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覚悟する

01

 このとき居間を出た久栄が、次の間にひかえていた侍女の貞に、
 「殿さまのお出かけですよ」
 こういって、貞をしたがえ、平蔵の外出の支度(引用者注--旗本・細井彦右衛門の病気見舞い)をととのえるため、廊下へ出たとたんに、
 「あ……」
 なんとしたものか、久栄の髪から鼈甲(べっこう)の笄(こうがい)が廊下へ落ち、真二つに割れてしまったのだ。
 「ま……」
 貞の顔色も変わった。
 別に、久栄が頭を下げたわけでもなく、屈みこんだわけでもないのに、髪へさしこだ笄が落ちたのも解せぬことなら、これしきのことで二つに割れたのもおかしい。
 まさに、
 (不吉な……)
 ことではある。
 久栄は立ちすくむかたちで、しばらくは落ち割れた笄を凝(じつ)と見おろしていたが、意を決したらしく、笄を拾いあげ、平蔵の居間へ取って返した。
 「あの……」
 振り向いた平蔵が、
 「どうした?」
 「こ、これを……ごらん下されませ」
 「笄が割れた……」
 「はい。廊下に落ちまして……」
 「ふむ」
 「おねがいでございます。今日は外出(そとで)をおやめ下さいますよう」
 平蔵が、しずかに笑い、
 「お前の、こころざしはうれしい。平蔵、たしかに受けたぞ」
 「では、おやめ下さいますのか?」
 「さて……これが、お上の御用なれば何といたす?」
 「さ、それは……」
 「出てゆかぬわけにはまいるまい」
 「は……」
 「久栄。よし、おれが身に万一のことがあっても覚悟の上ではないか。男には男のなすべきことが、日々にある。これを避けるわけにはまいらぬ……」
 「はい……」
 「たとえ、このまま、この座敷に、お前とさし向かいに、何年も、すわり暮らしていたとしても、いずれは、どちらかが先に死ぬるのだ。いずれは、お前と死に別れをせねばならぬ。たとえ、それが二十年先のこととしても、まことに、あっという間のことよ」
 いうや平蔵が久栄に近寄り、いきなり肩を抱き、妻女の耳朶(じだ)へ、なんと、くちびるを押しつけたものである。
 四十をこえた平蔵と、四十に近い久栄との、おもいもかけぬこうした場面を次の間から見ていた侍女の貞が、まっ赤になった。
 「安心いたせ。さ、支度を……」
 こういうわれては、是非もない。
 久栄は、昴(たか)ぶる胸を押え、貞と共に納戸へ向った。
 だが、後になっておもえば……。
 このときの久栄の予感は、まさに適中したといえる。
    --池波正太郎「本門寺暮雪」、『鬼平犯科帳 9』(文春文庫、2000年)。

 剣友・井関録之助を狙う刺客〔凄い奴〕と長谷川平蔵の壮絶な決闘が見せ場になっている『本門寺暮雪』より。このはなしは、全編を通して緊張感みなぎる作品です。

 雪の本門寺ではありませんが、東京もぼちぼち雪が舞だしそうな寒さになりました。

 さて、冒頭部分の引用から考えさせられるのは、(男の)〔覚悟〕ある生き方ということだ。

 偶然落ちて割れた笄に前途の不安を覚える妻の久栄を制して、
 「久栄。よし、おれが身に万一のことがあっても覚悟の上ではないか。男には男のなすべきことが、日々にある。これを避けるわけにはまいらぬ……」
「はい……」
「たとえ、このまま、この座敷に、お前とさし向かいに、何年も、すわり暮らしていたとしても、いずれは、どちらかが先に死ぬるのだ。いずれは、お前と死に別れをせねばならぬ。たとえ、それが二十年先のこととしても、まことに、あっという間のことよ」

 ……と、諄々に諭していく。

 人間といういきものは、ともすれば日常の些事に翻弄され、自身の本懐をいつしかわすれ、惰性の日々をおくってしまいがちである。
 しかし、覚悟のきっまった人間、腹のすわった人間、根本の哲学をもっている人間は、本懐を忘れずに、些事までも、こちらの手の内でまわすことのできる人間である。
 それが、「覚悟」した長谷川平蔵であると思う。
 人を煩わすちょっとした出来事でさえ、こちらの味方につけてしまい、頭と心で考え、雄々しく生きていく姿にその感服です。

 世の中だけでなく、自己に巣くう善と悪、そして、美と醜の両者を直視し、覚悟した人間こそ、うわべでなく本物のやさしさを持ち合わせることができるのだろうと思います。
さて、もう寝ますね。すこし疲れているので……。

Book 鬼平犯科帳〈9〉 (文春文庫)

著者:池波 正太郎
販売元:文藝春秋
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