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「ディレッタントとは区別される創造的な芸術家」

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 生活を楽しむことを知らねばならぬ。「生活術」というのはそれ以外のものでない。それは技術であり、徳である。どこまでも物の中にいてしかも物に対して自律的であるということがあらゆる技術の本質である。生活の技術も同様である。どこまでも生活の中にいてしかも生活を超えるということによって生活を楽しむということは可能である。(中略)
 生活を楽しむ者はリアリストでなければならぬ。しかしそのリアリズムは技術のリアリズムでなければならない。即ち生活の技術の尖端にはつねにイマジネーションがなければならない。あらゆる小さな事柄に至るまで、工夫と発明が必要である。しかも忘れてならないのは、発見は単に手段の発明に止まらないで、目的の発明でなければならぬということである。第一級の発明は、いわゆる技術においても、新しい技術的手段の発明であると共に新しい技術的目的の発明であった。真に生活を楽しむには、生活において発明的であること、とりわけ新しい生活意欲を発明することが大切である。
 エピキュリアンというのは生活の芸術におけるディレッタントである。真に生活を楽しむ者はディレッタントとは区別される創造的な芸術家である。
    --三木清『人生論ノート』(新潮文庫、昭和29年)。

Miki

「真に生活を楽しむ者はディレッタントとは区別される創造的な芸術家である」--。
うまいことを言いますねぇ、むかしの人は。
この文章を綴ったのは哲学者、社会評論家として知られる三木清です。
むかしの学生さん、すなわち、私の父親の世代や、その上の祖父母の世代のひとびとが学生時代には、この三木清をよく読んだそうですが、いまの学生さんたちは読むのでしょうか。

この三木ですが、1930年、マルクス主義への関わりから、検挙され、アカデミズムから干されてしまいますので、市井の文筆家としてしのがざるを得なくなりました。ですので、比較的こなれた読みやすい文章も多く残しております。ときおり、紐解くと新しい発見があり、面白いものですので、興味のある方は是非。

さて、冒頭で、三木が語っているとおり、「生活を楽しむことを知らねばならぬ」と痛感する毎日です。学問の仕事は比較的、毎回毎回発見と学びがあり、ダレる部分がほとんど無く、緊張感に圧倒されているのが現実ですが、市井の仕事やふだんの生活がその反動としてか、ルーティーン化され、彩りを失いつつあるように思えて他なりません。

もちろん、ルーティーン化されてよい部分は、それで良いのですが、生活や仕事の中で、何かを“工夫”、“発明”し、物に対して自律的である、あり方を最近、こころがけていないような気がしましたので、再び三木の著作を紐解いた次第です。

「生活を楽しむ者はリアリストでなければならぬ」--。
日常生活とは、一面において、たしかに、永遠に続く繰り返しのあり方です。しかし、その一面をリアルに見直しす中で、かたちとしては、おなじ課題を繰りかえしたとしても、ビミョウに違う、ものとの関係、自分自身との関係、そしてひととのよりよい関係がでてくるのかなと思ったりします。

お金をかければ、だれでもディレッタント的に、それなりに生活を楽しむことはできるのでしょうが、そうではなく、「ディレッタントとは区別される創造的な芸術家」として、自分の生活を見直し、組み立て直し、生きていきたいと思う宇治家参去でした。

そういえば、うちの子供も、毎日、ルーティーンワークとして、ウルトラマンのDVDを見たり、絵本をみたり、怪獣と遊んだりしています。しかし、どうやら、その様子を眺めてみると、動きとしては昨日と同じようですが、彼にそれとなく訊いてみると、毎日がリアルに前日は違うようです。

何かそこにヒントでもあるのでしょうかね?

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コメント

とても面白かったです。次回が愉しみです。

投稿: 阿部 | 2011年4月 2日 (土) 11時54分

阿部様

ありがとうございます!

投稿: ujike norio | 2011年4月 4日 (月) 16時54分

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