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みんな、遊んでいるかい?

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今日は休日--。
ゆっくり起きると、お子さまと細君が幼稚園から帰宅、昼食後、年度末に幼稚園を引っ越す予定のおともだちのところへ二人揃って、あわただしく、“遊び”に出かけました。

のどかな午後に、
「さて、今日はどのように休日を楽しむか」悩むおっさんが独り--。

悩んでいる暇はありません。
なぜなら、来週末が大学の仕事で大阪出張。
地方スクーリングの予定が入っているので、その仕込みです。
プロの、ベテランの教師なら、仕込まずとも、それまでの蓄積がありますので、えい、やぁっ、と、素手で、そのまま乗り込めましょうが、駆け出しの宇治家参去さんはそうもいきません。

綿密な仕込みがないとどうもいけません。
休日にして休日にあらず。
なかなか“遊ぶ”時間のない一日でした。

さて、ごらんの通り、上の文章では、すべて、「遊び」、「遊ぶ」に“”を入れています。
遊ぶとは本質的にどういう事態なのか?
最近、子供と遊ぶなかで、“遊ぶ”ということを考えることが多くなりました。

子供のころは確かに遊んでいました、自分のこどものように。
たとえば、うちの子供はウルトラマンが大好きで、24時間ウルトラマンワールドなのですが、怪獣のフィギュアひとつならべるのも、彼のなかでルールがあり、“手伝ってやろう!”と、わたしがそれを並べ出すと、たちまち怒り出します。
また、ウルトラ大怪獣バトルごっこ(すなわち、ウルトラマン役と怪獣役にわかれて擬似的にたたかう、こどものごっこ)の場合でも、演ずる怪獣によって、決め手や鳴き声を使い分けています。

こうした、“ごっこ”に始まり、ゲームとしてのスポーツ、テレビゲームにいたるまで、どうやら何か共通点がありそうですね。

では、おとなたちは何をして遊ぶのでしょうか。
自分自身を振り返ってみても、好きで、映画を見たり、音楽を聴いたり、読書をしたりしますが、その行為を“遊ぶ”とはいいません。
趣味は、アンティークウオッチやカメラの収集、そして撮影ですが、それも遊ぶとはいいません。

しいていえば、気の置けない友人たちと一緒になって飲みに行くことぐらいが、今の自分の“遊ぶ”ことです。

古い友人と、久しぶりに飲みに行き、べろんべろんになって帰宅すると(こどもから“よっぱらい星人・げろん”といわれる状態)、

細君から(飲めないのですが)、「自分、独りで遊んできて! もう!子供じゃないんだから」と叱責を受けます。

みなさんも、どういうとき、“遊ぶ”という言葉を、使っているのでしょうかね。

さて、そうした“遊ぶ”ということを探求した現代の名著に、『遊びと人間』という著作があります。現代フランスの代表的知識人といわれたカイヨワは、遊びの独自性の価値に理性の光を照らして、その根本性質として、「競争」「運」「模擬」「眩暈(めまい)」をあげています。これを基点として、遊びから文化が誕生した軌跡を丁寧に諭してくれます。そうしたつながりをカイヨワは「日本語版への序文」で次のように表現しています。すなわち……、

人間の行動は、人がそれを本能と混乱と野蛮な暴力とから解き放とうとするとき、はじめて人間的な行動となるが、このことを規定する基準とは、ほかならぬ遊びの精神--明るい興奮、誰しもが持たねばならぬ創意、任意の規則の自由意志にもとづく尊重、これら三つの要素のいり混じったもの--が存在しているかどうか、であるとさえいる。
    --ロジェ・カイヨワ(多田道太郎・篠塚幹夫訳)『遊びと人間』(講談社学術文庫、1990年)。

遊ぶとは、漫然と時間を潰すひとの動きでなく、「明るい興奮」「創意」「任意の規則の自由意志にもとずく尊重」を基礎におく、まさに人間にしかできない行動形態だ。
思えば、戦争を肯定するわけではありませんが、総力戦以前のひととひとの闘いには、ルールがあり、誇りがあり、憐媚があり、そして仁義が存在した。騎士道物語を紐解けばそうした事例に事欠かない。

しかし、そうした任意の規則を自ら破り、創造性を拒否し、暗く冷めた怨念で、ひととひとがむかいあったとき、清新な遊びの精神は根本から瓦解する。

いまいちど、“遊ぶ”ということばを自分がどんなときに使っているのか点検しつつ、人間として遊んでいきたいものです。

最後に、カイヨワの同書の末尾を紹介します。

 今世紀に現れた歴史哲学の諸著作のうち、精神の最上の糧の一つは、疑いもなくホイジンガの『ホモ・ルーデンス』である。

 遊びとは、人間の根本的な才能の一つであるが、しかし、あらゆる本能のうち、永続的で貴重な文化の基礎となるにはもっとも不適当な本能と思われてきた。ところがこの本では、尖鋭で強力な知性が、非凡な表現と叙述の才に助けられて、遊びがいかに文化に貢献したか、その事実を集積し、分析しているのだ。この本を読みすすむと思いがけず、法、科学、詩、生活の知恵、戦争、芸術などが遊びの精神によって豊かになり、時にはそこから生み出されることもあり。つねに遊びの精神のおかげを蒙ってきたことを知らされる。実際、遊びの精神は、さまざまの能力や野心をかきたてたり、働かせたり、場合に応じた働きをするが、けっきょく、それらによって文明というものが形成されてきたのである。
 その出発点は次のような遊びの定義であり、これは彼のみごとな分析を要約したものである。「形式について考察したところをまとめて述べてみれば、遊びは自由な行為であり、『ほんとうのことではない』としてありきたりの生活の埒外にあると考えられる。にもかかわらず、それは遊ぶ人を完全にとりこにするが、だからと言って何か物質的利益と結びつくわけでは全くなく、また他面、何かの効用が織り込まれているのでもない。それは自ら進んで限定した時間と空間の中で遂行され、一定の法則に従って秩序正しく進行し、しかも共同体規範を作り出す。それは自ら好んで秘密で取り囲み、あるいは仮装をもってありきたりの世界とは別のものであることを強調する。」

(中略)
--現代社会において、聖なるものと祭とが、おそろしく退化していることを認めぬわけにもゆかぬ。これは聖ならぬ世界であり、ここには祭も遊びも存在せず、したがって一定の基準もなく、献身すべき原理もなく、創造的な型破りということもない。ここでは直接的な利益や、シニズムや、あらゆる規範の否定が存在するだけでなく、それらはその世界にあって、絶対的な存在に祭りあげられ、すべての遊び、すべての高貴な活動や名誉ある競争の前提となる規則にとってかわっている。けっきょく、ほとんどあらゆるものが戦争への地ならしをしているとしても、あえて驚くにはあたらぬ。
 その上、あらゆる規範をたんなる約束ごと、束縛にすぎぬとして斥ける人びとの意志によって、もはや、競合としての戦争ではなくて、暴力としての戦争だけが問題になってきた。すなわち、問題となるのは、強者がその勇気と技倆を測る試練ではなく、人員と武装に立ち優った者が弱者を粉砕し殺戮するところの仮借のない敵意なのである。というのは、戦争においても、また戦闘のさなかにおいてさえ、文化というものが存在するからである。もし、遊びの基本要素が斥けられ、文字通りの野蛮状態におちいるのでなければ、文化が存在するはずだからだ。遊び、しかも束縛されない遊びがなければ、また意識的につくられ、自発的に尊重される約束ごとがなければ、文明というものは存在しない。邪心がなく、勝利におごらず、負けても怨まず、つまり、〔立派な遊戯者〕としてフェアに勝負を行なうこと、もしこういうことができず、望みもしなければ、文化というものはありえないのである。結局のところ、一切の倫理、一切の相互信頼、他者の尊重はありえない。もし集団や個人の利害を超える聖なるものの支配が存在しなければ、すべて創造的な営為の条件であるところの倫理や、相互信頼や、他者の尊重はありえないのである。誰もあえて異をたてようとはせぬ聖なるものの支配、これを守るためには自分の生命を犠牲にし、万一の場合には、自分の属する集団の存続そのものを賭するだけの価値があると、誰しもが考えている、そのような聖なるものの支配のことを、ここで言っているのだ。
 また、ごまかしをやる者よりも悪い者がいることも、忘れてはならない。それは、規則を馬鹿にしたり、規則には根拠がないと言ったりして、遊びを拒み、あるいは蔑む者である。ホイジンガが例にあげている、ダービーを見るために英国に招かれて、自分には或るウマが別の馬よりも速く駈けることがちゃんと分かっていたと言ったために謝まらせられたペルシアのシャーのような人のことである。聖なるものについても同様である。こういった「祭に水をさす人」(aguafiestas)すなわちうわべだけの懐疑論者や、疑い深い人ほど、文化にとってぶちこわしはないのだ。彼らは、何事につけても薄笑いをうかべ、そのことで、自分を偉いものに見せられると無邪気に思いこんでいる。自分たちで、もっと愉快でもっと大事な新しい遊びの規則を作ろうという心づもりで偶像を破壊し、涜聖(とくせい)を行っているなら話は別だが、そうでもないかぎり、彼らは、無限の苦労が蓄積してきた貴重な宝を、徒(あだ)し心から傷つけているにすぎないのだ。
    --ロジェ・カイヨワ(多田道太郎・篠塚幹夫訳)『遊びと人間』(講談社学術文庫、1990年)。

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コメント

私はアカデミズムの底辺にいて、10数年勤めた地方の私立大学を、定年を待たずに還暦で退職して、釣りを楽しんでいる、ヘタレ倫理学徒です。三十過ぎのダウン症の息子と妻と3人で暮らしていますが、親の介護もとうに卒業して、今のところ、年金でのんびり暮らしています。昔は山本義隆氏らとともに大学の臨時職員を支援する闘争などに関わった、あえて言えばアナキスト的な人間です。
今春『エッセー:愛媛の漁村で船釣りを楽しむ―私の第三ステージ』というHP(URL:http://www7b.biglobe.ne.jp/~friedeundfreiheit/ )を掲載しました。釣りに夢中で、氏家さんのように、写真を撮らなかったため、文字ばかりの殺風景なものになりました。最近、他の方々の写真をお借りしてビジュアル化を図っているところです。
カイヨワの適当な写真がみつからなかったため、氏家さんのお書きになっているEssais d'herméneutique
、「みんな、遊んでいるかい?」からカイヨワの写真をお借りしたいのです。掲載個所は、上記HPの第三部「考える」第3章「遊びについて」の表紙および同章第三節 「カイヨワ『遊びと人間』を読み、考える」の冒頭で、典拠も後者の個所で記しました。(仮)としておきましたが、差し支えなけれこのまま継続使用をお願いしたいのです。どうかよろしくお願いします。

氏家さんのブログとHPは内容的に納得できるばかりでなく、エスプリに富んだ文ばかりで大変楽しく、私は、そのうち寝たきりか、あるいはarmchair fisherman になるかしたら、自分の「エッセー」とそのもとになった「釣り日誌」を読んで暮らそうと思っていたのですが、知力が残っていたら氏家さんの文をダウンロードして読ませてもらおうかと考えています。
ご発展を祈念しています。

投稿: 須藤自由児(本名です) | 2016年12月 4日 (日) 15時02分

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