自覚:自己を自己自身の客観たらしめる主観
年末になってくると、アカデミズム底辺で彷徨うながしの神学者でも忙しくなってくるもんです。
ま、大半は、市井の仕事ががっちりくまれ、大学も冬休み前、そして明年度の仕切直しがはじまっているので、そんなものでしょうかね。
いつものことですが、また薬を飲むのを忘れ、飲んで寝たので最高に調子が悪いです。今日もこれから仕事で、明日は朝から大学、夜も仕事。とても休んでいる間がないのですが、体の運行にも気を配りながら、日々を生きていきたいものです。
さて、人間は意識するにせよしないにせよ、様々な活動(仕事や日課、はては食事や排泄に至るまで)をしながら、生きています。そうした人間の“うごき”を丁寧に観てみると、ひとつは、そのうごきに、意識的・精神的な意味を含んだ“うごき”と、無意識的な生理的な“うごき”(たとえば、目蓋の開閉とか)があると思います。前者を「行為」と呼ぶとすれば、後者を“行動”と呼ぶことが出来ると思います。
人間も生物学的には動物のひとつですので、“行動”します。しかし、人間の場合、たんに「行い」「動く」(=“行動”)だけでなく、「行い」「為す」(=“行為”)という自覚的な動きがあると思います。日々の生活の中では、意識的・自覚的でない部分も多々ありますが、一般の動物とは大きくことなる動きが自覚的な“行為”ということになるではないかと思います。
そうした意味では、人間とは、自分の行動に対して「自覚的」に反省するいきものなのではないかと思います。もちろん、そこがうまくいかないのが世の常で、ひとびとは小さなことから大きなことまで種々七転八倒しているのだと思いますが、日常の些細なことにも、ときどき、光を当て直してみたり、まなざしを注ぐことで、同じ風景や動きもおおきくかわってくるのかもしれません。
先日紹介したジンメルが、その自覚に関して面白い言葉をのこしているので、最後に一つ。
自覚というもの、つまり、自己を自己自身の客観たらしめる主観というものは、生命の象徴、或いは、生命の真実の自己表現である。
--ジンメル(清水幾太郎訳)『愛の断想 日々の断想』(岩波文庫、1980年)。
“自己を自己自身の客観たらしめる主観”とか“生命の真実の自己表現”なんてうまいことを言いますね。
| ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫) 著者:ゲオルク ジンメル |
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