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「それにもかかわらず(デンノッホ)!」

01

「明日がは何の日か知っている?」
出勤直前に細君がウザイくらいに聞いてくる。
一週間前にも同じセリフを聞いていたのであるが失念していた。
細君によれば、1月31日はI(あい)・31(さい)の日(=愛妻家の日)といういことだ。日本愛妻家協会なる組織が制定したようで、チューリップを贈るとよいとのこと。

別に愛妻家ではありませんが、とりあえずリクエストがあったので、終業後購入する。そういえば、本日、チューリップの動向がよく、宇治家参去さんが買い求めた鉢植えも最後の1かぶであった。

とりあえず、明朝細君が起きると、テーブルの上には、チューリップ。
自分で書くのもなんですが、いい噺の演出ですね。
たった数百円で、家庭を明るくさせる、幻想アイテムです。
買い忘れたご主人もどうぞ。

さて--真面目なはなしをひとつ。
こうした愛妻家の日も、国家という制度や、日本におけるバレンタイン・デーとか、クリスマスのお祝いのような、“幻想”といえば“幻想”にすぎない催しの一つであることには間違いない。ひとは幻想を幻想であると理解したとき、うそっぱちにすぎない幻想を、真理からはずれたもの、はずれたあり方として、一躍に退け、廃棄したくなる傾向を秘めている。
国家(特に近代以降の国民国家体制)という制度やシステムは、確かに、万世一系に基づく堅牢で神秘で有り難い確固たる制度ではない。神話や共同幻想によって現出されたいつわりの共同体にすぎない。一九世紀後半のアナキストたちは、幻想である国家=悪として、その廃棄を目指し、過酷なテロリズムにあけくれた。しかし、幻想であるにはかかわらず、幻想を廃棄することはできない。
であるとするならば、幻想を幻想としてふまえた上で、どういう距離感をとっていくのか、そして、どういうかたちで、現状を脱構築していくのかそこが重要になってくる。いったん全てを破壊して、ゼロから作り直すなんて不可能だからだ。

それと同じように、クリスマスを楽しむのもよし。バレンタイン・デーを楽しむのもよし。幻想を幻想としてふまえたうえで、楽しみ、記念の一歩とすればよいだけだ。ただ、それに振り回されて、悲しい思いをしたり、心情倫理家の如く批判するのは賢くない。自分も傷つけ、他者も傷つけてしまうだけである。

と--、うだうだ書いてきましたが、一番肝要なのは、幻想であれ、現実であれ、ものごとのそうした側面をふまえた上で、どう振る舞っていけるのか--その一点にある。一見すると踊らされているように見えても、踊らされていることを理解した上で踊り、その踊りの意味内容を自分にとって価値ある方向へ変換していけばよいだけだ。

「愚かで卑俗なのは世間であって私ではない。こうなった責任は私にではなく他人にある。私は彼らのために働き、彼らの愚かさ、卑俗さを根絶するであろう」という合い言葉だけはさけたいものである。

上の「愚かで卑俗なのは--」はドイツを代表する社会学者マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』から。

最後にその前後の部分を紹介します。

 たしかに、政治は頭脳でおこなわれるが、頭脳だけでおこなわれるものでは断じてない。その点では心情倫理家の言うところはまったく正しい。しかし心情倫理家として行為すべきか、それとも責任倫理家として行為すべきか、またどんな場合にどちらを選ぶべきかについては、誰に対しても指図がましいことは言えない。ただ次のことだけははっきり言える。もし今この興奮の時代に--諸君はこの興奮を「不毛」な興奮ではないと信じておられるようだが、いずれにしても興奮は真の情熱ではない、少なくとも真の情熱とは限らない--突発、心情倫理家が輩出して、「愚かで卑俗なのは世間であって私ではない。こうなった責任は私にではなく他人にある。私は彼らのために働き、彼らの愚かさ、卑俗さを根絶するであろう」という合い言葉をわがもの顔に振り回す場合、私ははっきり申し上げる。--まずもって私はこの心情倫理の背後にあるものの内容的な重みを問題にするね。そしてこれに対する私の印象といえば、まず相手の十中八、九までは、時分の負っている責任を本当に感ぜずロマンチックな感動に酔いしれた法螺吹(ほらふ)きというところだ、と。人間的に見て、私はこんなものにはあまり興味がないし、またおよそ感動しない。これに反して、結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、成熟した人間--老若を問わない--がある地点まで来て、「私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止まる」〔ルッターの言葉〕と言うなら、測り知れない感動をうける。これは人間的に純粋で魂をゆり動かす情景である。なぜなら精神的に死んでいないかぎり、われわれ誰しも、いつかはこういう状態に立ちいたることがありうるからである。そのかぎりにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、むしろ両々相俟(あいま)って「政治への天職」をもちうる真(エヒト)の人間をつくり出すのである。
 さてここにおいでの諸君、一〇年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、一〇年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君のうちの多くの人が--正直に言って私もだが--期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないであろう。--これは大いにありうることで、私はそのことを知ってくじけはしないだろうが、もちろん心の重荷にはなる--その時、私としては諸君の中で、今日(こんにち)自分を純真な「心情倫理家」と感じ、今の革命という陶酔に加わっている人々が、内的な意味でどう「なっているか」、それを知りたいものである。(中略)
 政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫(ぬ)いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけでなく、--はなはだ素朴な意味での--英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が--自分の立場からみて--どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!(デンノッホ)」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職(ベルーフ)」を持つ。
    --マックス・ヴェーバー(脇圭平訳)『職業としての政治』(岩波文庫、1980年)。

1919年、ミュンヘンにある学生団体(自由学生同盟)のためにマックス・ヴェーバーが行った講演が上に引用した『職業としての政治』である。

当時のドイツは、第一次世界大戦での敗北の結果、一種異様な革命の雰囲気につつまれていた時季である。ヴェーバーにとってドイツの敗北は大きなショックであったが、それよりも彼を悩ませ、悲しませたのが、現実をふまえず夢想的な革命を夢見たロマンチシズムの勃興である(レーテ運動)。
陶酔した夢想家たちは、ドイツの敗北を「神の審判」と受けとめ、暗い自虐的な「負目の感情」のなかで、熱く政治を論じたという。心根としては善意だろうが、そこには独りよがりな現状批判と暴力への誘惑しか存在しなかった。
まさにそうした誘惑にさらされ、現実よりもあてのない夢想にふけった学生たちに冷や水をあびせるような講演だったという。
この講演からは、政治という枠組みだけには限定されない、ヴェーバーの叫びを聞き取ることが出来る。

「それにもかかわらず!(デンノッホ)」と言い切る自信のある人間こそ、理想は遠大であろうとも。現実という「堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫(ぬ)いていく作業」のできる本当の変革者なのであろう。

例の如く噺が飛躍してすいません。

Max

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