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幸福に具象を与える

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どうも宇治家参去です。

息子さんにうつされた風邪が治らず、本日から大阪出張なのに鼻がふさがっています。

何を読んでも頭に入ってきませんが、とりあえず、出張直前の本日は市井の仕事。
いつもながらに何でもタマ(仕事)を投げられています。
そして受け止め、淡々とこなすのみ--。

いつも同僚や部下から、どうして宇治家さんって、そんな理不尽な業務をおしつけられて、キレないんですか?って問われます。

しかし、キレたことがないので、キレれるというこが理解できない、と平行線--。

巷ではキレやすい人が多いと聞きますが、いやはや、キレるとは何なのか?と自問する風邪の宇治家参去でした。

さて、本日業務終了後、長期休暇から帰ってきたバイト君と飲みにいく。

酒はいいですね、ほどほどには。

種々、人生を語り合いながら、当人の健闘を祈る。

本気で何かをやるとは何か--。

その人物は音楽で人生を切り開きたいとのこと。

音楽を磨くのは当然だが、それを目指す人間は言うまでもなく、彼と同じように、そして彼以上に音楽を磨いている。しかし、そうした連中の中で、アタマひとつ、上にでるのはどのようにすべきか--。

人間を磨くしかない。

そして人間は、人間によってしか磨かれない、ダイヤモンドがダイヤモンドによってしか磨かれないように。

生活を大切にしよう。
自分の時間を大切にしよう。
そして今いきているこの世界を大切にしよう。

なぜなら、アトム的な個人の幸福なんて夢想にすぎず、事物として存在しないからだ。人間は、人間という多元的世界のなかにおいてのみ幸福を享受できるのである。

そうであるとすれば、わたしの幸福はあなたの幸福であり、あなたの幸福はわたしの幸福である。

そこに勝利の要諦がある。

最後にいつもながら、何か紹介(=引用)しないと宇治家参去ではありませんので、ひとつ。

いやしくも教養なるものが表面的な装飾ではなく、普通の木材にマホガニーのベニヤ板を貼りつけたものではないかぎり、教養とはたしかにつぎのようなものである--すなわち、教養とは、想像力が、屈伸性において、範囲において、感入の度合いにおいて成長して、ついに個々人のいとなむ生活が自然の生活と社会の生活によって浸透されるにいたるような、そのような想像力の成長のことをいうのである。自然と社会とが教室のなかに生されるとき、学習の諸々の形式と道具とが経験の本質に従属させられるとき、はじめこのことがそのとおりになる機会が生まれるであろう。そして教養ということが民主主義の合言葉(あいことば)となるであろう。
    --デューイ(宮原誠一訳)『学校と教育』(岩波文庫、1957年)。

幸福に具象を与えるものが教養であるとすれば、教養とはなんとすばらしい人類の叡智なのか--そう実感せざるを得ないものがあります。

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