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「望みの少し手前で暮らす」

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今日(1/21)は大寒。
東京でも寒さが厳しく、雪でも降り出しそうです。
おそらく、降らないのでしょうが、寒いのは寒いです。

さて、市井の職場で久し振りの大クレーム。
勤務先の店舗は、他の店舗に比べ、遙かにクレーム発生率の低い店舗なのですが、時折、忘れた頃にやってきます。接客クレームで、「最高責任者」を出せ!とのこと。
とりあえず、一次応対で、宇治家参去さんが応対する。
いわく……
店員の非を叱責したが、謝りもせず、言い訳をしはじめたので頭に来たとのこと。
まさに……
おっしゃるとおりです。
十分にお話を伺い、まずは、深い謝罪のことばをお伝えし、本人への厳重注意と再教育を約束し、案件はクローズ。

お客様退店後、店長へ報告。
「申し訳ございません」
この一言がどうして最初に出ないのかなぁ~と、ふたりで頭をつきあわせながら、事故報告書を書き上げる。

寒さと相まり疲れます。

そうした、荒んだ夜には湯豆腐で、いっぱい。
心と体を整える事物にはこれが一番ですね。

その傍らには、時代小説家・乙川優三郎の短編集がベストです。
今、生きている時代小説家で最も読む価値のある作家の最高峰が乙川優三郎です。
デビュー当時は、藤沢周平の再来と評価されましたが、いやいや、藤沢とはことなる、乙川ワールドが展開する絶品の作品群です。不自由な武家社会の弱い立場にある者を、粛々といえばいいのでしょうか……下層に生きる人間の心情の機微を、ただ静謐に描いて浮かび上がらせる作家です。

そこには波瀾万丈な、いわばハリウッド張りの種も仕掛けも全く存在しません。
しかし、読み始めると、はまることうけあいです。
「読み尽くすのがもったいない」(全て読んでしまうと、次の作品まで待てない)
作家のひとりです。

興味のある方は是非。

今日、購入後一年封印していた『武家用心集』(集英社文庫)に手を出す。
のっけから最高です。
簡単なストーリーと、ラストを引用します。

乙川優三郎「田蔵田半右衛門」より
 本名・倉田半右衛門、四十石取りの植木奉行。城内の植木や生け垣の管理を司る閑職で部下は足軽と職人のみ。この半右衛門の蔑称が「田蔵田半右衛門」である。“田蔵田”とは「人が麝香鹿(じゃこうじか)を狩るときに、なぜか飛び出してきて代わりに殺される獣」のこと。そう呼ばれるようになったいきさつは、八年前に起こった事件に由来する。
 役目を終え城を後にした八年前のその日その時、城下で親友の立木安蔵が六、七人を相手に斬り合いをしているところへ出くわした。
 「荘吾(半右衛門の幼名)、手を貸せ」
 とっさに加勢、二人を峰打ちにした。
 だが、この無思慮の行動が、御上に刃向かう結果となり、謹慎、減石、役替えと、家中の信用を失った。以来、ひとは倉田半右衛門を「田蔵田半右衛門」と蔑み、「自業自得だ」と自分を納得させ、人との交わりを絶つ……。

 八年ぶりに、二百石取りの勘定奉行である実兄の訪問が半右衛門の運命を変える。
 実兄とはいえ、半右衛門をこれまで助けたことが一度もない兄弟で、兄から見れば弟である半右衛門の存在とは「要するに自分が困ったときだけの弟だった」。
 降ってわいた刺客の話--。
 半右衛門は即断しなかった。
 じっくりと下調べをし、結局、実兄から縁を切るとまで言われながらも、刺客を断るのである。
 「たとえ人には槁木死灰(こうぼくしかい)のようにおもわれても…」
 偽の上意討ちのその日、半右衛門は、兄から斬れといわれた家老に助成する。

そのラストから……

 事件後、半右衛門は大須賀家老に呼ばれて四十石の加増を給わり、家禄を元々の七十石より十石多い八十石にしていた。けれども身分は植木奉行のままで、休日には相変わらず釣りに出かけている。大須賀には郡奉行に戻れとすすめられたが、半右衛門は辞退していた。
 (自分が出世すれば……)
 かわりに誰かが辞めなければならないと思ったからである。そしてそれは森沢中介かもしれず、篤実な人たちを押し退けたくなかった。あと十数年勤めて隠居するまで植木奉行のままでいい、そういう目立たぬ生き方のほうが自分にはふさわしいとも思った。たとえ人には槁木死灰(こうぼくしかい)のように思われても、真実に忠を尽くせばよいのであって、役目が何であるかは問題ではなかろう。
 それに、と半右衛門は思った。大須賀との話の中で驚かされたことがひとつあった。半右衛門が大須賀の妾宅と思っていたのは実母の住まいだそうで、大須賀は妾腹ということだった。その実母が重い病となり、大須賀は見舞いに通っていたのである。
 そのことを聞いたとき、半右衛門は妾宅と信じて疑わなかった自分を恥じた。散々人に侮られ、中傷されてきたというのに、大須賀が家老というだけで妾がいるのは当然だと思っていた。つまり自分も人を見分ける側に回れば、偏った見方をする人間だったのである。
 そう思い当たると、不思議なことに、八年前の事件にしても立木安蔵には安蔵なりの深い事情があったのだろうと思えるようになった。すると、八年もの間、人を恐れてぐずぐずしていた人間がいきなり郡奉行に復帰するというのも、望みが叶いすぎて果報焼けがするような気がしたのである。勇蔵(引用者注……半右衛門の実兄)にしたところで、欲をかいて上を望まなければ不正に関わることはなかっただろう。
 (人は、とりわけわしのような慌て者は、望みの少し手前で暮らすほうがいいのかもしれない……)
 そう思っていたとき、珠江(引用者注……半右衛門の妻)がまた話しかけてきたので、半右衛門は動きそうにない浮木(うき)から妻へ目を移した。珠江はすがすがしい顔に陽を浴びて、くすくすと笑っていた。
 「おとなりのつやさんに訊かれましたの、田蔵田って何ですのって、返事に困りました」
 「それで、何と答えた」
 「それはもう正直に、麝香鹿に似た獣だそうですと申しました……そうしたら、つやさん、あなたは鹿に似てないって言うんですよ、わたくしおかしくって……」
 「……」
 「だって、どちらかと言えば馬に似てますって言うんですもの」
 「あの娘がそう言ったのか」
 「はい」
 珠江はうなずくと、半右衛門を見つめて吹き出すように笑い声を上げた。
 半右衛門は憮然(ぶぜん)とした。娘のちんまりとした顔を思い浮かべながら何か言い返す言葉を探したが、うまい悪口は見つからず、珠江の笑い声を聞くうちに何となくおかしくなって自分も笑い出した。屈託のない珠江の笑い声を聞くのも、自分の笑うのも久し振りのことだった。見ると、子供たちもこちらを見て笑っている。
 (これがまことの褒賞かな……)
 大須賀十郎という逸材とともに藩の将来をも救って一躍名を上げたにしては、半右衛門はつつましい感懐を抱いた。しかし、心は十分に満たされていた。
 何よりも珠江や子供たちが自分の気持ちを分かっていてくれるのを感じながら、半右衛門はさらに大きな声で笑った。その声は磯に住む小さな生物たちを驚かしたらしく、あわてた船虫が蜘蛛の子を散らすように岩陰に隠れるのが見えたが、いつもとようすの違う釣人に驚いているようでもあった。
    --乙川優三郎「田蔵田半右衛門」、『武家用心集』(集英社文庫、2006年)。

人間は無理な生き方をしてはいけませんね。
セレブだの、なんだの人間の身分不相応な生き方がもてはやされていますが、
ぐっと息を飲み込み、
「望みの少し手前で暮らすほうがいい」
のかもしれません。
人間の欲望にはキリがありませんから。
金や財産はあるにはあるにこしたことはありませんが、家族だけでなく自分自身をだめにしてしまうようであれば、金や財産も本来の力を発揮することはできないのでしょうね。

さて……
しかし、実は、この珠江(半右衛門は珠江の家に婿養子)が、一番できた・美しい人でした。詳しくは、本書で出会ってください。

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