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明治の叫び

Huku

Nakae

さてさて、一寸、古い文体で始めましょうかね。

わが日本古(いにしえ)より今に至るまで哲学なし。本居篤胤(もとおりあつたね)の徒は古陵(こりょう)を探り、古辞を修むる一種の考古家に過ぎず、天地性命の理に至ては瞢焉(ぼうえん)たり。仁斎祖来の徒、経説につき新意を出せしことあるも、要、経学者たるのみ。ただ仏教僧中創意を発して、開山作仏の効を遂げたるものなきにあらざるも、これ終に宗教家範囲の事にて、純然たる哲学にあらず。近日は加藤某(ぼう)、井上某(それ)、自ら標榜して哲学家と為し、世人もまたあるいはこれを許すといへども、その実は己れが学習せし所の泰西某々の論説をそのままに輸入し、いはゆる崑崙(こんろん)に箇(こ)の棗(なつめ)を呑めるもの、哲学者と称するに足らず。それ哲学の効いまだ必ずしも人耳目に較著(こうちょ)なるものにあらず、即ち貿易の順逆、金融の緩漫、工商業の振不振等、哲学において何の関係なきに似たるも、そもそも国に哲学なき、あたかも床の間に懸物(かけもの)なきが如く、その国の品位を劣にするは免るべからず。カントやデカルトや実に独仏の誇なり、二国床の間の懸物なり、二国人民の品位において自ら関係なきを得ず、これ閑是非(かんぜひ)にして閑是非にあらず。哲学なき人民は、何事を為すも深遠の意なくして、浅薄を免れず。
    --中江兆民『一年有半・続一年有半』(岩波文庫、1995年)。

官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂(へつら)い、毫(ごう)も独立の丹心を発露する者なくして(中略)日本には唯政府ありて未だ国民あらずと云うも可なり。
    --福澤諭吉『学問のすゝめ』(岩波文庫、1978年)。

哲学するとは、自分で考えることである。
人間の生き方や考え方を規定し、社会をかたちづくる見取り図――それが哲学である。
人間は哲学が無くても“生きてはいける”--。
しかし、その生き方や判断、問題解決方法は、場当たり的となり、歴史的にも、おおむね“まともな判断”ができなくなってしまうケースが多くある。
哲学なき人間、哲学なき社会とは、船長のいない船のようなものであり、羅針盤のない、舟である。
否、<幸福>という目的にたどり着くことのできぬ永遠の旅である--。
人間とは本来「哲学する動物」である。みずからの人間性を放棄するのでもない限り、哲学を拒否することはできない。しかし、歴史上、哲学を無視した人間や社会は存在し、様々な問題点を露呈し、惨禍をまねいてきた。そのひとつが近代日本の歩みがそれである。
高校三年の秋、上に引用した二つの言葉に出会わなければ哲学とか倫理学とか、宗教学などという学問に巡り会うことはなかったと思う。

因習深い田舎に育ち、その濃密な人間関係に辟易したものだが、それは場所がかわったり、ひとりになったとしても全く変わらない。自分自身の内面を見つめ直し、考え、行動し、統御しない限り、一切変わらない。

そんなことをこのことばから考えさせれた18年前の初冬の夜でした。

“お上には逆らえない”
 “長いものには巻かれろ”
  “寄らば大樹のかげ”――。
日本の精神風土とは、権威へ崇拝と盲従、現状容認と独立心のなさに他ならない。長き伝統に培われ、それを意識することすら困難なほどの生きる様式(art of life)となっている……。

かつて、その卑屈な精神を撃ち、変革しようと苦心したのは、明治の啓蒙家たちである。いわゆる「官」(政府権力)と、「民」(民衆の権利)の争いがそれある。

福沢諭吉は重ねて言う。
日本国の歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ
    --福沢諭吉、松沢弘陽校注『文明論之概略』(岩波文庫、1962年)。

いまだ日本には、いきているひとびとの歴史なんて存在しない、そこにあるのは、官報に記された政府と権力者の歴史だけである。
そう喝破した福沢諭吉の叫びは、さすがに的を射た言葉である。
くりかえすまでもなく、福沢が大学を創立する際など、「私立」の語に込めた思いは、「官」に対する「私」の独立――すなわち「独立した個人」の育成がその眼目であった。

それなくして“一人の時には弱く、集団になると強い”精神風土を引きずっていては、「徳川の世」、封建時代と同じではないか……。

独立した個人」を育むことの弱かった日本。それは、世界へ向かう姿にも、色濃く反映していると思う。

戦前は軍事が先に走り、その後を人間がついていった。戦後は経済の後を人間がついていった。いずれも、「集団」や「力」が先行しての進出<侵略>であり、「個人」つまり「人間」は“二の次”にされていた。これに比べて、ヨーロッパのひとびとなどは、是非はともかく、まず「個人」である。「個人」が世界に飛び込み、道を開く。自らの信念に従い、「個人」としての責任をとり、行動する--。
非常に残念なことだが、日本にあっては、そうした意志、人格、独立精神が、深く根付くことはなかった。

我邦人は利害に明にして理義に暗らし、事に従うことを好みて考うることを好まず
    --中江兆民『一年有半・続一年有半』(岩波文庫、1995年)。

「哲学」がなく「考えることが嫌い」なため、愚かなシステムにおとなしく従ってきたのだ、と中江兆民はいう。
――「哲学」なき人生は不幸である。
--「考えること」なき人は、惨めである。

しかし、彼等の叫びは抜本的に日本の精神風土を変えるにはいたらなかった。――その一例が権力の前に次々に“転向”していった、“大東亜戦争”での、文化人といわれる人々の姿であり、権力に迎合したマスコミであった。
そして今なお、「地位」「人気」「富」にとらわれ、“利害に明るく、理義に暗し”という無原則な生き方をしている人があまりに多く、まじめなに考える人が生きにくい世の中はそのまま続いている。

そろそろ、そういう時代から“卒業”したいものですね。

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