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雑感 太陽を見る

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不思議なもので……、時代を切り拓いてきた真実の先駆者たちは、いつも同時代人から軽んじられ、笑われ、誹られ、非難中傷の嵐に晒された。なかには投獄されたり、死刑にされた先駆者たちも随分存在する。

真実を探求し、“人類の教師”と仰がれる古代ギリシャの哲学者・ソクラテスは、真理を探究する容赦のない態度に、嫉妬され、無実の罪で、死刑の宣告を受けた。

ひとはどう生きるべきか--その根本の道を探求した古代中国の賢者・孔子も、同時代人からは受け入れられることなく軽んじられ、インドのブッダも、何度も死に至るような謀略や非難にさらされている。

そういえば、仏教が日本に渡来したときも、異国の神として、攻撃の対象となり、イエスのはじめた宗教運動(キリスト教)も、当時のひとびとからは非難の対象となり、時代がくだって、日本にキリスト教が再渡来(明治期)したときも、“お騒がせ宗教”として、保守派の論客だけでなく、巷のひとびとからも誹られ軽んじられ、石つぶてをなげつけられたものである。

このことは思想や哲学、宗教だけにかぎられたことではない。
かつてJAZZが登場したとき、ひとびとは、それを“黒人の田舎音楽”(=音楽ではない)と蔑み、ROCKが登場したとき、ひとびとは、それを“騒音”と非難した。

今でこそ、“巨匠”とたたえられる印象派の画家たちも、発表時は、画壇で手厳しく批判され、ゴッホもゴーギャンも辛酸をなめたものである。

たしかに時代が証明する。
後世になってみて評価されるのがこの世の常である。
しかし、そのことを考えるならば、非難や中傷をうけ、人からさげすまれたあり方には、本物の輝きがある。
偽物は、輝かず、舞台から退場するのみだ。

ひとは、同時代の先駆者の真の姿やほんとうのさけびを、正しく評価することができないだろうか。
太陽は眩しすぎて直視することができないのとおなじように、手でその光を遮りながら、いわれなき非難や中傷を繰りかえすことしかできないのだろうか。

そうだとすれば、ひとはさみしいいきものになってしまう。

おそらくそういうひとだけではないのだろう。

見栄や世間体、地位やエゴを取り払った、誠実の人・謙虚な人も存在する。
自分自身をみつめなおした無名の勇者は、本当の寛容を知っている。本当の強さと弱さをしっている。そして、太陽を直視することができるのだ。
インド独立の父・非暴力闘争の勇者・マハトマ・ガンジーが、“裸の聖者”とよばれたように、重要なのは、すべてを取り去った、いわば裸の“ひとりのにんげん”としてどうなのか、そこが問われている。裸の聖者こそ勇気のひとであり、鎧を着た人間が実は一番、臆病なのだ。

臆病ではすすめない。停滞しかない。停滞は敗北をうむ。

そろそろ色眼鏡をはずし、自分自身の目と耳と鼻と口で、そして頭と心と体で、ひとつひとつ、ものごとを確認し、真実に接近したいものである。

認識せずして評価することなかれ。

人からの伝聞ほどおそろしいものはない。

自分で確認できる強さと賢明さと優しさを兼ね備えたい。

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