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2008年1月

【覚え書】Papal Telegram on Death of Christodoulos(29/1/2008)

Papal

ギリシャ正教のWebに、ローマ教皇ベネディクトゥス16世の弔電が掲載されていましたので、その部分だけ紹介しておきます。

Papal Telegram on Death of Christodoulos
29/1/2008

Pope Benedict XVI has sent a telegram to His Eminence Seraphim Metropolitan of Karystia and Skyros to express his condolences over the death on Monday of the head of the Orthodox Church in Greece.

The Telegram reads

Deeply saddened by the news of the untimely death of His Beatitude Christodoulos, Archbishop of Athens and All Greece, I express to you, to the Holy Synod and all the faithful my earnest condolences, assuring you of my spiritual closeness to all those who mourn the passing of this distinguished pastor of the Church of Greece. The fraternal welcome which His Beatitude gave my predecessor Pope John Paul II on the occasion of his visit to Athens in May 2001 and the return visit of Archbishop Christodoulos to Rome in December 2006 opened a new era of cordial cooperation between us, leading to increased contacts and improved friendship in the search for closer communion in the context of the growing unity of Europe. I and Catholics around the world pray that the Orthodox Church of Greece will be sustained by the grace of God in continuing to build on the pastoral achievements of the late Archbishop and that in commending the noble soul of His Beatitude to our heavenly Father’s loving mercy you will be comforted by the Lord’s promise to reward his faithful servants.
Please accept, Your Eminence, this expression of my closeness in prayer to you and your brother Bishops as you guide the Church in this time of transition. With fraternal affection in the Lord.

The funeral of Christodoulos will be on Thursday. The celebrant will be the Ecumenical Patriarch, Bartholomew I. The President of the Pontifical Council for Culture, Cardinal Paul Poupard, and the Secretary of the Pontifical Council for Promoting Christian Unity, Bishop Brian Farrel,l will represent the Holy See.

ちなみにWebは以下のとおり。
http://www.ecclesia.gr/

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「それにもかかわらず(デンノッホ)!」

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「明日がは何の日か知っている?」
出勤直前に細君がウザイくらいに聞いてくる。
一週間前にも同じセリフを聞いていたのであるが失念していた。
細君によれば、1月31日はI(あい)・31(さい)の日(=愛妻家の日)といういことだ。日本愛妻家協会なる組織が制定したようで、チューリップを贈るとよいとのこと。

別に愛妻家ではありませんが、とりあえずリクエストがあったので、終業後購入する。そういえば、本日、チューリップの動向がよく、宇治家参去さんが買い求めた鉢植えも最後の1かぶであった。

とりあえず、明朝細君が起きると、テーブルの上には、チューリップ。
自分で書くのもなんですが、いい噺の演出ですね。
たった数百円で、家庭を明るくさせる、幻想アイテムです。
買い忘れたご主人もどうぞ。

さて--真面目なはなしをひとつ。
こうした愛妻家の日も、国家という制度や、日本におけるバレンタイン・デーとか、クリスマスのお祝いのような、“幻想”といえば“幻想”にすぎない催しの一つであることには間違いない。ひとは幻想を幻想であると理解したとき、うそっぱちにすぎない幻想を、真理からはずれたもの、はずれたあり方として、一躍に退け、廃棄したくなる傾向を秘めている。
国家(特に近代以降の国民国家体制)という制度やシステムは、確かに、万世一系に基づく堅牢で神秘で有り難い確固たる制度ではない。神話や共同幻想によって現出されたいつわりの共同体にすぎない。一九世紀後半のアナキストたちは、幻想である国家=悪として、その廃棄を目指し、過酷なテロリズムにあけくれた。しかし、幻想であるにはかかわらず、幻想を廃棄することはできない。
であるとするならば、幻想を幻想としてふまえた上で、どういう距離感をとっていくのか、そして、どういうかたちで、現状を脱構築していくのかそこが重要になってくる。いったん全てを破壊して、ゼロから作り直すなんて不可能だからだ。

それと同じように、クリスマスを楽しむのもよし。バレンタイン・デーを楽しむのもよし。幻想を幻想としてふまえたうえで、楽しみ、記念の一歩とすればよいだけだ。ただ、それに振り回されて、悲しい思いをしたり、心情倫理家の如く批判するのは賢くない。自分も傷つけ、他者も傷つけてしまうだけである。

と--、うだうだ書いてきましたが、一番肝要なのは、幻想であれ、現実であれ、ものごとのそうした側面をふまえた上で、どう振る舞っていけるのか--その一点にある。一見すると踊らされているように見えても、踊らされていることを理解した上で踊り、その踊りの意味内容を自分にとって価値ある方向へ変換していけばよいだけだ。

「愚かで卑俗なのは世間であって私ではない。こうなった責任は私にではなく他人にある。私は彼らのために働き、彼らの愚かさ、卑俗さを根絶するであろう」という合い言葉だけはさけたいものである。

上の「愚かで卑俗なのは--」はドイツを代表する社会学者マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』から。

最後にその前後の部分を紹介します。

 たしかに、政治は頭脳でおこなわれるが、頭脳だけでおこなわれるものでは断じてない。その点では心情倫理家の言うところはまったく正しい。しかし心情倫理家として行為すべきか、それとも責任倫理家として行為すべきか、またどんな場合にどちらを選ぶべきかについては、誰に対しても指図がましいことは言えない。ただ次のことだけははっきり言える。もし今この興奮の時代に--諸君はこの興奮を「不毛」な興奮ではないと信じておられるようだが、いずれにしても興奮は真の情熱ではない、少なくとも真の情熱とは限らない--突発、心情倫理家が輩出して、「愚かで卑俗なのは世間であって私ではない。こうなった責任は私にではなく他人にある。私は彼らのために働き、彼らの愚かさ、卑俗さを根絶するであろう」という合い言葉をわがもの顔に振り回す場合、私ははっきり申し上げる。--まずもって私はこの心情倫理の背後にあるものの内容的な重みを問題にするね。そしてこれに対する私の印象といえば、まず相手の十中八、九までは、時分の負っている責任を本当に感ぜずロマンチックな感動に酔いしれた法螺吹(ほらふ)きというところだ、と。人間的に見て、私はこんなものにはあまり興味がないし、またおよそ感動しない。これに反して、結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、成熟した人間--老若を問わない--がある地点まで来て、「私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止まる」〔ルッターの言葉〕と言うなら、測り知れない感動をうける。これは人間的に純粋で魂をゆり動かす情景である。なぜなら精神的に死んでいないかぎり、われわれ誰しも、いつかはこういう状態に立ちいたることがありうるからである。そのかぎりにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、むしろ両々相俟(あいま)って「政治への天職」をもちうる真(エヒト)の人間をつくり出すのである。
 さてここにおいでの諸君、一〇年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、一〇年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君のうちの多くの人が--正直に言って私もだが--期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないであろう。--これは大いにありうることで、私はそのことを知ってくじけはしないだろうが、もちろん心の重荷にはなる--その時、私としては諸君の中で、今日(こんにち)自分を純真な「心情倫理家」と感じ、今の革命という陶酔に加わっている人々が、内的な意味でどう「なっているか」、それを知りたいものである。(中略)
 政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫(ぬ)いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけでなく、--はなはだ素朴な意味での--英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が--自分の立場からみて--どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!(デンノッホ)」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職(ベルーフ)」を持つ。
    --マックス・ヴェーバー(脇圭平訳)『職業としての政治』(岩波文庫、1980年)。

1919年、ミュンヘンにある学生団体(自由学生同盟)のためにマックス・ヴェーバーが行った講演が上に引用した『職業としての政治』である。

当時のドイツは、第一次世界大戦での敗北の結果、一種異様な革命の雰囲気につつまれていた時季である。ヴェーバーにとってドイツの敗北は大きなショックであったが、それよりも彼を悩ませ、悲しませたのが、現実をふまえず夢想的な革命を夢見たロマンチシズムの勃興である(レーテ運動)。
陶酔した夢想家たちは、ドイツの敗北を「神の審判」と受けとめ、暗い自虐的な「負目の感情」のなかで、熱く政治を論じたという。心根としては善意だろうが、そこには独りよがりな現状批判と暴力への誘惑しか存在しなかった。
まさにそうした誘惑にさらされ、現実よりもあてのない夢想にふけった学生たちに冷や水をあびせるような講演だったという。
この講演からは、政治という枠組みだけには限定されない、ヴェーバーの叫びを聞き取ることが出来る。

「それにもかかわらず!(デンノッホ)」と言い切る自信のある人間こそ、理想は遠大であろうとも。現実という「堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫(ぬ)いていく作業」のできる本当の変革者なのであろう。

例の如く噺が飛躍してすいません。

Max

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【覚え書】Greek Orthodox Leader Dies at 69

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NYTに訃報ですが、興味深い記事があったので、覚え書風に以下の通り紹介。

Greek Orthodox Leader Dies at 69
By ANTHEE CARASSAVA
New York Times,January 29, 2008.

ATHENS — Archbishop Christodoulos, the charismatic leader of the Greek Orthodox Church who worked to heal centuries-old grievances with the Roman Catholic Church but stirred controversy with his politically tinged statements and tireless interventions in state affairs, died on Monday at his home in the Athens suburb Psychiko. He was 69.

His death followed a seven-month battle with cancer, church officials said. By Sunday, they said, he was slipping in and out of consciousness amid hepatic failure.

Enthroned in 1998, he led Greece’s 10 million Orthodox Christians for a decade, raising church attendance, preaching reform in a stuffily old-fashioned church and becoming one of the most popular, albeit divisive, figures in the country’s recent history.

Prime Minister Kostas Karamanlis said in a statement: “The archbishop brought the church closer to society, closer to modern problems and to the youth.” The government declared three days of official mourning.

The son of a local mayor, Archbishop Christodoulos first trained as a lawyer but switched to the priesthood in 1961. He was a polyglot who surfed the Internet, instituted sign-language liturgies for the deaf and made plans for a religious television station.

He buoyed the faith’s dwindling numbers with the aura of a rock star. He enlivened sermons with humorous one-liners and animated antics. He cheerfully allowed teenagers to wear miniskirts and body-piercing jewelry to religious services. He embraced AIDS patients.

In his most momentous step as the church’s leader, he mended rifts with the Vatican, receiving Pope John Paul II in Athens in 2001, on the first visit to Greece by a pontiff in nearly 1,300 years. The divide between Rome-based and Eastern European Christianity dates from 1054, but it deepened in the 20th century.

The archbishop, who was schooled by Catholic monks in Athens, made a historic visit to the Vatican last year, meeting Pope Benedict XVI, despite widespread opposition to his visit from conservative adherents of the Orthodox faith.

Senior prelates will have 20 days to elect a new church leader in an election process shrouded in secrecy.

More than 90 percent of Greece’s 10.2 million people are baptized into the church, and at least 5 million more adherents live abroad.

Championing a more liberal image for an institution often considered a bastion of conservativism, Archbishop Christodoulos enjoyed a popularity rating of nearly 75 percent — far higher than any Greek politician.

Even so, he remained a controversial figure.

To his critics, he was the definitive conservative — a nationalist who ruled the church with an iron grip and meddled in public affairs with the intent of becoming a national political leader.

His blasts of nationalist rhetoric, most strikingly against the European Union and the Turks — he called them “eastern barbarians” — irritated Greece’s partners in the European Union and hindered the country’s efforts to improve relations with Ankara.

A vocal critic of NATO’s 1999 bombing campaign against the Serbs in Kosovo, Archbishop Christodoulos and the Greek Orthodox Church provided funds and relief aid to Orthodox Serbia.

He denounced some aspects of popular culture, leading protests against the Greek version of the television program “Big Brother,” and in 2001 he caused shock waves when he said the Sept. 11 terrorist attacks on the World Trade Center in New York were waged by “despondent men who acted out of despair caused by the injustices of the Great Powers.”

Five years later he retracted the remark but continued to rail against his favorite targets: globalization, the European Union and other institutions that he feared would strip Greece of its Orthodox Christian character and see Hellenism “sucked into the European melting pot.”

To his critics, such populism would have mattered less if Orthodoxy were not the established religion in Greece. But in 2001, Archbishop Christodoulos set the country’s most powerful institution on a collision course with the government, rallying millions of the faithful against plans by the Socialists, then in power, to remove religious affiliation from state identity cards.

The crusade, as he called it, failed to avert the plan, but the showdown precipitated a political crisis, contributing to the Socialists’ electoral downfall in 2004.

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進吾往也

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Kousi

市井の仕事、そして大阪出張、短大での授業、そして市井の仕事--この連続勤務がようやく終わり、火曜日は久し振りの休日。本当に休みがないですが、粛々と歩み続ける宇治家参去です。

今日、注文していた万年筆が到着した。
趣味と実用で万年筆を集め、使用していますが、2月より、通信教育部のレポート添削業務が開始されることが決まりましたので、添削用に1本新調しました。

Parkerよりは、Perikan派なのですが、軸が太めで、柔らかな文字が書きやすい手頃な1本となると、Parkerのデュオフォールドモデルが一番いいかと思い、1本使っているにもかかわらず、もう1本購入しました。
現在使用中のデュオフォールド(PT)はブラックインクですが、今回の万年筆(GT)には、レッドブラウンのインクを注入。試し書きをしてみましたが、インクのノリがよく、書きやすい。これで、レポートに朱を入れていこうと思います。

スクーリング(対面講義)と異なり、いわば通信教育部の要となるのが、レポート作成。科目によってはレポートだけでも単位がとれると聞いている。学生さんたちにとっては、いわば学習の中心であり、自己との闘いの現場である。しかも闘いは、レポート課題だけではない。仕事や生活といった現実との闘いが主軸に存在した上での、レポート作成となる。がんばってほしいとエールを送りつつも、こちらも、剣豪の如き真剣勝負で望まなければならないと実感する。

だからこそ、〔カタチから入る宇治家参去としましては〕万年筆の新調という事態に到ったわけであります。

さて、そうした現実の積み重ねに関して、古代中国の賢者・孔子がいい励ましを『論語』のなかで述べていますのでひとつ。

子曰、譬如為山、未成一簣、止吾止也、譬如平地、雖覆一簣、進吾往也、
子の曰く、譬えば山を為(つく)るが如し。未だ一簣(き)を成さざるも、止(や)むは
吾が止むなり。譬えば地を平らかにするが如し。一簣を覆(ふく)すと雖ども、進むは吾が往くなり。

先生がいわれた、「たとえば山を作るようなもの、もう一もっこというところを完成しないのも、そのためたのは自分がやめたのである。たとえば土地をならすようなもの、一もっこをあけただけでも、その進んだのは自分が歩いたのである」
    --金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1999年)。

一もっことは、掘った土をはこんだりする入れ物という意味か。
たとえば、山を作る際、最後の1杯というところまでできながらも、一もっこを運ばず完成させないのも自分自身であるが、土地を開拓する際、はじめの一もっこ分をほり、開拓を開始するのも自分である。
「進むは吾が往くなり」(その進んだのは自分が歩いたのである)。

ときには、休憩したり、ときには打ちひしがれたり、そしてときには、溌剌と歩み始めたりするのが生きている人間だ。ただ、時間がかかろうとも最初の誓いを忘れず、歩み続けた者が勝利者となる。また最後の一杯まで到着しながら、そこで辞めてしまうのも人間だが、そういうあり方にはなりたくないものである。

境遇は千差万別ですが、共に励まし合いながら、前進しつづけるのみですね。そうしたところに、社会という共同体の原初の出発点があるのだと思います。

ただ--
今日は久し振りの休日でしたので、試験の採点後、ゆっくりとやすませてもらいました。飲むなよ!って細君にいわれましたが、夕食が、すき焼きでしたので、ビール飲んじゃいました。

そういえば、本物のすき焼きとは、字の如く、肉を焼いて食べるものだが、家庭ではどうしても難しい。鉄鍋と行火でも買うべきか--。

ま、そこまでしなくても、鍋はいいですね。
鍋を囲んで、ゆっくりとひさしぶりに細君とか、お子さまとゆっくりと話し合う時間をもてました。こうした時間がひとには大切なのかもしれませんね。

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やまとで飲む

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 三十九石の家は古くて狭いが、畑にもなる庭は広くとられていて、縁側から庭の端へ声をかけるには遠いほどである。お早うござります、とあまが辞儀をするのを、輔四郎はすがすがしい気持ちで眺めていた。垣根の向こうには小さな草むらがあり、あまは朝餉の支度を終えると、よく庭へ出て、虫の鳴き真似をする。垣根越しに草むらの虫たちを呼んだり、語りかけたり、本物と区別のつかない声で鈴虫や邯鄲(かんたん)を鳴き分けるので、輔四郎はひとりで虫の音を聞くときなど、ひょっとしてあまではないかと思うことがある。彼女ほど季節の移ろいに敏感な人もなく、いつの年も虫たちより早く秋の気配をとらえて、ピルルル、ピルルル、と誘うように鳴き真似をはじめる。輔四郎が夏の終わりを知るのも、そうしたときであった。
 大方の人間は季節が変わり終えてから気付くのであって、晩夏が初秋に変わる瞬間までは分からない。ましてや酒の入った夜のこととなると、五感が鈍り、ただでさえ大まかな男の感覚ではとらえようもない。
    --乙川優三郎「邯鄲」、『武家用心集』(講談社文庫、2006年)。

『武家用心集』--惜しみ惜しみ読むつもりでいましたが、結局、新幹線の中で、込み上げてくる涙腺を押さえながら読んでしまいました。

作中にあるように、季節感を感じたいものです。
ただ、寝る前には必ず飲んでしまうので、まさに「五感が鈍り、ただでさえ大まかな男の感覚ではとらえようもない」のも事実です。

とわいえ、東京へ戻ると、3-6℃の寒波です。
昨晩は、淡雪が一瞬舞い散る寒い夜。
出張後が、短大の『哲学入門』の定期試験。定期試験がおわるとそのまま市井の仕事です。

大阪の学生さんたちから、答案用紙の末尾に「先生、肝臓を大切に」というコメントが数件あったにもかかわらず、久し振りに再会した仲間たちと軽く一杯のつもりが、重く一杯に--。いずれにしましても今年は控え目にいかないとなアと実感しました。

ただ、若い連中と音楽や文学について語り合えたのは収穫です。音楽や文学といったにんげんの作り出した文化は、床の間に飾るような物ではなく、にんげんと向き合うことによって双方が輝き出す人類の至宝だと実感。若いうちにしか読めないものもあれば、若いうちにはチンプンカンプンでも、歳月を重ねてから再度巡り会うと、妙に入ってくる書物も存在する。書物や音楽を手放すことなく、自分自身の血肉へと変換していきたいものです。

さて、最後は、大阪出張での名店案内(?)で締めましょう。

場所は通天閣のお膝元“ジャンジャン横丁”の「やまと屋」。
カテゴリーは“居酒屋”として紹介されていますが、串カツメインで、名物はスッポン鍋。刺身もうまければ、豆腐もうまい。食通にも、酒飲みにも愛される庶民のお店です。

で--。
びっくりするのが、その値段。安いこと安いこと--東京ではこのような安さの店にはめぐりあったことがありません。ただし、味には手抜きが一切無し。老若男女を問わずそこで、食らい語りあう様が一種の心地よい喧噪となって店内に響くなか、おもうさま食らうのがよかろう。そうしたお店です。

大阪を訪れる方がいましたら是非どうぞ。

そういえば、そこで、地道に社会活動を継続されている市井の学者さんと一献しましたが、

「世の中には、人のやっていることに対して文句をいったり、ぐだぐだいったり、批判をしたり、それは間違っていると自己主張したり--いろんな奴がいる。しかし、共通するのは、そうした連中は自分では何もやっていない。自分が何をやっているのか--やることだけきちんと自分でやっていけば、それでいいんだ」(趣意)。

ぐだぐだいうやつは言わせとけ。
自分はやるべきことを淡々とこなすのみ--そこに人間を輝かすことのできる本来的な強さがあるのかもしれません。

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名も無きビーフカレー

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上方を特徴づけるものとは一体何か。
それは、人間の躍動的なエネルギイであり、生命力である。
大都会という意味では東京も大阪も、そして各地のいわゆる政令指定都市も同じである。
しかし、光景としては同じようなビルが林立していようとも、全く違うのだ。
そして都市としての上方を際だたせているのが、先に言った通り、そこに生きる人間の躍動的なエネルギイがそれであろう。
上方の都市には、くどいくらいに、人間のエネルギイが充溢しているのである。
同じ都市である東京と異なり、巷に剥き出しの生が満ち溢れ、その力はひとをひととして包み込む慈愛の炎をとして燃え上がる一方で、欲望や怨嗟の鉈としても襲いかかってくる。

むろん、上方以外の大都市にも同じエネルギイは存在する。しかしそれは、丁寧に隠蔽されており、旅人も、住人も伺い知ることは容易くない。
しかし上方の都市には、その力が街々にあふれている。いわばケとハレが渾然一体となっているのである。

エルメスのバックを小脇にかかえ颯爽と街を駆け抜ける美女の傍らを、金時計をちらつかせた、その筋の凄みのある男が通り過ぎる。耳を澄ませば元気なおばちゃんたちの大談笑。そしてベンチで昼寝を楽しむホームレスのおじさんの前をアイスを食べながら通り過ぎる女子高生たち・・・
すべての人間が街の風景になっている。そしてどれもが違和感がないのである。
東京ではこうはいかないだろう。誰かが輝き、誰かが場違いとなる、そういう街だからだ。
どちらが偉い、とか、素晴らしいとかそういうことではない。包み込むのも人間であれば、隠すのも人間である。どちらもそれが人間であること現実だからである。一面だけを見たのでは、ひとを理解することは不可能である。
私は東京で暮らし東京が好きだ。
そして、時折訪れる大阪も大好きだ。
そして街が好きだ。それを人間が作り、そしてそこに生きているからである。

だから人間は空き家に恐怖し、そこに幽霊を見る。人間が本来はそこにいなければいけないはずなのに、長い間人間が不在しているから、恐ろしいのだろう。
    --宇治家参去『上方記聞』(参去書院、2008年)。

どうも宇治家参去です。すこし印象批判めいた創作で始めてしまいましたが、大阪印象録を落ち着いて流すように書いてみました。

大都市にも関わらず、包容力満ちあふれる魅力的な都市が大阪なのでしょうか。大阪と違って東京はシャイな街かもしれません。恥ずかしくて大ぴらには感情を表出しませんから。そんなことを考えさせられました。

さて、写真は、スクーリング会場(大阪科学技術センター)ちかくの靫公園脇にあったカレー屋さん。初日(1/26土)の昼食で訪れた。

店内は7-8人で満席で、店には屋号もなく、ビーフカレーの1本勝負。並と中盛のみ、オプションで生卵がつく。
カレーは丁寧に煮込まれた欧風カレーで、ごろごろ野菜を煮たり、肉を煮詰めたりはしていない。ライスに添えられた野菜は温野菜で、別に調理した牛すじ肉がよそわれ、そこにカレーをたっぷりかけている。

うまい!

大阪へ行く機会があればどうぞ。

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ありがとう、大阪。

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 第一講
 尊敬する諸君。
 茲に始める講演を私は「浄福なる生への指教」と題して置いた。普通一般の見解に従つて--先づこれに結びつかなければこれを是正することが出来ない--我々はかく言はざるを得なかつたのであるが、併し正当の見解に依れば「浄福なる生」と云ふ表現はいらざるものを含んでゐる。何となれば、生は必ず浄福なるものである。生即ち浄福なるが故に。之に反して浄福ならざる生と云ふ概念は矛盾を含んでゐる。浄福ならざるものと言へば死あるのみ。従つて厳密に表現するならば、私は茲に意図してゐる講演を「生への指教」若しくは又「生の教」、若しくは又概念を他の側面より把捉して、「浄福への指教」「浄福論」と名づくべきであつた。生きてゐる如く見えるもののすべてが浄福である、と云ふことは甚だしく実際に反してゐるが、これは此の浄福ならざるものが実際は生きてゐず、其の要素の大部分が死即ち非存在に沈んでゐると云ふことに基くのである。
 生即ち浄福である、と私は云つた。それ以外ではあり得ない。何となれば、生は愛であり、生の形式と力とは愛の中に存し、愛より発生するからである。--かく云ふことによつて私は認識の最高の命題の一つを陳べたのである。但し此の命題は、真に懸命に集中された注意を以てすれば直ちに明らかになるであろうと思ふ。愛は、それ自身に於ては死せる存在を分ち、存在を存在の前に置くことによつて、いわば二重の存在となし、かくしてそれを、自己自身を観、自己自身を知る自我又は自己となすのである。此の自我の中に総べての生の根元が存する。更に愛は、此の分たれた自我を内的に合一し、結合する。自我は、愛なくしては、ただ冷やかに、無関心に自己自身を観るに過ぎないであろう。此の一によつても、かの二は止揚せられず永遠に残るものであるが、此の二に於ける一こそ生である。此のことは、課せられた概念を鋭く思考し、結合する人には即ちに明らかになるに相違ない。さて又、愛は自己自身に対する満足である、自己自身に対する喜びである、自己自身の享受である、従つて又浄福である。かくの如くにして、生、愛、浄福が端的に同一のものであることは明らかである。
    --フィヒテ(高橋亘訳)『浄福なる生への指教』(岩波文庫、1938年)。




どうも宇治家参去です。
さきほど熱い二日間の真剣講義(地方スクーリング:大阪:倫理学)無事終了する。

書くべきことは山ほどありますが、まずは無事に終了できたことを学生さんに感謝する。

また大阪で歓待してくれた友に感謝する。

ありがとうございました!

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フィヒテ『浄福なる生への指教』(岩波文庫)のAmazonでの紹介はこちらから

今は新大阪駅で新幹線の出発待ち。
一杯遣りながら日記うち。

さあこれから東京だ。

困難な現実と再び対峙する。

でも退けない。前へゆっくりとすすみはじめましょうか。

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自分自身を弔う

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弔い合戦終了する。

ホテルへチェックインした後、喫緊の仕事をすませると、実はかなり--

「腹が減っていた……」。

ので、近辺を適当にさまよう。

一人旅の醍醐味ですね。

飲むより、食いたかったので、ホテルから歩いて5分の、「手作り居酒屋“かっぽうぎ”」にて飲飯する。

いつもながら、調べずにはじめて入る店ですが、東京でいえば、“さくら水産”の大阪版と実感。

とにかく、ボリュームがあって安いし、丁寧に作っている。

これぞ大阪!っていう店ではないが、恵比寿2本飲んで、日本酒3合強のんで、5千円でおつりがでた。

なによりいいのが、店の雰囲気。

店員さんは、店名の“かっぽうぎ”のままのおばちゃんたち。
おばちゃんたちの出す“お母さんの手料理”に満喫です。

美味しんぼの“海原雄山”には恫喝されそうですが、いい店でしたよ。腹いっぱいで、これから胃薬のんで、明日の講義の最終チェックをして寝ます。

ただ……
    ただ……

飲んでいると気がついたのですが、

まわりはすべて大阪弁(当然!)。

すべてのひとが芸人にみえてしまいました!(注1)。

【脚注】
(1)大阪(含め関西の人たちへ)。悪気はございません。単なる実感です。

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出鼻をくじく

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さきほど、大阪に到着。

数年ぶりの大阪で、しかも夜ですので勝手がわからず、地下鉄の駅を降りたまではいいのですが、ホテルがどこかわからず--。

しょうがないのでタクシーを拾い、ホテルへ向かうが、到着したのは、目的のホテルではなく、同じホテル会社の別のホテル。

再度タクシーを拾って、目的のホテルへ到着。

電子メールなどの処理をさきほど、終えましたので、これから「大阪冬の陣」です。

出鼻をくじかれましたので、弔い合戦に出陣してきます。

で--。

写真は、新幹線車中での一コマ。

不思議なもので、新幹線に乗ってしまうと、なぜかビールを買ってしまいます。
それって私だけじゃないはずですよね???

続きを読む "出鼻をくじく"

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幸福に具象を与える

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どうも宇治家参去です。

息子さんにうつされた風邪が治らず、本日から大阪出張なのに鼻がふさがっています。

何を読んでも頭に入ってきませんが、とりあえず、出張直前の本日は市井の仕事。
いつもながらに何でもタマ(仕事)を投げられています。
そして受け止め、淡々とこなすのみ--。

いつも同僚や部下から、どうして宇治家さんって、そんな理不尽な業務をおしつけられて、キレないんですか?って問われます。

しかし、キレたことがないので、キレれるというこが理解できない、と平行線--。

巷ではキレやすい人が多いと聞きますが、いやはや、キレるとは何なのか?と自問する風邪の宇治家参去でした。

さて、本日業務終了後、長期休暇から帰ってきたバイト君と飲みにいく。

酒はいいですね、ほどほどには。

種々、人生を語り合いながら、当人の健闘を祈る。

本気で何かをやるとは何か--。

その人物は音楽で人生を切り開きたいとのこと。

音楽を磨くのは当然だが、それを目指す人間は言うまでもなく、彼と同じように、そして彼以上に音楽を磨いている。しかし、そうした連中の中で、アタマひとつ、上にでるのはどのようにすべきか--。

人間を磨くしかない。

そして人間は、人間によってしか磨かれない、ダイヤモンドがダイヤモンドによってしか磨かれないように。

生活を大切にしよう。
自分の時間を大切にしよう。
そして今いきているこの世界を大切にしよう。

なぜなら、アトム的な個人の幸福なんて夢想にすぎず、事物として存在しないからだ。人間は、人間という多元的世界のなかにおいてのみ幸福を享受できるのである。

そうであるとすれば、わたしの幸福はあなたの幸福であり、あなたの幸福はわたしの幸福である。

そこに勝利の要諦がある。

最後にいつもながら、何か紹介(=引用)しないと宇治家参去ではありませんので、ひとつ。

いやしくも教養なるものが表面的な装飾ではなく、普通の木材にマホガニーのベニヤ板を貼りつけたものではないかぎり、教養とはたしかにつぎのようなものである--すなわち、教養とは、想像力が、屈伸性において、範囲において、感入の度合いにおいて成長して、ついに個々人のいとなむ生活が自然の生活と社会の生活によって浸透されるにいたるような、そのような想像力の成長のことをいうのである。自然と社会とが教室のなかに生されるとき、学習の諸々の形式と道具とが経験の本質に従属させられるとき、はじめこのことがそのとおりになる機会が生まれるであろう。そして教養ということが民主主義の合言葉(あいことば)となるであろう。
    --デューイ(宮原誠一訳)『学校と教育』(岩波文庫、1957年)。

幸福に具象を与えるものが教養であるとすれば、教養とはなんとすばらしい人類の叡智なのか--そう実感せざるを得ないものがあります。

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空より花のちりくるは……

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雪のふりけるをよみける
冬ながら空より花のちりくるは、雲のあなたは春にやあらるむ(きよはらのふかやぶ)
    --佐伯梅友校注「巻第六 冬歌(330)」、『古今和歌集』(岩波文庫、1981年)。

いよいよ初雪。
降ってるときは、空がどんよりしていますが、いったん止んで、降り積もった雪の上に青空が出てくると最高なのですが、そうはいかなかったようです。

空より花のちりくるは……

むかしのひとはうまく謳います。
春への待望を、現実に降り続く雪に花を見、そして雪(=花)を降らす雲に春を見る。

いつも出張や旅行にでかけるとき、必ず持参するのが、『古今和歌集』です。
なぜなら、くすんだ風景に鮮やかな彩りを添えてくれるからです。

さて……
金曜から大学の仕事(通信教育部の地方スクーリングの「倫理学」担当の講師として)で大阪出張です。
大学の仕事で訪問するのは初めて。
大阪訪問も12年ぶり。
素通りなら、5年ぶり。
前回は、院生時代、「宗教における社会福祉の研究」という共同研究で、四天王寺等を訪問したときで、ほとんど大阪を見て回ることができませんでした。

素通りのときは、日本宗教学会の学術大会が関西であったときですが、そのときも忙しく、素通りで、京都駅でおみやげを買いそろえた記憶があります。

今回も仕事のため、観光とは全く無縁ですが、ついでなので、

これぞ……上方風の・・・

という、うまいものでも食ってこようと思います。

ただ……
上方風の……といった場合、何も思いつきません。鱧とか湯葉でしょうか。
お好み焼きもうまいのでしょうが……、何か酒に合う料理が食べたいものです。

いつも出張前にろくに調べず乗り込むので、失敗こくことが多いのですが、今回は、ひとつ調べていって見ようかな。

しかし……

それよりも、子供に風邪をうつされたので、そちらを直すのが先決。
インフルエンザではありませんが、インフルエンザが流行っているようですので、みなさまもご注意を。

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リベットや継ぎめを、ひとは熟知していなくてはならない

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一方通行路(抄)
ガソリンスタンド

 生活をかたちづくる力をもつものは、目下、信念であるよりも遥かに、事実の数かずである。しかも、それらの事実は、これまでほとんど一度も、そしてどこでも、信念の根拠となったことがないようなものなのだ。こういう状況では、真の文学活動は、文学の枠内におさまりかえってはいられない。枠からはみださぬ文学などは、むしろ、自らの無用性のありきたりの表出にすぎない。文学の有意義な作用は、行為することとと書くこととの厳しい交流がなされるところにのみ、成立しうる。それは、共同生活のなかで影響力を及ぼすのに、普遍性をよそおったもったいぶった書物などよりもずっと適しているような、つつましい諸形態を、ビラやパンフレット、雑誌論文やポスターのかたちで、育成しなければならぬ。この種の応変の言葉だけが、現時点に有効に対処することができる。意見は、社会生活という巨大な機構にとって、機械にとってのオイルにあたる。ひとは、タービンの前に立って機械油を浴びせたりはしない。隠されたリベットや継ぎめに、少量のオイルをさすものである。そのリベットや継ぎめを、ひとは熟知していなくてはならない。
ヴァルター・ベンヤミン(野村修編訳)『暴力批判論 他十篇』(岩波文庫、1994年)。

ひとは、形や型からはみ出した有様を“かっこいい”と錯覚するが、それは定番の形や型をきちんと理解した上で、“はみ出し”ていかないと、“ダサイ”姿になってしまう。

“かっこよさ”とか“ぶっ飛んだ凄さ”というものは、グラスに注がれるビールが、グラスからあふれ出すようなプラスアルファの部分であり、本物から出てくる“過剰”の部分である。

しかし、ひとは、グラスにビールを注ぐのを、面倒だと思ってしまう。
直接、缶とか瓶から、ビールを、グラスに注がず、適当にぶちまけてしまうことで、その“過剰”を演出し、“かっこいい”と独り悦に浸っているだけだ。

ビールをグラスにきちんと注ぎ、そこはかとない泡を誕生させ、そして、幾筋かの横溢を演出するのは至難のわざである。
まさにビール・マイスターにしかできぬ、本物のわざである。

そのわざを仕込むには、人並みならぬ苦労や練習が必要になってくる。
しかし、ひとは、そうした苦労や練習を“ダサイ”と退け、易きに走ってしまうのである。

訓練をみずからいとわぬ人間こそ本物の人間である。

その本物の人間の注いだビールほど旨い飲み物はないのである。

さて、冒頭に“文の人(homme de lettres)”と呼ばれたドイツの文芸評論家にして思想家のベンヤミン(Walter Benjamin)の一文を紹介したので最後にその噺をひとつ。

「意見は、社会生活という巨大な機構にとって、機械にとってのオイルにあたる。ひとは、タービンの前に立って機械油を浴びせたりはしない。隠されたリベットや継ぎめに、少量のオイルをさすものである。そのリベットや継ぎめを、ひとは熟知していなくてはならない」。

おそらく、ほんものの文学とは「行為することとと書くこととの厳しい交流」なくして、読み継がれていかないのだろう。このことは文学に限られたことではない。音楽ひとつにしても、今いきている世界を熟知して、そこで、音を紡ぎ出していく、そうした厳しい交流なくして、メロディーは立ち上がってこない。

基本ができていないところに応用は存在しない。
奇をてらったパフォーマンスは、「タービンの前に立って機械油を浴びせ」る、“無知の証明”に他ならない。

今日、用事があって、久し振りに古い友人へ電話をかけた。学生時代からプロのミュージャンを目指していた人間だが、プロになった後、家族のこともあり、一度はサラリーマンに転身したものの、みごとにプロに返り咲いていた。

彼の技術も詩も一流だ。
しかし、その彼自身の生活が一流であった。
家族を養い、地域の人々のために奔走し、すべての訓練から逃げずに挑戦してきた男であった。

俺もがんばろう!
基本をさけずに、人生の大道を歩もう、そう思い直した一日でした。

なんかすいません、飲んで書いているので、また例のごとく、脈絡があまりありませんでした。

ちなみに写真は、青森産の鴨。
本日非番のため、家族に鴨鍋を振る舞う。
鶏と違って野趣が濃く、歯ごたえのすっきりした鴨はお薦めです。

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著者:野村 修,ヴァルター ベンヤミン
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「望みの少し手前で暮らす」

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今日(1/21)は大寒。
東京でも寒さが厳しく、雪でも降り出しそうです。
おそらく、降らないのでしょうが、寒いのは寒いです。

さて、市井の職場で久し振りの大クレーム。
勤務先の店舗は、他の店舗に比べ、遙かにクレーム発生率の低い店舗なのですが、時折、忘れた頃にやってきます。接客クレームで、「最高責任者」を出せ!とのこと。
とりあえず、一次応対で、宇治家参去さんが応対する。
いわく……
店員の非を叱責したが、謝りもせず、言い訳をしはじめたので頭に来たとのこと。
まさに……
おっしゃるとおりです。
十分にお話を伺い、まずは、深い謝罪のことばをお伝えし、本人への厳重注意と再教育を約束し、案件はクローズ。

お客様退店後、店長へ報告。
「申し訳ございません」
この一言がどうして最初に出ないのかなぁ~と、ふたりで頭をつきあわせながら、事故報告書を書き上げる。

寒さと相まり疲れます。

そうした、荒んだ夜には湯豆腐で、いっぱい。
心と体を整える事物にはこれが一番ですね。

その傍らには、時代小説家・乙川優三郎の短編集がベストです。
今、生きている時代小説家で最も読む価値のある作家の最高峰が乙川優三郎です。
デビュー当時は、藤沢周平の再来と評価されましたが、いやいや、藤沢とはことなる、乙川ワールドが展開する絶品の作品群です。不自由な武家社会の弱い立場にある者を、粛々といえばいいのでしょうか……下層に生きる人間の心情の機微を、ただ静謐に描いて浮かび上がらせる作家です。

そこには波瀾万丈な、いわばハリウッド張りの種も仕掛けも全く存在しません。
しかし、読み始めると、はまることうけあいです。
「読み尽くすのがもったいない」(全て読んでしまうと、次の作品まで待てない)
作家のひとりです。

興味のある方は是非。

今日、購入後一年封印していた『武家用心集』(集英社文庫)に手を出す。
のっけから最高です。
簡単なストーリーと、ラストを引用します。

乙川優三郎「田蔵田半右衛門」より
 本名・倉田半右衛門、四十石取りの植木奉行。城内の植木や生け垣の管理を司る閑職で部下は足軽と職人のみ。この半右衛門の蔑称が「田蔵田半右衛門」である。“田蔵田”とは「人が麝香鹿(じゃこうじか)を狩るときに、なぜか飛び出してきて代わりに殺される獣」のこと。そう呼ばれるようになったいきさつは、八年前に起こった事件に由来する。
 役目を終え城を後にした八年前のその日その時、城下で親友の立木安蔵が六、七人を相手に斬り合いをしているところへ出くわした。
 「荘吾(半右衛門の幼名)、手を貸せ」
 とっさに加勢、二人を峰打ちにした。
 だが、この無思慮の行動が、御上に刃向かう結果となり、謹慎、減石、役替えと、家中の信用を失った。以来、ひとは倉田半右衛門を「田蔵田半右衛門」と蔑み、「自業自得だ」と自分を納得させ、人との交わりを絶つ……。

 八年ぶりに、二百石取りの勘定奉行である実兄の訪問が半右衛門の運命を変える。
 実兄とはいえ、半右衛門をこれまで助けたことが一度もない兄弟で、兄から見れば弟である半右衛門の存在とは「要するに自分が困ったときだけの弟だった」。
 降ってわいた刺客の話--。
 半右衛門は即断しなかった。
 じっくりと下調べをし、結局、実兄から縁を切るとまで言われながらも、刺客を断るのである。
 「たとえ人には槁木死灰(こうぼくしかい)のようにおもわれても…」
 偽の上意討ちのその日、半右衛門は、兄から斬れといわれた家老に助成する。

そのラストから……

 事件後、半右衛門は大須賀家老に呼ばれて四十石の加増を給わり、家禄を元々の七十石より十石多い八十石にしていた。けれども身分は植木奉行のままで、休日には相変わらず釣りに出かけている。大須賀には郡奉行に戻れとすすめられたが、半右衛門は辞退していた。
 (自分が出世すれば……)
 かわりに誰かが辞めなければならないと思ったからである。そしてそれは森沢中介かもしれず、篤実な人たちを押し退けたくなかった。あと十数年勤めて隠居するまで植木奉行のままでいい、そういう目立たぬ生き方のほうが自分にはふさわしいとも思った。たとえ人には槁木死灰(こうぼくしかい)のように思われても、真実に忠を尽くせばよいのであって、役目が何であるかは問題ではなかろう。
 それに、と半右衛門は思った。大須賀との話の中で驚かされたことがひとつあった。半右衛門が大須賀の妾宅と思っていたのは実母の住まいだそうで、大須賀は妾腹ということだった。その実母が重い病となり、大須賀は見舞いに通っていたのである。
 そのことを聞いたとき、半右衛門は妾宅と信じて疑わなかった自分を恥じた。散々人に侮られ、中傷されてきたというのに、大須賀が家老というだけで妾がいるのは当然だと思っていた。つまり自分も人を見分ける側に回れば、偏った見方をする人間だったのである。
 そう思い当たると、不思議なことに、八年前の事件にしても立木安蔵には安蔵なりの深い事情があったのだろうと思えるようになった。すると、八年もの間、人を恐れてぐずぐずしていた人間がいきなり郡奉行に復帰するというのも、望みが叶いすぎて果報焼けがするような気がしたのである。勇蔵(引用者注……半右衛門の実兄)にしたところで、欲をかいて上を望まなければ不正に関わることはなかっただろう。
 (人は、とりわけわしのような慌て者は、望みの少し手前で暮らすほうがいいのかもしれない……)
 そう思っていたとき、珠江(引用者注……半右衛門の妻)がまた話しかけてきたので、半右衛門は動きそうにない浮木(うき)から妻へ目を移した。珠江はすがすがしい顔に陽を浴びて、くすくすと笑っていた。
 「おとなりのつやさんに訊かれましたの、田蔵田って何ですのって、返事に困りました」
 「それで、何と答えた」
 「それはもう正直に、麝香鹿に似た獣だそうですと申しました……そうしたら、つやさん、あなたは鹿に似てないって言うんですよ、わたくしおかしくって……」
 「……」
 「だって、どちらかと言えば馬に似てますって言うんですもの」
 「あの娘がそう言ったのか」
 「はい」
 珠江はうなずくと、半右衛門を見つめて吹き出すように笑い声を上げた。
 半右衛門は憮然(ぶぜん)とした。娘のちんまりとした顔を思い浮かべながら何か言い返す言葉を探したが、うまい悪口は見つからず、珠江の笑い声を聞くうちに何となくおかしくなって自分も笑い出した。屈託のない珠江の笑い声を聞くのも、自分の笑うのも久し振りのことだった。見ると、子供たちもこちらを見て笑っている。
 (これがまことの褒賞かな……)
 大須賀十郎という逸材とともに藩の将来をも救って一躍名を上げたにしては、半右衛門はつつましい感懐を抱いた。しかし、心は十分に満たされていた。
 何よりも珠江や子供たちが自分の気持ちを分かっていてくれるのを感じながら、半右衛門はさらに大きな声で笑った。その声は磯に住む小さな生物たちを驚かしたらしく、あわてた船虫が蜘蛛の子を散らすように岩陰に隠れるのが見えたが、いつもとようすの違う釣人に驚いているようでもあった。
    --乙川優三郎「田蔵田半右衛門」、『武家用心集』(集英社文庫、2006年)。

人間は無理な生き方をしてはいけませんね。
セレブだの、なんだの人間の身分不相応な生き方がもてはやされていますが、
ぐっと息を飲み込み、
「望みの少し手前で暮らすほうがいい」
のかもしれません。
人間の欲望にはキリがありませんから。
金や財産はあるにはあるにこしたことはありませんが、家族だけでなく自分自身をだめにしてしまうようであれば、金や財産も本来の力を発揮することはできないのでしょうね。

さて……
しかし、実は、この珠江(半右衛門は珠江の家に婿養子)が、一番できた・美しい人でした。詳しくは、本書で出会ってください。

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Think honestly,

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哲学といふ名は、実に様々の種類の事実に与えへられてゐることが分つた。哲学の本質には並ならぬ変動性が見られらた。常に新しい課題の提出。様々の文化状態への適応。それはある問題を価値あるものとして捕へ、そして再びそれを棄てる。認識のある段階では、問題は解き得るものと見られ、後ではそれを解き得ないものとして見すてる。とはいへ吾々は、どの哲学に於ても、全般性への又基定への同一の傾向が、与へられた世界の全体に向ふ同一の精神の方向が、働いてゐるのを見てきた。また哲学に於ては、この全体の核心を突きとめようとする形而上学的傾向が、その知識の普遍妥当性の実証主義的要求と常に戦つてゐる。この二つのことが、哲学の本質に属すると共に哲学を直接類縁のある諸々の文化領域から区別するあの二つの側面である。哲学は、特殊科学と異なつて、世界と人生の謎そのものの解決を求める。また芸術や宗教と異なつて、哲学はこの解決を普遍妥当的な仕方で与へようとする。といふのは、上述の歴史的事態からの主要な結果は次のことなのである。一つの首尾一貫した、それ自身で纏つてゐる歴史的連関が、世界と人生の大きな謎を普遍妥当的に解かうと企てたギリシャ人の形而上学的世界認識から、現代の最も徹底した実証主義者或は現代の懐疑論者にまで及んでゐる。哲学のなかで生まれるものすべて、どのやうにかしてこの出発点によつて、それの根本問題によつて規定されてゐる。人間精神が世界と人生の謎に対していかなる態度を取り得るかといふその全ての可能性が歴進される。この歴史的連関のなかでは、どの哲学的立場の業績も、与へられた諸条件のもとでの或一つの可能性の現実化である。各々のものはすべて哲学の本質の或一つの特徴を表現すると共に、それが負はされてゐる制限によつて、かの目的論的連関を指示してゐる。といふのは、それは一つの部分として制約されていゐるのであつて、全体の真理は全体にあるからだ。この複雑な歴史的事態は、哲学が、社会といふ目的連関のなかでの、哲学に固有な業績によつて規定されてゐる一機能であるといふことから明らかになる。哲学がその一つ一つの立場に於てこの機能を如何に果たすかは、社会というふ全体に対する関係によつて、また同時に時代、所、生活関係、人格などによつて違ふ文化の情況によつて制約されてゐる。それだから哲学は、ある一定の対象とかある一定の法宝とかによつて固定した限定を与へられることに堪へるものではない。
 かふいう事情が哲学の本質をなしてゐて全ての哲学的思想家を結合する。諸々の現象としての哲学で見られた或本質的な特徴が、ここで解つてくる。吾々が知つたところによれば、哲学といふ名は、この名が出て来るその到る所にあつて同じ形で繰り返すものを表はすが、それと同時にそれに関与する人々の内的連関も表はす。哲学が社会に於て或一定の仕事をする一つの機能であつてみれば、哲学はこの目的に事へる人々を、そのことによつて、一つの内的関係にひき入れる。だから哲学者の学派の頭首たる人々は彼等の学徒と結合されてゐるのである。特殊科学の建設このかた設立された方々の学士院では、之等の特殊科学が、相互に補ひながら、知識の統一といふ観念に支へられて、仕事に協力してゐるのが見られるのであつて、この連関の意識は、例へばプラトン、アリストテレス及びライプニッツの如き哲学的人物に於て体化してゐる。最後に十八世紀に方々の大学も亦、共同の科学的研究のための組織といふところまで発達した。この共同の科学的研究が、教師同士を、また教師と学生とを結合するものなのである。そしてこれらの組織に於てもやはり、知識の基定や連関や目的についての意識を活発ならしめるといふ機能は、哲学のものであつた。すべて之等の組織は、ターレスやピタゴラス以来、ひとりの思想家が他の思想家に問題を課しまた真理を伝へて来たという内的目的連関に入つてゐる。問題解決の諸々の可能性が次々に考え抜かれる。諸々の世界観の構成が受け継がれる。偉大なる思想家はあらゆる将来に働きかける力である。
    --ディルタイ(戸田三郎)『哲学の本質』(岩波文庫、1935年)。

人間といういきものが、物事を真面目に考えようとした場合、おおむねふたつのパターンに陥る危険性が存在する。ひとつは、物事を真面目に考える必要性などはなからないと開き直るシニシズム。そしてもうひとつは、物事を考えるには考えるのだが、生きている人間(社会)と切り離した、いわば、孤立した精神(孤人)として思考するパターンがそれである。

前者は、物事や人間そのものに対して、冷淡な態度をとり、後者は、共同存在として人間からどんどん遠ざかり、専門バカの冷めた暗室へひとり引きこもるパターンである。共通しているのは、極度の<個>への集中とナルシシズム。そこには、いきた人間も社会も存在しない。生きているのは自分だけであり、ほかの人間や事物の存在は、当人にとっての手段にすぎないからである。

現代という時代--物事を真面目に考えなくても生きていける。また真面目に考える時間すらないないのが実情である。また、物事を真面目に考える場合、ときには、自己という<個>の視点に集中して考察する必要もあるが、それだけでは、考察は片手落ちになってしまう。なぜなら、人間といういきものは、ひとりではいきていけないから。たえず、全体の中での自分、自分としての全体への関わり方、そうした往還関係のなかに、人間の生の実存は存在するからだ。

真面目に考えるとは、何か--。
真面目に考える--いうまでもなく考える<私>としての<個>がその出発点である。様々な出来事や悩み、そして疑問を契機して、ひとは、「これって何だろう?」「これでいいのか?」と考え始める。しかし、考えるということは、自分一人で考えるということではない。言葉を使うということは、絶えず、自己の存在と他者の存在を前提としているからだ。自己完結で終わらせるのであれば言葉は必要ない。無人島で暮らすのにコミュニケーションツールが不必要であるように。

さて--。
いろいろとぐだぐだ書いてきましたが、真面目に考えるということは、<私>という<個>が考えるにもかかわらず、たえず全体のなかで、考察する知的営みである。アトム化された個ではなく、絶えず、個が全体を意識しつつ、全体も個を意識しつつ考察が交差した場合、すぐれて生産的な営みになるのではないだろうか--ただ、最近、そう考えることが多く、殴り書きをしてしまいました、飲みながら--。

だからディルタイ(Wilhelm Christian Lutwig Dilthey)がいうように「偉大なる思想家はあらゆる将来に働きかける力である」からこそ、<個>に極限まで集中しつつも自己完結せず、ウザイぐらいに、時代や文化、民族といった枠組みを越えて、人々に“関わり”続けていくのだろうと思います。

ディルタイは、哲学(=真面目に考えること)の本質とは、世界と人生との謎を普遍的妥当的に解こうとする試みだと、『哲学の本質』(岩波文庫)のなかで喝破しましたが、普遍的妥当的とは、“誰にでも獲得できる”“だれにでもあてはまる”そうした自己以外の<個>(=全体)を含んだ視点にほかならない。自己に極度に沈潜したままの視点とは正反対の、いわば開かれた視点である。

時代や世の中が、「俺が、俺が」という自己主張中心の世の中になりつつある今、そうした、自己と他者をつなぐ視点が今いっそう必要というか、見直されてしかるべしと思う宇治家参去でした。

さふいえば、日本語版のディルタイ全集が法政大学出版局より順次刊行されつつありますが、これはきはめて嬉しいことですね。いまのひとはあまりディルタイを読みませんが(といふわたしもガダマーからディルタイへ遡つていつたくちですが)、流行に左右されがちな日本の学術界にあつて、こうした真面目な書物が刊行されるのは学問の基礎体力を維持する上で、重要なことだろうと思います。

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地上の道:荊棘を切り拓く希望のあしあと

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どうも、宇治家参去です。

東京は厳しい寒波です。
おまけに、市井の職場で一名・ノロウイルス。
通常より、あたまかずが1欠で業務……。
結構しんどいですね。ノロくん、早くよくなり給え。

そうした、こうしたで、依然としてなかなか考えるということが困難な昨今ですが、ちょうど、魯迅を読んでいたのでひとつ。

宇治家参去さん自身が、近代中国を代表する文筆家・魯迅に対して一番ふさわしい言葉とは何か--といった場合、いつも出てくるのがルソーの次の言葉です。

人間のすべての知識のなかでもっとも有用でありながらもっとも進んでいないものは、人間に関する知識であるように私には思われる。
    --ルソー( 本田喜代治・平岡昇訳)『人間不平等起源論』(岩波文庫、1972年)。

人間を理解するとは、その醜・善・美、すべてをトータルに受け入れ、そこからどうするか--現場に根ざした真理を語る必要が、その前提として存在する。この不可解な事実を直視、そこから発言し、そして励まし続けてきたのが、何を隠そう魯迅ではないかと思われるてほかなりません。

魯迅の文章は確かに読みにくいし、難しい。しかし、その難しさとは、ヘーゲルやカント、ドストエフスキーの難しさとはひと味違う。

どういえばいいのでしょうか--。反対者にも賛成者に対しても、「お前らの本音は、こっちはハナっから、お見通しなんだよ」的なノリがあるように思えて他なりません。ゆえに、生きているときも左からも右からも批判され、孤立していたわけではないでしょうか。

そうした魯迅自身も次のようにいっています。

 予言者、すなわち先覚者は、つねに故国に容れられず、また同時代人からも迫害を受ける。大人物も常にそうだ。かれが人々から尊敬され、礼賛されるときは、かならず死んでいるか、沈黙しているか、それとも眼前にいないかである。
 要するに、問いただすわけにいかぬ、という点がつけ目だ。
 もしも孔子、釈迦、イエス・キリストがまだ生きていたら、その教徒たちはあわてずにいられぬだろう。かれらの行為にたいして、教主先生がどんなに慨嘆するか、わかったものでない。
 それゆえ、もし生きていれば、迫害するほかない。
 偉大な人物が化石になり、人々がかれを偉人と称するときが来れば、かれはすでに傀儡(かいらい)に変じているのだ。
 ある種の人々のいう偉大と微少とは、自分たちがその人を利用する際の効果の大小を意味する。
    --魯迅(竹内好編訳)『魯迅評論集』(岩波文庫、1981年)。

反対者を手厳しく“打ち”、自分をあげつらい・利用する者に対しても手厳しく“打ち”据えた魯迅の肉迫です。

で……、
その魯迅といえば、巷間で広く親しまれた作品に『故郷』があります。いまだに中学校の国語の教科書に掲載されておりますが、そのラストが一番有名だと思います。

希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
    --魯迅(竹内好編訳)『阿Q正伝・狂人日記 他十二篇』(岩波文庫、1981年)

 今日、たまたま読んでいたのが、『魯迅評論集』ですが、本当は、「『フェアプレイ』はまだ早い」の“水に落ちた犬を打て”について論じたかったのですが、論じるほど煮詰まってないので、“道”に関して、覚え書き程度に書いて起きます。ちょうど、この本で、上に紹介した“道”に関する補足が、「随感録抄」として収録されていましたので……。

六十六
 人類の滅亡ということを考えるのは、非常に寂しい、悲しいことである。しかし、若干の人々の滅亡は、少しも寂しい、悲しいことではない。
 生命の道は、進歩の道である。たえず無限の精神三角形の斜面に沿って登ってゆく。何ものもそれを阻止することができない。
 自然が人間に賦与した不調和は、かなり多い。人間のほうでも、萎縮し、堕落し、退歩したものが相当ある。しかし、生命は、そのために後もどりはしない。いかなる暗黒が思想の流れをせきとめようとも、いかなる悲惨が社会に襲いかかろうとも、いかなる罪悪が人道をけがそうとも、完全を求めてやまない人類の潜在力は、それらの障害物を踏みこえて前進せずにいない。
 生命は、死を恐れない。死の直面で、笑いながら、踊りながら、滅亡した人間を踏み越えて進んでゆく。
 道とは何か。道のなかったところに踏み作られたものだ。荊棘(いばら)ばかりのところに開拓してできたものだ。
 むかしから、道はあった。将来も、永久にあるだろう。
 人類は寂しいはずがない。なぜなら、生命は進歩的であり、楽天的であるから。
 きのう、私は友人のLにいった。〈〈ある人間が死ぬことは、死ぬ本人と、その眷属にとっては悲惨なことであるが、一村、一町の人から見れば何でもないことだ。かりに一省、一国、一種族……〉〉
 Lは不愉快そうに、言った。〈〈それはNature(自然)のことだ。人間のことではない。すこし注意したほうがいいね。〉〉
 私は、かれの言うことも、もっともだと思った。
    --魯迅(竹内好編訳)『魯迅評論集』(岩波文庫、1981年)。

希望の道たる“地上の道”はまさに“荊棘”を開拓して開かれた道……。
魯迅の進歩は西洋の近代的合理主義的進歩観と全く異なる人間観に基づいています。
それはまさに、人間が打たれても、すすみ行く、その歩みを表現しているのでしょう。

なんか最近、クォリティが落ちていてすいません(もともとクオリティがないのかもしれませんが)。
ですけど、文闘しつづけていきます。

酒のみながら……。

Rojin

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みんな、遊んでいるかい?

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今日は休日--。
ゆっくり起きると、お子さまと細君が幼稚園から帰宅、昼食後、年度末に幼稚園を引っ越す予定のおともだちのところへ二人揃って、あわただしく、“遊び”に出かけました。

のどかな午後に、
「さて、今日はどのように休日を楽しむか」悩むおっさんが独り--。

悩んでいる暇はありません。
なぜなら、来週末が大学の仕事で大阪出張。
地方スクーリングの予定が入っているので、その仕込みです。
プロの、ベテランの教師なら、仕込まずとも、それまでの蓄積がありますので、えい、やぁっ、と、素手で、そのまま乗り込めましょうが、駆け出しの宇治家参去さんはそうもいきません。

綿密な仕込みがないとどうもいけません。
休日にして休日にあらず。
なかなか“遊ぶ”時間のない一日でした。

さて、ごらんの通り、上の文章では、すべて、「遊び」、「遊ぶ」に“”を入れています。
遊ぶとは本質的にどういう事態なのか?
最近、子供と遊ぶなかで、“遊ぶ”ということを考えることが多くなりました。

子供のころは確かに遊んでいました、自分のこどものように。
たとえば、うちの子供はウルトラマンが大好きで、24時間ウルトラマンワールドなのですが、怪獣のフィギュアひとつならべるのも、彼のなかでルールがあり、“手伝ってやろう!”と、わたしがそれを並べ出すと、たちまち怒り出します。
また、ウルトラ大怪獣バトルごっこ(すなわち、ウルトラマン役と怪獣役にわかれて擬似的にたたかう、こどものごっこ)の場合でも、演ずる怪獣によって、決め手や鳴き声を使い分けています。

こうした、“ごっこ”に始まり、ゲームとしてのスポーツ、テレビゲームにいたるまで、どうやら何か共通点がありそうですね。

では、おとなたちは何をして遊ぶのでしょうか。
自分自身を振り返ってみても、好きで、映画を見たり、音楽を聴いたり、読書をしたりしますが、その行為を“遊ぶ”とはいいません。
趣味は、アンティークウオッチやカメラの収集、そして撮影ですが、それも遊ぶとはいいません。

しいていえば、気の置けない友人たちと一緒になって飲みに行くことぐらいが、今の自分の“遊ぶ”ことです。

古い友人と、久しぶりに飲みに行き、べろんべろんになって帰宅すると(こどもから“よっぱらい星人・げろん”といわれる状態)、

細君から(飲めないのですが)、「自分、独りで遊んできて! もう!子供じゃないんだから」と叱責を受けます。

みなさんも、どういうとき、“遊ぶ”という言葉を、使っているのでしょうかね。

さて、そうした“遊ぶ”ということを探求した現代の名著に、『遊びと人間』という著作があります。現代フランスの代表的知識人といわれたカイヨワは、遊びの独自性の価値に理性の光を照らして、その根本性質として、「競争」「運」「模擬」「眩暈(めまい)」をあげています。これを基点として、遊びから文化が誕生した軌跡を丁寧に諭してくれます。そうしたつながりをカイヨワは「日本語版への序文」で次のように表現しています。すなわち……、

人間の行動は、人がそれを本能と混乱と野蛮な暴力とから解き放とうとするとき、はじめて人間的な行動となるが、このことを規定する基準とは、ほかならぬ遊びの精神--明るい興奮、誰しもが持たねばならぬ創意、任意の規則の自由意志にもとづく尊重、これら三つの要素のいり混じったもの--が存在しているかどうか、であるとさえいる。
    --ロジェ・カイヨワ(多田道太郎・篠塚幹夫訳)『遊びと人間』(講談社学術文庫、1990年)。

遊ぶとは、漫然と時間を潰すひとの動きでなく、「明るい興奮」「創意」「任意の規則の自由意志にもとずく尊重」を基礎におく、まさに人間にしかできない行動形態だ。
思えば、戦争を肯定するわけではありませんが、総力戦以前のひととひとの闘いには、ルールがあり、誇りがあり、憐媚があり、そして仁義が存在した。騎士道物語を紐解けばそうした事例に事欠かない。

しかし、そうした任意の規則を自ら破り、創造性を拒否し、暗く冷めた怨念で、ひととひとがむかいあったとき、清新な遊びの精神は根本から瓦解する。

いまいちど、“遊ぶ”ということばを自分がどんなときに使っているのか点検しつつ、人間として遊んでいきたいものです。

最後に、カイヨワの同書の末尾を紹介します。

 今世紀に現れた歴史哲学の諸著作のうち、精神の最上の糧の一つは、疑いもなくホイジンガの『ホモ・ルーデンス』である。

 遊びとは、人間の根本的な才能の一つであるが、しかし、あらゆる本能のうち、永続的で貴重な文化の基礎となるにはもっとも不適当な本能と思われてきた。ところがこの本では、尖鋭で強力な知性が、非凡な表現と叙述の才に助けられて、遊びがいかに文化に貢献したか、その事実を集積し、分析しているのだ。この本を読みすすむと思いがけず、法、科学、詩、生活の知恵、戦争、芸術などが遊びの精神によって豊かになり、時にはそこから生み出されることもあり。つねに遊びの精神のおかげを蒙ってきたことを知らされる。実際、遊びの精神は、さまざまの能力や野心をかきたてたり、働かせたり、場合に応じた働きをするが、けっきょく、それらによって文明というものが形成されてきたのである。
 その出発点は次のような遊びの定義であり、これは彼のみごとな分析を要約したものである。「形式について考察したところをまとめて述べてみれば、遊びは自由な行為であり、『ほんとうのことではない』としてありきたりの生活の埒外にあると考えられる。にもかかわらず、それは遊ぶ人を完全にとりこにするが、だからと言って何か物質的利益と結びつくわけでは全くなく、また他面、何かの効用が織り込まれているのでもない。それは自ら進んで限定した時間と空間の中で遂行され、一定の法則に従って秩序正しく進行し、しかも共同体規範を作り出す。それは自ら好んで秘密で取り囲み、あるいは仮装をもってありきたりの世界とは別のものであることを強調する。」

(中略)
--現代社会において、聖なるものと祭とが、おそろしく退化していることを認めぬわけにもゆかぬ。これは聖ならぬ世界であり、ここには祭も遊びも存在せず、したがって一定の基準もなく、献身すべき原理もなく、創造的な型破りということもない。ここでは直接的な利益や、シニズムや、あらゆる規範の否定が存在するだけでなく、それらはその世界にあって、絶対的な存在に祭りあげられ、すべての遊び、すべての高貴な活動や名誉ある競争の前提となる規則にとってかわっている。けっきょく、ほとんどあらゆるものが戦争への地ならしをしているとしても、あえて驚くにはあたらぬ。
 その上、あらゆる規範をたんなる約束ごと、束縛にすぎぬとして斥ける人びとの意志によって、もはや、競合としての戦争ではなくて、暴力としての戦争だけが問題になってきた。すなわち、問題となるのは、強者がその勇気と技倆を測る試練ではなく、人員と武装に立ち優った者が弱者を粉砕し殺戮するところの仮借のない敵意なのである。というのは、戦争においても、また戦闘のさなかにおいてさえ、文化というものが存在するからである。もし、遊びの基本要素が斥けられ、文字通りの野蛮状態におちいるのでなければ、文化が存在するはずだからだ。遊び、しかも束縛されない遊びがなければ、また意識的につくられ、自発的に尊重される約束ごとがなければ、文明というものは存在しない。邪心がなく、勝利におごらず、負けても怨まず、つまり、〔立派な遊戯者〕としてフェアに勝負を行なうこと、もしこういうことができず、望みもしなければ、文化というものはありえないのである。結局のところ、一切の倫理、一切の相互信頼、他者の尊重はありえない。もし集団や個人の利害を超える聖なるものの支配が存在しなければ、すべて創造的な営為の条件であるところの倫理や、相互信頼や、他者の尊重はありえないのである。誰もあえて異をたてようとはせぬ聖なるものの支配、これを守るためには自分の生命を犠牲にし、万一の場合には、自分の属する集団の存続そのものを賭するだけの価値があると、誰しもが考えている、そのような聖なるものの支配のことを、ここで言っているのだ。
 また、ごまかしをやる者よりも悪い者がいることも、忘れてはならない。それは、規則を馬鹿にしたり、規則には根拠がないと言ったりして、遊びを拒み、あるいは蔑む者である。ホイジンガが例にあげている、ダービーを見るために英国に招かれて、自分には或るウマが別の馬よりも速く駈けることがちゃんと分かっていたと言ったために謝まらせられたペルシアのシャーのような人のことである。聖なるものについても同様である。こういった「祭に水をさす人」(aguafiestas)すなわちうわべだけの懐疑論者や、疑い深い人ほど、文化にとってぶちこわしはないのだ。彼らは、何事につけても薄笑いをうかべ、そのことで、自分を偉いものに見せられると無邪気に思いこんでいる。自分たちで、もっと愉快でもっと大事な新しい遊びの規則を作ろうという心づもりで偶像を破壊し、涜聖(とくせい)を行っているなら話は別だが、そうでもないかぎり、彼らは、無限の苦労が蓄積してきた貴重な宝を、徒(あだ)し心から傷つけているにすぎないのだ。
    --ロジェ・カイヨワ(多田道太郎・篠塚幹夫訳)『遊びと人間』(講談社学術文庫、1990年)。

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力強く、満ち足りて、ぼくは大道をゆく

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ちょっと私的ですが--
  がんばっているひとがいたので、
    ウォルト・ホイットマンの「大道の歌」を捧げます。

大道の歌
    --ウォルト・ホイットマン


心も軽く徒歩でぼくは大道に出る、
健康で、自由で、世界がぼくの前にあり、
望みのとろこへ連れ出してくれる長い褐色の道がぼくの前にあり。

今からのちはぼくはもう幸運なんか求めまい、このぼく自身が幸福そのもの、
今からのちはぼくはもう二度と泣きごとなんか言うまい、二度と延期はすまい、愚痴も言うまい、
壁のなかでの繰りごとや書物談義、口うるさい批評などにはおさらばして、
力強く、満ち足りて、ぼくは大道をゆく。

地球があるんだ、それで充分、
星座になんか今以上近づいてきてほしくはない、
むろん星座は今いるところいればよく、
むろん星座も星座の国の住人には充分であるにきまっている。

(いまだにぼくは昔ながらの甘美な荷物を携えている、
ぼくの荷物は男たち御亜たちだ、どこへ行くにもぼくは彼らを携えていく、
この荷物ぼくにはとうてい放り出せない、ぜったい無理だ、
ぼくのなかには彼らがいっぱい詰まっているし、ぼくもお返しに彼らにぼくを詰めこんでやる)


君、ぼくが足を踏みいれてしきりに見まわっている道よ、君だけが全部ではないはずだ、
見えないものもここにはどっさりあるはずだ。

ここにあるのは選りごのみでもなく拒絶でもない、受容という深遠な教訓だ、
羊毛もどきの髪の黒人、凶悪犯、病人、文盲、誰ひとり拒まれる者はいない、
出産、医者を呼びにいくための疾走、乞食の重い足どり、酔っぱらいの千鳥足、高笑いする職工たちの一団、
逃げ出してきた若者、金持の馬車、町に運び込まれる家具、町からもどる空車(からぐるま)、
こうしたものが通っていく、ぼくも通る、どんなものでも通る、通せんぼできるものなど一つもない、
受け入れられぬものは一つもなく、ぼくがいとしく思わぬものも一つもない。


君、語るための息をぼくに届けてくれる空気よ、
君、拡散しようとするぼくの意図を呼びもどして形を与えてくれる物象よ、
君、均等に降りそそぐ滝すだれにぼくと万物を包み込む柔和な光よ、
君、踏みへらされて不規則な凹(くぼ)みを作った路傍の小道よ、
君らの内部にはきっと目に見えぬ存在が潜んでいるに相違ない、君らがぼくにはいとしくてならぬ。

君、町々の敷石を並べた歩道よ、歩道をふちどるがっしりした縁石(ふちいし)よ、
君、渡船場よ、波止場の厚板と杭よ、板材で裏打ちされた側面よ、遠くを航行す船よ、
君、幾列もの家並みよ、窓のある正面よ、君ら屋根たちよ、
君ら、玄関と入口よ、笠木(かさぎ)と鉄柵よ、
君、透明な殻ゆえに何もかも人目にさらしかねぬ窓よ、
君ら、ドアと登り段よ、アーチ状のくぐり門よ、
君、とめどなくつづく舗道の灰色の敷石よ、踏み固められた町の辻よ、
君らに触れたすべてのものから、きっと君らは分け前をもらったはずだ、そして今それをぼくにこっそり分けてくれる、
生きている者と死んだ者とを君らは誰彼かまわず君らの表情に平然と住まわせてきたが、彼らの霊もやがて顕われぼくの親しい友となる。


右に左に大地は広がる、
風景は正気を帯び、あらゆる部分が精いっぱいに光り輝き、
楽音は待ち望まれている場所に降りそそぎ、望まれぬ場所では鳴りをひそめる、
万人の道の晴れやかな声、陽気でみずみずしいその情感。

おお、ぼくが旅ゆく公道よ、君はぼくに頼むか「わたしを見捨てないで」と、
君は頼むのか「危ないことはどうかやめて--もしもわたしを見捨てたらあなたはだめになってしまう」と、
君は頼むのか「わたしはすでにでき上がった道、充分に踏み固められ誰も拒んだりしない道、どうかわたしから離れないで」と。
おお、万人の道よ、ぼくは答えるぼくは君から離れることなどおそれはしないが、それでも君が大好きだ、
君はぼくよりもっと巧みにぼく自身を表現してくれる、
君はぼくにはぼくの詩よりもたいせつなものになるはずだ。

ぼくは思う英雄的な行為はすべて外気のなかで決意され、自由な詩もすべてそうだと、
ぼくは思うこのぼくだってここに立ちどまるなら奇跡を行なうことも夢ではないと、
ぼくは思うこの道の上で出会うものなら何であれぼくはきっと好きになり、ぼくに目をとめる者なら誰であれきっとぼくを好きになると、
ぼくは思うぼくと会う人は誰であれきっと幸福になるにちがいないと。


今このときからぼくはきっぱり宣言するぼくは空想上の境界線や限界からは自由になって、
行きたいところへ足を向け、ぼく自身をぼくの絶対無二の主人となし、
他人の言葉にも耳を傾け、彼らの言いぶんをじっくり考え、
立ちどまり、探しまわり、受けとり、考えこみ、
ぼくを縛ろうとする制約を、穏やかに、しかし断固たる意志の力で脱ぎ棄ててみせる。

ぼくは宇宙の広がりを胸いっぱいに何度も吸いこむ、
東と西はぼくのもの、北と南もぼくのものだ。

ぼくは思っていたよりも大きくて、優秀だ、
ぼくはこんなにどっさり長所があったとは知らなかった。
何もかもがぼくには美しく見える、
男たち女たちにぼくは何度だって言ってやれる、君らはぼくをこんなに幸福にしてくれた、ぼくも君らにに同じ幸福を返してあげる、
道すがらぼくはぼく自身と君らのために新しい仲間を加えていこう、
道すがら男たち女たちのあいだにぼく自身を撒きちらそう、
彼らのあいだに荒荒しい新たな喜びを投げこもう、
誰がぼくを拒んでもぼくが困ったりするものか、
ぼくを受けいれる者は、彼であれ彼女であれかならず祝福され、ぼくを祝福してくれる。


今たとい一千人の完璧な男たちが立ち現われてもぼくは驚かないだろう、
今たとい一千人の美しい姿の女たちが現れてもぼくはびっくりしないだろう。

最上等の人間を作る秘訣をようやくぼくは会得した、
つまり戸外で育ち大地とともに食べ眠ること。

ここにこそ個性に根ざした偉大な行為が実を結ぶ、
(つまり全人類のハートをぐいとつかむ行為だ、
それが力と意志を発揮すれば世間の法などひとたまりもなく、どんな権威や議論であれ逆らおうとしても役には立たぬ)

これこそ知恵の試金石、
知恵の真価は学校などでは試されず、
知恵は持てる人から持たぬ人へと手渡せるようなものではない、
何しろ知恵は魂に由来し、証明するなど無理な話で、知恵そのものが知恵の証(あかし)だ、
すべての段階、物象、特質に応じられるが、しかも充分満ち足りている、
つまりは物が実在し不滅であることの確証、物のみごとさの確証であり、
混沌の海に浮遊する物の姿は、魂のなかから知恵を呼び醒ます何らかの力を宿している。

こんどはぼくは哲学と宗教を吟味し直そう、
講義室でならうまく論証もできるだろうが、どっこいこんな広広とした雲の下、風景と流れる川のほとりでは論証なんてお門違(かどちが)いだ。

今ようやくにして会得される、
今ようやくにして人は合一を果たし--おのれのなかに宿るものを今こそ悟る、
過去、未来、威厳、愛--もしもこれらのものが君に欠けていれば、君がこれらのものに欠けているのだ。

糧となるのはあらゆる物象のただ核心ばかり、
君とぼくのために外皮を引きちぎってくれる者はどこだ、
君とぼくのために策謀を挫(くじ)き外壁を突き崩してくれる者はどこだ。

これは男同士の愛着、あらかじめでき上がっているものでなく、時機に応じて現われるもの、
通りすがりに見知らぬ人に愛されるのがどういうことか君は知っているか、
こちらを振り向くあの眼球の語る思いを君は知っているか。


これは魂の流露だ、
こんもりと緑葉(みどりば)におおわれた門をくぐって、魂は奥のほうから流れ出しつつ、ひっきりなしに疑問を呼び起こしていく、
わが胸のこの憧れ何ゆえにここに、闇に潜むこの思い何ゆえに今、
身近にあればぼくの血潮が陽光をうけてこんなにもたぎるとは、男たち女たちは何ゆえここに、
彼らがぼくから離れてゆけばぼくの歓喜の長旗は力なく垂れさがる、何ゆえにかくも、
葉陰を歩めば寛やかで調べ妙なる想念が必ずぼくに降りそそぐ、これらの木々は何ゆえここに、
(たぶんそれらの想念は冬でも枝に生(な)り、ぼくが通りかかるといつも実を落としてよこすのだ)、
ぼくがかくも思いがけなく見知らぬ人と取り交わすこの想いはいったい何、
御者の隣に席を占めても揺れられてゆきながら彼と取り交わすこれは何、
歩み寄って足をとめ浜辺で網引く漁師と取り交わすこれは何、
女や男の好意をこだわりなくぼくに受けいれされるもの、こだわりなくぼくの好意を彼らに受けいれさせるものはいったい何。


魂の流露がすなわち幸福、これぞまさに幸福というもの、
たぶん幸福は戸外の空気にくまなく漲(みなぎ)り、いつも機会を待っている、
今こそ時は熟して幸福はぼくらめざして流れ寄り、ぼくらはその流れにしっかりと満たされる。

今こそ愛着してやまぬ伸びやかな個性が育つ、
愛着する伸びやかな個性とは男や女の瑞瑞(みずみず)しくかぐわしい性(さが)、
(いくら朝の若葉がおのれ自身の根から日ごとに瑞瑞しくかぐわしく萌え出ても、よもやおのれ自身の内側からひっきりなしに萌え出るこの性(さが)の瑞瑞しさ、かぐわしさには及ぶまい)

愛着する伸びやかな個性めざして若者や老人の愛の汗がにじみ出ていく、
美も技能も色あせるほどの魅力がその個性から蒸留されて滴り落ちる、
その個性めざして接触を願う憧憬の痛みが身ぶるいしつつ高まっていく。


出かけよう、君、誰であれ、ぼくといっしょに旅に出よう、
ぼくといっしょに旅をすれば、いつまでも飽きのこぬものが見つかるはずだ。

大地はけっして飽きがこない、
大地は最初は粗野で、無口で、理解しがたく、「自然」も最初は粗野で理解しがたい、
挫けてはならぬ、怯んではならぬ、みごとなものが内側にしっかり包みこまれている、
誓ってもいい言葉では語れぬような美しくみごとなものがきっとある。

出かけよう、ぼくらはこんなところで立ちどまってはならぬ、
貯えられたこれらの品がたといどんなに快く、今の住居(すまい)がたといどんなに便利だろうと、ここにとどまってはいられない、
この港がどんなに安全で、このあたりの波がどんなに静かだろうと、ぼくらはここに錨(いかり)をおろしてはならぬ、
ぼくらのまわりの人の好意がどんなにありがたく身にしみても、ぼくらがそれを受けてもいいのはほんのわずかなあいだだけだ。

10
出かけよう、旅への誘いを強めねばならぬ、
ぼくらは航路も知らぬ荒海をゆくだろう、
風吹くところ、波散るところ、ヤンキーごのみの快速帆船(クリッパー)が帆いっぱいに風をはらんで走るあたりへ赴くだろう。

出かけよう、力づよく、伸びのびと、大地とともに、自然の活力とともに、
すこやかに、昂然と、快活に、誇り高く、好奇の心を忘れずに、
出かけよう、ありとあらゆる形式から、
君らが守る儀式から、おお、物の形にとらわれた明きめくらの聖職者よ。

腐燗(ふらん)死体が道をふさぐ--もう埋葬には猶予ならぬ。

出かけよう、だがあらかじめ言っておく、
ぼくの道づれになる者には最上等の血液と、筋肉と、耐える力が欠かせない、
彼であれ彼女であれ勇気と健康がそなわるまでは誰もこの試練には臨めない、
まんいち君が君の最上の部分をすでに使い果たしていたらここへはくるな、
くることが許されるは決意した瑞瑞しいからだでくる者だけだ、
病人、酒飲み、梅毒患者も、ここでは仲間はずれだ。

(ぼくとぼくの仲間は議論や比喩や押韻なんかでは説得しない、
ぼくらはぼくら自身の存在で説き伏せる)

11
いいか、ぼくは君には正直に言う、
ぼくが与える賞品は口当たりのいい昔ながらのやつではなくて、荒削りの新しいやつさ、
つまり君の未来とならねばならぬ日々のことさ、
君は世間が富と呼ぶものをただ徒(いたず)らに積み上げてはならぬ、
稼いだもの成しとげたものを気前よくすべてばらまいてやらねばならぬ、
めざす町に辿りついても心ゆくまでくつろぐ暇なく、逆らいがたい声に促されて旅立たねばならぬ、
あとにとどまる者たちの皮肉な微笑と嘲りの先例も受けねばならぬ、
どんな愛の手招きを受けてもただ熱烈な別離の接吻だけで答えねばならぬ、
君のほうへ手を差しのべ広げてみせる者たちにもゆめ抱擁を許してはならぬ。

12
出かけよう、偉大な「仲間」たちのあとを追い、彼らのひとりとなるために、
彼らもこの道を歩んでいる--足の早い堂堂たる男たち--選りすぐった偉大な女たちだ、
穏やかな海、嵐の海を楽しむ者たち、
あまたの船の船乗りたち、あまたの距離の踏破者たちだ、
遠いあまたの国ぐにを足繁く訪れた者、僻遠(へきえん)の住処(すみか)に離れがたい想いを寄せた者たち、
男や女を信じる者、都市の姿に目を凝らし、みずからは孤独な苦役に耐える者、
茂みを、花を、浜辺の貝を、立ちどまってつくずくと眺めやる者たちだ、
婚礼の舞踏会で踊りに加わり、花嫁に接吻し、子供らを優しく世話し、みずから子供を産む者たち、
反乱軍の兵士たち、人待ち顔の墓穴のそばにたたずみ、棺を穴におろす者たち、
めぐる季節、過ぎゆく歳月のあいだ、先行する年から一つ一つ立ち現れる不可思議な歳月のあいだも歩みをとめぬ旅人たちだ、
さながら仲間を伴うように、おのれ自身の多様な位相を伴いながら旅ゆく者たち、
現実とならずに潜んでいた幼い日々からようやく外へ踏み出す者たち、
おのれ自身の青春を友に晴れやかに旅ゆく者、髭を蓄え角もとれたおのれの壮年が道づれの旅人たち、
豊かで、満ち足りて、比類ない、おのれの女ざかりを友に旅ゆく女たち、
男であれ女であれおのれ自身の荘厳な老年が道づれの旅人たちだ、
宇宙の高貴な広がりかと見まがうほどに広やかで静まりかえった老年、
近づいてきた死の快い自在さかと見まがうほどに自在で闊達な老年が道づれの彼らだ。

13
出かけよう、かつて始まりがなかったように今は終わりのないそのものに向かって、
日々の放浪、夜ごとの休息をたっぷり味わうために、
彼らがめざす旅のなかに、彼らがめざす昼と夜のなかに、いっさいを溶かしこむために、
そればかりか彼ら自身をさらに高遠な旅立ちのなかに溶かしこむために、
どちらを向いても見えるのはすべて辿りつき離れていけるものだかりとなるために、
たといどんなにかなたでも心に浮かぶ時間はすべて辿りつき離れていけるものばかりとなるために、

前を眺めうしろを見ても君のために延び君を待っている道ばかり、どんなに長く延びていても君を待つ君のための道ばかりとなるために、
神であれ誰であれ、見えるかぎりの存在は君もそこまで行けるものばかりとなるために、
見えるかぎりの所有物が君も所有できるものばかりとなり、労働もせず購入もせずにすべてを享受し、一片たりともわが口には入れないで饗宴の粋(すい)を味わうために、
農民の農場、金持の優雅な別荘、幸福な結婚をした夫婦の清らかな至福、果樹園の果実や花園の花の精髄を味わうために、
通りすがりに万物ひしめく都会のなかから役立つものを取り出すために、
取り出したあとは建物であれ、街並みであれどこへ行くにも携えて行くために、
めぐり逢う人ごとに彼らの脳髄から理由を採取し、心臓からは愛の想いを収穫するために、
愛する者たちを背後に残していきながら、しかも彼らをこの道にいっしょに連れ出してやるために、
宇宙そのものが一つの道、多くの道、旅ゆく魂たちのための道だと知るために。

魂たちの行進に万物がさっと分かれて道をあける、
すべての宗教、堅固を誇るすべてのもの、芸術、政府--この地球の上に、あるいはどんな地球の上であろうと、かつて現れいま現れているすべてのものが、宇宙の大道をゆく魂たちの行進を前にして、隅(すみ)に隠れ窪地に潜む。

宇宙の大道をゆく男や女の魂の行進の、他の行進はすべて必要な象徴と養分。

永遠に生気漲り、永遠に前をめざして、
堂堂と、厳かに、悲しげに、ひそやかに、困惑し、狂おしく、荒れ狂い、力萎え、満ち足りず、
絶望し、誇り高く、愛に溺れ、思いわずらい、人びとに受けいれてもらい、人びとに拒まれ、

彼らは進む、彼らは進む、進んでいるのは分かっているが、行先がどこかはぼくも知らない、
だがともかく彼らが至上のものを--偉大な何かをめざしているのは分かっている。

君、誰であれ、さあ出ておいで、男も女もみんな出ておいで、
そんな屋内でいつまでも居眠りしたり、ぐずぐずしていちゃだめだ、たとい君の建てた家でも、君のために建てられた家でもだ。

暗いところに閉じこもっていちゃだめだ、衝立(ついたて)の陰から出ておいで、
逆らおうってむださ、ぼくは全部知っていて、そいつを晒し者にしてしまう。

見たまえ世間と変わらぬ悪人の君の奥に、
笑い、踊り、正餐(せいさん)を摂り、夕餉の席につく人びとの奥に、
衣服や装飾品の内側に、洗い上げ手入れされる顔の内側に、
見たまえ、もの言わぬひそやかな憎悪と絶望を。

夫にも、妻にも、友人にも、まさかこの告白だけは打ち明けられず、
もう一つの自分、あらゆる人のそれぞれの陰が、こそこそと人目を忍んで歩きまわる、
都会のちまたを行くときは形も構わず無言のまま、客間にあれば礼儀正しく柔和そのもの、
汽車に乗り、蒸気船に乗り、公けの集会にも顔を出し、
男や女の暮らす家に帰りついては、食卓につき、寝室にしりぞき、いたるところに居合わせて、
衣装は粋、顔には微笑、背筋を伸ばし、肋(あばら)の下には死を宿し、頭蓋の下には地獄を秘めつつ、
黒ラシャ服と手袋に隠れ、リボンと造花におおわれて、
世間の習慣にも背くことなく、しかしおのれ自身のことはひとことこ語らず、
ほかのことなら何でも語るが、おのれ自身のことは黙したまま。

14
出かけよう、さまざまな苦闘をくぐりぬけつつ、
いったん名ざした目的地だ、今さら取り消せるわけがない。
過去の苦闘は実を結んだか、
いったい何が実を結ぶんだ、君自身か、君の国民か、それとも「自然」か、
いいか、ぼくの言いぶんをよく分かってくれ--どんな成功の結実からもさらに大きな苦闘が必要になるような何かがきっと生じてくる、これが物事の本質にそなわる摂理だ。

ぼくの呼びかけは闘争への呼びかけだ、ぼくは活発な反乱を養い育てる、
ぼくといっしょに旅立つ者はゆめ武器を怠ってはならぬ、
ぼくといっしょに旅立つ者はしばしば乏しい食事と貧しさと、怒れる敵と裏切りが道づれだ。

15
出かけよう、道はぼくらの前にある、
安全な道だ--ぼくがもう試してみた--ぼくのこの足がたっぷりと試してみた--後ろ髪など引かれてはならぬ、
紙は白紙のままで机の上、本は開かず棚の上に、
道具は作業場に残しておけ、かねもいっさい稼がずにおけ、
学校には見向きもするな、教師がわめいても耳をかすな
牧師には説教壇で説教を、弁護士には法廷で弁護を、裁判官には法の解釈を、構わずさせておけばいい。

愛する友よ。さあ手をかそう、
ぼくは君にかねでは買えぬぼくの貴重な愛を与えよう、
説教や法律なんかよりまずぼく自身を与えよう、
君もぼくに君自身をくれるかい、ぼくといっしょに旅にでるかい、
いのちのあるかぎりぼくらはぴったり離れずにいよう。

    --ホイットマン(酒本雅之訳)「大道の歌」、『草の葉(上)』(岩波文庫、1998年)。

力強く、満ち足りて、ぼくは大道をゆく--決めた道を歩む君を応援する宇治家参去でした。

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著者:ホイットマン,酒本 雅之
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ガンバリ・ニンドー・オト・ト・ギス

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 田舎の噺三つ

 一
 これはたしかお梅さんが、わたしに話してくれたのだと思う。
 『狢(むじな)という奴はたちが悪くて、特に田舎の、人里離れた民家に好んで忍び込みます。世帯道具の--主として鍋の形に化けて。
 たいていの人がその鍋を使うわけですが、しかしそれで何かを煮ようとすると、それはまたもとの狢になり、しかめ面して逃げてゆきます。--そのとき、中に入っていた水は火の上にこぼれ、火を消してしまいます』

 二
 これを、最初わたしは、日本に関する非常に注目すべき、しかもあまり知られていないある書物で読んだのである。その後、実際にそれが田舎の人達の信念であることを確め得た。
 『新年の夜、人里離れた場所で、Gambari-nindo oto-to-ghicou !(ガンバリ・ニンドー・オト・ト・ギス)(意味不明)と唱えさえすれば、すぐさま暗闇の中に毛むくじゃらな手のニュッと現れるのが見える』

 三
 同じ書物で拾った噺。
 『毎年冬のある晩に、猫たちは人里離れたどこかの庭で一大集会を催し、最後に月明かりの下でみんな揃って輪舞(ロンド)を踊る』
 それから次のようなすばらしい会則が眼にふれた。わたしはこれをジュール・ルメートルや、その他、猫の魅力のわかるほど充分に洗練されたあらゆる人々の高覧に供しよう。
 --本会ニ入会セントスルニハ、イカナル猫モ、踊ルトキ被ル絹ノねっかちーふ乃至はんかちーふヲ入手スル義務アリ。
    --ピエール・ロチ(村上菊一郎・吉氷清訳)『秋の日本』(角川文庫、昭和28年)。

 ピエール・ロチは、フランス海軍の軍人で、1885年(明治18)に来日、そのときの滞日印象録が『秋の日本』です。
明治維新から18年--。当時の日本は、江戸の面影を色濃く残しております。しかしその一方で怒濤のごとく押し寄せた西洋文明が定着しつつある--そうした情景を豊かな筆致で描いております。

「この日本という国は、千五百年乃至二千年の伝統を墨守しながら、しかも突然、眩暈のように彼を襲ったところの近代的な事物にも心酔して、いかにもちぐはぐな、木に竹をついだような、本当とは思えない国である」(同前)

別に日本文化が最高!という形で古来の伝統を賞賛したり、西洋文明が最高!とその逆に舶来品を手放しで歓迎するわけではありませんが、こと異文化受容に関しては、どうもこの国は、「ちぐはぐな」受容を続けていると思わざるを得ません。

どうも「ちぐはぐ」なんですよねぇ。

さて、市井の仕事が24時に終了し、家路を急ぐと、空から雪が降り出しました。
東京では初雪でしょうか--。
ロチの噺にでてくる猫ではありませんが、外で暮らすいきものたちは、“輪舞”でも踊らないと寒くてたまりませんね。

久しぶりに体がガチガチ震えた厳冬のひとときです。

個人的には、積もってほしいですね。
何故って?

それは風流だからですよ。

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<わが家>で眠る<充足>

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 享受と幸福は自己へと向かう運動であり、その運動によってしるしづけられるのは、<私>の充足である。うちに巻きついてゆく螺旋のイメージにさきほどは訴えたけれども、そのイメージによっては、この満足が~によって生きるという不充足に根づいてもいるしだいを、うまくあらわすことができない。<私>であることは幸福であることであり、わが家にいることである。これはたしかであるとはいえ、<私>は非充足のなかで充足しているのであって、<私>は<私でないもの>のうちにとどまっている。<私>であるとは、「他のもの」を享受していることであり、自己を享受していることではだんじてないのである。
    --レヴィナス(熊野純彦訳)『全体性と無限(上)』(岩波文庫、2005年)。

どうも宇治家参去です。ようやくレヴィナスの『全体性と無限』の第2部までフランス語で読みすすことができました。レヴィナスは深く難しいですが、その言葉を丹念に読み進めていくことはなによりの幸福です。

さて、今日は、“<私>の充足”ではありませんが、“わが家”で、ぐっすり寝てしまいました。起きると既に15時です。「起こしてよ~」と細君にいいましたが、起こすと文句をいうから放置したとのこと。ま、たまの休みなのでよしとしますか。

起床後、ひさしぶりに近所をぶらぶら散歩する。

武蔵野の夕暮れには、鉄塔が似合うなア~などと感慨にふけりました。

たまには何も考えず、散歩するのもいいですね。

さて、これから秋田の地酒『高清水』をやりながら、チェーホフの『桜の園』でも読んで寝ます。どうしても読みたくなったので……。

おやすみなさい。

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桜の園 (岩波文庫) Book 桜の園 (岩波文庫)

著者:チェーホフ,小野 理子
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The Man of Life Upright

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The Man of Life Upright
           Thomas Campion

The man of life upright,
  Whose guiltless heart is free
From all dishonest deeds
  Or thought of vanity:

The man whose silent days
  In harmless joys are spent,
Whom hopes cannot delude,
  Nor sorrow discontent:

That man needs neither towers
  Nor armour for defence,
Nor secret vaults to fly
From thunder's violence.

He only can behold
  With unaffrightted eyes
The horrors of the deep
  And terrors of the skies.

Thus scorning all the cares
  That fate or fortune brings,
He makes the heaven his book,
  His wisdom heavenly things,

Good thoughts his only friends,
  His wealth a well-spent age,
The earth his sober inn
  And quite pilgrimage.

誠実な人間
    トマス・キャンピオン

誠実な人間とは、
  その心が清潔で、
曲がったことをせず、
  虚栄心とは無縁な人のこと。

そういう人は、ただ黙々と、
  純粋無垢な日々をおくり、
希望にも心惑わされず、
  悲しみにも乱されはしない。

そういう人は、城壁や鎧で、
  自分の身を守る必要もなく、
晴天から降ってくる禍をさけるため
  秘密の地下室を設ける必要もない。

そういう人は、いや、そういう人だけが、
  深淵から迫ってくる恐怖も、
大空から襲ってくる脅威も、
  臆することなく見据えることができるのだ。

そして、運、不運のもたらす
  苦悩を超然と直視し、
天を仰いでそこに神意を読み、
  敬虔な思いこそわが知恵と考えるのだ。

さらにまた、善き思いをわが友とし、
  満ちたれる老齢をわが財産と見なし、
この地上の生を静かな旅の宿と見、
  自らを静かにそこに宿る旅人と考えるのだ。
    --平井正穂編『イギリス名詩選』(岩波文庫、1990年)。

昨日とおなじく、『イギリス名詩選』から紹介します。
医者であり、音楽家であり、そして詩人であった、トマス・キャンピオン(Thomas Campion)の「誠実な人間」から。
キャンピオン自身は、どちらかといえば、リュート歌曲の作詞家・作曲家として有名ですが、その音楽家ゆえか、韻律をきちんとふんだいい詩を書いています。

誠実な人間とは、「希望にも心惑わされず、悲しみにも乱されはしない」。
いきている人間の現実を「臆することなく見据える」がゆえに、「虚栄心とは無縁な人」なのだ。
だから「自分の身を守る必要もなく」、自分自身とひとびとに対して「誠実」であれるのだ。
今というこの時代、もっとも必要な価値機軸は、「誠実」ではなかろうか--成人式をえっちらおっちら、囃し立てるように報道するマスコミの画像とそこに映し出されるひとびとを見ながら、そう思い起こしました。

「誠実」とは単なる“裸の大将”ではない。
誠実の人とは、人間の黒白(善悪)をふかく洞察し、そこから立ち上がる“慈悲の勇者”にほかならない。そう思えて他なりません。

さて、詩集が二回続いたのですが、まったく、詩とはいいものですね。
途中での中断・再会が容易で(機械的な言い方で恐縮ですが)、どこでも読むことができる。そしてそのコトバに耳を傾けると、自然や人間の本来的なあり方、そして幸不幸の両方の姿を見つめ直すことができます。

やはり、コトバとして謳いあげられた詩人の魂が、読者の心に共振し、ふかく、そしてダイレクトに揺り動かすからでしょうか--。
たまには、詩集を紐解くと本当にいいものです。

そういえば、そうした詩人について、これまた詩人であるプーシキンがつぎのように謳っています。

汝は帝王ゆえに ひとり生きつつ
自由な道を自由な知恵のみちびくかたにゆけ。
その気だかき仕事の報いを求めることなく
おのがいつくしむ思いの実りをみのらしめよ。
    --プーシキン(金子幸彦訳)「詩人に」、『プーシキン詩集』(岩波文庫、1968年)。

“名をただす”ではありませんが、善い言葉は、人間を成長させてくれますね。

最後は、日常ネタで締めましょう。

必需品ですが、使い切ったことのないアイテムが、リップクリームです。

一冬に1~2本は購入するのですが、途中で紛失したり、使い切らないウチに使用期間が終了するという不思議なアイテムです。

今年から、ニベアのクリームに変えてみました。
やさしい触感がGoodです。ちなみに一緒に写っている 榮太樓飴も必需品。
こちらは、使い切ることのできるアイテムなんですが・・・。

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Thomas Campion (Poet to Poet) Book Thomas Campion (Poet to Poet)

著者:Thomas Campion
販売元:Faber and Faber
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人間は分析せんとして対象を扼殺している

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The Tables Turned
    William Wordsworth

Up ! up ! my Friend,and quit your books;
Or surely you'll grow double;
Up ! up ! my Friend,and clear your books;
Why all this toil and trouble ?

The sun,above the mountain's head,
A freshening lustre mellow
Through all the long green fields has spread,
His first sweet evening yellow.

Book! 'tis a dull and endless strife:
Come,here the woodland linnet,
How sweet his music ! On my life,
There's more of wisdom in it.

And hark ! How bilthe the throstle sing !
He, too, is no mean preacher:
Come forth into the light of things,
Let Nature be your Teather.

She has a world of ready wealth,
Our minds and hearts to bless--
Spontaneous wisdom breathed by health,
Truth breathed by cheerfulness.

One impulse from a vernal wood
May teach you more of man,
Of moral evil and of good,
Than all the sages can.

Sweet is the lore which Nature brings;
Our meddling intellect
Mis-shapes the beauteous forms of things:--
We murder to dissect.

Enough of Science and of Art;
Close up those barren leaves;
Come forth,and bring with you a heart
That watches and receives.

発想の転換をこそ
    ウィリアム・ワーズワス

さあ、君、立ち上がるのだ! 君の本を捨てるのだ!
さもないと、君の腰はほんとに曲がってしまうぞ。
立て、立ち上がるのだ! もっと明るい顔をしたらどうだ。
なぜそんなに刻苦勉励して本を読むのだ?

山の頂きにさしかかった太陽が、
爽やかで柔和な光を広々とした
緑の野原一面に漲(みなぎ)らせ、
夕陽特有の黄金色ですべてを染めている。

なるほど、本か! 本を読むのは骨が折れるし、きりがない。
それよりも外に出てきて紅ひわの鳴き声を聞くがいい、--
その歌声のなんと快いことか! 誓ってもいい、
本に書かれている以上の叡智がそこにある。

よく聞くのだ、鶫(つぐみ)のあの爽快な鳴き声を!
あの鳥も深遠な聖職者なのだ。
万象の光輝燦然(さんぜん)たる世界に出てくるがいい、
そして、自然を師として仰ぐがいい!

自然は、人間の精神と心象を清める
無限の富を貯えた宝庫なのだ。
その健康な姿を通して、知恵が脈々と迸り出、
その快活な姿を通して、真理が脈々と迸り出ている。

春の緑の森の一瞥がもたらす感動は、
すべての賢者以上に、人間について、
人間の善と悪という倫理の問題について、
我々にさまざまなことを教えてくれる。

自然が与えてくれる教訓は快く胸をうつ。
我々の小賢しい知性ときたら、
事物の美しい姿を台なしにしてしまうだけだ、--
人間は分析せんとして対象を扼殺(やくさつ)している。

科学も学問ももう沢山、といいたい。
それらの不毛の書物を閉じるがいい。
そして、外に出るのだ、万象を見、万象に感動する
心を抱いて、外に出てくるのだ。
    --平井正穂編『イギリス名詩選』(岩波文庫、1990年)。

ワーズワース(William Wordsworth)といえば、イングランド北東部の湖水地方をこよなく愛し、純朴かつ情熱的な自然讃美の詩を書いたことで知られるロマン派の詩人です。
大学時代、ワーズワースをこよなく愛した友人の熱心さにほだされ、読むようになった詩人です。

ワーズワースにおける自然とは、ふかく人間の問題と関わっている。コトバとして自然を謳いあげながらも、どこか人間が謳われている。ワーズワースにとって雄大かつ深遠な自然という存在は、人間と切り離された、いわば即自的な存在ではなく、人間と“共に”存在する、対自的な相互の関係なのかなと、いつも、その詩集を読むと、唸らされてしまいます。

そういえば、ワーズワースを紹介してくれた友人とも、伊豆半島で休日を楽しんだものです。新緑の息吹に目を見ひらかされ、潮風のにおいを肴に、酒を飲み、若い二人で、種々、論じあった思い出があります。いわば、自然という大きな教科書のなかで、真実的な人間的な生き方とは何か--そうした書生論議を交わした体験でした。

結婚してからは、気の置けない仲間たちと連れ立つ小旅行から疎遠になりましたが、子どもたちが落ち着いたら、たまにはのんびり、旅先の路地裏を彷徨いたいなアなどと思ってみたりもしますが、今は思い出だけ。

自然の陽光のなかで、青春の日々を歩めた幸せに感謝しつつ、身近な自然体験から、学ぶ日々でありたいと思う今日この頃です。

ちょうど、市井の職場で、定時に屋上へ上がり安全点検をおこなう業務があるので、澄み渡った空のむこうにそびえる富士山がみえると、なんだか、ほっとします。
そして、その大地に生きているひとびとへ微笑みたくなります。

ちいさなワーズワース体験も大切にしたいものです。

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生々しい話題で恐縮です

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 「金と申すものは、おもしろいものよ。つぎからつぎへ、さまざまな人びとの手にわたりながら、善悪二様のはたらきをする」
 「ははあ……」
 「その金の、そうしたはたらきを、われらは、まだ充分にわきまえておらぬような気がする……」
 何やら、しみじみと、平蔵がいったものであった。
    --池波正太郎「赤い空」、『鬼平犯科帳 15巻 特別長篇・雲竜剣』(文春文庫、2000年)。

今日は久しぶりの『鬼平犯科帳』から考えてみましょう。

不思議なもので、お金とは大事なものだが、だれもその使い方を教えてはくれない。使い方を教えてくれる人は誰もいないにもかかわらず、お金のことで失敗すると非難囂々なのがこの世の中の常です。
ないよりは、あった方がいいし、ひとまず、お金に苦労しなければ、なんとか生きてはいけるのが人生だ。

最近、迷惑メールで一番多いのが、眉唾モノの儲け話・投資話のメールである。

最初に書いたとおり、お金は大事なもので、ないよりは、あった方がいいものだが、どうも、わたしの場合、そうした案内が仮に百パーセント問題のないものであったとしても、どうも乗ろうと思いません。
保険(生命保険とかそのたぐい)には入っていますが、一般的な投機的な投資信託とか株とかもまったくやっていませんし、興味もまったくありません。
ま、ですので、そうしたメールは表題のみの確認で、ゴミ箱行か、自動的にフィルタリングでサヨウナラです。

現状としては、もちろん、お金が充分なわけではありませんし、貧乏暇ナシ・考える暇ナシですが、どうも“濡れ手に粟”“棚からぼた餅”に、冷淡といいますか、無頓着といいますか、まったく興味が沸きません。

これまで、明日の米がない!とか、明日までの学費が払えない!といった極限状況に追い込まれたことがない所為かもしれませんが、そうしたものに、どうも興味がわかないんですね。

ただ、考えるのは、先に引用したとおり、お金の働きという部分です。
世間を見渡せばわかるとおり、
「さまざまな人びとの手にわたりながら、善悪二様のはたらきをする」のがお金です。

お金とはいったい何者なのか?
時間のかかりそうなテーマです。

ただ、誰も教えてはくれないので、お金のはたらきをわきまえたときとは、すっかり白髪の年金生活者の年頃かもしれませんね。

ま、お金がない苦労も、お金がたくさんある心配もしたくはないのが実感です。

とりあえず、今日の疲れをいやし、また明日から地道に働く宇治家さんでした。

鬼平犯科帳〈15〉特別長篇・雲竜剣 (文春文庫) Book 鬼平犯科帳〈15〉特別長篇・雲竜剣 (文春文庫)

著者:池波 正太郎
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だまし……だまし……

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今日は、仕事がお休み。

半年近く、懸案事項だった、メインPCのリフレッシュを行う。
自宅では、HPのワークステーションにWindowsをぶち込んで使っていますが、なんとなく、気怠い動作……。特に致命的な問題を抱えているわけではありませんが、だましだまし使っているという状況。

それぞれが自分のPCを持っているくせに、ときどき、わたしのメインマシンをいじくる細君と息子さん。一応、このPCが一番処理能力が速く、レーザープリンタがついているから、時々、こねくりまわされています。そうした負荷がかさなり……

「(動きや設定が)なんか違うんだよなア」

で……、本日、1年ぶりにOSの再インストールを行いました。
保存すべき資料はほとんど外部ストレージを利用のため、処理中案件と送受信したメールぐらいしか入っていないので、簡単に再度バックアップし、再インスト。

思ったより速く進みました。

結局時間がかかったのは、使用しているソフトのインストール。しかし、昔日に比べ、再インストもシステマティックになったなアというのが実感です。

だましだまし、パソコンを使っている貴方!
たまには、バックアップをとった上でのリフレッシュをお薦めします。
何のお金もかけずに、見違えるように(?)動作がキビキビしますよ。

さて……最後に一つ。

最近、よく飲むのが、SAPPOROビールです。
ビールといえば、キリンやアサヒがシェア的優位を独占しておりますが、サッポロビールもなかなかです。
キレやパンチではなく、優しい飲み応えで、こころをやさしくしてくれます。
こんな夜には、『ルバイヤート』(11世紀ペルシアの詩人の詩集)がおともだち。

東の空の白むとき何故(なぜ)雞(にわとり)が
声を上げて騒ぐかを知っているか?
朝の鏡に夜の命のうしろ姿が
映っても知らない君に告げようとさ。
    --オマル・ハイヤーム(小川亮作訳)『ルバイヤート』(岩波文庫、1979年)。

ルバイヤート ルバイヤート
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Who is my neighbor ?

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The question,Who is my neighbor ? hinges on the meanings of the term neighbor,which,like the terms caring person,and individual,are, in the language of Gilbert Ryle,systematically ambiguous.The ambiguity arises because these terms occupy the twin domains of ethics and morality-that is,thick relations and thin ones.Thus,in the context of morality,neighbor means a mere fellow human being.But in the context of ethics,a neighbor is someone with whom we have a history of a meaningful,positive,personal relationship,or a history that can be mediated through some imagined community,such as the community of my fellow Jews,most of whom I never encountered in my life.
The scope of ethics is determined by our thick relations,which determine who our metaphorical neighbor is.But then the hard question arises,What thick relations ? The actual ones we happen to have,or the one we are assumed to have or ought to have,which might,in their most extensive scope,encompass all of humankind ? Thus morality turns into ethics.
    -- Avishai Margalit,The Ethics of Memory,Harvard Univesity Peress,2002,pp44-45.

「アウシュヴィッツ以後に詩を書くことは野蛮である」と表明したのはユダヤ人哲学者アドルノである。
アウシュヴィッツの悲劇も、ヒロシマ・ナガサキの惨状も偶発的な狂気でなく、近代の合理的な啓蒙主義が生んだひとつの必然的な結果であることに異論を挟む者は誰もいないだろう。人は過去の過ちを虚心坦懐に見つめ直し、理性的に行動し、次第に賢くなるだろう--近代ヨーロッパの啓蒙主義は、理性の明るい光のもと、人間は無限に進歩し、理想的な社会になると論じたが、20世紀の悲劇は、たった一人の狂人によって振り回されたわけではない。すべてが、完全に計画的に、科学的な方法を最大限用いて、一民族の抹殺作戦(ホロコースト)が発動し、無差別的な人体実験として、極限の武器である核兵器が投下されたわけである。もっとも合理的で人類に幸福をもたらすはずだった科学や理性が、逆に最大の悲劇の根源となった--こうした逆説的な現実を深く見つめ直して、当事者である人間そのものを問い直す作業は決して無益ではない。

さて、上に引用したのは、イスラエルの倫理学者アヴィシャイ・マルガリットの著書『記憶の倫理(学)』より。

マルガリットの両親はパレスチナにいて、ホロコーストの難を逃れたが、ヨーロッパにいた親類はほとんどがナチスの犠牲になったという。本書でマルガリットは、アウシュヴィッツ以後の倫理がいかにして可能かを追求しているが、宗教にかわるべき存在として「記憶」の重要性を指摘している。

記憶は個人の記憶だけでなく、集団の記憶も存在する。そこでマルガリットは、「倫理(ethics)」と「道徳(morality)」を区別して、「倫理」とは「濃密な人間関係」の間に成立するものであり、「道徳」は「薄い人間関係」の間で成り立つという。「濃密な人間関係」とは、両親や友人、恋人など「感情を共有できる関係」であり、「薄い人間関係」とは、文字通り、前者に比してより抽象的な関係である。そして「薄い人間関係」のひとつの頂点が「人間性」にもとづく人類の共同体である。

記憶は、「濃密な人間関係」の中で共有され、次代へと継承されてゆく。

記憶は、楽しい記憶より、苦難の記憶の方が痛切に刻印されるものである。その記憶を継承していくとき、例えば、ユダヤ民族の共同体としての記憶であるホロコーストの記憶は、罪を許せることが出来るのか否か--こうした難問が本書では次々と問われている。

倫理といえば社会性がつよく、道徳といえば、やや主観性(個人性)が強いとこれまで考えてきたが、マルガリットの著作に触れたとき、そうした通念が打破された。倫理が内面化されるたとき、自律としての道徳が機能すると短絡的に考えたものだが、事態はそうでもなさそうだ。

人は皆、好むと好まざる煮関わらず、「濃密な人間関係」(倫理)のなかで暮らし、「薄い人間関係」(道徳)のベールを被って生きている。この重層的な状態のなかで、「倫理」の領域をどのように広げ、「道徳」の領域とどのように関わっていくべきなのか、考えざるを得ない。

倫理学を講ずる上で、今年一年の、ひとつの大きな課題を与えられたようです。

Margalit

The Ethics of Memory Book The Ethics of Memory

著者:Avishai Margalit
販売元:Harvard Univ Pr
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砂金を残す

Dazai

ある学生さんと、教室を出た後(例えば卒業)、教育は何が出来るのか--すなわち教育に関して論じていた時、

そういえば……、
“本当の教育は学校を卒業した後に心の中に残っている砂金のようのもの”
     --というのを聞いたことがあります、と学生さんが語りました。

そういうやりとりでした。

確か、太宰か三島の言葉だったよな--と思い直して、手元の文庫を紐解いてみました。

ありました!
少し長くなりますが、前後を引用します。

「偉い人物になれ!」と小学校の頃からよく先生たちに言われて来たけど、あんないい加減な言葉はないや。何がなんだか、わからない。馬鹿にしている。全然、責任のない言葉だ。僕はもう子供でないんだ。世の中の暮しのつらさも少しずつ、わかりかけて来ているのだ。たとえば、中学校の教師だって、その裏の生活は、意外にも、みじめなものらしい。漱石(そうせき)の「坊ちゃん」にだって、ちゃんと書かれているじゃないか。高利貸の世話になっている人もあるだろうし、奥さんに呶鳴(どな)られている人もあるだろう。人生の気の毒な敗残者みたいな感じの先生さえ居るようだ。学識だって、あんまり、すぐれているようにも見えない。そんなつまらない人が、いつもいつも同じ、あたりさわりの無い立派そうな教訓を、なんの確信もなくべらべら言っているのだから、つくづく僕らも学校がいやになってしまうのだ。せめて、もっと具体的な身近かな方針でも教えてくれたら、僕たちは、どんなに助かるかわからない。先生御自身の失敗談など、少しも飾らずに聞かせて下さっても、僕たちの胸には、ぐんと来るのに、いつもいつも同じ、権利と義務の定義やら、大我と小我の区別やら、わかり切った事をくどくどと繰り返してばかりいる。きょうの修身の講義など、殊(こと)に退屈だった。英雄と小人(しょうじん)という題なんだけど、金子先生は、ただやたらに、ナポレオンやソクラテスをほめて、市井(しせい)の小人のみじめさを罵倒(ばとう)するのだ。それでは、何にもなるまい。人間がみんな、ナポレオンやミケランジェロになれるわけじゃあるまいし、小人の日常生活の苦闘にも尊いものがある筈だし、金子先生のお話は、いつもこんなに概念的で、なっていない。こんな人をこそ、俗物というのだ。頭が古いのだろう。もう五十を過ぎて居られるんだから、仕方が無い。ああ、先生も生徒に同情されるようになっちゃ、おしまいだ。本当に、この人たちは、きょうまで僕になんにも教えてはくれなかった。僕は来年、理科か文科か、どちらかを決定的に選ばなければならぬのだ! 事態は急迫しているのだ。まったく、深刻にもなるさ。どうすればよいのか、ただ、迷うばかりだ。学校で、金子先生の無内容なお話をぼんやり聞いているうちに、僕は、去年わかれた黒田先生が、やたら無性(むしょう)に恋いしくなった。焦(こ)げつくように、したわしくなった。あの先生には、たしかになにかあった。だいいち、利巧だった。男らしく、きびきびしていた。中学校全体の尊敬の的だったと言ってもいいだろう。或(あ)る英語の時間に、先生は、リア王の章を静かに訳し終えて、それから、だし抜けに言い出した。がらりと語調も変っていた。噛(か)んで吐き出すような語調とは、あんなのを言うのだろうか。とに角、ぶっきら棒な口調だった。それも、急に、なんの予告もなしに言い出したのだから僕たちは、どきんとした。
「もう、これでおわかれなんだ。はかないものさ。実際、教師と生徒の仲なんて、いい加減なものだ。教師が退職してしまえば、それっきり他人になるんだ。君達が悪いんじゃない、教師が悪いんだ。じっせえ、教師なんて馬鹿野郎ばっかりさ。男だか女だか、わからねえ野郎ばっかりだ。こんな事を君たちに向って言っちゃ悪いけど、俺(おれ)はもう、我慢が出来なくなったんだ。教員室の空気が、さ。無学だ! エゴだ。生徒を愛していないんだ。俺は、もう、二年間も教員室で頑張(がんば)って来たんだ。もういけねえ。クビになる前に、俺のほうから、よした。きょう、この時間だけで、おしまいなんだ。もう君たちとは逢(あ)えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記(あんき)している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは。君たちとは、もうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。けれども、君たちの名前は一生わすれないで覚えているぞ。君たちも、たまには俺の事を思い出してくれよ。あっけないお別れだけど、男と男だ。あっさり行こう。最後に、君たちの御健康を祈ります。」すこし青い顔をして、ちっとも笑わず、先生のほうから僕たちにお辞儀をした。
 僕は先生に飛びついて泣きたかった。
「礼!」級長の矢村が、半分泣き声で号令をかけた。六十人、静粛に起立して心からの礼をした。
「今度の試験のことは心配しないで。」と言って先生は、はじめてにっこり笑った。
「先生、さよなら!」と落第生の志田が小さい声で言ったら、それに続いて六十人の生徒が声をそろえて、
「先生、さよなら!」と一斉(いっせい)に叫んだ。
 僕は声をあげて泣きたかった。
 黒田先生は、いまどうしているだろう。ひょっとしたら出征したかも知れない。まだ三十歳くらいの筈だから。
 こうして黒田先生の事を書いていると、本当に、時の経(た)つのを忘れる。もう深夜、十二時ちかい。兄さんは、隣室で、ひっそり小説を書いている。長篇(ちょうへん)小説らしい。もう二百枚以上になったそうだ。兄さんは、昼と夜とが逆なのだ。毎日、午後の四時頃に起きる。そうして必ず徹夜だ。からだに悪いんじゃないかしら。僕は、もう眠くてかなわぬ。これから、蘆花の思い出の記を少し読んで、眠るつもりだ。あすは日曜だから、ゆっくり朝寝が出来る。日曜のたのしみは、そればかりだ。
    --太宰治「正義と微笑」、『パンドラの匣』(新潮文庫、昭和四八年)。

なんで勉強しなければいけないのか--?

それはおそらく、公式や単語を暗記することではなく、人間としての訓練なのだ。
人間としての訓練をおろそかにした人間は、人間そのものをおろそかにする。そして人の人生と自分の人生をおろそかにする“むごいエゴイスト”になってしまう。

ひとつひとつを積み重ねた人間は強い。
強いということは、自分を認め、他者を寛容する慈愛である。

なにも、勉強せよとはいいたくない。

ただ、自分に科せられた訓練から逃げた人間は、“カルチベート”されない野獣である。
カルチベート、即ちカルチュアとは、耕すことだ。
耕すには時間がかかる。

そうした耕す時間を大切にしたいものである。

だれも自分を耕してはくれないから。

Book パンドラの匣

著者:太宰 治
販売元:新潮社
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活字になると嬉しいですね

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年末に刊行された、所属する研究所の研究紀要が今朝届いていた。

1本、論文を載せているのですが、こう、自分の書いたモノが活字になるのは嬉しいものですね、単純ですが。

今回は、前回掲載分の続きで、明治時代のキリスト教(主としてユニテリアニズム)における、宗教多元主義の問題を論じたもので、まだ完結していません。
いちおう、タイトルは、「明治キリスト教と宗教多元主義の諸問題--事例としてのユニテリアン派の活動から(2)」(『東洋学術研究所紀要』23、2007年)。
興味のある方は、抜き刷が出来ましたら、贈ります。

次回は<その3>。

いい加減、完結しないとマズイですが、どうも調べ出すと長くなってしまいます。

今までは、宗教学・キリスト教学の分野でボチボチと論文を書いていましたが、今年からは、哲学、倫理学(日本倫理思想史)のジャンルでも論文を書いていこうと思っています。

最近、なかなか、ゆっくりと物事を考えたり、じっくりとテキストを読むという時間をとりにくい毎日ですが、なんとか、今年は、昨年より生産性の高い論文を発表したいものです。

とか、書いているともう、市井の仕事の時間です。
ほんとに疲れるな。

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家族と共に

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どうもです、宇治家参去です。

今日は、実は、哲学における個人の内面の問題からどういうかたちで、共同体のあり方をかたるか、原稿を準備していたのですが、家族が昨日帰京したため、そちらを優先しましたので、原稿途中のため、アップを割愛し、後日とします。ご容赦のほど!

で……

昨日、田舎より冬休みを満喫した細君+息子さんが帰京。
静寂をうち破る喧噪がふたたびはじまりました。
日常生活の再開です。

昼過ぎに、幼稚園から帰宅後の息子さんとウルトラ怪獣大バトルごっこでへろへろになりつつ、夕方、家族と共に新年会。

子供にウルトラ怪獣の絵本を購入後、旨いモノを食わせてくれる、くいもの中心の居酒屋で一杯。疲労を癒しました。

息子さんは久しぶりの幼稚園で疲れたのか、来店後、すぐに就寝。
久々に夫婦二人の語らいとなりました。
細君は全く飲めませんが、ひさしぶりにふかく話し合うことができた一日でした。

今年は、どういう年にするのか……。
家族の笑顔を消さない、明るい、前進の一年にしよう!との出発となりました。

とはいえ、気が付くと結構飲んでいましたが、帰ってから、今、文面を入力しつつ、菊正宗樽酒で、第2陣。

今年は飲み過ぎない一年にしたいものです。

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年度最終講義

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本日、短大での『哲学入門』年度末最終講義、無事終了する。

哲学といえば、本質的に、今生きている社会や人間の実存と無関係な空虚な専門家の言葉戯びにすぎぬという一般的な認識が強い昨今、そうした虚飾をうち破るのがこの講義の目的である。
哲学とは、一人の人間が、世界や人間、自分自身に関して、どこまでも深く、強く、考え抜き、そして対話を通して、共通了解をめざす、そうした心と頭と言葉による力強い人間ならではの営みだ。
ヘーゲル以降、哲学の歴史は、その哲学性そのものの解体へと突っ走り、残されたのはどこか寂しさのともなう空虚な廃墟だけである。哲学性そのもの、そしてその暴力性への批判はなされてしかるべきであるが、批判のための批判、理論のための理論がいかに多かったことか。
そうした空虚な、そしてシニカルな哲学観を払拭し、どこまでも自分自身に即して物事を考え、他者へ開いていく--そうしたことを語り続けた講義でしたが、本日でとりあえず無事完結する。

カントの有名な言葉に、「哲学は学ぶことはできないのであり、学ぶことができるのは哲学することだけだ」とある。

本当の哲学の授業とは、教室を出た後から始まるのであろう。
受講生ひとりひとりの健闘を祈りたい。

さて、これから仕事がもう一丁。

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葱とダヴィンチ

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不思議なもので、子供の頃はニガテだったが、大人になって、その旨さに驚いた食材は数あります。
そうした食材のなかで、決して欠かすことのできない一品が、葱(ねぎ)です。

まるごとも食べるのもよし、薬味として使うにもよし、そして風邪の対策にもよし--。

あの苦さと甘さがたまらなく旨い一品です。

さて、今日は終業後、どうしてもラーメンが食べたくなってしまい、バイト君(パンサーN)と、新小金井街道沿いの、「とろける焼豚 GUTSラーメン」を食べにいく。
自転車のサドルにも霜が降りるほどの寒さで、天空も透き通り、星々の輝きの眩い、冬の夜空を、二人で白い息をはきながら、ラーメン屋をめざしました。

およそ一年ぶりの再会。
しょうゆとんこつとでもいえばいいのでしょうか--こてこてほどきつくない出汁で、細麺、そしてとろとろにとろける焼豚の組み合わせ。葱好きですので、本日は、葱チャーシュー(並)でいきました。

仕事の後の一杯は、うまい!
ただ、寝る前のラーメンは、きつい!

堪能したあと、ふたりでふうふういいながら、かえってきました。

さ、いよいよ正月もおわり、日常モード。
かのレオナルド・ダ・ヴィンチは次のように語ったという。

障害は私を屈せしめない。
あらゆる障害は奮励努力によって打破される。
    --杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 (上)』(岩波文庫、1954年)。

レオナルドの覇気で、寒さを吹き飛ばし、人生を痛快に歩んでいこう!

Davi

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久しぶりの二日酔い

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昨夜、以前より約束があったので、学問の後輩とヘビーに飲む。

通称・旗の台の万衛門と呼ばれる、その男と飲むといつも痛飲になる。病み上がりで、飲んだので、ひさしぶりの二日酔いです。トホホ。

若い頃は、いくら飲んでも平気でしたが、最近はもういけませんね。御自愛しないとまずいですね。

さて、朝起きると細君からメールが来てい、月曜に東京へ帰ってくるとのコト。2週間のきままな一人暮らしもこれで終わりです。

ぼちぼち、掃除をしておかないとまずいですね。

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ゆっくりと着実に

Gajyo

King

風邪がすこし落ち着き始めた宇治家参去です。
前夜は40度近くあったまま出勤、死にかけて帰宅、薬を飲んで、ガンガンにふとんを積み上げ、そして、加湿器をつけっ放しで寝ました。
加湿器がよかったのでしょうか--。すこし熱は収まり、鼻とノドの通事もよくなり、出勤後、今に至るわけです。
気をよくしながら、キリン・ザ・ゴールドを飲んでいますが、ひょっとするとこれが再度悪化させるかもしれませんが、今晩も同じようにして寝ましょう。

さてさて--。
通信教育部で、教鞭を取るようになって(といってもスクーリングの担当のみですが)、はや半年。

通学制の授業と違い、二日程度で半期分の内容を一気にカッツリ授業を行うものですから、こちらも真剣であるのは当然ですが、聞いている学生さんも真剣かつ、真摯に学ばれている姿に、色々と考えさせられた日々でした。

そんななかで嬉しいのが、たった二日のお付き合い--まさに一期一会--でしたが、そうした学生さんから届けられた賀状。

数名の受講者から年賀状が届いていました。

近況と今後の展望。
自分もがんばらねばと思い改めた新年でした。

では、最後にひとつ(脈絡のない恒例ですね)。

マハトマ・ガンジーは、彼の哲学に帰依した人間を百人以上もったことは決してなかった。だが、彼は、彼につきしたがうこうした少数の献身的な人々とともに全インドに電流を通じ、壮大な非暴力の饗宴によって大英帝国の権力に挑戦し、インド人のために自由を獲得したのだ。
 こうした非暴力の方法は、決して一夜のうちに奇蹟を行ったりはせぬだろう。人間というものは、習慣になった考え方や、偏見をふきこまれた非合理的な感情からは容易に解放されるものではない。特権を奪われた人々が自由を要求するときには、特権をあたえられた人々はまずはげしい抵抗をもってこれにこたえるものだ。こうした要求が非暴力的な言葉につつまれていても、最初の反応は全く同じなのだ。ネルーはかつて、イギリス人は、インド人が非暴力をもって彼らに抵抗したときほど憤慨したことはいまだかつてなかったといい、彼が先に鉄をつけた木の杖で頬をなぐられたときいま一方の頬をむけたイギリスの兵士の目ほど憎悪にみちた目を見たことはかつてなかったといった。だが非暴力的抵抗は、たとえイギリス人の目にはみえなくても、少なくとインド人の精神と心情とをすっかりかえてしまったのだ。ネルーは、いった。「われわれは恐怖をすてさった」と。そして結局イギリスは、たんにインドに自由をあたえたばかりでなく、インド人にたいする新しい尊敬をいだくことになったのだ。今日、大英共和国内部のこれら二つの国民の間には完全な平等にもとづく相互の友情が成立している。
    --M・L・キング(雪山慶正訳)『自由への大いなる歩み--非暴力で闘った黒人たち--』(岩波新書、1959年)。

ガンジーは、「善いことはカタツムリの速度で進む」といい、キングは「本来的な勝利には忍耐が必要」と語ったそうな。
人間とはともすれば、短絡的に、一朝一夕でものごとを、ズバリ“革命”しようと夢想する。しかし、本物の革命を一朝一夕で成し遂げることは不可能だ。
鉄の忍耐(ゲーテ)、不屈の前進で、日々を生きていくのみです。

Jiyuu

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道は邇きに在り

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Watsuji

とにかく、和辻哲郎の文章は、流暢で、読み手を読ませます。
たとえば……

 今日は雨の中をピサ見物に行って来た。ヨーロッパの北の方ではあまり経験しなかったが、イタリアへくると、たまには日本らしい雨が降る。今日などはそれで、相当びしょびしょしている。しかしピサでは、中央寺院や墓地を見ればまずそれでよい、というわけで、雨の中を行って来たのである。
    --和辻哲郎『イタリア古寺巡礼』(岩波文庫、1991年)。

とても戦前の文体には思えません。この和辻哲郎に一番、惑溺したが、ちょうど大学3年生のころだったと思う。はじめに、『風土』を、つぎに『古寺巡礼』、そして『人間の学としての倫理学』--。そういう流れでやたらに読みふけった記憶があり、古い版だが、神田の古本屋で岩波版の全集を買い求め、あらかた読みつくしたものである。

だが、ぷっつりと読まなくなった。

なぜか?

当時の私には、和辻倫理学の焦点がいまひとつピンとこず、「当たり前の論説に過ぎない」と退けたからだ。
難解な言語を駆使した華々しいフランス現代思想に魅力を感じたのもこの頃のことである。。
以後、大学で倫理学を講じるようになるまで、和辻を紐解くことはなかった……。

今思うと厚顔のいたりである。

では、なぜピンとこなかったのか--。
和辻の文章は確かに読みやすい。しかも古今東西の古典を渉猟しつつも、最新の学知を統合する手法で、倫理や文化を語るわけですが、その読みやすさに甘えてしまい、そこでかたられる、たとえば「倫理とは何か」、「ethicsとは何か」--等々、そうした部分があまりにも生活に立脚した普段の言葉遣いで語られているがために、かえって見過ごしてしまい、ピンとこなかったわけである。

孟子の言葉に次の一節がある。

道は近きにあり、然るに人これを遠きに求む。事は易きにあり、然るに人これを難きに求む。
    --孟子(小林勝人校註)「離婁上」、『孟子』(岩波文庫、1968年)。

人はともすれば、大切なもの、価値あるものが身近にあるとはなかなか思えず、それらをどこか遠方に求めてしまう。思えば、和辻を読みふけった、独り暮らし学生時代とは、どこか生活のにおいのない、勝手気ままな生活だったと思う。朝まで本を読んでいたかと思えば、夕方まで寝たり、徹夜で学校へいくかと思えば、バイトで授業を欠席したり--。
そこには、人間の生の生活は存在しない。ゆえに、生活を冷静に見直しながら、あるべき根本理法を追求した和辻の言説が、どこかちっぽけにみえ、真理とは、どこか遠くの、すばらしい世界に存在するのでは--なんて思ってみたりしたものである。

まさに、近すぎて見えなかったのだ。

さて、この孟子のコトバを、和辻哲郎は、『倫理学』の「序言」の末尾で引いている。

倫理そのものは倫理学書の中にではなくして人間の存在自身の内にある。倫理学はかかる倫理を自覚する努力に他ならない。道は邇(ちか)きに在りとは誠に至言である。
    --和辻哲郎『倫理学 (一)』(岩波文庫、2007年)。

倫理学はかかる倫理を自覚する努力--なかなかいい言い方ですね。

さて、熱が下がらないのでとっと寝ます。

イタリア古寺巡礼 (岩波文庫) Book イタリア古寺巡礼 (岩波文庫)

著者:和辻 哲郎
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困ったなア

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倫理問題の場所は孤立的個人の意識にではなくしてまさに人と人との間柄にある。だから倫理学は人間の学なのである。人と人との間柄の問題としてでなくては行為の善悪も義務も責任も徳も真に解くことができない。しかも我々はこのことを最も手近に、今ここで我々が問題としている「倫理」という概念自身において明らかにすることができるのである。
    --和辻哲郎『倫理学(一)』(岩波文庫、2007年)。

午前中は、和辻哲郎の大著『倫理学』をぱらぱらとめくっていましたが、軽漂浮薄な出版が多い中、こうしたまともな作品が、読みやすい文庫として刊行されるという事態は、まだまだ日本の出版界もすてたものじゃないのかななどと思ってみたりもします。

和辻は、共同存在としての人間を律する「根本理法」としての倫理学の方法を考究しましたが、いくら読んでも頭に入ってこない。

どうやら風邪をひいたらしい。

これから仕事なのに、熱が下がらず、げふげふです。

倫理学 1 (1) Book 倫理学 1 (1)

著者:和辻 哲郎
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偉大な思想に生き抜く

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浮き世に佇む宇治家参去です。
2008年の開幕、誠にもっておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。

今年の元旦だけはどうやら市井の仕事がお休みですが、前後はがっちりと組まれてい、来週からは、大学の講義も始まるので、休みどころか、仕込み作業で忙殺です。
とはいえ、ゆっくりと起き、新年の用事をすませ、夕方から先ほどまで、書類と文献とPCと格闘し、今から御屠蘇です。
来年は、家族と祝える環境へ切り替えたいものですね。

とか書いていると、勤務先の市井の職場の店長から電話--。
「マジかよ」と思って出てみると、
パソコンとデジカメの接続方法の問い合わせだった。
「お願いしますよ~」。

それでは、気を取り直して、ヒルティの言葉から……。

一月一日
 たえず偉大な思想に生き、ささいなことを顧みないように努めなさい。これは一般的にいって、人生の多くの苦渋と心配事を最もたやすく乗りこえる道である。
 最も偉大な、しかも同時に、一般に最もわかりやすい思想は、現在では、キリスト教の形をとる神の信仰である。

 しかし、古い時代から今日まで、いじけた、あまりに偏狭な性質のキリスト教も存在した。これは、キリストの本性とその教えに合致しない、あるいは少なくとも完全には合致しえないものであり、実際、そのためにすでに多くの心の立派な、教養の高い人びとが、キリストの教えから遠ざかったのである。
 もしあなたが人生の幸福をこころから望むならば、キリスト教を神学や教会主義と取替えてはならない。むしろ、あなたは自分でキリスト教をその源において、すなわち、福音書のうちに、とりわけキリストみずからの言葉のなかに、求めなさい。キリストの言葉と比べられるものは、どんな哲学にも見いだすことができない。
 マタイによる福音書二一、同胞教会賛美歌六七番、六九一番。
 われわれは、ときとして、自分がどんなに強く浄化され、どのような方法で浄化されたいかを、みずから選ぶことができる。しかしそのうちに、品性の純金は、ただ強度の、しかもたびかさなる精煉によってのみ得られるものだということを、はっきり悟るにちがいない。
 病気は、それが正しく理解され善用されるならば、心の純化に到達する、手っとりばやい方法である。
 イザヤ書四八の一〇、サムエル記下二四の一三-一六。
    --ヒルティ(草間平作・大和邦太郎訳)『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫、1973年)。

 ヒルティの言葉は、いつ読み直しても、静かな響きですが、決然とした決意と卓越性が秘められています。
 ちょうど、一年のはじめですので、一月一日のところを引用してみました。

 「たえず偉大な思想に生き、ささいなことを顧みないように努めなさい。これは一般的にいって、人生の多くの苦渋と心配事を最もたやすく乗りこえる道である」。

 悲喜交々織り交ぜられた実態が人の生の現実である。宿命や運命に翻弄されるだけでなく、日常の些事にも篭絡されるのが、生きている現実です。その現実の中で、どのようにすれば、決然と前へ進めるのか、年頭を飾るヒルティの言葉は、そっと教えてくれるようですね。聖書の言葉を引きながら語るヒルティは、いうまでもなく、キリスト教信仰の立場からのそれであるが、深い英知と誠実な体験に支えられたその言葉は、そうした文化的枠組みを突き抜け、あらゆる立場の人々の心を強く打つ。

 まさに「人生の多くの苦渋と心配事を最もたやすく乗りこえる」一年にしたいものです。悩んでいても始まらない。まずは、決めて動く--そうした決意で本年は進んでまいりましょう。

さて、そろそろ、一杯やり始めましょうかね。
細君と息子さんが帰省したため、たったひとりですが、一応、おせちもセッティングしましたので。

では、皆さん、本年もよろしくお願いします。

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫) Book 眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

著者:ヒルティ
販売元:岩波書店
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