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「哲学者の資質」

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 昨日からクリスマスイブまで世間では、三連休……。
 毎年の事ながら、年末は忙しく、宇治家参去は、市井の仕事が三連勤。
 別にどうということはありませんが、今日は、あまり忙しくなく、すこしダレてしまいました。ま、こういう一日があってもよかろうかと思いますが、すこし反省です。

 昨日、三木清の文章を紹介しましたので、その話の続きでも……。
『人生論ノート』や『哲学ノート』は壮年の三木が綴った名著ですが、本日紹介するのは、青年時代の三木が書いた哲学エッセー『語られざる哲学』から。
 末尾に「--千九百十九年七月十七日  東京の西郊中野にて脱稿」とあるとおり、大正8年の夏、青年・三木が記した内面の記録です。
 虚栄心、利己心、傲慢心の三つを排して、素直な心で、自己確立をめざす三木の語りに、引き込まれる一冊です。

さて--
本書の中盤で、三木は哲学者の資質について次のように指摘しております。

 ……私は真の哲学者の資格として次の二点を上げても間違ってはいないだろう。第一、論理的思索力の鋭さと強さ。第二、永遠なるものに対する情熱の清さと深さ。このことと関係して私が哲学者と呼ばれておる人間を三つの型に分つとしても必ずしも虚妄として退けられないであろうと思う。すなわち頭のよい哲学者、魂の秀でた哲学者、および真に偉大なる哲学者がそれである。第一の型の人々を一体哲学者と呼んでいいのかどうか私は知らない。なぜなら彼らは真の哲学者の資格として私があげた第一の条件としての論理的思索力の鋭さと深さについて、単に鋭さを示すのみであって深さをもっていないからである。学校の秀才といわれるものの特質を担ったいわゆる講壇的哲学者には頭があっても魂がない。そして深さは、それが論理的、概念的に関係しておる場合においてさえ、いつでも魂に本(もと)ずいておるからである。彼らは声高く教えようとする、彼らは堆(うずたか)き文献を作ろうとする。論理の巧妙と引証の該博と討究の周到とは彼らが得意気に人に誇示するところである。しかし惜しいことには彼らにはそれらの秀れたるものを統一して生かしまた深める魂が欠けている。いわば彼らには積極的がない。彼らは人の驚きを買うことができても人の愛を得て感動せしめることができない。ファウストがワグネルを喩(さと)したそのままの言葉がちょうど適当であるのが彼らの哲学である。

 Doch werdet ihr nie Herz zu Herzen schaffen,
 Wenn es euch nicht von Herzen geht.

 (どうせ君の肺腑から出た事でなくては、
  人の肺腑に徹するものではない。)
    (ゲーテ『ファウスト』第一部五四四-五 森林太郎訳 岩波文庫)

(中略)
 真に偉大なる哲学者とは、私が上にあげた二つの条件を円満にして高き程度の調和において兼ね具えた人に与えられるべき名である。彼の厳密な概念の間には永遠なるものに対する無限の情熱が蔵(かく)されている。彼の明るい論理の根柢には見透すことのできない意志がある。永遠なるものの希求に殆んど無意識に悩んでいる彼の意志は限りない闇と憂鬱との海を彼の奥底に湛(たた)えておる。けれどもその闇は絶対の無ではなく積極的なるもに発展すべき運命を有するものとしての否定である。その憂鬱はもたざるものの憂鬱でなく生まねばならぬものの憂鬱である。
    --三木清『語れざる哲学』(講談社学術文庫、1977年)。

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 三木によれば哲学者に必要な資質とは、すなわち、①論理的思索力の鋭さと強さ、②永遠なるものに対する情熱の清さと深さ、である。ただし、これを「円満にして高き程度の調和において兼ね具えた人」は皆無に等しく、現状は、三木が資質の紹介に続けて、批判しているとおりで、どれかだけを持ち合わせ、それに自ら酔ったようなあり方の哲学者(哲学・学者)がほとんどです。しかし、そうしたあり方では「正しく、よく、美しく生きること」は不可能である。なぜなら「秀れたるものを統一して生かしまた深める魂が欠けている」から。

 魂(心)に十分配慮しつつも、秀でた学識を兼ね備える--。たしかに大変なことですが、そうすることにより、ソクラテスやプラトン、そしてカントがそうであったように、優れた本物の哲学者になることができる--三木の語りを読み直すたびにそう思います。
 また、(宇治家参去さん自身は、たいした哲学者でもなく、たんなる駆け出しの学問の文筆者に過ぎませんが)、この一節をいつも自分の自戒としています。わかりやすく、かつ、自分の肺腑から出た言葉でものを書き、大学の授業も間断なき飛翔をめざすがごとく、高めていきたいものです。

 また、読み直すたびに感じるのは、このことは哲学者だけに限られた問題、資質ではないということです。哲学者であろうが、小説家であろうが、そして、市井の現場でそれぞれ生き抜いているひとびとであろうが、ひとしく当てはまる道理ではないでしょうか。
 ともあれ、謙虚に学びつつも、情熱の清さと深さを磨きながら、生きていきたいものです。

 さて、ぼちぼち、こうした、書き殴りの駄文を書き始めて4ヶ月ちかく経過しました。もともとの遅筆を直す目的で始めましたが、ひとつひとつの日記も、単なる言葉や本の紹介だけでにすませることなく、「どうせ君の肺腑から出た事でなくては、人の肺腑に徹するものではない」(ゲーテ)のようにしたいものですね。

その意味で言えば、酔っぱらって書いていたり、憤慨して書き殴っている時のことばに本音がでているのでしょうかね?

最後に、ちなみにですが、三木が引用している『ファウスト』の訳は森林太郎、すなわち森鴎外訳の『ファウスト』です。手元に森訳がありませんが、同じ箇所の邦訳を、すこし前半部分から一つ紹介しておきます。

  ワーグナー
だが、私どものように研究室に閉じこめられていて、
世間を見るのもたまに休日ぐらいのもので、
しかも望遠鏡で、ただ遠くからというような場合、
どうしたら弁論の力で世人を指導することができるでしょうか。
  ファウスト
それは君が心から感じていて、自然と肺腑から迸(ほとばし)り、
底力のある興味でもって、
すべての聴衆の心をぐいぐいと引摺るのでなければ、
君のいう目的は達せられまいね。
まあ相変らず坐りこんでいたまえ。そして膠(にかわ)で継接(つぎはぎ)細工をしたり、
他人のご馳走を寄せ集めてごった煮をつくったり、
君自身の灰を掻寄せた中から、
心細い火でも吹き起こしたりするんだな。
それでも子供や猿どもを関心させることはできよう、
そんなことが君のお気に叶えばだね。
けれども、本当に君の肺腑から出たものでない以上、
心から人を動かすということはできないものさ。
    --ゲーテ(相良守峯訳)『ファウスト 第一部』(岩波文庫、1958年)。

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