真の哲学者の資格として私があげた第一の条件としての論理的思索力の鋭さと深さについて、単に鋭さを示すのみであって深さをもっていないからである。学校の秀才といわれるものの特質を担ったいわゆる講壇的哲学者には頭があっても魂がない。そして深さは、それが論理的、概念的に関係しておる場合においてさえ、いつでも魂に本(もと)ずいておるからである。彼らは声高く教えようとする、彼らは堆(うずたか)き文献を作ろうとする。論理の巧妙と引証の該博と討究の周到とは彼らが得意気に人に誇示するところである。しかし惜しいことには彼らにはそれらの秀れたるものを統一して生かしまた深める魂が欠けている。いわば彼らには積極的がない。彼らは人の驚きを買うことができても人の愛を得て感動せしめることができない。ファウストがワグネルを喩(さと)したそのままの言葉がちょうど適当であるのが彼らの哲学である。

 Doch werdet ihr nie Herz zu Herzen schaffen,
 Wenn es euch nicht von Herzen geht.

 (どうせ君の肺腑から出た事でなくては、
  人の肺腑に徹するものではない。)
    (ゲーテ『ファウスト』第一部五四四-五 森林太郎訳 岩波文庫)

(中略)
 真に偉大なる哲学者とは、私が上にあげた二つの条件を円満にして高き程度の調和において兼ね具えた人に与えられるべき名である。彼の厳密な概念の間には永遠なるものに対する無限の情熱が蔵(かく)されている。彼の明るい論理の根柢には見透すことのできない意志がある。永遠なるものの希求に殆んど無意識に悩んでいる彼の意志は限りない闇と憂鬱との海を彼の奥底に湛(たた)えておる。けれどもその闇は絶対の無ではなく積極的なるもに発展すべき運命を有するものとしての否定である。その憂鬱はもたざるものの憂鬱でなく生まねばならぬものの憂鬱である。
    --三木清『語れざる哲学』(講談社学術文庫、1977年)。

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 三木によれば哲学者に必要な資質とは、すなわち、①論理的思索力の鋭さと強さ、②永遠なるものに対する情熱の清さと深さ、である。ただし、これを「円満にして高き程度の調和において兼ね具えた人」は皆無に等しく、現状は、三木が資質の紹介に続けて、批判しているとおりで、どれかだけを持ち合わせ、それに自ら酔ったようなあり方の哲学者(哲学・学者)がほとんどです。しかし、そうしたあり方では「正しく、よく、美しく生きること」は不可能である。なぜなら「秀れたるものを統一して生かしまた深める魂が欠けている」から。

 魂(心)に十分配慮しつつも、秀でた学識を兼ね備える--。たしかに大変なことですが、そうすることにより、ソクラテスやプラトン、そしてカントがそうであったように、優れた本物の哲学者になることができる--三木の語りを読み直すたびにそう思います。
 また、(宇治家参去さん自身は、たいした哲学者でもなく、たんなる駆け出しの学問の文筆者に過ぎませんが)、この一節をいつも自分の自戒としています。わかりやすく、かつ、自分の肺腑から出た言葉でものを書き、大学の授業も間断なき飛翔をめざすがごとく、高めていきたいものです。

 また、読み直すたびに感じるのは、このことは哲学者だけに限られた問題、資質ではないということです。哲学者であろうが、小説家であろうが、そして、市井の現場でそれぞれ生き抜いているひとびとであろうが、ひとしく当てはまる道理ではないでしょうか。
 ともあれ、謙虚に学びつつも、情熱の清さと深さを磨きながら、生きていきたいものです。

 さて、ぼちぼち、こうした、書き殴りの駄文を書き始めて4ヶ月ちかく経過しました。もともとの遅筆を直す目的で始めましたが、ひとつひとつの日記も、単なる言葉や本の紹介だけでにすませることなく、「どうせ君の肺腑から出た事でなくては、人の肺腑に徹するものではない」(ゲーテ)のようにしたいものですね。

その意味で言えば、酔っぱらって書いていたり、憤慨して書き殴っている時のことばに本音がでているのでしょうかね?

最後に、ちなみにですが、三木が引用している『ファウスト』の訳は森林太郎、すなわち森鴎外訳の『ファウスト』です。手元に森訳がありませんが、同じ箇所の邦訳を、すこし前半部分から一つ紹介しておきます。

  ワーグナー
だが、私どものように研究室に閉じこめられていて、
世間を見るのもたまに休日ぐらいのもので、
しかも望遠鏡で、ただ遠くからというような場合、
どうしたら弁論の力で世人を指導することができるでしょうか。
  ファウスト
それは君が心から感じていて、自然と肺腑から迸(ほとばし)り、
底力のある興味でもって、
すべての聴衆の心をぐいぐいと引摺るのでなければ、
君のいう目的は達せられまいね。
まあ相変らず坐りこんでいたまえ。そして膠(にかわ)で継接(つぎはぎ)細工をしたり、
他人のご馳走を寄せ集めてごった煮をつくったり、
君自身の灰を掻寄せた中から、
心細い火でも吹き起こしたりするんだな。
それでも子供や猿どもを関心させることはできよう、
そんなことが君のお気に叶えばだね。
けれども、本当に君の肺腑から出たものでない以上、
心から人を動かすということはできないものさ。
    --ゲーテ(相良守峯訳)『ファウスト 第一部』(岩波文庫、1958年)。

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「ディレッタントとは区別される創造的な芸術家」

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 生活を楽しむことを知らねばならぬ。「生活術」というのはそれ以外のものでない。それは技術であり、徳である。どこまでも物の中にいてしかも物に対して自律的であるということがあらゆる技術の本質である。生活の技術も同様である。どこまでも生活の中にいてしかも生活を超えるということによって生活を楽しむということは可能である。(中略)
 生活を楽しむ者はリアリストでなければならぬ。しかしそのリアリズムは技術のリアリズムでなければならない。即ち生活の技術の尖端にはつねにイマジネーションがなければならない。あらゆる小さな事柄に至るまで、工夫と発明が必要である。しかも忘れてならないのは、発見は単に手段の発明に止まらないで、目的の発明でなければならぬということである。第一級の発明は、いわゆる技術においても、新しい技術的手段の発明であると共に新しい技術的目的の発明であった。真に生活を楽しむには、生活において発明的であること、とりわけ新しい生活意欲を発明することが大切である。
 エピキュリアンというのは生活の芸術におけるディレッタントである。真に生活を楽しむ者はディレッタントとは区別される創造的な芸術家である。
    --三木清『人生論ノート』(新潮文庫、昭和29年)。

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「真に生活を楽しむ者はディレッタントとは区別される創造的な芸術家である」--。
うまいことを言いますねぇ、むかしの人は。
この文章を綴ったのは哲学者、社会評論家として知られる三木清です。
むかしの学生さん、すなわち、私の父親の世代や、その上の祖父母の世代のひとびとが学生時代には、この三木清をよく読んだそうですが、いまの学生さんたちは読むのでしょうか。

この三木ですが、1930年、マルクス主義への関わりから、検挙され、アカデミズムから干されてしまいますので、市井の文筆家としてしのがざるを得なくなりました。ですので、比較的こなれた読みやすい文章も多く残しております。ときおり、紐解くと新しい発見があり、面白いものですので、興味のある方は是非。

さて、冒頭で、三木が語っているとおり、「生活を楽しむことを知らねばならぬ」と痛感する毎日です。学問の仕事は比較的、毎回毎回発見と学びがあり、ダレる部分がほとんど無く、緊張感に圧倒されているのが現実ですが、市井の仕事やふだんの生活がその反動としてか、ルーティーン化され、彩りを失いつつあるように思えて他なりません。

もちろん、ルーティーン化されてよい部分は、それで良いのですが、生活や仕事の中で、何かを“工夫”、“発明”し、物に対して自律的である、あり方を最近、こころがけていないような気がしましたので、再び三木の著作を紐解いた次第です。

「生活を楽しむ者はリアリストでなければならぬ」--。
日常生活とは、一面において、たしかに、永遠に続く繰り返しのあり方です。しかし、その一面をリアルに見直しす中で、かたちとしては、おなじ課題を繰りかえしたとしても、ビミョウに違う、ものとの関係、自分自身との関係、そしてひととのよりよい関係がでてくるのかなと思ったりします。

お金をかければ、だれでもディレッタント的に、それなりに生活を楽しむことはできるのでしょうが、そうではなく、「ディレッタントとは区別される創造的な芸術家」として、自分の生活を見直し、組み立て直し、生きていきたいと思う宇治家参去でした。

そういえば、うちの子供も、毎日、ルーティーンワークとして、ウルトラマンのDVDを見たり、絵本をみたり、怪獣と遊んだりしています。しかし、どうやら、その様子を眺めてみると、動きとしては昨日と同じようですが、彼にそれとなく訊いてみると、毎日がリアルに前日は違うようです。

何かそこにヒントでもあるのでしょうかね?

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小賢しく無感動の状態

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Kierkegaard

 現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激にぱっと燃えあがっても、やがて小賢しく無感動の状態におさまってしまうといった時代である。……善か悪かという質の上の選言的(せんげんてき)な対立が、徐々にむしばむ反省によって弱められると、人の世にあいまいさが支配することになる。
    --キルケゴール(枡田啓三郎訳)『現代の批判』(岩波文庫、1981年)。

先日、小学校の教員をやっている先輩と話す機会があったが、いまのこどもたちを象徴する性質としてつぎのようなあり方を指摘されていた。
すなわち、「(ものごとに)感動すれば、涙までながして感動するが、場面がかわるとスイッチが即座に切り替わり、そのことの感動をわすれドライに行動する」とのことだそうな。

たとえば、ひとの暖かさや死に関して、なにがしかを学習した場合、たとえそれがうまくつくられた話であったとしても、それにのり、感動するのであるが、その授業がおわると、即座に、そうしたことを学ぶ以前の冷徹なけものになりかわる--そうした意味合いでかたったのだと思われる。

たった2-3分の立ち話でしたが……
「それは子供だけでじゃなく、(われわれも含めた)大人にも当てはまるよね」
   ……という淋しいオチで終話しました。

キルケゴールの叫びではありませんが、現代人は、物知りだが情熱がない。どの道に行くべきか、わかっているのに進まない。知らないふりをしているのがかっこいいと錯覚でもしているのでしょうか。

さて……
何かを学ぶ、何かを体得すると言うことは、その文言だけを暗記したり、公式運用のルールを覚えるだけではない。こころと実践に刻み込むのが、何かを学ぶということではないだろうかと、最近つくづく実感しております。

さて、そうした意味で、教育だけの問題でなく、つくづく学生時代からながく考えているのが近代・現代社会のあり方の問題であります。そういえば最初のキルケゴールの著作も『現代の批判』ですね。

(名前と典拠は失念しましたが)ある歴史学者が、「仮にタイムマシンがあった場合、われわれがなんとか生きていけるのは産業革命以降の時代だ。それ以前の時代では物質的な生存は可能だとしても、トータルに生きていくことは不可能であろう」(趣意)といったそうだが、まさしく、そうした社会が近代・現代の社会のあり方であり、それにどっぷりつかっているのがいまのわたし自身なのだと思います。

効率性、採算性が重視され、熾烈な競争の演じられた近代社会は、それまでの社会(人間の共同体)と根本的に全く異なるありかたを形作った。

有限即無限を誤読し、現世や浮世をを永遠と錯覚したのがいまのわたしたちの社会なのではなかろうか……。そう思わざるを得ません。

かつて、戦中に、近代の超克を論じたカトリック系の神学者に吉満義彦という知識人がいたが、他の近代の超克論者にくらべ、知名度はほとんどありませんが、その彼が面白い言葉を語っています。

中世的人間はカトリック的人間であるかぎりは歴史を通じて永遠である。それは歴史的人間規定ではなく、神学的形而上学的人間規定として本質的に超自然てな霊性規定であったからである。
    --吉満義彦「中世的人間と近代的人間」、『吉満義彦全集 第1巻』(講談社、1984年)。

吉満も、その師であったマリタンも、基本的には近代社会を批判した「中世至上主義」者である。しかし、それは、歴史的個別の事実としての西洋中世社会を最高と模し、そこへ帰れ!という意味の現世を撃つ思想であったのではなく、(歴史的中世においてたまたま事実化したわけだが)その中世のもっていた永遠なるものという価値は現代でも有効ではないのか、そう問いかけているようにおもわれます。

健全(=まとも)な「分別」とは、「分断」ではない。
健全(=まとも)な「反省」とは、閉じた「独り言」とは無縁である。
そして感情のわからない人には、ひとはついてこない。

そうした、自分自身における「創造の秩序の回復」(吉満義彦)こそ、“小賢しい無感動の状態”を跳ね返すのではなかろうか……。

で……
今日も、まとまりなくすいません。
 たまの休日でしたもんで、子供と“ウルトラマン大怪獣バトルごっこ”をしたあとに呑んだ、冷や酒がきいています。
  話半分で聞き流して頂ければ……

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とかきつつ、蛇足ですが、YouTubeに真剣な動画があったので、最後に一つ。
   You Wa Shock!(Ai Wo Torimodose)

You Wa Shock! YouTube動画はコチラから

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「愛」を「考えなさい」

 はじめて「愛」の意味について訊(き)いた朝のことを覚えている。まだ、語彙が少ない時だった。庭で早咲きのスミレを数本摘み、サリバン先生のところへ持っていった。先生は私に感謝のキスをしようとした。しかし、当時は母以外の人からキスされるのは嫌だった。すると先生は、片手で私をやさしく抱き寄せ、手のひらに「ヘレンのことを愛しているわ」と綴ったのである。
 「愛って何?」
 そう尋ねる私を先生はさらに引き寄せ、私の胸を指差して言った。「ここにあるわ」この時はじめて、自分の胸の鼓動を意識したのだった。しかしこの答えに、ひどく戸惑った。その時はまだ、手に触れられない、抽象的なものを理解することができなかったからだ。
 サリバン先生の片手に握られているスミレの匂いをかいでから、私はこう訊いた。指文字と身ぶりを混ぜた質問である。「愛って、花のいい香りのこと?」
 「いいえ、違うわ」と先生。
 私はもう一度考えた。あたたかい日差しが、ふたりの上に注いでいた。
 「これは、愛ではないの?」この暖かいものがやってくる方向を指差して尋ねた。
 「これは愛ではないの?」
 太陽ほど素晴らしいものはない、と私には思えた。太陽の暖かさのおかげで、あらゆるものが生長できるからだ。だが、先生は首を横に振った。私は意味がわからず、がっかりした。なぜ、サリバン先生は「愛」を具体的に示してくれないのだろう?
 それから一日か二日後、私は違う大きさのビーズを糸に通す勉強をしていた。はじめに大きなビーズを二個、次に小さなのを三個というぐあいに、順序を決めて通していく練習である。だが、ミスばかりしてしまう。先生は忍耐強く、穏やかに、繰り返しミスを指摘してくれた。そしてやっとのことで、配列が間違っていることに気がついた。それから、少しの間、神経を集中し、どの順番でビーズを通せばよかったのか考えようとした。すると先生は私の額に片手を当て、もう一方の手で、私の手に力強くはっきりと綴りを書いた。「考えなさい」
 その瞬間、「考える」ということばが、今自分の頭の中で起きていることを示すのだと分かった。この時はじめて、抽象的な事がらを認識したのである。
 それから私は、長い間、じっと考え続けた--ひざの上のビーズのことを考えていたのではない。いま得られた新しい視点から「愛」の意味を見つけようとしたのだ。この日、太陽は一日雲に隠れ、時折にわか雨が降った。と急に太陽が顔を出し、南部ならではの強い日差しが降り注いだ。
 私は、また同じ質問をサリバン先生に繰り返した。「これは、愛ではないの?」
 「愛というのは、いま太陽が顔を出す前に空を覆っていた雲のようなものなのよ」これだけでは、当時の私には理解できなかった。そこでやさしくかみ砕いて、サリバン先生は説明を続けた。
 「雲にさわることはできないでしょう? それでも雨が降ってくるのはわかるし、暑い日には、花も乾いた大地も雨を喜んでいるのがわかるでしょう? それと愛は同じなのよ。愛も手で触ることはできません。だけど、愛が注がれる時のやさしさを感じることはできます。愛があるから、喜びが沸いてくるし、遊びたい気持ちも起きるのよ」
 その瞬間、美しい真理が、私の脳裏にひらめいた--私の心とほかの人の心は、見えない糸で結ばれているのだ、と。
    --ヘレン・ケラー(小倉慶郎訳)『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(新潮文庫、平成十六年)。

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それは「ウォー、ウォーター」からすべてが始まった--奇跡の人・ヘレン・ケラー自伝から長い一節を紹介しました。

使用している倫理学の教科書でもヘレン・ケラーのエピソードが紹介されていますので(思考と人間の成長/言葉により世界を拡大する人間)、原本を読んでみたのですが、発見の連続です。

ヘレン・ケラーといえば、光と音を失いしゃべること(=言語)を知らなかった三重苦の人として知られています。むか~し、小学生のころでしょうかね、そういう偉人伝を読む中で、おそらくヘレン・ケラーの歩みを読んでいたと思うのですが、まず、彼女は生まれつき三重苦だったわけではなく、一歳の時の熱病で、世界から遮断されたことに驚きました。

また、赤裸々に自分の歩みを語る彼女の姿に、ふつうの人とおなじように悲しみ・泣き・喜び・愛し、そして時には怒り・嫉妬したり・叫んだ、そのありのままの姿を読み直し、ひとり涙しました。

興味ある人は是非。

さて、上の引用部分ですが、ヘレン・ケラーが初めて言葉を覚えた次のステップにあたるくだりです。
そこでは、愛とは何か、自分で考えるとは何か--具体的事例に則した、人間教育のありさまが記録されているように思えます。詳しくは措きますが、うちにも四歳のこどもさんがいますので、どう接していくのか、参考になる部分が多いです。

是非、皆様にも読んでもらいたい一冊です。

ふつうだとカタイ哲学書とかそうした文献の紹介と日々の愚論を展開するパターンですけど、たまには、こうしたアタタカイ話題もいいですよね?

奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 (新潮文庫) Book 奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 (新潮文庫)

著者:ヘレン ケラー
販売元:新潮社
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この世を撃つ内村の警鐘は鳴り響く

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指導教官に怒られてしまいますが、実は若い頃、内村鑑三が苦手でした。
頑固で、融通が利かないというイメージでしたが、最近、読み直していくと、ふと腑に落ちるところが多くあり、がらりと印象が変わってきました。

ずるずるべったりで、雪崩をうって自己の信条や信念をいとも簡単に曲げ、転向してきたものが多数を占める日本の歴史においては、内村の存在は峻厳に屹立したものがあります。

内村の頑固さは、他者へ向けられた頑固さでなく、自分自身に向けられた頑固さなのではないかと思うようになってきました(ま、本格の研究者からは違うよといわれそうですけど)。

さて、その内村の著作で、幅広く読まれている一冊といえば、やはり、『代表的日本人』ではないかと思う。もともと、英文で書かれたもので(原題は、Representative Men of Japan,1908)、JFKが、その著作から上杉鷹山を知ったというのも有名なエピソード。洋の内外を問わず幅広く読まれているようです。

今日はそこから一節を。

5 ひとり世に抗す
 故郷にいられなかった日蓮は、「法を弘めるにはよき地」である国の首府鎌倉に直行した。鎌倉で今日も松葉ケ谷と称されている地の、所有者もいない所に、自分のための草庵を建て増した。ここに法華経をひっさげた日蓮は居を定め、ひとり立って世のあやまちをただす仕事を開始したのです。大日蓮宗は、まさにこの草庵にその起源を発するといえます。身延や池上をはじめ、他の巨大な寺院、全国にある五千をこえる寺、そこにお参りする二百万の信徒、その起源はことごとく、この草庵と、この一人の人物にあったのです。偉大な自行という物は、常に、このようにして生まれるものであります。不屈の精神とその持ち主に抗する世間、その間に、永遠に偉大なるものの生じる期待があるのです。二〇世紀のひとびとは、この人物から、教えはともかく、その信仰とその勇気を学ぶがよろしい。ところでキリスト教そのものは、はたして日本で同じような始まり方をしたのでしょうか。ミッション・スクール、ミッション教会、金銭の支給、人的援助……、大いなる日蓮には、このうちなに一つありません。日蓮はまったくひとりで始めたのです!
    --内村鑑三(鈴木範久訳)『代表的日本人』(岩波文庫、1995年)。

おもえば、内村鑑三も、経歴においては日蓮と共通点が少なくない。仏教界での孤立(自立)は、日本の教界における内村の孤立(無教会主義)であり、日蓮の預言は、そのまま、内村の再臨運動にそのまま重なる部分である。

こうした背景を考え併せて、読み直すならば、内村は、みずから日本における「キリスト教の日蓮」たらんとの志が窺われる。もちろん、いうまでもないが、内村も日蓮そのものを全肯定しているわけではない。曰く、ルターやマホメットとの比較を交え、「経典崇拝者」、「闘争好き」との批判も存在する。

しかし、それでもなお、内村は、「しかし私は、たとえただ一人であろうとも、この人物のために、必要なら私の名誉をかけてもよい覚悟であります」と書きつづっている。

おそらく、日蓮の専門家からも、そして内村の専門家からもそしりを受けそうだが、内村は日蓮の姿に、自己自身の姿を重ね合わせながら、世に警鐘しつづけたのではなかろうかと思うのが実感です。

さて、凄いのは、その内村の弟子たちです。
盧溝橋事件の直後、「日本の理想を生かすために、一先ず此の国を葬って下さい」との軍国主義批判ゆえに、東京帝大の職をうばわれた矢内原忠雄。大学と学問の自治を叫び、官憲から睨まれた南原繁。そして温厚な人柄で知られ、一高の良心と謳われた三谷隆正。

もちろん門下にはそうでないひとびとも多数存在するが、そうした良心の軌跡をたどると、日本人の中にも、まだまだ、不屈の勇気と忍耐を兼ね備えた逸物がいるのだと、すこし安心したりもしますが--。

さて、こういうことを書いたのも年末で忙しくなってくると、世知辛いのが世の常です。最近、市井の職場で、上司や同僚から、いわれなき逆ギレを頻繁にうけるので、綴ってみました。

宇治家参去の美徳は、これまで一度もキレたことがないことです。不屈の勇気と忍耐をやしない、ひとびとにきぼうとうるおいをおくりつづけたいものです。

代表的日本人 (岩波文庫) Book 代表的日本人 (岩波文庫)

著者:内村 鑑三
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現世と来世 Book 現世と来世

著者:鈴木 範久
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明治の叫び

Huku

Nakae

さてさて、一寸、古い文体で始めましょうかね。

わが日本古(いにしえ)より今に至るまで哲学なし。本居篤胤(もとおりあつたね)の徒は古陵(こりょう)を探り、古辞を修むる一種の考古家に過ぎず、天地性命の理に至ては瞢焉(ぼうえん)たり。仁斎祖来の徒、経説につき新意を出せしことあるも、要、経学者たるのみ。ただ仏教僧中創意を発して、開山作仏の効を遂げたるものなきにあらざるも、これ終に宗教家範囲の事にて、純然たる哲学にあらず。近日は加藤某(ぼう)、井上某(それ)、自ら標榜して哲学家と為し、世人もまたあるいはこれを許すといへども、その実は己れが学習せし所の泰西某々の論説をそのままに輸入し、いはゆる崑崙(こんろん)に箇(こ)の棗(なつめ)を呑めるもの、哲学者と称するに足らず。それ哲学の効いまだ必ずしも人耳目に較著(こうちょ)なるものにあらず、即ち貿易の順逆、金融の緩漫、工商業の振不振等、哲学において何の関係なきに似たるも、そもそも国に哲学なき、あたかも床の間に懸物(かけもの)なきが如く、その国の品位を劣にするは免るべからず。カントやデカルトや実に独仏の誇なり、二国床の間の懸物なり、二国人民の品位において自ら関係なきを得ず、これ閑是非(かんぜひ)にして閑是非にあらず。哲学なき人民は、何事を為すも深遠の意なくして、浅薄を免れず。
    --中江兆民『一年有半・続一年有半』(岩波文庫、1995年)。

官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂(へつら)い、毫(ごう)も独立の丹心を発露する者なくして(中略)日本には唯政府ありて未だ国民あらずと云うも可なり。
    --福澤諭吉『学問のすゝめ』(岩波文庫、1978年)。

哲学するとは、自分で考えることである。
人間の生き方や考え方を規定し、社会をかたちづくる見取り図――それが哲学である。
人間は哲学が無くても“生きてはいける”--。
しかし、その生き方や判断、問題解決方法は、場当たり的となり、歴史的にも、おおむね“まともな判断”ができなくなってしまうケースが多くある。
哲学なき人間、哲学なき社会とは、船長のいない船のようなものであり、羅針盤のない、舟である。
否、<幸福>という目的にたどり着くことのできぬ永遠の旅である--。
人間とは本来「哲学する動物」である。みずからの人間性を放棄するのでもない限り、哲学を拒否することはできない。しかし、歴史上、哲学を無視した人間や社会は存在し、様々な問題点を露呈し、惨禍をまねいてきた。そのひとつが近代日本の歩みがそれである。
高校三年の秋、上に引用した二つの言葉に出会わなければ哲学とか倫理学とか、宗教学などという学問に巡り会うことはなかったと思う。

因習深い田舎に育ち、その濃密な人間関係に辟易したものだが、それは場所がかわったり、ひとりになったとしても全く変わらない。自分自身の内面を見つめ直し、考え、行動し、統御しない限り、一切変わらない。

そんなことをこのことばから考えさせれた18年前の初冬の夜でした。

“お上には逆らえない”
 “長いものには巻かれろ”
  “寄らば大樹のかげ”――。
日本の精神風土とは、権威へ崇拝と盲従、現状容認と独立心のなさに他ならない。長き伝統に培われ、それを意識することすら困難なほどの生きる様式(art of life)となっている……。

かつて、その卑屈な精神を撃ち、変革しようと苦心したのは、明治の啓蒙家たちである。いわゆる「官」(政府権力)と、「民」(民衆の権利)の争いがそれある。

福沢諭吉は重ねて言う。
日本国の歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ
    --福沢諭吉、松沢弘陽校注『文明論之概略』(岩波文庫、1962年)。

いまだ日本には、いきているひとびとの歴史なんて存在しない、そこにあるのは、官報に記された政府と権力者の歴史だけである。
そう喝破した福沢諭吉の叫びは、さすがに的を射た言葉である。
くりかえすまでもなく、福沢が大学を創立する際など、「私立」の語に込めた思いは、「官」に対する「私」の独立――すなわち「独立した個人」の育成がその眼目であった。

それなくして“一人の時には弱く、集団になると強い”精神風土を引きずっていては、「徳川の世」、封建時代と同じではないか……。

独立した個人」を育むことの弱かった日本。それは、世界へ向かう姿にも、色濃く反映していると思う。

戦前は軍事が先に走り、その後を人間がついていった。戦後は経済の後を人間がついていった。いずれも、「集団」や「力」が先行しての進出<侵略>であり、「個人」つまり「人間」は“二の次”にされていた。これに比べて、ヨーロッパのひとびとなどは、是非はともかく、まず「個人」である。「個人」が世界に飛び込み、道を開く。自らの信念に従い、「個人」としての責任をとり、行動する--。
非常に残念なことだが、日本にあっては、そうした意志、人格、独立精神が、深く根付くことはなかった。

我邦人は利害に明にして理義に暗らし、事に従うことを好みて考うることを好まず
    --中江兆民『一年有半・続一年有半』(岩波文庫、1995年)。

「哲学」がなく「考えることが嫌い」なため、愚かなシステムにおとなしく従ってきたのだ、と中江兆民はいう。
――「哲学」なき人生は不幸である。
--「考えること」なき人は、惨めである。

しかし、彼等の叫びは抜本的に日本の精神風土を変えるにはいたらなかった。――その一例が権力の前に次々に“転向”していった、“大東亜戦争”での、文化人といわれる人々の姿であり、権力に迎合したマスコミであった。
そして今なお、「地位」「人気」「富」にとらわれ、“利害に明るく、理義に暗し”という無原則な生き方をしている人があまりに多く、まじめなに考える人が生きにくい世の中はそのまま続いている。

そろそろ、そういう時代から“卒業”したいものですね。

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Book 一年有半・続一年有半 (岩波文庫)

著者:井田 進也,中江 兆民
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学問のすすめ (岩波文庫) Book 学問のすすめ (岩波文庫)

著者:福沢 諭吉
販売元:岩波書店
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文明論之概略 (岩波文庫) Book 文明論之概略 (岩波文庫)

著者:松沢 弘陽,福沢 諭吉
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題名のない忘年会

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とりあえず、疲労と風邪で体がぶるぶるふるえている宇治家参去です。
昨日夜勤明けで、大学の仕事を済ませ、本日の夜勤を終えて、市井の仕事先のバイト君とたった二人の“題名のない忘年会”をすませてきました。

結論①
“熱燗”より、やはり、“冷や”が旨い。

結論②
決意した青年は、日々成長している。

以上が実感です。

一緒にたった二人の忘年会をすませた彼は、目標に向かって、新生を歩み始めたハタチの青年だ。

夢を日本にかぎることなく、世界へ向けて、おのれをためし、勝負できる年代であり、そういう人材だ。

かれが日々かわりゆく姿を見つめながら、己の実存を見つめ直す宇治家参去でした。

とりあえず、本日は、からだがしびれていうことを聞きません(疲労+風邪+酒)。

寝ます。

最後に一発。
何か引用しておかないと宇治家参去ではないと思うので、今日は、文豪ゲーテの言葉から。

「わたしは人間だったのだ。そしてそれは戦う人だということを意味している」

「有能な人は、常に学ぶ人である」
  --ゲーテ(高橋健二訳)『ゲーテ格言集』(新潮文庫、1952年)。

なんか、いそぎばたらきをあらためないと--

ゲーテ格言集 (新潮文庫) Book ゲーテ格言集 (新潮文庫)

著者:高橋 健二,ゲーテ
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ふみことばなめき人こそ

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 ふみことばなめき人こそ、いとどにくけれ。世をなのめに書きなしたる、詞のにくきこそ。さるまじき人のもとに、あまりかしこまりたるも、實にわろき事ぞ。されど我えたらんは理、人のもとなるさへにくくこそあれ。大かたさし向ひても、なめきは、などかく言ふらんとかたはらいたし。ましてよき人などをさ申す者は、さるはをこにていとにくし。男しうなどわろくいふ、いとわろし。わが使ふものなど、おはする、のたまふなどいひたる、いとにくし。ここもとに侍るといふ文字をあらせばやと聞くことこそ多かめれ(第227段)。
    --清少納言(池田亀鑑校訂)『枕草子』(岩波文庫、1962年)。

今日は久しぶりに、手紙を書きました。メールとかそういうデジタルなものでなく、古来より伝わるアナログな手紙です。
下書きは、PCで原型をつくり、万年筆を走らせながら、仕上げていきました。

アナログな手紙もいいものです。
ひとつひとつの言葉を丹念に選び、自分の文字で書き進めていく。まさに“道”ですね。

ふみことばなめき人こそ、いとどにくけれ。世をなのめに書きなしたる……
かの、清少納言は、“手紙の言葉のダメひとほどダメ人間はいない”と書き始め、「世間を斜めから見て、書き流す言葉ほど、にくいものはない」と続けています。

時代は変われど、言葉はひとを写す鏡です。ひとつひとつのことば慎重にえらびながら、ひとびとと共有していきたいものです。

枕草子 (岩波文庫) Book 枕草子 (岩波文庫)

著者:池田 亀鑑,清少納言
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自覚:自己を自己自身の客観たらしめる主観

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年末になってくると、アカデミズム底辺で彷徨うながしの神学者でも忙しくなってくるもんです。
ま、大半は、市井の仕事ががっちりくまれ、大学も冬休み前、そして明年度の仕切直しがはじまっているので、そんなものでしょうかね。

いつものことですが、また薬を飲むのを忘れ、飲んで寝たので最高に調子が悪いです。今日もこれから仕事で、明日は朝から大学、夜も仕事。とても休んでいる間がないのですが、体の運行にも気を配りながら、日々を生きていきたいものです。

さて、人間は意識するにせよしないにせよ、様々な活動(仕事や日課、はては食事や排泄に至るまで)をしながら、生きています。そうした人間の“うごき”を丁寧に観てみると、ひとつは、そのうごきに、意識的・精神的な意味を含んだ“うごき”と、無意識的な生理的な“うごき”(たとえば、目蓋の開閉とか)があると思います。前者を「行為」と呼ぶとすれば、後者を“行動”と呼ぶことが出来ると思います。

人間も生物学的には動物のひとつですので、“行動”します。しかし、人間の場合、たんに「行い」「動く」(=“行動”)だけでなく、「行い」「為す」(=“行為”)という自覚的な動きがあると思います。日々の生活の中では、意識的・自覚的でない部分も多々ありますが、一般の動物とは大きくことなる動きが自覚的な“行為”ということになるではないかと思います。

そうした意味では、人間とは、自分の行動に対して「自覚的」に反省するいきものなのではないかと思います。もちろん、そこがうまくいかないのが世の常で、ひとびとは小さなことから大きなことまで種々七転八倒しているのだと思いますが、日常の些細なことにも、ときどき、光を当て直してみたり、まなざしを注ぐことで、同じ風景や動きもおおきくかわってくるのかもしれません。

先日紹介したジンメルが、その自覚に関して面白い言葉をのこしているので、最後に一つ。

自覚というもの、つまり、自己を自己自身の客観たらしめる主観というものは、生命の象徴、或いは、生命の真実の自己表現である。
    --ジンメル(清水幾太郎訳)『愛の断想 日々の断想』(岩波文庫、1980年)。

“自己を自己自身の客観たらしめる主観”とか“生命の真実の自己表現”なんてうまいことを言いますね。

Book ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)

著者:ゲオルク ジンメル
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ひととひととのつながりから社会を観る

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社会学の古典といえば、ウェーバーやデュルケムが有名ですが、形式社会学の祖として知られるジンメルという人物の考え方も面白い。最近、ぼちぼち、読み始めています。

読んでいて面白いのは、ジンメルが、日常生活に根ざした人と人とのふれあい・つながりに注目した点です。

たとえば、街の中……。
道を歩くひとびとをみると、歩いている人は、すれ違う人のことを気にかけながら、その傍らを通り過ぎることがある。もちろん、お互いが知らぬ間(気が付かぬ間)に通りすぎることもあるが、例えば、長い間会っていなかった友人をみつけ、声をかけることもある。また、友人ほどの関係でなくても、知り合いだと気付いて、挨拶をしたり、手をふったりすることもある。苦手な相手であっても、関係が気まずくならないよう配慮したりすることもある。

ジンメルはこうした日常生活における人と人とのかかわりにこそ社会は存在すると考えた。ジンメルにとって、社会とは「心」をもった人間同士の振る舞いが相互に繋がっている状態であり、人間の間の微妙な関係にほかならない。

人間といういきものは、ともすれば、社会という存在を、人間と切り離し、独立した堅固で無機質な集合体をイメージしがちだが、そもそも社会というあり方も、そう考える人間が形成したものであり、そこには決して一様には還元できない顔や心や、そうした人の様々な関係から形成されたあり方である。

そうした点にもう一度注意を払うならば、社会とは再構築不可能な完成品ではなく、たえず、ひととひととの関わりによって、今一度、人間にとって快適なあり方へ変換できるのではないかと思います。

ジンメル曰く……
社会概念を最も広く解すれば、諸個人間の心的相互作用を意味する。(中略)人間の社会関係は、絶えず結ばれては解け、解けては再び結ばれるもので、立派な組織体の地位によることがなくても、永遠の流動及び脈搏として多くの個人を結び合わせるものである。人間が見つめ合う、触れ合う、手紙のやりとりをする、午餐を共にする、これという利害がないのに同情や反感をもって触れ合う、親切への感謝から二度と解けぬ絆が結ばれる、誰かが誰かに道を尋ねる、互いに相手のことを考えて着飾ったり化粧したりする――以上は、人間と人間との間に生ずる一時的或いは永続的な、意識的或いは無意識的な、仮初の或いは由々しい、数知れぬ関係の中から全く勝手に選んだものであるが、そういう関係が絶えず私たちを結び合わせているのである。
    --ジンメル(清水幾太郎訳)『社会学の根本問題 個人と社会』(岩波文庫、1978年)。

さて……今日の午前中は、うちのお子さんの幼稚園の学芸会でした。
元気に演じていましたが、子供という存在も、生まれた時は親子関係だけが生活圏であったが、入園すると、おなじクラスというひとつの共同体の関係へ、枠を拡大し、その中で、喜び、怒り、哀しみ、楽しむ、という人と人とのつながりを心と体で学習しているのかなと思ったりします。そういう自分も、そうした時期があったことをすっかりわすれていますが、たまには、じぶんとじぶんとの関係、そしてじぶんと子供との関係、そして妻との関係を、見直して良い方向へ組み立てなおしていくのもよいのかな、と思ったりします。

とはいえ、今日は朝一でしたので、疲れました。
少々仮眠をとってから仕事へ行きましょうかね。

最後のジンメルの言葉をもう一発。
箴言集『愛の断想 日々の断想』(岩波文庫)から。

人間の可能性は測り知れぬ。しかし、これと矛盾するようだが、人間の不可能性も測り知れぬ。この両者の間、人間が為し得る無限と人間が為し得ざる無限との間に彼の故郷がある。
    --ジンメル(清水幾太郎訳)『愛の断想 日々の断想』(岩波文庫、1980年)。

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ジンメル・つながりの哲学 (NHKブックス) ジンメル・つながりの哲学 (NHKブックス)

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日常にさざなむ

日常にさざなむ

Wai

どうも宇治家参去です。

出張後、風邪をひいてしまい、鼻をやられてしまい、首が動きません。
きがつけば、風邪薬を飲んだのは初日だけで、あとは飲むのを、〔忘れてしまった〕のが、よくなかったのかもしれません。

さて、水曜日。
細君が所用のため、平蔵さんが、子供を幼稚園へサルベージに。
宇治家参去さんの自転車は、駕籠も荷台もないノーマル無印自転車。
細君の自転車は、前後に幼児の装着可能な完全装備自転車。

幼稚園まで自転車で5分、徒歩15分。

ドナドナ~ド~ナ、ド~ナ、と口ずさみつつ、玄関を開けると、平蔵さんの自転車のみ。

やられました--。
「おぃ!」

装着不可能な自転車でのサルベージです。

幼稚園に到着後、どうするか悩んだあげく、

「だっこして自転車のるか?」
「はぁ~い」

レッツゴー。

3分しかもちませんでした。

片手で子供をささえ、片手はサドル。しびれが切れると同時に、こどもも歩きたいとか。
自宅を目前に、とぼとぼあるく不思議な父子が1組あり。

えんやこらやと、帰宅すると、そのタイミングで、宅急便屋さんがピンポ~ン!

発砲酒のプレゼントが大当たり!

とりあえず、ご褒美でよろしいでしょうかね。

今週初め、健康診断の結果が到着。

肝機能障害。「主治医と要相談の上、再治療」。

トホホです。

とりあえず、今日は、ご褒美を舌鼓。

こんな時には、ホイットマンの歌声が励ましてくれます。最後に一つ。

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◇ぼくはぼく自身をたたえ ウォルト・ホイットマン

ぼくはぼく自身をたたえ、ぼく自身をうたう、
ぼくが身につけるものは、君も身につけるがよい、
ぼくに属するいっさいの原子は同じく君にも属するのだから。

ぼくはぶらつき、魂を招く、
ぼくはのんびりともたれ、ぶらつき、夏草のとんがった葉を見つめる。

ぼくの舌、ぼくの血のあらゆる原子は、この土、この空気からできていて、
この地で親から生をうけ、親もまた、そのまた親も同様に生をうけ、
ぼくはいま37歳、申し分なく健康で、出発する、
死の時まで止むことのないように願いながら。

教義や学派はほうっておき、
そのままでよしとして、ただ記憶にとどめながら、しばらくは引き下がり、
ぼくはとにかくまってやる、危険をかえりみず語らせてやる、
本然の活力をもった融通無碍のわが本性に。

“I celebrate myself,and sing myseif” Walt Whitman

I cellebrate myself,and sing myself,
And what I asuume you shall assume,
For every atom belonging to me as good belongs to you.

I loafe and invite my soul,
I lean and loafe at my ease observing a spear of summer grass.

My tongue,every atoms of my blood,form'd from this soil,this air,
Born here of parents born here from parents the same,and heir parents the same,
I,now thirty-seven years old in perfect health begin,
Hoping to cease not till death.

Creeds and schools inabeyance,
Retiring back a while sufficed at what they are,but never forgotten,
I harbor for good or bad, L permit to speak at every hazard,
Nature without check with original energy.
    --亀井俊介・川本皓嗣編『アメリカ名詩選』(岩波文庫、1997年)。

宇治家参去はいま、35歳。いささか健康に不安があるが、使命をとげるまで精進するのみ。

アメリカ名詩選 (岩波文庫) Book アメリカ名詩選 (岩波文庫)

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象を撃つ Shooting an Elephant(1936)

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Owel

最近まったく、本をよめていない。
仕事上の必然で、関連文献や、一次資料をひもとくことは毎日の日課ですが、それ以外に本を読む暇がなく、チト淋しい毎日です。

ちょうど、先週末は、出張があったので、その際、ゆっくりと、古い本を読み直しました。

岩波から出ているジョージ・オーウェルの評論集です。

オーウェルといえば、政治色の強い『動物農場』とか『一九八四年』で小説家として有名ですが、実は、評論・批評家としてのほうが、面白い作品がおおいのではないかと思います。オーウェルの評論には、「建前」論の不毛性を撃ち、矛盾にみちた「本音」に光を当て、議論に現実的な稔りをもたせる不朽の輝きがあるからです。

帰りの便で『オーウェル評論集』(岩波文庫)に眼をとおしましたが、自分の目で見て、耳聞いた事実を歪めず、思想や文化、文明というものが、肉体をもった無数の個性的背景をもつ人間の所産であることを明らかにする、その手法に戦慄です。

矛盾をふくむ事実の性格な認識こそ議論の出発点である--「建前」論とは無縁のオーウェルの言説は、いまなお、読み直されてしかるべき。

興味のある方は是非どうぞ。
とても読みやすいですよ。

さいごにひとつ。

ナショナリズムの興隆、伝播の原因となると、これは問題が大きすぎて、ここで論じる余裕はない。だが、英国の知識人のあいだでのナショナリズムについて言えば、それが、もっと広い世界で現実に起こっている恐るべき戦いを歪んだ形で反映しているものであること、そしてその中でもいくつか最大の愚行の原因は愛国心と宗教心の崩壊にあることだけを、指摘しておく。この思想を押しすすめて行けば、一種の保守主義が政治的傍観主義に陥る危険はある。たとえば愛国心はナショナリズムにたいする予防接種であり、王制は独裁政治に対する防波堤であり、組織された宗教は迷信にたいする防壁だといった説が、もっともらしく主張されることにもなりかねない--いや、おそらくそのとおりなのだ。あるいは偏向のない見方などはありえない、すべての信条や主義にはひとしく嘘と愚かしさと野蛮がひそんでいる、といった主張も出てこよう。そしてこれがしばしば、政治にはいっさいかかわらない言説に使われるのである。だが現代の世界では、知識人といえるほどの人間なら政治には無関心ではいられず、結局は政治にかかわりを持たざるを得ないというだけでも、わたしにはこの主張を認めることはできない。われわれは--広い意味での--政治に関与すべきであり、自己の選択を明らかにしなければならないのではないか。つまり、たとえ手段が悪であることに変りなくても、客観的に見てすぐれている主義とそうでないものがあることは、認めるべきなのである。わたしがとりあげたナショナリスチックな愛憎の念は、好むと好まざるとにかかわらず、ほとんどすべての人間の気質の一部になっているのだ。これを除去できるかどうかはわからないが、これに抵抗することは可能なのであって、それこそがほんとうの道徳的努力だとわたしは信じる。そのためにはまず、自分のほんとうの姿、ほんとうの感情を知り、その上で逃れられない偏向を認めることである。もしもソヴィエトを憎み、恐れているとしても、もしアメリカの富と力を嫉妬しているとしても、もしユダヤ人を軽蔑しているとして、もし英国の支配階級に劣等感を抱いているとして、ただ考えているだけではこういう感情を除去することはできない。だが、すくなくとも自分にそういう感情があることを認識し、それによって思考過程が歪むのを防止することはできるはずである。誰もが逃れられない、そしてあるいは政治行動には不可欠なのかもしれない感情的な衝動には、同時に現実認識が伴わなければならない。だが、くりかえして言えば、これには道徳的努力を必要とする。そして現代の英文学が今日のさまざまの大問題を反映しているとすれば、この努力を払う覚悟のある人間がいかに少ないかがよくわかるのである。
    --オーウェル(小野寺健訳)「ナショナリズムについて」、『オーウェル評論集』(岩波文庫、1982年)。

複雑に満ちた現実と自分自身を見つめなおしながらも、現実の世界と架橋するオーウェルの響きが、スピヴァクの言説と相照らし合っているように思えて他なりません。

ということで、ボチボチ寝ますかね。
今日は、子供を幼稚園に迎えにいかなければならぬという複雑に満ち溢れた現実が待っていますので。

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久しぶりの休日

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火曜日は、ようやく休日。
市井の仕事と大学の仕事(出張)の関係で11連勤。
ようやく、体と心と頭を休めた休日です。

14時過ぎに起きると、すでに子供さんが帰宅。
気が付いたら風邪をひいていました。ぐすん。

で--ごちゃごちゃ責められて自室へ非難。
仕事(大学の地方スクーリング)の成績をつけると、夕方です。
部屋と仕事の片づけを終えるともう夕食。
夕食前に、子供とウルトラマンごっこで、一汗かくと、晩餐会。
今晩もまたしても鍋だったので、夜なにもアポイントメントがない関係から、ちびちびと飲み始めました。

たまにはガッツリと休みたいです。

さて、機材の噺ですが、これまで出張時の携帯パソコンは、IBMのThinkPad X40(XP Pro) というのを使っていたのですが--
「もうそろそろ、Vistaだろう!」
とか、思いながら、9月末にネットオークションで売却し、新しくCore™ Duo のThinkPad X61(Vista Business) に買い換え、今回、出張時、試してみました。
自宅でもVistaに切り替えましたが、メモリ4Gのせて使っているので、Vistaの重さをほとんど感じていませんでしたが、無印X61はメモリ1Gなので、立ち上がりや細かい動作の遅さに悩まされました。

ほとんど、出張の際とかモバイルで必要な時にしか使いませんが、来月も出張があるので、こんどは、倍増(もしくは4倍)で、闘ってみようと思います。

おもえば、Windows95が出た時は、メモリ20MBで、比較的サクサク動いていたことを思うと隔絶の感があります。

とはいえ、最初に手に取ったマシンがIBM製(古くて誰も分からないかも知れませんがThinkPad220)なので、Lenoboと名を変えたとはいえ、ノートPCはIBMから離れられない宇治家参去でした。

ちなみ、そのX61と一緒に映っているのが、香川の地酒「川鶴」(川鶴酒造)です。出張時、老いた母に買っていただいた“純米大吟醸無濾過 川鶴”です。
ふかいコクと味わいが心地よい酩酊を誘います。

酒は、北陸(新潟)といいますが、その地、その地で旨い酒は結構ありますね。

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旨いもの・酒巡礼記:高松編 「わふう亭 和夢」

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出張先で、ぶらりと訪れた、「わふう亭 和夢」。

しゃれた店内は落ち着いた雰囲気。
きびきびとした動きの清潔感あふれる青年が包丁をふるう地酒の充実した割烹ですね。

旬の魚や野菜を使った和食に、あなたも悶絶。

気になる人はレッツゴー!

ただし、いい値段してますよ。

ですけど、“ほんもの”です。

香川県高松市屋島西町2492-33
087-841-6404

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anti-pureism;危険な純粋さ

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anti-pureism;危険な純粋さ

純粋さはやっかいだ。
純粋さは、お花畑に浮かぶ蝶を装いながら、スズメバチの毒針で人を刺す。
純粋さは、他者に向けるべきでなく、自己に向けるべきだ。

anti-pureism,危険な純粋さ

ここでいう純粋さとは、「○○は△△あるべきだ」とあるべき理想像の主張である。

例えば……
「クリスチャンはこうあるべし」
     「仏教徒はこうあるべし」
         「ムスリムはこうあるべし」
                    ……等々。

「○○は△△あるべきだ」という言説自体に罪はない。
そう語る当人が「○○は△△あるべきだ」と実践すれば済むことだ。
その言説を自分自身に向け、錬磨する分には誰も文句はいわないだろう。
文句どころか称讃をうけるかもしれない。

宇治家参去がいいたいのは、「純粋さ」そのものの批判ではない。
要はどこにむけるかである。

自分に向ければ、錬磨の糧となり、他者にむければ、それは、危険な刃へ変貌する。
とくに、強要したときがそうである。

そこがやっかいなのだ。

「△△あるべきだ」の強要は暴力に他ならない。

強要するのではなく、とことん語り合い、合意をめざす対話で納得の上、受け入れてもらう方向へもっていきたいものである。

「学生はこうあるべし」--実に結構である。
「サラリーマンはこうあるべし」--実に結構である。

しかし、それができない人間も存在するし、見つめ直せば、それを受け入れたくない自分自身も存在する。

しかし、一番問題のは“強要”ではないけれど、そうしないひとびとに対してシニカルになる態度がやっかいなのかもしれない。

例えば--

「クリスチャンはこうあるべし」と思っているキリスト者Aさんがいたとする。
しかし同じ信仰のBさんは、そのようなあり方を採用していない。
しかし、ふたりの間には、その問題をめぐっての話しあいが一切存在せず、Aさんは「ほんらい、○○あるべし!」なのに、「どうしてBさんはしないのか?」とひとりで、憤る時である。

その場合、Aさんも、Bさんも“損をする”。ふたりが同時に“純粋さ”に傷つけられてしまうのである。

話しあいをしましょうよ!

古代の賢者ソクラテスは、対話は完結してこそ対話である、と語ったという。

魂と魂が撃ち合うほどの対話の結末が、全く異なる道になろうと、その両者が、両者の存在をお互いに認めあえるようになれば、血は流れない。

有史以来、様々な血が流れてきたが、純粋さの強要による流血ほど、悲しい・淋しい人類の歴史はないのではあるまいか。

民族浄化や前衛理論はもうたくさんだ。

「人はいかなるときに「野蛮」になるのか?
 自暴自棄になったとき、ではない。自分が何であるかを強烈に意識したときなのだ。そしてそれにはそぐわないもの、敵対するものを駆逐することで自分の属する世界を「浄化」する。それを求める意識の働きを<純粋さへの意志>と呼ぶ。
 まず、自分が属する共同体が「善きもの」であると確信していること。そしてそれ故に「原罪」(=もともと逃れ難い罪を背負っているという意識)を持たないこと。そしてここから「純粋無垢性」が帰結される。このことと、現実の世界の混沌とを重ね合せて考えたとき、次の問いが発せられる。
 「悪はどこからきたのか?」
 もちろん、それは「私たち」に起源をもたない。ではその悪をもたらす相手(敵)を駆除せねばならない。「浄化」することが「わたしたち」の使命なのだーそういう発想を導くことになる。
 これはいわゆる原理主義のことを差していると受け取られがちだが、フランス革命もロシア革命も、ピューリタン革命も、紅衛兵の時代も、ポルポトの時代も、実はすべてこの論理で動いていたのではなかったか? 」
    --ベルナール=アンリ・レヴィ(立花英裕訳)『危険な純粋さ』(紀伊国屋書店、1996年)。

 レヴィの言う「純粋さへの意志」とは、異なる集団を認めようとしない野蛮性にほかならない。しかしそれよりも、直視し、考えなければならないのは、己の生命自体に、巣くう野蛮性(=獣性)にほかならない。矛盾をはらむ人間自身をそのものを、一人一人が真摯に見つめ直さない限り、徹底した純粋化と不断に戦い続けることは不可能だ。

まさに--
「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ」
--池波正太郎「谷中・いろは茶屋」、『鬼平犯科帳 2』(文春文庫、2000年)。

矛盾する生命を直視せずして、矛盾をコントロールすることは不可能である。

追記:すこしつかれているのでしょうかね。思いに導かれ書きましたが、誤解を招くようでしたらすいません。
「純粋な“思い”」とか「純粋な“心根”」を揶揄したり、否定したりするのが目的ではありません。ただ、向け方によっては凶器(=狂気)になる、ただそれだけなんですが--。

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著者:ベルナール=アンリ レヴィ
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『誰か故郷を想わざる』

1  花摘む野辺に 日は落ちて
  みんなで肩を 組みながら
  唄をうたった 帰りみち
  幼馴染みの あの友この友
  あゝ誰か故郷を想わざる

2 ひとりの姉が 嫁ぐ夜に
  小川の岸で さみしさに
  泣いた涙の なつかしさ
  幼馴染みの あの山この川
  あゝ誰か故郷を想わざる

3 都に雨の 降る夜は
  涙に胸も しめりがち
  遠く呼ぶのは 誰の声
  幼馴染みの あの夢この夢
  あゝ誰か故郷を想わざる

    --西条八十『誰か故郷を想わざる』(昭和15年)。

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 先ほど、出張先の高松より帰宅。帰りにMiuryaにて、筑波鶏の焼き鳥(たれ)と、ベトナムを代表するビール『333』(ばーばーばー)をゲットして、一息ついたところです。

 出張前に書いたとおり、今回の訪問先が実は実家のあるところで、前日は実家に宿泊し、あとはホテルで、大学の地方スクーリング(倫理学)を行ってきました。

 最初に引用したのは、霧島昇の歌でヒットした『誰か故郷を想わざる』ですが、歌詞のとおり、2年ぶりの訪問は、様々な発見と感動の旅となりました。

 澄んだ空気と水、そして老いた母と旨い酒。地域のひとびとの暖かさに見守られての2泊3日の旅でした。

 さて、今回は、受講者数11名で、ゆっくり・じっくりと懇談的になごやかなムードで授業が行えました。受講生の皆様に感謝です。どうしても夏期スクーリングのようなかたちですと受講者数がかるく百名をこえてしまうので、こまかいところまで手が届きにくいのですが、地方スクーリングの場合、かえって痒いところにまで手が届くとでもいえばいいのでしょうか--じっくりできるところがいいですね(ただ、その分、進行速度はきわめて遅くなっちゃうのですが)。

 で……、いつも関心させられるのは受講される通教生の意識と向学心の高さです。授業自体は週末に設定されていますが、日々の仕事をこなし、家事をこなし、そして、学習の時間をつくり、授業にはせ参じてくる姿に、いつものことですが、こちらも真剣勝負で、毎回、最高の授業をめざして取り組まなければ、そして、ひとりひとりが、地域に根ざした人間主義のリーダーとして、根柢的に活用できるような授業にしていかねばとつくづく考えさせられます。

もっとも、倫理学とか哲学という学問は、語学に代表されるスキル系の科目と異なり、「暗記してなんぼ」という学問ではありませんので、教える方もマニュアルがない分、苦労苦労の連続ですが、自分で学問を創造していく楽しみ、学生と共有していく楽しみは代え難いものです。

カントは、「哲学ではなく、哲学することを学べ」と言いましたが、倫理学という学問もそうした学問のひとつであるとするならば、おそらく、本当の倫理学とか哲学というものは、教室で教科書を紐解いた時に始まるのではなく、授業が修了し、ひとりひとりが、教室を去り、自分自身の現場へ戻った時に立ち上がる学問ではないのかと最近想っています。

そうであれば、今回受講された11名の方々が、ひとりひとり、その人にしかできない、その生きている現場で、倫理(学)の意味を問い、根柢から力強く考えていけるようになれば、これ幸いと思うものです。

さて、ぼちぼち寝ないと明日は朝一で、これまた短大の哲学の授業です。

香川での食べ歩き紹介は、また後日……。

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サクッと

サクッと書きます。
無事に最終講義完了しました。

学生さんが空港まで送って下さった、大感謝。

フライトまでもう少し。

軽く一杯飲んで東京に帰ります。

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初日無事終了

どうも宇治家参去です。

本日は大学の地方スクーリング(高松会場)の初日です。

さきほど、無事に講義を終えました。 やっぱ体力勝負ですね。 疲れました。

これから地酒をいっぱいやって爆睡しよう。

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続きを読む "初日無事終了"

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ふるさとは遠きにありて……

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さきほど、ふたたび六連勤の仕事が終わり、この朝から、大学の通信教育部の地方スクーリングです。

貧乏暇無しとはいいますが、師も走る12月の忙しさと相伴い、なかなか自分の時間を作れない宇治家参去です。

さて、今回の出張先は、高松市(香川県)。

そう--、宇治家参去のふるさとです。

香川県がね。

もう2年近く帰っていませんが、どのような表情をみせてくれるのでしょうか。

詩人の室生犀星の詩に……

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても
帰るところにあるまじや

とりあえず、土日の講義は全力で。

そして、土地(ところ)の旨いモノでも堪能してきます。

と……書いている場合じゃなく、早く寝ないと数時間後のフライトに間に合いません。

とっとと寝よ。

Saisei

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「Hanschen klein(幼いハンス)」

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童謡「ちょうちょ」の元詩が、「Hanschen klein(幼いハンス)」である。

以下にドイツ語の原詩と、日本語の要旨です。

「Hanschen klein(幼いハンス)」

Hanschen klein, ging allein,
in die weite Welt hinein;
Stock und Hut stehn ihm gut,
er ist wohlgemut.
Aber Mutter weinet sehr,
hat ja nun kein Hanschen mehr,
Wunsch dir Gluck, sagt ihr Blick,
kehr nur bald zuruck!


Sieben Jahr, trub und klar,
Hanschen in der Fremde war.
Da besinnt sich das Kind,
eilet heim geschwind.
Doch nun ists kein Hanschen mehr,
nein, ein groser Hans ist er.
Stirn und Hand braun gebrannt,
wird er wohl erkannt?


Eins, zwei, drei, gehn vorbei,
wissen nicht, wer das wohl sei.
Schwester spricht: "Welch Gesicht!",
kennt den Bruder nicht.
Kommt daher die Mutter sein,
schaut ihm kaum ins Aug hinein,
ruft sie schon:" Hans, mein Sohn,
grus dich Hans, mein Sohn!"


まだ幼いけど好奇心旺盛なハンス君は、ある日広い世界へ冒険の旅に出る事を決意する。帽子をかぶり杖を持って、ご機嫌で歩いて行ってしまっった。
お母さんはひどく悲しんだが、それでも息子の幸運を祈った。
心の中では、すぐに帰って来てほしいと願いつつ。


ハンス君は、晴れの日も曇りの日も冒険の旅を続け、いつしか異国の地で7年もの歳月が経過していた。ある日ふと考え直したハンス君は、急に故郷に帰りたくなった。
急いで家路へと向かう彼の姿があった。


7年の歳月は、幼いハンス君をすっかり別人に変えてしまった。
顔や腕は真っ黒に日焼けし、一目見ただけでは、それが昔の幼なかったハンス君とは見分けがつかない。
ハンス君は生まれ故郷の町に到着した。
行き交う人は誰もそれがハンス君だと気がつかずかない。
いよいよ生家に帰り着いたハンス君でしたが、妹でさえも、兄の姿に気が付かない。
「どちらさまですか?」
 街の人や妹でさえも気が付かなかったハンス君のもとへ、お母さんが歩み寄よる。
風貌は全く変わったハンス君--、しかし、お母さんは、彼の目を見つめると、すぐにこう叫んだ。

" Hans, mein Sohn, grus dich Hans, mein Sohn!"
 「ハンスや、私の息子よ、おかえり、私の息子よ!」

このメロディーが逆説的に使われているのが、サム・ペキンパー監督の「戦争のはらわた(原題はCross of Iron)」です。

「戦争のはらわた」を見たのは小学生の時です。
それまでの戦争映画といえば、英雄主義的なものから、プロパガンダもの、娯楽作品など、どちらかといえば、映像によって、いわば“つくられた”作品だった印象がありますが、まともに戦争の醜美を描きつつ、娯楽テイスト盛り込んだ「戦争のはらわた」に驚愕した記憶があります。

ちょうどその冒頭部分がYouTubeにありましたので、どうぞ。

ちょうちょちょうちょ、も雰囲気が大きく変わるでしょ?

まっ、なんといってもシブイのはジェームズ・コバーンです。

YouTube での、「戦争のはらわた」のオープニングはこちらから

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最強のバイプレイヤーたち

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最近の実感--

苦みばしった……
最高のバイプレイヤーたちは、

山崎努(若い頃)と石橋蓮司だと思う。

念仏の鉄(「必殺仕置人」)と蛇(くちなわ)の平十郎は最高です。

Photo

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YouTubeでの 念仏の鉄 はこちらから

YouTubeでの 鬼平犯科帳 はこちらから

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思想が行動の基礎である

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Heinrich_heine

日本人になじみ深いドイツの詩人にハインリッヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine)がいる。日常的な言葉で文学を語り、その詩作は広く愛されている。

そのハイネは「書物を焼く国は、やがてその国民も焼くであろう」と預言したが、ナチス政権時代にはハイネの作品が実際に燃やされた。そして焼いたドイツ人自身も辛酸をなめたものである。

今日はそんなハイネの哲学論からひとつ。

思想が行動の基礎である
これはすごい話だ。われわれがつくってやった肉体がたましいを求めるというのはおそろしいことである。けれども、われわれがたましいをつくったところが、そのたましいが肉体を求めているわれわれを追いかけまわすようになったら、それこそいっそうすごい、おそろしい、気味のわるいことだろう。ところがわれわれの考え出した思想は、こうしたひとつのたましいである。思想は肉体をあたえられるまでは、つまり物質的な現象にしてもらうまでは、われわれにせがんでやめない。思想は行動になろうとし、言葉は肉体になろうとする。そしてふしぎなことには、人間は聖書のなかの神のように、自分の思想をのべさえしたら、その言葉どおりの世界ができあがる。光と闇ができたり、大洋が大陸とわかれたり、野獣があらわれ出たりすることになる。世界とは言葉をあらわす符号だ!
    --ハイネ(伊東勉訳)『ドイツ古典哲学の本質』(岩波文庫、1973年)。

詩人としての側面だけでなく、革命家としての顔を持ち合わせていたハイネらしい一節です。おそらく思想とか哲学とは、現実に生きている人間そのものを見失い机上の空論に終わったとき、実体をもたない鵺的存在として、ひとびとをふりまわす前衛に堕してしまうのだろうが、ほんものの哲学は人間に肉体となり、その魂の言葉が世界を創造するのであろう。

ハイネの文章はその天才っぽさのきらいがなくもないが、ダイレクト響く力を持っているのは詩人ゆえなのでしょうかね。

さて、これから市井の仕事です。いささかだるいですね。

Book ドイツ古典哲学の本質 改訳

著者:ハイネ
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Photo

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『新しい人間』をわたしは歌う

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情熱、脈搏(みゃくはく)、活力、すべてにおいて測りしれぬ『いのち』をそなえ、奔放自在(ほんぽうじざい)な振舞いができるよう神聖な法則どおりに造られた、陽気で『新しい人間』をわたしは歌う
    --W.ホイットマン(酒井雅之訳)「『新しい人間』をわたしは歌う」、『草の葉』(岩波文庫、1998年)。

高らかに「新しい人間」を歌ったホイットマン。
アメリカン・ルネサンスを代表する大詩人は、みずみずしく人間の生を謳いあげた。
その詩は、読み手の魂を今なお揺さぶり続ける迫力をもっている。

今日、ひとりの青年の新しい人生の船出を祝福した。

その彼にホイットマンの詩を捧げたい。
その青年は「新しい時代」を担う「新しい人間」だ。
わたし自身もそうである。

自分自身が「新しい人間」となり「新しい前進の波」を起こしていく。
進めば波が起こり、波浪になるのは当然だ。
進めば進む分、波浪は勢いを増す。

ホイットマンの人生もそうであった。
彼の出版した詩集の評判はさんざんであったという。

では、かの詩人は、意気消沈しただろうか?
否である!

いよいよ朗らかであり、ますます意気軒高であったという。
「攻撃」には「反撃」で、「挑戦」には「応戦」で先駆の道を切り開いた生涯であった。

波浪をのりこえ、栄光の人生を自分自身で掴んでほしいと切に願う宇治家参去でした。

草の葉 (上) (岩波文庫) Book 草の葉 (上) (岩波文庫)

著者:ホイットマン,酒本 雅之
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雑感 太陽を見る

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不思議なもので……、時代を切り拓いてきた真実の先駆者たちは、いつも同時代人から軽んじられ、笑われ、誹られ、非難中傷の嵐に晒された。なかには投獄されたり、死刑にされた先駆者たちも随分存在する。

真実を探求し、“人類の教師”と仰がれる古代ギリシャの哲学者・ソクラテスは、真理を探究する容赦のない態度に、嫉妬され、無実の罪で、死刑の宣告を受けた。

ひとはどう生きるべきか--その根本の道を探求した古代中国の賢者・孔子も、同時代人からは受け入れられることなく軽んじられ、インドのブッダも、何度も死に至るような謀略や非難にさらされている。

そういえば、仏教が日本に渡来したときも、異国の神として、攻撃の対象となり、イエスのはじめた宗教運動(キリスト教)も、当時のひとびとからは非難の対象となり、時代がくだって、日本にキリスト教が再渡来(明治期)したときも、“お騒がせ宗教”として、保守派の論客だけでなく、巷のひとびとからも誹られ軽んじられ、石つぶてをなげつけられたものである。

このことは思想や哲学、宗教だけにかぎられたことではない。
かつてJAZZが登場したとき、ひとびとは、それを“黒人の田舎音楽”(=音楽ではない)と蔑み、ROCKが登場したとき、ひとびとは、それを“騒音”と非難した。

今でこそ、“巨匠”とたたえられる印象派の画家たちも、発表時は、画壇で手厳しく批判され、ゴッホもゴーギャンも辛酸をなめたものである。

たしかに時代が証明する。
後世になってみて評価されるのがこの世の常である。
しかし、そのことを考えるならば、非難や中傷をうけ、人からさげすまれたあり方には、本物の輝きがある。
偽物は、輝かず、舞台から退場するのみだ。

ひとは、同時代の先駆者の真の姿やほんとうのさけびを、正しく評価することができないだろうか。
太陽は眩しすぎて直視することができないのとおなじように、手でその光を遮りながら、いわれなき非難や中傷を繰りかえすことしかできないのだろうか。

そうだとすれば、ひとはさみしいいきものになってしまう。

おそらくそういうひとだけではないのだろう。

見栄や世間体、地位やエゴを取り払った、誠実の人・謙虚な人も存在する。
自分自身をみつめなおした無名の勇者は、本当の寛容を知っている。本当の強さと弱さをしっている。そして、太陽を直視することができるのだ。
インド独立の父・非暴力闘争の勇者・マハトマ・ガンジーが、“裸の聖者”とよばれたように、重要なのは、すべてを取り去った、いわば裸の“ひとりのにんげん”としてどうなのか、そこが問われている。裸の聖者こそ勇気のひとであり、鎧を着た人間が実は一番、臆病なのだ。

臆病ではすすめない。停滞しかない。停滞は敗北をうむ。

そろそろ色眼鏡をはずし、自分自身の目と耳と鼻と口で、そして頭と心と体で、ひとつひとつ、ものごとを確認し、真実に接近したいものである。

認識せずして評価することなかれ。

人からの伝聞ほどおそろしいものはない。

自分で確認できる強さと賢明さと優しさを兼ね備えたい。

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覚悟する

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 このとき居間を出た久栄が、次の間にひかえていた侍女の貞に、
 「殿さまのお出かけですよ」
 こういって、貞をしたがえ、平蔵の外出の支度(引用者注--旗本・細井彦右衛門の病気見舞い)をととのえるため、廊下へ出たとたんに、
 「あ……」
 なんとしたものか、久栄の髪から鼈甲(べっこう)の笄(こうがい)が廊下へ落ち、真二つに割れてしまったのだ。
 「ま……」
 貞の顔色も変わった。
 別に、久栄が頭を下げたわけでもなく、屈みこんだわけでもないのに、髪へさしこだ笄が落ちたのも解せぬことなら、これしきのことで二つに割れたのもおかしい。
 まさに、
 (不吉な……)
 ことではある。
 久栄は立ちすくむかたちで、しばらくは落ち割れた笄を凝(じつ)と見おろしていたが、意を決したらしく、笄を拾いあげ、平蔵の居間へ取って返した。
 「あの……」
 振り向いた平蔵が、
 「どうした?」
 「こ、これを……ごらん下されませ」
 「笄が割れた……」
 「はい。廊下に落ちまして……」
 「ふむ」
 「おねがいでございます。今日は外出(そとで)をおやめ下さいますよう」
 平蔵が、しずかに笑い、
 「お前の、こころざしはうれしい。平蔵、たしかに受けたぞ」
 「では、おやめ下さいますのか?」
 「さて……これが、お上の御用なれば何といたす?」
 「さ、それは……」
 「出てゆかぬわけにはまいるまい」
 「は……」
 「久栄。よし、おれが身に万一のことがあっても覚悟の上ではないか。男には男のなすべきことが、日々にある。これを避けるわけにはまいらぬ……」
 「はい……」
 「たとえ、このまま、この座敷に、お前とさし向かいに、何年も、すわり暮らしていたとしても、いずれは、どちらかが先に死ぬるのだ。いずれは、お前と死に別れをせねばならぬ。たとえ、それが二十年先のこととしても、まことに、あっという間のことよ」
 いうや平蔵が久栄に近寄り、いきなり肩を抱き、妻女の耳朶(じだ)へ、なんと、くちびるを押しつけたものである。
 四十をこえた平蔵と、四十に近い久栄との、おもいもかけぬこうした場面を次の間から見ていた侍女の貞が、まっ赤になった。
 「安心いたせ。さ、支度を……」
 こういうわれては、是非もない。
 久栄は、昴(たか)ぶる胸を押え、貞と共に納戸へ向った。
 だが、後になっておもえば……。
 このときの久栄の予感は、まさに適中したといえる。
    --池波正太郎「本門寺暮雪」、『鬼平犯科帳 9』(文春文庫、2000年)。

 剣友・井関録之助を狙う刺客〔凄い奴〕と長谷川平蔵の壮絶な決闘が見せ場になっている『本門寺暮雪』より。このはなしは、全編を通して緊張感みなぎる作品です。

 雪の本門寺ではありませんが、東京もぼちぼち雪が舞だしそうな寒さになりました。

 さて、冒頭部分の引用から考えさせられるのは、(男の)〔覚悟〕ある生き方ということだ。

 偶然落ちて割れた笄に前途の不安を覚える妻の久栄を制して、
 「久栄。よし、おれが身に万一のことがあっても覚悟の上ではないか。男には男のなすべきことが、日々にある。これを避けるわけにはまいらぬ……」
「はい……」
「たとえ、このまま、この座敷に、お前とさし向かいに、何年も、すわり暮らしていたとしても、いずれは、どちらかが先に死ぬるのだ。いずれは、お前と死に別れをせねばならぬ。たとえ、それが二十年先のこととしても、まことに、あっという間のことよ」

 ……と、諄々に諭していく。

 人間といういきものは、ともすれば日常の些事に翻弄され、自身の本懐をいつしかわすれ、惰性の日々をおくってしまいがちである。
 しかし、覚悟のきっまった人間、腹のすわった人間、根本の哲学をもっている人間は、本懐を忘れずに、些事までも、こちらの手の内でまわすことのできる人間である。
 それが、「覚悟」した長谷川平蔵であると思う。
 人を煩わすちょっとした出来事でさえ、こちらの味方につけてしまい、頭と心で考え、雄々しく生きていく姿にその感服です。

 世の中だけでなく、自己に巣くう善と悪、そして、美と醜の両者を直視し、覚悟した人間こそ、うわべでなく本物のやさしさを持ち合わせることができるのだろうと思います。
さて、もう寝ますね。すこし疲れているので……。

Book 鬼平犯科帳〈9〉 (文春文庫)

著者:池波 正太郎
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