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2008年2月

英雄的な気魄を欠いた善良さも、同じように空しい

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今月の課題は終わったゼと思いきや、2月末週になって末締めのレポートが届けられ、夕方になんとか終わらせる。

休む暇のない宇治家参去です。

今日は休日ですが、細君が所用のため、我が子を幼稚園に迎えに行く。
多分分かるだろうと思ったのだが、こちらから我が子を識別できず、途方に暮れていると息子さんが手を引いてきた。

まったくだめ親父ですが、サンキュー。

うろうろとふたりでぶつぶつ会話しつつ寄り道しながら帰宅、れいの如く、ウルトラ怪獣大バトルごっこで一汗流し、レポート添削と対面する。

夕方……。

気になっていた宇都宮餃子なるのもを、催事会場でゲットする。
もちもちしながらもパリッとした皮につつまれた濃厚な触感を堪能する。

これを食うとだめですね。

結局ビールと酒が旨かった。

ま、旨く酒が飲めましたのでよしとしましょう。

さて、宇都宮餃子を求めにいく途中ブックオフによったが、ゲーテの『ヘルマンとドロテア』を小脇に抱えた青年を見かける。

「若い者にしてはいい本取っているなア」

感慨にふけっていると、市井の職場のバイトのN君だった。

彼は真面目に読書する(読書だけじゃないですが、遊びも真剣ですけどね)いい青年です。バイト前にブックオフにたちより書物を求めていたとのこと。

若い人と飲むと楽しいし、若い人と語ると楽しい。
なぜなら、自分も若いから……?

ともあれ、若い人と直面しましたので、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を読み直す。
吉野源三郎は、終戦後いち早く岩波書店から総合雑誌『世界』を編集した人物で、この本は、著者が、中学二年生のコペル君という登場人物を相手に、まあ、どう生きていくか、古今東西の逸話をたよりに、語ったメッセージです。吉野氏が心がけた視点は、人生いかにいくべきかという問いを発したとき、もちろん、宗教的・哲学的な思索も必要だが、それだけでなく、いかに社会科学的認識において、「それが何か」という視点を忘れてはいけないと常々語っていた人物です。
今さらながらに、読み返しながら、こういう本を、中学生とか、小学生に読ませたいなアと実感した一冊です。

最後にその本から……。

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 戦いにやぶれ、ヨーロッパのどこにも身の置きどころがなく、いま長年の宿敵の手に捕えられて、その本国についれて来られていながら、ナポレオンは、みじめな意気阻喪(そしつ)した姿をさらしはしなかったのだ。とらわれの身となっても王者の誇りを失わず、自分の招いた運命を、男らしく引き受けてしっかりと立っていたのだ。そして、その気魄(きはく)が、幾万の人々の心を打って、自然と頭を下げさせたのだ。何という強い人格だろう。
 --君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いことばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおいに知って来るだろう。世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にもよけいな不幸を招いている人が決して少ないくない。人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気魄を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ。
 君も、いまに、きっと思いあたることがあるだろう。
    --吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫、1982年)。
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善良さって人が生きていく上では欠かすことが出来ない人格のひとつといえるが、善良さには、その強さが内在しないとき、「弱いばかりに、自分にも他人にもよけない不幸を招いて」しまうのかもしれない。

いずれにせよ、我が子には「強い子」に育ってほしい……と願うのは親バカでしょうかね。

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まあ、茶でも一口すすろうではないか

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一昨日で一年間連続飲酒続投の金字塔をうち立てたので、誕生日であった昨日より休肝日開始です。今日は市井の仕事で忙しい勤務日で不確定要素もたくさんあったのですが、皆のがんばりでとにかく無事終了。家に戻って落ちついている次第です。

いつもだと、入浴後、缶ビールでもプシュッとあけて、やおら一杯やるとこらですが、今日は飲まないと1年前から決めていましたので、かわりにお茶でも啜っています。

本来は、点前すべきでしょうが、面倒なので、今日は、普通茶でよしとしましょう。
葉っぱは、はじめて飲む「知覧茶」です。
鹿児島県は日本でも有数な茶所だとか。初めてですが、一杯入れてみました。
袋の解説にもありましたが、「渋みが少なく甘み」が濃厚なお茶で、寝る前にはちょうどよいかもしれません。

興味のある方是非お試しを。
高いものではありませんので、気軽に飲み比べる常用のひとつにいいと思います。

さて最後に「お茶」を論じた美術家、美術史家・岡倉天心の『お茶の本』でも紐解きましょう。

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 現代の人道の天空は、富と権力を得んと争う莫大な努力によって粉砕せられている。世は利己、俗悪の闇に迷っている。知識は心にやましいことをして得られ、仁は実利のために行われている。東西両洋は、立ち騒ぐ海に投げ入れられた二竜のごとく、人生の宝玉を得ようとすれどそのかいもない。この大荒廃を繕うために再び女媧(じょか)を必要とする。われわれは大権化の出現を待つ。まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟(しょうらい)はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しいとりとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。
    --岡倉覚三(村岡博訳)『茶の本』(岩波文庫、1961年)。
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いろいろ大変な世の中で時代でそれぞれの人生ですが……

「まあ、茶でも一口すすろうではないか」。

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すこし減らしてみようと・・・

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昨日で1年間連続飲酒記録達成される。

達成記念(?)ではありませんが、若い者たちと飲みにいき……

飲み過ぎました。

今日で、お酒ともお別れです。

36歳を期に、すこし減らしてみようと思います。

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「地球は甘かった……」

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1961年4月12日、人類初の宇宙飛行士となったユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンは、眼下の景色を眺めて次のように語ったという。

「地球は青かった」

正しくは「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」というものだそうな。

今日、市井の仕事が済んで着替えていると、バイトのNくんが、一足早く誕生日祝物を届けてくれた。

れいの如く日本酒です。

リアルにサンキューです。

先週、気の置けない友人たちと岩手へ旅行へいったついでの土産で、ところの地酒(南部杜氏)廣田酒造店の「初代 喜平治」(特別純米酒)である。

お気に入りのガッツ星人と舌つづみ。

おもわず……

「地球は甘かった……」

極甘の日本酒といえば、菊水の「ふなぐち」が広く流通しておりますが、その数段上をいく甘さながら、キレがよい。

明日の寝覚めは、キレがよさそう。

精確にガッツ星人に「地球は甘かった……」を言わせるなら

「地球の喜平治は、深い甘味を湛えた花嫁のようだった」

というところでしょうか。

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〔勘ばたらき〕を養う

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 その日。長谷川平蔵が〔さなだや〕へ寄ったとき、先客がひとりいた。
 店の片隅で、窓から見える大川の川面(かわも)を凝(じつ)と見入りながら酒を飲んでいたその客には別だん気にもとめず、平蔵は、はこばれてきた酒をのみはじめたのであるが……。
 ふと、気づくと、その客が亭主に勘定をして「おつりはいりませんよ」といい、土間へ下り立つところであった。
 平蔵は、その客と亭主が土間にならんで立ったのを見やって微笑をうかべた。
 なるほど、のちにきいた蚤(のみ)の風そのままに、大女の女房にくらべて亭主の庄兵衛は五尺に足らぬ小男なのだが、その客も同様、才槌頭(さいづちあたま)の小男で年齢は四十がらみ。実直そうな風体の、どこか大店(おおだな)の番頭でもあろうか……とにかく、ちいさな躰(からだ)を寄せ合うようにして立った二人に、平蔵はなんとなく微笑をさそわれただけのことである。
 と……。
 その客も平蔵の視線を感じたらしい。
 ちらと、横眼に平蔵を見やった。
 その、自分を見た瞬間の相手の眼の色が、平蔵には気に入らなかった。
(こいつ、おれを知っているな。だが、おれはこの男を知らぬ)
 であった。
 その客の両眼は、たちまち、瞼(まぶた)の中へ押しこめられたように細く細く、見るからに人がらの善さそうな笑顔の一点景と変わってしまったが、一瞬前の、白く光った相手の眼に、平蔵は、自分に向けられた〔憎悪〕を垣間見たような気がした。
「お先へ、ごめん下さいまし」
 その客が、ごく自然に平蔵へ声をかけ、外へ出て行った。
 その客のことを、平蔵はわすれることにし、はこばれて来た貝柱の〔かき揚げ〕を浮かせたそばをやりはじめ、
(む……うまい)
 否応(いやおう)なしに舌へ来る味覚と同時に、またも、
(あの男、どうも、くさい……)
 箸を置き、連子窓(れんじまど)の隙間から、源兵衛橋を南へわたって行く、いまの客の後姿を注視した。
 彼は、夕闇のたちこめる源兵衛橋の中央で、こちらを振り返った。これも平蔵の気にいらなかった。
 さらに彼は、橋の向こうからとぼとぼやって来る乞食の老婆を呼びとめ、ほどこしをしたものである。
 そのことが層倍に、平蔵は気に入らなかった。
 どこがどう「気に入らぬ」なのか……強いていえば平蔵の勘が〔あやしい奴〕と見たまでである。
 長谷川平蔵は、火付盗賊改方をつとめるうち、さまざまな挿話をのこしているけれども、中にはつぎのようなのがある。
 あるとき、浅草の某家に放火した者があり、これを調査に出かけた平蔵が、焼け跡に群れあつまっている人びとにまじり、立派な法衣をまとった僧と武家が立ちばなしをしているのを見るや、すぐさま部下に命じ、この二人を捕えさせた。別に彼らの立ちばなしを聞いたわけではない。かなりはなれたところから見て〔あやしい奴〕と感じたまでなのだが、捕えて調べて見ると、二人とも名の通った大泥棒であったそうな。
 また、いつも単独の市中巡回で、外神田の或る商家の普請場に立ち、何か工事の相談でもしているらしい屋根職人と雇主(やといぬし)を、通りがかりの編笠(あみがさ)の中(うち)からながめ、
(二人とも、あやしい)
と感じ、この二人を捕え、役宅へ直行してしらべたところ、これも名うての大盗賊一味であったという。
 こうした場合、ほとんど捕り外したことがないとつらえられる長谷川平蔵だけに、この〔さなだや〕の客の場合も、同様な勘ばたらきがあったのであろう。
    --池波正太郎「蛇の眼」、『鬼平犯科帳 (2)』(文春文庫、2002年)。

どうも長谷川平蔵とまったく異なる……宇治家参去です。
ようやく熱も下がり、四股の痛みもとれはじめましたが、呼吸器系がまだまだしびれているようで、回復まであと一息です。仕事を無事終えて、ひといきついていますが、当然ながら酒も旨くなくあまり飲めない。

さて、さきに紹介した〔さなだや〕で〔あやしい奴〕を見定めた長谷川平蔵の活躍シーンですが、これが有名な、急ぎ盗(ばたらき)の凶賊・蛇(くちなわ)の平十郎との最初の出会いの場面です。

長谷川平蔵ではありませんが、大地と人間の間に流れる微妙な気配を読みとり、直感から〔ほんものの確信〕へと転換する〔勘ばたらき〕を常に養いたい昨今です。

おそらくそれは、歴劫修行の果て到達する人跡未踏の境地ではないだろう。

無意識であろうが、自分の心と体を外界から断ち切ることなく、耳傾け、そして耳を澄まし、こころで斟酌する……そうした、すべてから何かを学ぶという<志向>性をもった人間であれば到達できる境地であるように思われる。

それは、試験の<ヤマカン>の〔勘ばたらき〕とか、安直なオカルティズムやスピリチュアルとは全く異なる、<人間力>としての〔勘ばたらき〕なのだろうと思う。

絶えず、自己を外界から遮断することなく、努めて耳を、そして心を傾けながら、人間力を養いたいと思う、宇治家参去でした。

そして……。
そばとは<食う>ではなく<やる>ものですね。

旨いそばをやりたくなってしまった。
深夜なのにどうしよう。

Book 鬼平犯科帳〈2〉 (文春文庫)

著者:池波 正太郎
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「ひとみな誰もが、おのがいちぢくと葡萄の木陰にいる」世界

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哲学的著作を紐解くとき、ひとは、その一冊に極度に集中し、その解釈者として、なにかをそこから読み出すパターンが多いと思います。その在り方が別に間違っているとかけしかんということではなく、そういう在り方(哲学的著作との向き合い方)以外にも、多様な在り方があるのでは思うことがあります。

その在り方のひとつとは、まったくふたつの別の哲学者(の著作)を自分の前で、対話させながら読むという在り方です。自分にとってそうせざるをえない哲学者が、ドイツを代表する哲学者ハイデガーと、<まなざし>の倫理学者レヴィナスです。

 今日も引き続き熱がさがらず、だけど仕事に穴をあけることも出来ず、熱冷まシートを額に張って、包帯で隠し仕事をしてきましたが、その休憩中、れいの如く再読していたのが、レヴィナスの『実存から実存者へ』とハイデガーの『存在と時間』です。最近、金欠でこれまたれいの如く新刊を買う余裕がないので、昔読んだ気になる本を再度、熟読している次第です。今回は、レヴィナスをメインに、参考としてハイデガーの著作を脇にしてぱらぱらめくっていました。

※以下、専門家には重々承知の議論なので面白くないかも知れませんよ。

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 ギリシア人たちは、「事物」を表わすのに適当な術語〔として〕(プラグマタ)をもっていたのです。これは、ひとが配慮的交渉(プラクシス)のなかで相手とするものをいうのです。しかしギリシア人たちは、プラグマタ特有の「実用的(プラグマテイッシュ)」精確を、存在論的には不明瞭のままに放っておいて、これを「さしあたり」「たんなる事物」と規定したのです。わたしたちは配慮の働きにおいて出会おう存在するものを、道具と名づけます。右のような交渉のなかに見出されるものは、文房道具、裁縫道具、工作道具、乗物道具、計量道具なのです。道具の在り方が、はっきりと取りださねばなりません。そしてこのことは、道具を道具とさせているもの、すなわち道具性(ツオイクハフティヒカイト)をまずもって画定することを導きの糸として行われるのです。
 厳密にいえば、ひとつの道具が、「ある」のでは決してありません。道具が在るということには、いつも道具全体が属していて、そのなかでこそこの道具が、そのあるがままにありうるのです。道具は、本質的には、「なになにのためのなにか」です。
    --ハイデガー(桑木務訳)『存在と時間(上)』(岩波文庫、1960年)。
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さて--。
考えてみれば、私の住むこの世界とは、ハイデガーが描き出すように、道具的な連関(ネットワーク)として様々な存在がまさにそこに在るようにみえる世界で、実際にそう在る。だが、現存在が、道具を使いながら、様々なものに「気遣いする」ハイデガーの世界では、極論をいえば、他者も道具も、現存在のために「存在」したとしても、存在の在り方からみれば問題がないといえなくもないものの見方のようである。現存在は、世界を道具のネットワークのなかで事物として生きているからだ。

だが、世界というのは、そうしたものなのだろうか--。

レヴィナスは違うと考えているようだ。
ハイデガーの他者理解には問題が含まれているのではなかろうか--通俗的な・教科書的叙述ですが、レヴィナスの徹底的な他者理解は、ハイデガーの他者理解に対する異議申し立てでありながら、なおかつひとつものとなっている。

レヴィナスによると、道具は道具性に収まらない。

たしかに、目の前のパンとスープ、そしてミルクといった<もの>、そして今日の<この仕事>は、私という存在が今日も明日も生きていくために必要な<有用性>としてある。どれも私にとっては<有用>なものだし、自分がいきていくためには、まさにこうしたもに「気遣い」をしないで生きていくのは不可能である。しかし、私はいつも何かの<ため>にいきているわけではない。食事を取り、味わうこと、それは、なにかの<ため>ではなく、目的そのものであり、世界を「糧」として、そのものを享受することでもある。ハイデガーが描いて見せた道具的な連関とみえる世界は、どこかモノクームな世界像だが、<享受>する世界像として描くレヴィナスの視座はどこかカラフルだ。世界とは、実は私が<楽しむ>世界ではなのである。

ただしカラフルな世界は、みなくてもよいものも見せてくれる。

ハイデガーは、目の前のパンとスープ、そしてミルクといったものを飲み食いし、永遠につづくような日々の仕事に<私>が没入されてしまう日常性を「頹落」と表現し、劣ったものとして考える。そのことも十分に理解できる。日常のなかで、その日常性に<馴れ(慣れ)>、本来的自己了解を忘れた様は、その意味でまさに「頹落」である。

人間は「死」という不安を自覚し、死へ望む覚悟性の中に自己の有限性を見出す。ハイデガーにおいては、それが現存在にとっての実存であるということに他ならない。日常的な頽落の中に生きる現存在は、そのことに気づかずに埋没しているというわけである。

『存在と時間』における道具の存在分析と「頹落」を巡るハイデガーの筆致にふれると、まさに、人間自身が道具へと転落している日常性への埋没を嘆かざるを得なくなってしまうが、読みながらもある一方で、それだけでもないのではと考え、そしてハイデガーを読んでいる自分も存在する。

レヴィナスはおそらくそのへんが納得いかなかったのだろう。

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世界を日常的と呼び、それを非・本来的なものとして断罪することは、飢えと乾きの真摯さを見誤ることだ。
    --E.レヴィナス(西谷修訳)『実存から実存者へ』(講談社学術文庫、1996年)。
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ハイデガーは、人間という存在が<世人>として頹落して生きていると批判しながらも、世界を人間の「ために」存在する道具的な連関として考えた。レヴィナスはこの部分にハイデガーの世界解釈における他者論を問題視しているのである。ハイデガーは、現存在と他者の関係を、道具を使う人間や、おしゃべりをする人間の頹落として考察する。ここがおそらく気にくわないのだろう。レヴィナスはそうした意味では、ハイデガーが語る道具の<有用性>を問題にしているのだろうと思う。他者とは、おそらく、ハイデガーが批判するおしゃべり相手だけでもなく、ヘーゲルの相互承認における対等なパートナーでもなく、わたしよりも<前に>存在し、わたしの存在・認識そのものを可能にする条件(=責任)としてレヴィナスは考えたのだろうと思う。

レヴィナスの他者理解に関しては、またおいおい紹介しようと思いますが、ハイデガーとレヴィナス、どちらがエライとか、ヒクイとか、そういった二者択一ではなく、ふたりのものの考え方から、人間の多様性と、頹落と尊厳を考え直していかない限り、人間の全人性を直視することは不可能なのではとフト、休憩室でたばこを吸いながら思ってみた次第です。

さいごに、長くなりますが、レヴィナスのかたる「日常性」を紹介して、今日はこのへんでゆるして下され。

熱が下がり始めたので、とどめにえびすで締めて寝ます。

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 世界内に与えられているものがすべて道具なのではない。「兵営」の宿舎や掩蔽壕(えんぺいごう)は、軍隊の兵站部にとっては<糧>である。兵隊にとっては、パンや上着やベッドは資材ではない。それは「のための」ものではなく、それ自体が目的なのだ。「家は居住のための道具である」という言い方は明らかに誤りで、いずれにせよ「わが家にあること(chez soi)」が、定住的文明と名高い炭焼き人に託された<支配>に帰属する人間の生活の中で果たしている特別の位置を納得させるものではない。衣服は身を包むためにあると言っても、衣服がなぜ裸であることの謙虚さから人間を引き離すことになるのかを理解したことにはならない。食物にいたってはなおのこと、「資材」はこのカテゴリーに入らない。
 この食物という糧の例をさらに強調しておこう。この例は日常生活のなかで占める位置のために特権的だが、またとりわけ、この例によって表現される欲望とその充足との関係が、世界内での生の典型をなしているという意味でも特権的である。この関係の特徴は、欲望とその充足が完全に一致する点にある。この欲望は自分の欲するものを完全に心得ている。そして食物によってその志向は全面的に実現される。ある時機にすべてが完遂されるのだ。食べることを、経済的活動や世界を超えたところにある愛することと比べてみよう。愛の特徴は、それが本質的で癒しがたい飢えだということである。友達の手を握ることは、彼に友情を伝えることだが、それは何か表現しえないものとして、さらに言うなら何かなし終えていないこと、なし終ええないこととして、絶えることのない欲望として、それを伝えることである。愛の積極性そのものが、愛の否定性のうちにあるのだ。〔愛においては〕火にくべるたきぎは燃え尽きない。愛する者の前で感じる惑乱は、経済的な用語をもって所有といわれる事態に先立って起こるだけではなく、所有そのもののうちでもまた起こる。千々(ちぢ)に乱れる愛撫のうちには、接近が不可能なこと、暴力が挫折していること、所有が拒まれてあることの告白がある。そしてまた接吻や愛咬のうちには、「食べる」ことの滑稽にも悲劇的な模擬行為がある。あたかもひとは欲望の性質を思い違いし、最初はそれを何かを求める飢えと混同するが、そのときやっとそれが何に対する飢えでもないことに気づくかのようだ。<他人>とはまさしくこの対象なき次元である。愛欲は、つねにますます豊かになる約束の追求だ。それは飢えの増大によってつくりだされ、いっさいの存在から解き放たれてゆく。目指す到達点はなく、ほの見える果てもない。愛欲は、めくるめく空虚な無限の未来のなかに身を投じる。それは、いかなる<対象>にも充たされずまた標尺を刻まない純粋な時間を消尽する。「充足」とは彼方に逗留することではなく、一義的で現在の世界のうちで自己に帰還することだ。愛に関することどもが、嗜好的欲望や自然の欲求同様経済的カテゴリーに並べられてどのように語られようと、愛にはこの飽満への失墜に較ぶべきものは何もない。それに対して、食べることは穏やかで単純だ。職はおのれの志向の真摯さをくまなく実現する。つまり「食べる者はもっとも真っ当な人間」なのだ。
 特徴がぴったりと欲望に符号するというこの構造は、私たちの世界-内-存在総体を特徴づけている。いたるところで行為の対象は、少なくとも現象のなかでは、実存することへの気遣いには結びつかない。私たちの実存をなしているのはこの行為の対象なのである。私たちは呼吸するために呼吸し、飲みかつ食らうために飲み食いし、雨を避けるために雨宿りし、好奇心を満足させるために学び、散歩するために散歩する。それらすべては生きるためにあるのではない。そのすべてが生きることなのだ。生きるとは真摯さだ。世界に属さないものに対立するものとしての世界、それが私たちの住み、私たちが散歩し、昼食をとり夕餉をとり、誰彼のもとを訪れ、学校に行き、議論し、さまざまな経験を積み探究を重ね、ものを書き本を読む世界である。それはガルガンチュアとパンタグリュエル、それに世界第一の技芸師匠大腹師の世界だが、またそれはアブラハムが羊の群れに草を食(は)ませ、イサクが井戸を掘り、ヤコブが家を建てた世界、そしてエピクロスが庭を耕した世界、「ひとみな誰もが、おのがいちぢくと葡萄の木陰にいる」世界である。
 世界内に存在すること、それはまさしく、欲望をそそるものへと真摯に向かいそれを自分にとってのものとして捉えるために、実存するという本能の最後のしがらみから、自我のいっさいの深淵から身を引き離すことだ。自我はこの先けっして仮面を脱ぐことはなく、そのどんな姿勢もポーズとなり、自我に対しては告白も不可能となる。世界内に存在することは、欲望の真摯さの可能性そのものなのだ。ハイデガーによれば私たちの実存の各瞬間を実存するという努めへと導くという回路のなかで、そしてドアのボタンを押し、私たちが実存の全体性を開く--というのも私たちはすでに行為を超えて、その行為と存在することへの気遣いとを隔てる媒介を踏破したのだから--その回路のなかで意識は閉じた環を描き、それ以上のあらゆる合目的性を抹消してそこにとどまるのだが、その環のなかには満足と告白さえありうる。この環が世界だ。〔実存への〕気遣いとの絆はその中では少なくとも緩む。欲望の対象の背後に、世界を曇らせる爾後(じご)の合目的性の影が輪郭をあらわすのは、悲惨と困窮の時代である。死なないために食べ、飲み、暖を取らなければならないとき、ある種の苦役の場合のように糧が燃料になるようなとき、世界もまた混乱し無意味になり、更新されるべきものとしてその終末に達したように思われる。時間の蝶番(ちょうつがい)がはずれる。
    --E.レヴィナス(西谷修訳)『実存から実存者へ』(講談社学術文庫、1996年)。
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ガダマー 途中まで・・・・

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ちきしょう!

どうも宇治家参去です。昨日から風邪をひいちまいました。

風呂上がり、あまり頭をよく拭かずに、たばこを買いに出かけたのがよくなかったようです。風邪ですが、代打がいないので、本日も市井の仕事へ出勤、今日は指示だけだして後方待機させていただきました。

さて、今日は休憩中に、現代ドイツを代表する哲学者のハンス・ゲオルグ・ガダマー(Hans-Georg Gadamer)の学問論(科学と哲学について)をぱらぱら読んでいたので、その話でも。

それは、『科学の時代における理性』という表題のつけられた論文集です。全編を貫くテーマとは、いわば、「科学の時代」とよばれる現代において、理性の学としての哲学の果たしうる役割とは何か、というものです。哲学も科学も学問史的に振り返るならば、同根であり、哲学の一分野であった科学が、近世・近代以降、独立するのがその歴史です。

ガダマーは何も、高見に居直った哲学的立場から、今日の文明批判者たちと同じように、科学技術のもたらす危機を声高に叫ぶわけではない。むしろそのトーンは控えめだ。ガダマーももちろん「科学における責任の喪失」を説いているけども、例えば、伝統的な学問の理念に立ち返るべきだとといった、理念的・道徳的な責任を云々説いたりはしない。

と--途中まで書きましたが、やはり風邪で頭がまわらず。

引用部分だけ、とりあえず記載し、後日論じます。すいません。

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 このような古い問題と科学のあの新しい出発に直面して、哲学が今一度自らの古い機能全体を引き受け、われわれの知すべてを統一的世界像として合一させることができるはずだなどとは、誰も考えないだろう。ところが、人間が哲学への、すなわち、<知らんとする意欲>への自然の性向をもつということは、一般的に認められている。科学〔学問〕の知、それが制限された暫定的なものであろうと、確証され影響力をもつものであろうとともかく、あるがままの科学の知と、人間文化の偉大な歴史的伝承からわれわれに押し寄せてくる、人間に関する一切の知とを、われわれの実践的意識のうちに移し変えるという課題が、相変わらず存在していないだろうか。私はここに、真正な統合という課題を、つまり、人間の自己自身との新たな自己合意を切り開くために、科学と人間の自分自身についての知とをひとつに結びつけるという課題を見るのである。われわれにはそれが必要なのだ。というのも、われわれは絶えず高まり行く自己疎外のなかで生きており、しかも、この自己疎外は、もはやとうてい、資本主義的な経済秩序の特殊性にのみ基づくものではなく、<われわれがわれわれの文明として自分たちの回りに獲得してきたもの>に人類が依存しているという点に基づくものだからである。こうして、人間を再び自己了解へ向かわせるという課題が、次第に緊急さを増して、立てられるのである。哲学は昔から、この自己了解という課題に貢献してきたのであって、私が解釈学と呼ぶ(理論としての、さらには、理解したり、疎遠なものや異種のものや疎遠になってしまったものを言葉に表したりする技巧の実践としての)哲学形態においてさえ貢献するのである。自己了解は、間違いなくわれわれの心を捉えているすべてのことに対しても、さらにはまた、われわれ自身の能力に対しても自由に振るまえるよう手助けをしてくれるかもしれないのである。結局のところ、プラトンは依然正しいわけである。たしかに自己のものは制御するけれども、自分が何に仕えているのかを知ることが出来ないような科学を脱神話化することによってのみ、知と能力の支配が自己制御されることが可能になる。「汝自身を知れ」というデルポイの要求は、「汝は人間であって、決して神ではないことを知れ」という意味であった。この要求は、科学の時代の人間にも妥当する。というのも、この要求は支配と制御の一切の幻想に対して警告を発しているからである。自己認識だけが自由を、すなわち、単にその時々の支配者によって脅かされているだけではなく、むしろ、実は、われわれが制御していると考えているすべてのものから出来する支配と依存とによって脅かされている自由を、救済することができるのである。
    --ハンス・ゲオルグ・ガダマー(本間謙二・座小田豊訳)「哲学に向かう人間の自然の性向について」、『科学の時代における理性』(法政大学出版局、1988年)。

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【覚え書】「聖テレサの書いた一行についての考察」

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居間に糞をしたジョージ・メンシュの牛を謳った「Return」を読み直したことがきっかけで、今日は一日、ゆっくりとレイモンド・カーヴァーの作品を味わっていました。レイモンド・カーヴァーは日本では村上春樹の訳で比較的ひろく人口に膾炙されていますが、彼自身は壮絶な生涯をかけぬけた男で、自身もアルコール中毒で苦しんでいる。結婚、長女の出産後に大学へ入学、夜は何でもやりながら働き、創作クラスでジョン・ガードナーに師事して、作品をつづったアウトローだ。本物のアウトローとは、放逸者ではなく、挑戦者だ。粗野な言葉とエレガントな言葉の混じり合った彼の作品を手に取ると、どうしたことか、魂がやすらぐ。

今日は、【覚え書】というかたちで、彼の、テンダネスとソウルについての講演を紹介します。

--------------

聖テレサの書いた一行についての考察
Meditation on a line from Saint Teresa

 聖テレサが書いた文章の一行がここにあります。考えれば考えるほど、それは今日のこのような集いにふさわしいものに思えます。というわけで、私はそのセンテンスについて考えをめぐらせてみようと思います。それは最近出たテス・ギャラガーの詩集のエピグラフとして使われております。彼女の詩集のエピグラフという文脈で、私はこの一行を考えているのです。
 聖テレサという、三百七十三年前に生きていた傑出した女性は、このように述べています。「言葉とは行為を導くものです……言葉は魂に準備をさせ、用意を調えさせ、そしてそれを優しさへと動かすのです」(“Words lead to deeds....they prepare the soul,make it ready,and move it to tenderness.”)
 この思いは、まさにこのように表現されたからこそ、明晰さと美しさを湛えています。私はそのことを強調して申し上げたい。というのは時が移り、私たちが語ることと、私たちが行うこととのあいだに存在するはずの重要な関連性が、彼女の生きた時代のようには当然のこととして人々に認識されていない今の時代にあって、彼女の心情にはまた、私たちにはすにんなりとなじめないような、異物にも似た何かがわずかに含まれているからです。「言葉が行為へと通じます……。それは魂(ソウル)に準備をさせ、用意を調えさせ、それを優しさ(テンダネス)へと動かすのです」
 聖テレサが用いた言葉ひとつひとつには、また重みと新年をたっぷりと込めたそれらの用いられ方には、「いくぶんミステリアスな」という以上のものがあります--「神秘主義的な(ミステイカル)」と言ってしまいたいくらいです。まったくの話、それらは遙か以前の、より思索的であった時代のこだまのようにさえ感じられます。とりわけ「ソウル」という言葉がそうですね。この言葉は今ではもう教会の中か、あるいはたぶんレコード店の「ソウル」セクションでしかお目にかかれないものになってしまっています。
 「テンダネス」も同様です。最近ではこの言葉もすっかり耳にしなくなりましたね。とくにこのように衆目の集まる、めでたい場所においては。考えてもみてください。この前いつあなたはこの言葉を口にしたでしょう?あるいは誰かが口にするのを聞いたでしょう? これはさきほどの「ソウル」に負けず劣らず、供給が減ってしまった言葉ですね。
 チェーホフの小説『六号室』に、モイセイカという実に見事に描かれた人物が登場します。彼は病院の精神病棟の中に拘禁されていますが、ちょっとしたテンダネスの行為を習慣にしています。チェーホフは書いています。「モイセイカは誰かの役に立つのが好きだ。彼は仲間に水を与え、寝た人には布団をかけてやる。彼らの一人一人に一コペイカづつ持ち帰ることを約束し、新しい帽子を作ってやることを約束する。左側の全身麻痺の隣人にはスプーンで食事を食べさせてやる」
 たとえテンダネスという言葉が使われなくても、私たちはこのような描写の細部に、その存在を感じ取ります。たとえチェーホフがそのあとに、モイセイカの行為に対して割引きをつけ加えていたとしてもです。彼は言います。「彼はこのような行為を、同情心や、あるいは人道的な思惑から行っているわけではない。それはグローモフという、彼の右側の隣人に無意識的に作用を受け、彼の真似をすることでもたらされたものだった」
 刺激的な錬金術を用いて、チェーホフは言葉と行為とを化合し、私たちにテンダネスの起源と本質について、あらためて考えさせてくれます。それはいったいどこからやってくるのでしょう? ひとつの行為として、たとえ人道的な動機から切り離されたものであったとしても、それはなおかつ人の心(ハート)を動かすのでしょうか?
 何の見返りも期待せず、あるいは自覚すらなく、心優しき行為を実行する孤立した一人の男のイメージは、たまたま遭遇した風変わりな美しさとして、私たちの前にとどまります。あるいは場合によってはそのイメージは、あなたはどうなのかというまなざしとともに、私たち自身の人生に反映してくるかもしれません。
 『六号室』にはまたこんな場面もあります。心に不満を抱いている医師と、横柄な郵便局長という二人の登場人物が、何かの加減で突然人の魂について論争を始めます。郵便局長は医師より年上です。
 「じゃあ、あなたは人間の魂の不滅性を信じてはおられんわけですな?」と郵便局長は突然問いかけます。
 「信じてはおりませんとも、ミハイル・アヴェリヤーヌィチさん。そんなものを信じなくてはならない理由もありませんからね」
 「私もまあそれを疑わんでもない」とミハイル・アヴェリヤーヌィチは認めます。「それでも、私は心の底でふと感じるんですよ。私は決して死んでしまったりはしないのだとね。『おい爺さん、もう死にどきだぞ』と誰かが言う。でも私は、自分の魂の中で小さな声がこう言うのが聞こえるんですな。『そんなことを信じてはいけない。お前は死にはしないんだ』
 場面はそこで終わります。しかしその言葉は行為として残ります。「魂の中の小さな声」が生まれるのです。そしてまた私たちは、生きることや死ぬことについてのある概念のようなものを、おそらくは捨ててしまったはずなのに、たしかに細くはあるけれど簡単には引き下がらないひとつに信念に、気がつけば心を惹かれているのです。
 私がここで述べたことはいずれ、数週間あとか数ヶ月あとかわかりませんが、みなさんの頭の中から消えてしまうでしょうが、このような盛大な集いに出席したという感覚だけは、きっとあとあとまで残るでしょう。これはみなさんの人生におけるひとつの素晴らしい時代が終わり、新しい時代が始まろうとしている刻み目としての集いです。そこで、みなさんがそれぞれの運命を追求するかたわら、この言葉をひとつ覚えておいていただきたいのです。それは、「正しく真実である言葉は、行為としてのパワーを持ち得る」ということです。
 もうひとつ。公共の場においても個人の場においても、日常的用途からはじき出されて、今では絶滅の危機に瀕している「テンダネス」という言葉、これもちょっと頭にとどめておいていただきたいのです。とくに害にはならないはずです。それからもうひとつのべつの言葉。ソウル。なんなら、もしその方が馴染みやすいというのであれば、「精神(スピリット)」という言葉で置き換えてもらってもかまいません。そちらをも忘れないでいただきたいのです。あなたの口にする言葉、なす行為のスピリットに注意を払ってください。それこそが準備です。これ以上言葉は要りません。
    --レイモンド・カーヴァー(村上春樹訳)「聖テレサの書いた一行についての考察」、『英雄を謳うまい』(中央公論新社、2002年)。

--------------

残念ながら、チェーホフの『六号室』は読んだことがない。
今日、図書館で探してみようと思う。

ただ痛感するのは、「正しく真実である言葉は、行為としてのパワーを持ち得る」ことだ。
振り返ってみると、正しくもない・嘘の言葉が氾濫し、パワーを持たない行為が暴力として発動しているのが現代世界だ。

テンダネスとソウル……。

今一度見直したい言葉である。

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パパはたたかっている

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木曜金曜と久し振りの2連休で、初日の今日は、カンヅメで2月末返却〆のレポート添削を終わらせる。たった4題の課題に対して100通ちかくのレポートが届けられるので、吟味するのも大変ですが、なかには「あっ」と言わせる傑作も存在する。

文字を介した書き手と読み手の対話ですが、仕事や日々の課題をこなしながら通信制の大学の科目をコツコツと学び書かれている学生さんに最敬礼の日々です。

さて、夕方に作業を終え、自分の博士論文の作業にとりかかろうとすると、魔の声が--。

「パパ、ウルトラマンごっこしよう!」

細君が、「今日はパパ休みだよ!」とチクったらしく、手を休め、布団を敷き詰めた六畳間の小宇宙で、怪獣ごっこを行う羽目に。

お子様はたいへん、楽しそうに、全身運動でアタックしてきますが、それをかわしながら、力を抜いて相手にするのは結構体力勝負となります。30分もすると息があるが、お子様はご満悦。

週に一度くらいは、これぐらいのことはやらないとなアと思いつつ、体力不足を実感。何か鍛えないとついていけない自分を自覚しました。

さて、そのウルトラセブンをこよなく愛している息子が、最近はまっている絵本が、『パパはウルトラセブン』です。もともと、子供を対象に書かれた絵本というよりも、0-4歳児を持つ両親に向けて書かれた絵本で、読んでいると、心が洗われ、またがんばろう!と決意させてくれる不思議な絵本です。いわば現実で格闘する親子と夫婦へのオマージュです。

興味のある方は是非。
最後にそこから一節でも。

◇パパはたたかっている

パパは ウルトラセブン。
パパの しごとは きびしい。
いつも ひっしで たたかっている。

パパは つらくても くるしくても、
せいいっぱい たたかっている。

パパは じぶんの ために、
そして かぞくの ために
ぜんりょくで たたかいつづける。

そんな パパが、
いえの あかりの かずだけ いるんだ。
パパたちは ウルトラセブン、なんだ。

(中略)
◇パパのささえ

パパは ウルトラセブン。
パパは たたかう。

パパは どんな すごい
かいじゅうだって やっつけちゃう。
パパは すごく つよい。

だけど、そんな パパだって
くるしくて つらいときが ある。
たたかうのを やめてしまいたいと
おもうときも ある。

でも、そんなとき ささえに なってくれるのが、
かぞくの えがお。かぞくの 愛。
だから パパは たたかえる。今日も 明日も たたかえる。
パパは ウルトラセブン。
    --作・絵みやにしたつや『パパはウルトラセブン みんなのおうち HOME SWEET HOME』(学習研究社、2003年)。

パパだけずるい!と世のママさん方、そう、いうことなかれ。
続編に、『ママいつもありがとう! パパはウルトラセブン/ママだってウルトラセブン』(学習研究社)というのがありますので、追々紹介します。

ちなみに写真のウルトラセブン(サービス中)のストラップは、缶コーヒージョージアのおまけ。ラストで通俗的な話で恐縮ですが、よく喫茶店なんかで「モーニング・サービス(morning service)」っていう、まさに早朝ランチサービスがありますが、その看板を見た、キリスト者の外国人が、「モーニング・サービス(morning service)? 早朝礼拝か? なんとすばらしい!」と勘違いをした--なんてジョークがありますが、サービスも語源を辿ると、礼拝や人に尽くすという意味合いが含まれています。そうしたサービスですが、語源となったラテン語servitusは「奴隷」、聖書においては「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(「マタイによる福音書」7・12)という聖訓に由来する。

そう考えるとサービスっていうことば、なかなかいい言葉です。

家族サービスは、スマイル0円ですが、やらされてやるサービスではなく、自分も相手も楽しみ、楽しまされる貴重な意義深い時間かも知れませんよ。

YouTube での 缶コーヒー・ジョージア(ウルトラセブン・麻雀篇)の動画はこちらから

パパはウルトラセブン みんなのおうち―HOME SWEET HOME Book パパはウルトラセブン みんなのおうち―HOME SWEET HOME

著者:みやにし たつや
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汝自身の“地の塩”

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◇「序話」
 もし日本にキリスト教が来なかったとしたら、どんな日本になったであろうか。
 本書をご覧になればわかるように、キリスト教は日本に渡来以来、何度も事件を引き起こしている。いわば「お騒がせ宗教」である。その「お騒がせ宗教」がなかったとしたら、日本は、たぶん変わりなかったかもしれないが味気無かったにちがいない。
 聖書に「地の塩」という言葉がある(マタイ五・一三)。ここでいう塩は、わたしたちが現在用いているような精製された美しい塩ではない。よごれた色のゴツゴツした岩塩である。
 日本を騒がせて来たキリスト教は、岩塩のようなキリスト教として、日本に味をつけたり防腐のはたらきをしてきたのだろう。塩味がなくなるならば捨て去られるのみ、と聖書に書かれてある。

◇「終話」
 日本および日本人の歴史にとって、キリスト教はなんであったか、との視点で『日本キリスト教史物語』を描こうとした。キリスト教は、日本にとり「異神」、「邪宗門」、「耶蘇教」、「洋教」、「基督教」、「キリスト教」であった。それは、キリスト教が、時期によりニュアンスの相違はあるが、日本にたいへん異質な宗教であった反応である。
 その異質性には、キリスト教固有の神観、人間観、世界観からくるものと、歴史的にまとまった西欧的衣裳によるものとの、ふたつの面がある。結果的には、双方による異質性がもとで、日本においてキリスト教は多くの事件を引き起こす宗教となった。
 異質性のなかの西欧性のうち、欧米文明は歓迎された時期もあるが、教派のもつ世界伝道組織は反発を買ったりした。一方のキリスト教固有の思想は、日本の思想、宗教、社会組織、国家、権力をはじめ、日本に残る人権侵害、差別、偏見、公害などとの間に摩擦、衝突をよび、事件を生じがちであった。
 だが、キリスト教が日本において事件を起こし「お騒がせ宗教」であった時代は、それなりに日本社会に存在の意義があったと思う。キリスト教に元気があり活力のあった時代である。「世ニこび、時ニへつろふ事のなきハキリストノ特色なり。いにしいになづむの短所こそあれ、今ニへつらわざるハ誠に天晴れなりとす」。これは日本のキリスト教を評した田中正造の言葉である。その刺激により、日本は新しいものを生み、キリスト教も日本から世界に発信するキリスト教を出現させた。
 宗教文明史の目で見て、事件を起こす「お騒がせ宗教」であったキリスト教は、この意味で評価できる。ところが教勢の上で停滞している理由は、キリスト教側の理由に加えて、鎌倉時代に仏教の宗教改革があったことによっていると考える。そこで仏教が、すでに聖職者の宗教から一般信徒の宗教として改革を果たしていたことが大きい。
 せっかく宗教改革をした仏教も、ふたたび制度化し金属疲労をして宗教の機能を果たせないとき、キリスト教や他の新・宗教の進出があったとみたい。しかし、それは間隙をつく役にとどまり、地位を変わることは困難であった。当然、キリスト教が、日本の世に迎合するだけの時代は、キリスト教は存在の意義がないだけでなく、有害でもあった。
 日本の歴史を振り返ると、集団の魔性(国家、天皇制など)に個々の人間の生命、思想、自由が抑圧されることが多かった。日本のキリスト教の存在理由は、前者に対し後者とともに立つことになる。ここにキリスト教による事件が生じ、挫折もあった。ささやかな物語ながら本書の意図は、その歴史を踏まえた新たな歩みである。
    --鈴木範久『日本キリスト教史物語』(教文館、2001年)。

冒頭の引用は、学問の恩師・鈴木範久先生が、もともと大学の教養科目として行った話をもとに、「専門家、牧師、神学生ではなく、ふつうの学生や一般の人々」を読者として著した、簡便かつ思想史的に読み応えのある、日本キリスト教史に関する著作の序文とあとがきから。
いつもながら手前味噌で、専門のキリスト教の立場からだけの発言をご容赦されたい。

さて--。

宗教のいのちとは何か--。
宗教は多彩な側面を持っているのでひとつに限定できないが、社会との関係をみた場合のひとつの視座が、「地の塩」であると思う。

「地の塩」。

「お騒がせ宗教」である「キリスト教」を仏教にでも、神道にでも、イスラム教にでも、etcにでも置き換えてみてもよいだろう。宗教は時代と社会とひとびとの“現状”に警句を発する“地の塩”である。

塩気がなくなるときとは、即ち“金属疲労をして”“世に迎合するだけ”のときのことである。これは組織・教会・協会という集団・共同体だけの問題ではない。

「地の塩」は自分自身に対しても“地の塩”である。

ゆえにひとを蘇らせ、社会を大きく変えていくのだと思う。

マタイ伝をみてみると次のようにある。

「あなたがたは地の塩である。だが塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光をひとびとの前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの点の父をあがめるようになるためである。」(新共同訳)。

人々に踏みつけられ、役割を終えた価値観は無数に存在する。
そうはありたくない宇治家参去でした。

蛇足ですが、明日から半年ぶりのプライベートな二連休。
どうしようかな?--という夢想はない。
一日は、集めた資料を読んで論文を書き、通信教育部のレポート添削にあてることがきまっている。
しかし、一日はフリーだ。
たぶん、家族につきあわされるのだろう。
合掌。

だから、飲んで寝よ、寝よ。

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帰ってきたら(Return)

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帰ってきたら(Return)
     レイモンド・カーヴァー
ジョージ・メンシュの飼っている牛が
居間に糞をした。
窓はあとかたもなく、
バック・ポーチは
キッチンのあたりで崩れ込んでいる。
僕は汚された部屋をひとつひとつ見てまわった。
どっかの金融会社(フアイナンス・カンパニー)みたいに。
    --レイモンド・カーヴァー(村上春樹訳)「帰ってきたら」、『英雄を謳うまい』(中央公論新社、2002年)。

どうも宇治家参去です。
ほんとうにひとびとは、疲れさせてくれます。

帰ってきたら、パソコンがトラブル状態のまま放置プレイ。
なんとか復帰させる。

とりあえず、いっぱい飲んで寝ます。

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「領地売り物あり。××ヘクタール、耕地・屋敷・川・果樹園付き、云々」

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ラネーフスカヤ 十分したら馬車に乗りましょうかね……。(部屋の中を見回す)さようなら、いとしいわたしのお家、年老いたおじいさん……。冬が過ぎ、春が来れば、お前はもういない……、壊されてしまうのね。沢山のことを見てきた、この四方の壁も……。(娘に強く接吻する)わたしの大切な子、あんたはキラキラしてるね。目なんて、まるでダイヤモンドみたいだ……。満足なのかい、とても?
アーニャ そうよ、ママ、だって新しい人生が始まるんですもの!
ガーエフ (陽気に)実際、万事うまく行ったよ。桜の園が売れる前は、我々みんな心配したり苦しんだりしたが、事が最終的に決着して、もう後戻りはできないとわかると、落ちついて、いっそ陽気になっちまった……。わたしは銀行員、いまや金融の専門家だな……黄玉を真ん中へ!……リューバ、君だって、そうはいっても顔色が良くなかったよ、たしかに……

ラネーフスカヤ ええ。神経が落ちついたの、それはほんとよ。
    周囲のものから帽子とコートを受け取る。
よく眠れますわ。わたしの荷物を運び出してくおくれ、ヤーシャ。行かなくちゃ。(アーニャに)可愛い子、すぐにまた会えますよ……。お母さまはパリへ行って、ヤロスラヴリのあんたの大叔母さまが領地を買うのに下さったお金で暮らすけど……大叔母さま万歳だわ!--でもそんなに長くいられる額じゃないしね……
アーニャ ママはすぐに戻っていらっしゃる……そうでしょ? あたしはよく勉強して、女学校での試験に合格して、そのあと働いてママを助けるわ。御一緒に、いろんな御本を読むのよね。そうでしょ?(母の手に接吻する)秋の夕べの読書で、沢山の御本を読みこなす……。そうすれば、あたしたちの前に新しい素晴らしい世界が開けるに違いないわ……(夢見る面持ち)ママ、戻ってらっしゃいね……
ラネーフスカヤ 戻ってきますとも、可愛いアーニャ。(娘を抱く)
    --チェーホフ(小野理子訳)『桜の園』(岩波文庫、1998年)。

南ロシアの五月……。
美しく咲いた桜の園に、5年ぶりに帰ってきた当主ラネーフスカヤ夫人。
喜び迎える人々と思い出に浸るラネーフスカヤ夫人。しかしその喜びの思いとは裏腹に、広大な領地は、まもなく競売にかけられる運命にある。
「領地売り物あり。××ヘクタール、耕地・屋敷・川・果樹園付き、云々」。
さまざまな思いをよそに、いよいよその日がやってくる……。

冒頭は、最も愛されたチェーホフの戯曲の『桜の園』の出立シーンから。

疲れたとき、そして絶望の淵にたたされたとき、いつも紐解くのがチェーホフの『桜の園』です。昨日から読み返しています。

このところ、市井の仕事が更にキツくなりはじめ、(私自身は別にすべてをかぶるつもりで仕事をしていますので、別にいいのですが)部下たちも、どうやらへろへろになってきてましたので、昨日、その実態をくまなく、責任者へ報告しました。
しかし、責任者本人もいっぱいいっぱいなので、話の内容を理解できず、「ありがとう」で、以上……。

おそらく本質的な改革(改善)にはかなりの時間が必要とされるだろうが(それまで会社が持てばですが)、それに向けた小さな一歩になればよいと思う。それまでは、宇治家参去が部下をまもり、凌いでくほかあるまい。いつまでいる気もないので、さばけた部分がありますので、冷静に見ることが出来るので、要所要所で現状報告を続けるしかない。

さて『桜の園』……。

話の筋としては、没落領主のよくある話です。
互いに相手のために良かれと願いながら、誰しも目的を達することが出来ない。そしてひとびとはバラバラに分解していく。
不幸への扉を見せるのではなく、すでに誰もがすでに不幸な話である。

しかし、チェーホフで面白いのは、話の筋としては誰もが不幸で、苦労と幻滅しかなく、その運命を良い方向に転換させる予兆はまったく見せない話であったとしても、なにか、絶望が見えてこない。

そこに惹かれているのだと思います。

かつて評論家・佐々木基一が、「ともすればおちこみそうになる底なしのペシミズムやニヒリズムとたたかいながら、たえず前方をみつめつつ(中略)健気に生きつづけた」作家としてチェーホフを讃えたとおり、人間の現実には、秘策も大どんでん返しも何もない。
ただ問題と格闘し「健気に生きつづけ」るしかないのだ。

人間が悪くした世の中ならば、人間がそれを改めるしかないのだ。

そう思う宇治家参去でした。

興味のある方は是非、分量は薄い一冊ですので。

Antontschechow

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用にも堪えず、美にも堪えぬ

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趣味とまではいかなくても、ひとは何かを集める楽しみを知っている。
小学生のときは、切手を集めていた……
昆虫採集も、集める作業だった……
ひとつひとつの切手なり、昆虫が増えることに、喜びを覚えたものである。
人間という生きものは不思議なもので、どうやら何かを集めることがすきのようだ。

前置きはさておき……

コレクションというほどではありませんが、ここ数年、根付を集めています。もちろん高価な時代モノまで手はまわりませんが、既製品から手作りまで手頃なものを集めています。

今月購入したのが、麒麟の根付。
ちなみに一緒に写っているキングショー(ウルトラセブンの怪獣)は子供のコレクション。私と同じで集めて、並べて、眺めて、さわることに快楽を感じているようです。

さて、麒麟の根付……。
気に入って飾っていたのですが、ある日見てみると、ツノが1本おれていた……。
麒麟の根付を“シーサー”と呼び、可愛がっていた息子さんの仕業ではないかと思われるが、確認のしようがない。

「大切なものなら、手の届かないところに置いておかない貴方がバカよ」
細君に叱責される。

しかしそもそも考えてみれば、今手に取っている根付ももともとは実用品。
江戸時代に煙草入れ、矢立て、印籠などを紐で帯から吊るし持ち歩くときに用いた留め具が根付けである。ポケットのない着物に小物を携帯する際、使われた留め具である。だとすれば、生活の中で、擦れたり落っことしたり、欠けたり、疵がついたはず。

そう考えれば、(たぶん・息子さんにツノを潰された)麒麟の根付も、宇治家さんの生活のなかでのオリジナルなんだと思えば、すっきりする。
ただ、これ以上、投げたり噛んだりはしてほしくないが……。

さて最後に、そうした民芸に注目した柳宗悦の言葉から。

国家は少数の異常な人々を挙げて、その名誉を誇るかも知れない。しかし一国の文化程度の現実は、普通の民衆がどれだけの生活を持っているかで判断すべきであろう。その著しい反映は、彼らの日々の用いる器物に現れる。

偉大な古作品は一つとして鑑賞品ではなく、実用品であったということを胸に明記する必要がある。いたずらに器を美のために作るなら、用にも堪えず、美にも堪えぬ。
    --柳宗悦『民藝四十年』(岩波文庫、1984年)。

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【覚え書】壊れるほど頑張る必要はない 石田衣良さん(作家)」

存在自体は知っていたが、読んだことがないのが、石田衣良。
ちょうど、新聞にインタビューが載っていたので、覚え書まで。

■「第4回 壊れるほど頑張る必要はない 石田衣良さん(作家)」、『読売新聞』(2008年1月11日付)

 僕は、受験勉強が本当に嫌いだったのでしなかったんですよ。どこか受かれば行けばいいし、だめだったら行かなくてもいいやと思っていたんです。新卒の時の採用試験も蹴ってしまったし。高校は東京・下町の進学校で、ほとんど全員が受験勉強をしていましたが、僕はもう嫌になっちゃったんだよね。学校もなんかおもしろくないなあという感じで、好きな本だけ読んで暮らしていたんです。

 高3の夏は1日に2.8冊読みました。これが最多記録です。1000本ノックみたいなもので、一度小説の中におぼれてみないと、小説の形みたいなものが身につかないんです。形がないと崩したり、自分なりに新しいスタイルを作ったりできない。目が良くて時間があって若いときにたくさんの本を読んだことは、役に立ちました。

 共通一次と成蹊大学、もう1カ所受けたと思います。共通一次は初年度でした。数学や物理は反復練習をしていないからだめ。世界史は覚えるのが嫌で勉強しなかった。だから、英語と国語で受かるところしかだめだった。英語は好きで、欧米ポップスの歌詞をたくさん覚えていましたから、学校の勉強はあまりしなくて済んだんです。

 試験の前の日もテレビで映画を見ていました。当時はVTRがなかったので、ここで見なかったら次にいつ放送するか分からない。そう思ったら、とりあえず黒澤明でしょう。勉強よりおもしろいし。焦りはありましたが、20代の10年くらいは棒にふってもいいと腹をくくっていたんだと思います。なるべく広く世の中を見て、本当におもしろいことが見つかったら、ちゃんと取り組めばいい。

 今度出した本「5年3組リョウタ組」は、7割が中学受験をする小学校が舞台なんですが、行きたくもない塾にみんなが行かなきゃならない。ちょっとかわいそうですね。勉強が得意じゃない子は、そんなにやらなくてもいいんじゃないかと思います。そのためには、社会に「迂回路」をもっと作ることが大事ですよね。ちゃんと勉強して、一流の大学に入って、いい会社に入るというのではなく、もっと別の生き方ができるように。

 作中で「勉強はできないけど『共感力』がある」と言われる学級を描いたんですが、共感も行き過ぎると怖いよね。今の日本で生き残るために一番有利な力は「空気を読む力」ですよ。でも、その場の空気はゆれ続けます。決まった座標軸のないところで、空気を読むことを強要されながら大人になるのは、ものすごく大変だろうと思います。

 受験に落ちても死なないし、自分の力のすべてが測られるわけでもない。自分が壊れるほど頑張る必要はないよ。学力と、その人の本当の知力はまったく別のものだからね。でも、受験が終わったらちゃんと自分のための勉強を一生やるように。社会に出てから勉強したことは本当に役に立ちますよね。

◇いしだ・いら 1960年生まれ。成蹊大経済学部卒。広告制作会社勤務を経て作家に。2003年「4TEEN」で直木賞受賞。「池袋ウエストゲートパーク」シリーズや恋愛小説「眠れぬ真珠」などで多くの年代から支持されている。最新作「5年3組リョウタ組」が11日に発売。

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「軽佻浮薄の経世家を警む」

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亡国に至るを知らざればこれ即ち亡国の儀につき質問書
明治33年2月17日、第14回議会

 亡国ニ至ルヲシラザレバコレ即チ亡国ノ儀ニツキ質問書
右成規ニヨリ提出候也
 明治三十三年二月十七日
            提出者 田中正造
            賛成者 石原半右衛門 外三十四名

一 民ヲ殺スハ国家ヲ殺スナリ
法ヲ蔑(ないがしろ)ニスルハ国家ヲ蔑〔ニ〕スルナリ
皆自ヲ国ヲ毀(こぼ)ツナリ
財用ヲ濫(むさぼ)リ民ヲ殺シテ而シテ亡ビザルノ国ナシ、コレヲ奈何(いかん)
右質問ニ及候也

〔明治三十三年二月十八日衆議院議事速記録二十九号、議長ノ報告〕
    --由井正臣・小松裕編『田中正造文集(一)』(岩波文庫、2004年)。

足尾銅山鉱毒事件の告発者として有名な田中正造の国会へ提出した質問書から。

この質問書は、川俣事件(1900年2月13日、鉱毒被害の嘆願に向かう人々に対して、利根川北岸の川俣で待機した憲兵・警察官が大弾圧を加えた事件)に対する義憤ゆえに提出された質問書で、日本の憲政史上に残る大演説であったと伝え聞く。

2月21日付の山県有朋首相による政府答弁は次の通り。

「質問の旨趣要領を得ず。依て答弁せず」。

田中正造の名を聞きかじったことのある人物を現在見いだすことは難しくない。しかし、答弁に答えた山県有朋の名前を聞きかじったことのある人物は、郷里の人か明治史に聡い人物ぐらいだろう。

方や公害とひとびとのために実際に動いた先駆者として知られ、方や生前から評判が悪く、その異常なほどの権力への執心、勲章好きは、ひとびとの軽蔑の対象となった人物である。

死去に際しては、「民抜きの国葬」と揶揄されたほどである。

原敬いわく。
「あれは足軽だからだ」

とうの田中正造は、この演説の翌年、衆議院議員を辞職、有名な明治天皇への直訴を行う……。

実は、本日が、ちょうどその国会演説から108年目。

果たして国家は、「民ヲ殺ス」あり方から卒業できたのだろうか。「法ヲ蔑ニスル」あり方から卒業できたのだろうか……。

節目としてそう考える一日があってもよかろうと思い、つづってみました。

そういえば、田中正造と交流のあった人物に内村鑑三がいる。
物質至上主義や拝金主義の風潮に抗して警世の預言者として、国を愛するがゆえに、警告を発し続けた人物である。『デンマルク国の話』という講演の末尾を次のように締めくくっている。

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宗教は詩人と愚人に佳(よ)くして実際家と智者に要なしなどと唱うる人は、歴史も哲学も経済も何にも知らない人であります。国にもしかかる「愚かなる愚者」のみありて、ダルガスのごとき「智(さと)き愚人」がおりませんならば、不幸一歩を誤りて戦敗の悲運に遭いまするならば、その国はそのときたちまちにして滅びてしまうのであります。国家の大危険にして信仰を嘲り、これを無用視するがごときことはありません。私が今日ここにお話しいたしましたデンマークとダルガスとにかんする事柄は大いに軽佻浮薄の経世家を警(いまし)むべきであります。
    --内村鑑三「デンマルク国の話」、『後世への最大遺物・デンマルク国の話』(岩波文庫、1976年)。
----

田中正造は、牢獄の中で、聖書に親しみ、「聖書を読むよりはまず聖書を実践せよ」と日記に記し、キリスト教に傾倒するが、受洗はしなかった。しかしとおりいっぺんのキリスト者よりも、こころで聖書を読み、実践した人物といえる。

その姿と歩みを見てみると、まさに「智き愚人」に思われて他ならない。

その姿と歩みは見ていると、まさに「軽佻浮薄の経世家を警む」姿に思えて他ならない。

田中正造文集〈1〉鉱毒と政治 (岩波文庫) Book 田中正造文集〈1〉鉱毒と政治 (岩波文庫)

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亡国への抗論―田中正造未発表書簡集 Book 亡国への抗論―田中正造未発表書簡集

著者:田中 正造
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後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫) Book 後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)

著者:内村 鑑三
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バベルの塔は何故廃墟となったのか

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 バベルの塔はなぜ廃墟となったか。「聖書」は言葉がおたがいに不通になったためだ、と記している。実は現代の科学も言語不通である。物理学者のいうことは経済学者にはわからないし、哲学者のいうことは技術者にはわからない。一般的にいって科学者や技術者は、思想の問題を理解できなくなっている。まえに述べたように、現代の科学は操作可能性という特性のために、急激な発展をみたが、それによって科学技術は、操作できる道具となっていった。そしてなにのためにその道具を使うか、それを使う人間がまちがわずにそれを使えるのか、は問われていない。
 実をいうと、科学技術が発展し、肥大していくのと反比例して、それを使う人間の方は、衰弱する一方ではないのか。思想のない人間は内容が空洞になった人間である。衰弱死空洞化した人間が、はたしてこの天に達しようとする現代の科学技術を、使いこなしていけるであろうか。バベルの塔の失敗をくり返さないためには、人類はこの空洞をうめなければならない。
 きみたちはどうか。大学にいる間、きみたちが専門と定めたことを学ぶとともに、人間とは何であるか、人生とは何であるか、という問いについて考えてもらいたいと思う。将来はきみたちの肩にになわれているのだから。
    --隅谷三喜男『大学でなにを学ぶか』(岩波ジュニア新書、1981年)。

 いまからおよそ25年前、大学への進学を考える高校生のためにかかれた大学論の末尾から。著者の隅谷三喜男氏は、日本を代表する経済学者で、キリスト者。

大学卒業後、そのまま研究者の道を進まず、社会の底辺で働きたいという希望から満州の昭和製鋼所で汗を流し、戦後になってからアカデミズムの道を歩み始めた異色の人物。平和や労働問題に関する著作も多く、近代日本とキリスト教に関する執筆もかなりありますので、そのへんから読むようになった人物です。

 ですので、この大学論を手に取ったのも、大学院時代。通俗的で凡庸といえば、凡庸な内容だが、読み易い文体ながらも、言葉に込められた著者の一貫するテーマ(「何のために学ぶのか」「学んだ人間は何をなすべきか」)に圧倒される作品で、もっと早い段階で読んでおくべきだったと猛省した記憶があります。

 たしかに、高度に科学技術が発展し、その恩恵無くして生活を遂行するのが不可能なのが現代社会の実態である。いろんな問題を抱えているが、それをすべて否定して生きていくことは不可能である。ならばどのように、生きやすい社会にずらしていくのか……。
 産業革命以来、人間は、すべての局面において、分断し、整理することで、その専門性を高め、効率性を高め、現代社会を創造した。

しかし、分断は分断である。

フランス文学を専攻する人間で量子力学を語り、分子生物学を理解できる人間はほとんど存在しない。
遺伝子工学を専攻する人間で分析哲学を語り、スコラ学のトマス=アクィナスとヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの違いを精確に理解できる人間はほとんど存在しないだろう。

専門性を高めることは、この高度に専門化された社会で生きていく上では必要不可欠で、同業他者に負けないようなしのぎをけずる集中と忍耐が必要だ。そして探求されてしかるべきである。

しかし、それだけでよいのか……。隅谷の言葉には、専門化に飽和した熱病者にまるで冷や水を浴びせるような響きがある。

現実の問題として、サルトルの戯曲について卒論を書いている学生が、量子力学を語り、分子生物学を理解した上で、脳の問題を語ることは難しい。また、研究室で、遺伝子組換え生物(GMO)を探求する学生が、トマスとスコトゥスにおける存在理解の問題を精確に把握しているケースは希である。

何も、それぞれが異なる他分野を自己の専門ほど深化したかたちで学べといっているのではない。専門という蛸壺に沈潜したまま、世界を、そして人間を見なくなった場合が恐ろしい……ただ、それだけである。

フランス文学を学ぶ学生が、ときおり、現代科学に関するニュースを耳にして、その内容がなんとなくわかる。そして、遺伝子工学を学ぶ学生が、昼休みに、ドスエフスキーを読んでいる。それぐらいの交流はほしいものである。
伝え聞くところによると、アメリカの一流大学では、文系の学生にも分子生物学(入門含む)が必修で、その逆も必修だとか。
戦後、アメリカの学制をモデルに日本の教育システムは組み立て直されたが(戦前はドイツ)、こうしたところは学びたいものです。

「きみたちはどうか。大学にいる間、きみたちが専門と定めたことを学ぶとともに、人間とは何であるか、人生とは何であるか、という問いについて考えてもらいたいと思う。将来はきみたちの肩にになわれているのだから」

いざ、学ぼう!と思っても、現実には、カリキュラムや履修パターンで難しい問題だという側面も確かに存在する。でも学校からだけ学ばなくてもよい。生きている社会や書物、そして人々から学べばよい。また教師は、そういう不足を発見したら、声を上げるべきであろう。1名でも2名でもそうした声があれば開講の必要があろう。

時間はかかるかもしれないが、ゆっくりとずらしていこうと思います。

そしてそのなかで一番重要なのは、様々な世の中の動向に対して、アンテナを張り、「関係ねぇーや」っていうカタチのシラケを排していきたいところです。世の中に対するシラケ、そして他者に対するシラケは自分に対するシラケとして帰ってくる。

常に敏感でありたいものです。
現代社会は確かに異常な社会です。
血なまぐさい事件がひっきりなしに連発しています。
そこで、その異常さに馴れないことが必要だと思います。
「またか」じゃなく、そこで「なぜ」という問いのカタチで、事象に当たりたい--そう思う宇治家参去でした。

思えば、現代を代表する神学者カール・バルトは、新聞を数紙購読し、総合雑誌や一流誌をじっくり時間をかけて毎日読んでいたという。だからこそ、専門性も深く追求し、人間やその生きている社会の問題にも深くコミットしていった。そうありたいものです。

ちなみにわたしは、根っからの文系人間。
しかし、学ぶにつれ、科学をきちんと学んでいなかったことが失敗だと思っています。
いまからでも遅くない!
そう思いながら、講談社のブルーバックスという科学に関する入門書シリーズをちまちまと読んでいます。
読み始めると面白いものですよ。世界の認識が広がります。

さて、今日は来客があり、久し振りに蕎麦屋に出前を取ってみました。
ピザとかそういう出前が幅を利かしていますが、古式ゆかしく出前の元祖・蕎麦屋です。
蕎麦好きですので、蕎麦を堪能。

出前もなかなかいいもんですね。

そんなところで、最後に、旧約聖書のバベルの塔の部分でも抜き書きしておきます。

バベルの塔
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
主は下って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って直ちに彼らの言葉を混乱させ、お互いの言葉が聞き分けられないようにしてしまおう。」
主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
    --創世記11.1-9

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世に棲む日々

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 洋服とともに始まった日本の議会政治が依然としてはなはだ滑稽なものであるのも、人々が公共の問題をおのが問題として関心しないがためである。城壁の内部における共同の生活の訓練から出た政治の様式を、この地盤たる訓練なくしてまねようとするからである。「家」を守る日本人にとっては領主が誰に代わろうとも、ただ彼の家を脅かさない限り痛痒を感じない問題であった。よしまた脅かされても、その脅威は忍従によって防ぎ得るものであった。すなわちいかに奴隷的な労働を強いられても、それは彼から「家」の内部におけるへだてなき生活をさえ奪い去るごときものではなかった。それに対して城壁の内部における生活は、脅威への忍従が人から一切を奪い去ることを意味するがゆえに、ただ共同によって争闘的に防ぐほか道のないものであった。だから前者においては公共的なるものへの無関心を伴った忍従が発達し、後者においては公共的なるものへの強い関心関与とともに自己の主張の尊重が発達した。デモクラシーは後者において真に可能となるのである。議員の選挙がそこで初めて意義を持ち得るのみならず、総じて民衆の「輿論(よろん)」なるものがそこに初めて存立する。共産党の示威運動の日に一つの窓から赤旗がつるされ、国粋党の示威運動の日に隣の窓から帝国旗がつるされるというような明白な態度決定の表示、あるいは示威運動に際して常に喜んで一兵卒として参与することを公共人としての義務とするごとき覚悟、それらはデモクラシーに欠くべからざるものである。しかるに日本では、民衆の間にかかる関心が存しない。そうして政治はただ支配欲に動く人の専門の職業に化した。ことに著しいことは、無産大衆の運動と呼ばれているものが、ただ「指導者」たちの群れの運動であって指導せられるものをほとんどあるいはまれにしか含んでいないという珍しい現象である。もとよりそれはこの運動が空虚であることを示すのではない、しかし日本の民衆があたかもその公園を荒らす時の態度に示しているように、公共的なるものを「よそもの」として感じていること、従って経済制度の変革というごとき公共的な問題に衷心(ちゅうしん)よりの関心を持たないこと、関心はただその「家」の内部の生活をより豊富にし得ることにのみかかっているのであることは、ここに明らかに示されていると思う。だから議会政治が真に民衆の輿論を反映していないと同じように、無産大衆の運動も厳密には無産運動指導者の運動であって無産大衆の輿論を現わしたものではない。
    --和辻哲郎『風土--人間学的考察』(岩波文庫、1979年)。

日本を代表する倫理学者・和辻哲郎の著作をこのところ読み返していますが、やはり一級の人物ですね。読みやすい文章ですが、鋭い観察眼とそれを裏付ける深い精神性と知性が迸っています。

うえの部分は、発想としての“うち”と“そと”。

歴史的な精神風土として依然としてのこる“うち”への極度の集中と、“そと”への無関心の問題である。もちろん“うち”を大切にし、その充実を図ることは重要な問題であり、その増進が図られてしかるべきである。しかし、もともと“うち”とは、“そと”に完全に分断された世界ではありえず、関わり方の温度差はあるにしても、なんらかのカタチでつながっている。そうであるとすれば、“うち”の問題を考えると同時に、“そと”のことにも関心を寄せざるを得ないのが、順当な発想であると思う。しかし、日本の生活形態としては、“そと”の様子をうかがいながら、“うち”へ引きこもるカタチでひとびとは生きてきた。

だからそこには、発想としての公共性の問題がリアルなものとして立ち上がってこなかった。公共性とは、玄関を一歩外へ歩み出したにんげんにつきつけられる他者との関係であり、他者や自分が生きている、そして形作っている共同体との関係の問題である。だからこそ、そこに倫理が問題となってくる。

和辻哲郎は、倫理学を構想するに当たり、ハイデッガーや西田幾多郎の哲学を参照しながら、倫理の普遍的基礎とされる「間柄」概念をその根柢に置き、倫理学を論じた。倫理学は、自己と自己自身との関係、そして自己と他者との関係、そして自己と、共同体(人倫的組織)の関係を常に問い直す。その関係こそ「間柄」に他ならない。

「人が人間関係においてのみ初めて人であり、従って人としてはすでにその全体性を、すなわち人間関係を現わしている」
    --和辻哲郎『人間の学としての倫理学』(岩波文庫、2007年)。

和辻は、倫理学を構想するに当たり、「人間」ということばの持つ二重の意味の分析から叙述を始めている。すなわち、「人間」という言葉には、個の側面としての「人」の意味と「(人が集まり住んでいる)世の中」という二重の契機が含まれている。人間は個別と全体との契機をその存在自身のうちにおいてすでに含んでおり、全体性を基底にして初めて存立するのが人間という存在であると和辻は言う。

だとすれば、“そと”との関係だけでなく、“うち”のレベルにおいても、そのあり方が問われなければならないはずである。しかし、日本においては、“そと”から眼をそらすかたちで“うち”に集中しながらも、“うち”のもつ共同体としての側面(イエ)は重視されたが、個々の構成員に関しては、その存在、そしてあり方、また関係が軽視されてきた側面が厳然とある。つねに、“うち”の問題は、共同体の問題であった。“うち”への極度の関心と傾斜は、“うち”に棲まう人間の問題ではなく、共同体としての“イエ”の問題しか存在しない。

“そと”との関係も実際の生きている現実は、一様ではない。
自己と、その自己の住まう地域との関係、自己と、その自己の勤務する(通学する)会社なり学校との関係、そして、社会、国家、世界との関係……。

自己がとりもつ“そと”との関係も一様ではないのが現実だ。
それにもかかわらず、“そと”との関係が省みられなかった所為か、日本において、“そと”との関係が論じられた場合(「公共性」)、そのレベルは、常に「国家」との関係においてのみ論じられてしまうのが顕著である。

ヨーロッパにおいては、自由な対話空間の「コーヒーハウス」や「サロン」から公共空間が立ち上がってきたという歴史的経緯があるから、“なか”を重視しつつも、“そと”との良好な関係が保たれたり、破綻を来した場合、それを変更する自由な視座が存在した。

何も“そと”はひとつでない。国家がだけが“そと”ではない。

そこを踏まえた上で、ひとりひとりが、“うち”のなかでの関係を洗い直しながら、そして“うち”の充足を図りながら、ぼちぼち“そと”との関係も、手探りでもよいから、問い直す必要があるのではなかろうか。

まずは練習として、一番身近な、自分に対する“そと”としての家族との対話、よりよき関係をめぐる談義・行為を行うのがよろしいのでは……。

推敲しながら書きませんので、いつもくどく長くなってすいません。

昨日は世に言うバレンタイン・デー。
細君が、ワインを買ってきてくれた。
お返しを何か考えないとマズイですね。
お祭りといえば、お祭りだし、業界に踊らされているといえば踊らされている行事です。しかし、親しい“間柄”だからこそ、想いは以心伝心で伝わるとは限りません。そうした行事を“利用”しながら、それをカタチにすることも大事だと思います。

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左側が少年時代の和辻哲郎

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〔自惚〕ずに飲む

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 来月で職場を辞めるバイト君と終業後、軽く飲みに行く。
 軽くのつのもりが重くなり、気が付くと、五合飲んでいた。
 帰ってきてそのまま寝たが、飲むといびきがうるさくなる。
 起きると細君に怒られる。
 まだまだ若いつもりで飲んでいるといつも怒られてしまう。
 まだまだイケルと飲んでいると、カラダが若いようにはいかなくなってきている。
 「もう、おっさんなんだから、おっさんのように飲みなさい」
 とのことだそうだ。
 まだまだイケルという“自惚”がよくないのかもしれない。
 う~む。

 尊重と軽蔑について
 引き続き尊重と軽蔑について、矜持と謙遜について、自惚と自卑について語らう。我々はこれらの中で何が善であり何が悪であるかを正確に区別するためにこれを順次に一つ一つ観察してゆくことにする。
 尊重(Agting)と軽蔑(Versmading)は我々が或る物を大或は小と認識することに関してのみ生ずる。この大或は小が我々のうちに在ると我々の外にあるとを問はぬ。
 矜持(Edelmoedigheid)は我々の外に在るものには関しない。そしてそれは、感情を伴はずに且つ自己尊重に重点を置かずに自分の完全性をその真価に従つて認識する人々にのみ帰せられる。
 謙遜(Nedrigheid)は或る人が自己軽蔑に主点を置かずに自分の不完全性を認識する時に生ずる。謙遜も亦謙遜な人間の外にあるものには関しない。
 自惚(Verwaantheid)は或る人が自分の中にない完全性を自分に帰する時に生ずる。
 自卑ーー〔非難すべき謙遜〕(strafbare Nedrigheid)は或る人が自分に属しない不完全性を自分に帰する時に生ずる。私は自らさう思はないのに他人を欺くために自らを卑下する偽善者について語つてゐるのではなく、自分に帰してゐる不完全性を実際に自分が持つてゐると思つてゐる人々についてのみ語つてゐるのである。
 以上の観察からして、これらの感情の各の中にどんな善乃至悪が含まれてゐるか十分明白である。
 先づ矜持と謙遜に関して言えば、その卓越性はそれ自らで明らかである。我々の定義に依れば、さうしたものの所有は自分の完全性乃至不完全性をその真価に従つて認識するのであるから。そしてこれは、我々の完全性に到達するために理性が教へる最も優れた手段である。蓋し我々の力と完全性を正確に認識すればそれに依つて我々は、我々の善き目的に到達する為に我々が何をなすべきかを明瞭に知り得るし、一方、我々の欠点と無力を認識すれば、何を避くべきかを知り得るからである。
 自惚と自卑に関して言へば、それが一種の臆見から生ずることはこれ亦その定義から判明する。何故なら、我々の言つたところに依れば、自惚は自分に属しない完全性を自分に帰する人に認められ、又自卑はその正反対であるからである。
 今し方述べたことからして、矜持と真の謙遜が善であり健全であるやうに、自惚と自卑は反対に悪であり破滅的であることが明らかである。といふのは、前者〔矜持と謙遜〕はその所有者を極めて善き状態に立たせるだけでなく、その上、我々が最高の幸福へ登るための正しき階段となる。しかし後者〔自惚と自卑〕は、我々の完全性に到達するのを妨げるばかりでなく、我々を全くの破滅に導く。即ち自卑は、我々が完全になるためになさねばらなぬことをなすのを妨げる所以のものである。これは例へば懐疑論者の場合に見られる。懐疑論者は、人間が何らかの真理を有し得ることを否定する故に、まさにこの否定に依つて、真理を奪ひ去れれてゐるのである。一方自惚は、まつしぐらに我々の破滅に至らせるやうな事柄を企てさせる所以のものである。これは例へば、自分が神に特別に寵愛されてゐると妄想して来た人々或は妄想してゐる人々の場合に見られる。彼らは、そのため、火や水を冒し、かくて如何なる危機をも避けず、すべてを敢然となして、最も悲惨な死に方をしてゐるのである。
 尊重と軽蔑に関しては、我々が先に愛について述べたことを思ひ出すべきであるといふことのほか別に言ふことがない。
    --スピノザ(畠中尚志訳)『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』(岩波文庫、1955年)。

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読み耽る楽しみが原点

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きのうの出来事に関する新聞記事がほとんどうそばかりである場合もある。しかし数千年前からの言い伝えの中に貴重な真実が含まれている場合もあるであろう。
    --寺田寅彦「神話と地球物理学」、『寺田寅彦随筆集(四)』(岩波文庫)。
垂れ流しの情報から、真実を拾い上げることは困難を極めるが、数百年と読み継がれている書物から真実を掬い上げることは決して困難ではない。しかし、手に取るにはチカラが必要である。

どうしたわけか、自他共に読書がニガテと公言してはばからない細君が、『三国志』を読み始めた。もちろん羅貫中の『三国志演義』ではなく、吉川英治の『三国志』のほうです。古典というには、現代の作品ですが、さすが国民的作家とよばれた吉川英治の筆になる『三国志』です。

本は読まないより読んだ方がいいにきまっているが、よむなら、いわゆる名著とよばれる本を読んだ方がいい。

しかし、現実には、“読み慣れて”いないと、読むことは苦痛に他ならない。
だからこそ、まずは“読む楽しみ”という原点が必要だ。

細君曰く……、
「読み始めたら、面白くて2時間読み耽った」
とのこと……。

こうした、体験が必要なのかもしれません。

どうか細君よ!、人間と歴史を学んでくれ給え!

さて、今日は市井の仕事が休みですが、休みを味わえない宇治家参去です。
昼過ぎから残りのレポートに眼を通し採点する。教科書そのまま丸写しのレポートも在れば、丸写しながらも、構成を自分で整え、漆喰として自分のコメントを添えながら、結論を導く、すばらしい作品も存在した。

まさに紙一重。

結局、AとBの評価してつけられなかった……。
よく、いわれますが、宇治家先生は評価が甘すぎです、と。
でも決して楽勝科目ではありませんよ!

なぜなら倫理学も哲学も、評価は、生きている自分の現場で採点されますから。


さて、写真は、麒麟のハートランドビール。
あまりにも置いている店が少ないので、見つけるとついつい買ってしまいます。麒麟の売れ筋路線の深い味わいというよりも、ソフトなヨーロピアンビールです。ときどき飲むと無性にうまい。

Book 寺田寅彦随筆集 (第4巻)

著者:寺田 寅彦,小宮 豊隆
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

三国志(一)
配信元:電子書店パピレス
提供:@niftyコンテンツ

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渋滞なく日常を歩む

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今日は、市井の仕事が18時出勤のため、昼過ぎから、通信教育部のレポート添削と採点を行う。今月より、初めてレポート業務を行うようになり、本日の添削及び採点が初回となります。詳しい報告は後日紹介しますが、半分まで済んだところで、息子さんが仕事部屋へ乱入……。

「コーパー、コーパー」

不気味な呼吸音がこだまするので振り返ると、先日もらったダースベイダーのマスクを被っている。半月ほどまえ、市井の職場の大掃除の際出てきた代物で、店長から持って帰ってもいいよって言われてましたので、貰ってきたマスクです。胸のところのBOXを押すと、ご存じの呼吸音や名(?)セリフが再生され、マスク内に装着されたマイクも使用できるちょっとした本格派。

最初、息子に見せたときは、怖がっていたので(彼曰く「黒鬼」とのこと)、ヤフオクで売っ払おうと思っていたのですが、最近では、馴れてきたのか……被るようになっていた。
添削するペンの手を休め、ひととき、息子と戯れる。

そんな長い時間ではありませんが、こうした営みが滞りなく享受できれば、人生においての難問はそれほど残っていないのかもしれません。

 「平八郎。これからはむやみにうごくなよ。わしが案ずるに、徳山五兵衛殿や山本の師匠(おやじ)は、お前の将来(ゆくすえ)についてもよくよく考えていてくれるのじゃと思う。お前の、その若いちからをもって世のためにはたらくことは不可能ではないのじゃ。かまえて京からうごいてはならぬ」
 「はい」
 「それが、もっとも早く江戸におられる母御と会える道につながるのじゃと思え」
 老和尚に、そういわれると、一言もない。
 「わしもな、若いころは僧門にあきたらず、坊主あたまに鉢巻をしめて剣術修行なぞをしたものじゃが……なあに、いまとなって見れば、人間の生くる世界というものは上も下も、それほどの変りがないものよ」
 「はあ……」
 良栄和尚は、平八郎の方をなでさするようにしながら、あたたかい微笑みを投げてよこし、
 「人はな、平八郎」
 「は……?」
 「人というものは、物を食べ、眠り、かぐわしくもやわらかな女体を抱き、そして子をもうけ、親となる……つまり、そうしたことが渋滞なく享受出来得れば、もうそれでよいのじゃ。しかし、それがなかなかにむずかしい。むずかしいがゆえに世の騒ぎが絶えぬ」
 「…………」
 「何じゃ。物足りぬ顔つきじゃな。ま、よろしい。若いころは何事につけても物足りぬものよ」
    --池波正太郎『さむらい劇場』(新潮文庫、昭和五十七年)。

しかし、こうしたところが実は一番難しいのかもしれません。男性たちはともすれば、小事を大切にせず、小事と遊離した天下国家を論じることに血眼になりがちです。でもその議論は、小事と遊離しているゆえに、単なる空理空論に終わり、論じていたとしても、それは単なる前進への展望ではなく、現状に対する不満への鬱憤晴らしで終わっているような感があります。
そうしたところで比べてみれば、実に、女性の議論はすっきりしている。すなわち、月並みな言い方ですが、台所から世界を見て、そして論じているからなのだと思います。

難しいのですが、小事を渋滞なく享受することを心がけ、小事と大事の両者を両眼で見て、議論できるようにしたいものです。

でもひょっとすると、そのことは、自分で難しいと思っているだけで、実は、自然体でふつうに歩める正道かもしれませんね。

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「汝殺す勿れ」

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v 「汝殺す勿れ」
 知ることは、明るみのうちに引き出し、命名し、分類することである。パロールは一つの顔に向けて発される。知るとはその対象をつかむことである。所有するとは存在を傷つけぬようにしながらその自立性を否定することである。所有は被所有物を否定しつつ生きながらえさせる。だが顔は侵犯不可能である。
 人間の身体のうちで最も裸な器官である眼は、絶対的に無防備でありながら、所有されることに対して絶対的な抵抗を示す。この絶対的抵抗のなかに、殺害者を誘惑するもの--絶対的否定への誘惑が--読みとられる。他者とは殺したいという気持ちをかき立てる唯一の存在である。殺したい、しかし殺すことができない。これが顔のヴィジョンそのものを構成する。顔を見ること、それはすでに「汝殺す勿れ」の戒律に従うことである。そして「汝殺す勿れ」に従うことは「社会正義」の何たるかを理解することである。そして不可視のものたる神から私が聴きうることのすべては、このただ一つの同じ声を経由して私のもとへ届いたはずなのである。

 「汝殺す勿れ」は、それゆえに単なる行動規範ではない。これは言説そのもの、霊的生活の原理としてたち現われる。それゆえ、言語はすでに存在する思惟を表現するための記号の体系ではない。パロールは観照(テオリア)の秩序に帰属するより先に道徳の秩序に帰属するのである。パロールのほうが意識的思惟の条件なのではあるまいか。
(中略)
 さて「汝殺す勿れ」が刻み込まれた顔の視像(ヴィジョン)は、それだけでは私たちの欲求を充足させてはくれないし、手ごわい障害の経験に還元されることもない。にもかかわらず顔のヴィジョンは私たちの権力の前に無防備に身をさらしている。現実には人を殺すことは可能だからである。ただしそれが可能なのは他者を正面からみつめたことがない場合だけに限られる。殺すことの不可能性は現実的ではなく道徳的な不可能性である。顔のヴィジョンは一つの経験ではなく、自己脱出である。他なる存在との接触であって、単なる自己-感覚ではない。この事実は殺すことの不可能性の「純粋に道徳的な」性格によって裏付けられる。道徳的まなざしは殺人者の害意が見え隠れする乗り超え不能の無限を顔のなかに見る。道徳的まなざしが、あらゆる経験とあらゆるまなざしとは別の場所へ私たちを導いてゆく所以である。無限は道徳的まなざしにおいてしか与えられない。
    --エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)『困難な自由--ユダヤ教についての試論』(国文社、1985年)。   

 「汝殺す勿れ」と他者の“顔”が語っている--有名なレヴィナス倫理学の“顔”の部分のはなしでも。すこしレヴィナスの議論を整理したいので、箇条書的な覚え書風に。
※専門家には不十分でしょうが・・・。

 「顔」とは「懇願」であり「命令」である。
 わたしはこの懇願・命令に対して「oui(はい)」と応答することしかできない。ここに他者に対する「責任」の根拠が存在する。

 わたしと他者との関係は、まるで、愛には序列があるように、“対等”な関係ではない。非対称的な関係である。他者がわたしをまなざすや否や、わたしはそれに対する責任として向き合わざるを得なくなってしまう……。

 レヴィナスの発想は、通俗的な我-汝観を破壊する根元的な力を秘めている。

 責任があるのは他者ではなく、他者のおかげで存在できているわたしにある。
 ゆえに、ひとが他者を物のように認識して対象化した場合、そこに暴力が発生する。カントとは筋道が逆転するが、認識そのものが暴力にほかならない。

 レヴィナスにおいて他者とは無限の存在であり、神秘である。
 それをもっともダイレクトに現れているものが「顔」である。
 「顔」は無限の現れである。だとすれば、わたしは、その前において無限に、その倫理的要求を受け容れざるを得ないのである。
 だから「汝殺す勿れ」。
 「顔」がそこにあるから。

 息子さんの寝顔を横にしながら入力。そして傍らには酒。
 眼と眼で父子が向き合ったとき、お互いの無制限な責任を実感する……というか、突きつけられてくる。
 「絶対的に無防備」な器官である「眼」と「眼」が向き合ったとき、ほんものの倫理的要求が発生する。そのことだけは理屈ではなく、からだで実感します。

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寂寥とした光景

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①まずは、「【覚え書】精神と顔」から。

 マザー・テレサの有名な言葉に「愛」の反対とは「敵意」や「憎しみ」ではなく、「無関心」というのがあったと思う。他者に対する無関心や、生きている社会やこれまでの歩みとしての歴史に対する無関心がどうも進んでいるように思えて他ならない。自己への過剰なまでの集中が、おそらくひとをしてそうさせているのであろうが、他者への無関心も、社会や歴史への無関心も、おそらくその最後に行き着くところは、自分に対する無関心として、自分自身へ跳ね返ってくるだろう。

 無関心という名の絶望がこの世を支配している。この種の絶望は人類がこれまでに経験したことのある絶望とは趣を異にする新手の絶望である。装いはドライでクール、やんわりと他者を退けるのが常套手段である。しかも、絶望であるということすら覚知できない上に、悲惨なことだが、そのことがカッコいいと受け取られがちである。
 存在するのはアトム的な閉じた空虚な個室のみ。公共空間を論じれば、視座が国民国家にのみ限定された暴論ばかりで、もはや強靱な個人もしなやかな公共性も皆無である。

 だれも相手の顔をみないのである。顔をみなければ挨拶もなく、言葉が交わされることもない。

 電車のなかで、友達同士が隣り合って座り談笑をかわしている高校生がいた。実に楽しそうに話している。しかし奇妙なことに二人とも、それぞれのIPodのイヤフォンが耳にかけられたまま。音楽が流れながら、やりとりは続いている。どこか奇妙な光景だ。

 だからこそ、いわゆる識者とよばれるひとびとは、教育の再生を活発に議論しているのだろう。しかし、その議論を覗いてみると、道徳教育の必要性がことさらとかれているだけだ。道徳の名のもとで、愛国心や愛郷心が謳われ、伝統文化の復興も議論されている。しかし、その一方では、学校の教育現場に、市場原理主義が持ち込まれ、競争原理に基づく効率や採算性が問われている。

 議論していただくのは大いに結構だ。しかし、何かがバラバラなのである。学校教育のコンテンツが問われることは重要だ。そして、その稼動性が議論されるのも当然だ。しかし、その両者の接点は全くない。また当事者である教育者と被教育者の姿も浮かび上がってこない。

 生命力を衰弱させ、プログラム通りに稼動する機械を作り出すのは教育ではない。イリッチではないが、“工場”である。

 工場は物をつくる。では教育は何をつくるのか。

 教育ということも、私は一種の形成作用と考えることができると思う。彫刻家が彫像を造る如く教育者は人間を形成するのである。形成するということはイデヤによって客観的に物を造ることである、イデヤ的なるものを実現することである。斯くいえば、形成作用ということは主観的と考えられるかも知らぬが、真の形成作用というのは、単に主観的なるものを客観的に現すということではなくして、客観的なるものをして自己自身を現さしめることである。彫刻家の頭の中の想像は直に彫像そのものではない。芸術的創作に当っては如何なる作品ができるかは、芸術家その人も知らない。そこには主客合一の想像作用というものがなければならない。構成するbildenということは引き出すerziehenことである。
    --西田幾多郎「教育学について」、『続思索と体験 「続思索と体験」以後』(岩波文庫、1980年)。

 いうまでもなく教育とは人間を形成することである。人間抜きの議論は、作業仮説に従った空論に堕するであろう。いうまでもなく道徳も必要である。しかし道徳とは、国家が命じて臣民に下す“掟”ではない。カントがいうように、自分が決めて自分自身が自己に対して課す立法である(自律)。人間という生きものは、ときどき破ることがあるが、“法律”というカタチの強制力には、渋々ながらも従うところがある。しかし下された“掟”には従いにくい。根拠がないからだ。しかし恐ろしいのは、下された“掟”が法的強制力を伴い、工場として稼働したとき悲劇が誕生する。おなじように、採算性も重要だ。しかし、それが工場として稼働したとき同じように悲劇が誕生する。

 顔を見る、まなざしをむける、挨拶をする、言葉を交わす--。
 ひとはいつから、その行為を忘れたのだろうか。ひとをみても物としか思わないから、挨拶を交わす必要も、まなざしをむける必要もないと考えるのだろうか。

 寂寥とした光景が迫ってくる。
 ただ、付言するならば、そういうひとは自分自身も物として扱われている事実を忘れてはいけないだろう。

②そして今日の出来事から。
東京は大雪です。昨年とうってかわった冬らしさに、人工都市は大慌て。自然をなめたらあかんぜよ!という感じで、今日の仕事はひたすら雪かき。6時間もかきつづけると筋肉痛です。今日もやさぐれていますので、とっとと酒飲んで、本読んで寝ます。

すこし、乱暴に教育について殴り書きしましたが、子供と接するなかで、(1)自分でものごとを考える、(2)(そしてそのことを)表現する、これをどのように教えるというか、一緒に学んでいくのか、考えています。手っ取り早い方法はまったく存在しませんが、いいアイデアがあれば教えてください。

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西田幾多郎全集〈第10巻〉哲学論文集第六・哲学論文集第七・「続思索と体験」以後 Book 西田幾多郎全集〈第10巻〉哲学論文集第六・哲学論文集第七・「続思索と体験」以後

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【覚え書】精神と顔

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ちよっと忙しいので抜き書から。コメントは後日。

iv 精神と顔
 対話という平凡な事実が、ある経路を抜けて、暴力の秩序からのがれる。この平凡な事実こそが驚異中の驚異なのである。
 語るとは、それは他者を知ると同時に自らを他者に知らしめることである。他者は単に知られるだけでなく、挨拶される。他者は単に名ざされるだけでなく、その助力を求めて呼び寄せられる。文法用語を用いて言えば、他者は名格においてではなく呼格において出現する。私は単に他者が私にとって何であるかだけでなく、それと同時に、いやそれよりも以前に、私が他者にとって何であるのかを思惟する。他者にある概念を当てはめたり、他者をあれこれの名称で名ざすとき、私はすでに他者を呼び求めているのである。私は単に知るだけではなく、関係する。語りかけ(parole)が必然の前提とするこの交易(commerce)はまさしく暴力なき関係である。交易者は、その活動のさなかにおいてさえ、他者の応答を待機するなかで、他者の活動に身をさらしている。語りかけることと聴くことはあわせて一つの挙措であり、いずれが先ということは言えない。語りかけることはこうして対等という道徳的関係をうちたて、その結果、正義とは何かを知るに至る。ひとはたとえ奴隷に向かって話しかけているときでさえ、対等の者に向かって話しかけているのである。語られたこと、伝達された内容は、他者が知られるより咲きに対話者としてすでに座を占めているこの顔と顔とを向き合わせた関係を介してしか語られることも伝達されることも不可能である。私は私をみつめるまなざしをみつめ返す。まなざしをみつめ返すこと、それは自らを放棄せぬもの、身を委ねぬもの、私を直視するものをみつめることである。顔(visage)を見るとはこのことをいう。
 顔とは鼻や額や眼の集合体ではない。たしかにそういった要素から成ってはいるが、ある存在を知覚するときに、顔が開く新しい次元を通じて、顔は新しい意味を帯びる。顔によって存在はその形式のなかに封じ込められ、物のように扱われるばかりでなく、自らを開き、深みのうちへ身を置き、この開かれ(ouverture)において、ある種の個人的な仕方で自らを顕現する。顔は存在がその自己同一性(identite)において自らを顕現することのできる還元不能の一モードである。物とは決して個人的に自らを還元しないもの、すなわち自己同一性をもたぬものをいう。物に対して暴力は揮われる。暴力は物を自分の思うように扱い、物をつかまえる。物にはつかまえる手掛りがあり、顔を示すことがないからである。物とは顔のない存在である。芸術が探求しているのはおそらく物に顔を与えることなのであろう。そしてそこに芸術の偉大さと虚構とが存在している。
    --エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)『困難な自由--ユダヤ教についての試論』(国文社、1985年)。

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やさしさに包まれたなら 

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小さい頃は 神様がいて
不思議に夢を かなえてくれた
やさしい気持ちで 目覚めた朝は
大人になっても 奇蹟は起こるよ

カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目に写る全てのことは メッセージ

小さい頃は 神様がいて
毎日愛を 届けてくれた
心の奥に しまい忘れた
大切な箱 開くときは今

雨上がりの庭で くちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目に写る全てのことは メッセージ

カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目に写る全てのことは メッセージ
    --松任谷由実(荒井由美)「やさしさに包まれたなら」(1974年)。

木曜日。
市井の仕事をおえると、若いバイト君たちと、軽く飲みにゆき、その足で、1時間だけカラオケへ。カラオケへいくのも久し振りで、唄うのも久し振り。

唄うっていうことは、ただ声をだすことではなく、全身全霊で想念を言葉に変換させ、メロディーを奏でる全体運動だと実感。思えば、ひとが文字(書き言葉)と出会う以前、唄にのせた言葉が代々受け継がれ、神話や伝承、そして教典を後世に伝えてきたものである。唄うとはなんと神聖な人間にしかできない“行い”であると実感する。
たった1時間でしたが、ここちよい疲労が精神を快活にさせる。日常のストレスも少しは緩和されたようです。

30代オーバーの人には、ひょっとすると、自分の1曲を持っているだろうと思われるのが、ユーミン(松任谷由実/荒井由美)の唄だろうと思います。
久し振りに歌ってきました。おっさんのユーミンでは、ユーミンに失礼かもしれませんが、ユーミンの唄には、今の歌にはない新鮮な響きと言葉の重みが存在することを実感します。

さて、「目に写る全てのことは メッセージ」です。
人間は両眼を見ひらいて、正確な視覚を手に入れる。片目をつぶってしまえば、距離感が失われ、対象へ手を伸ばすことも不正確となってしまう。しかし、「目に写る全てのことは」必ずしも「美しいもの」ばかりではない。不正や虚偽、悪徳や醜悪も目に写るのがこの世の中だ。目をつぶろうと思えば瞑ることは可能である。しかし、それでは、「全てのこと」を「メッセージ」として受け取ることは不可能だ。

なんども日記で書いてきたが、「人間という生きものは、悪いことをしながら善(い)いこともするし、人にきらわれることをしながら、いつもいつも人に好かれたいと思っている……」(池波正太郎「谷中いろは茶屋」、『鬼平犯科帳 (2)』(文春文庫、2000年))矛盾した生きものである。しかし、その矛盾を直視したとき、「やさしに包まれ」「目に写る全てのことは メッセージ」になるのではなかろうか。シャウトしながらそう考えたわけです。

このことは、人間の心根の部分にだけ限られた問題ではない。思考に関しても同様である。飛躍のようだが一つ引用しよう。

 こんにちの心の哲学がほかならぬ心の存在の問題で行きづまっているのは、簡単にいえば、心のための「場所」をみつけることができないからである。すべて存在するものはどこかに存在するはずであるから、心あるいは精神についても、それが存在することを明確に理解し、説明することができるためには、それが存在する「場所」についてのはっきりした理解が必要とされる。ところで、心がそこに存在する場所とは、目で見たり、手で触れたりすることのできるものが「そこに」存在するといわれる場所--我々が通常「場所」という言葉で考えているもの--と同一ではありえない。だから、そのような「場所」についてのはっきりした理解に到達するためにはとくべつの思考訓練がどうしても必要である。いいかえると、心のような目に見えないものが「そこに」存在するといわれる場所について正しく考えるためには、目に見えるものについて考えたり、語ったりする場合とは違った「心の習慣」を身につける必要がある、といえるであろう。
    --稲垣良典『天使論序説』(講談社学術文庫、1996年)。

近代合理主義と啓蒙思想は、まさに「理性」と「経験」という「オッカムの剃刀」で、すべての場所を整理し、効率よく稼動する社会、機械、制度を樹立し、その試験液の審査にもれた存在を闇へと追いやった。しかし、その光も闇も人間自身に巣くうものである。
洋の東西を問わず、古来、心は、物体的な肉体的器官に還元されることなく、ひとびとの生活とともに存在してきたが、近代以降、そうした陰の部分は、切り落とされ、新たな存在場所が模索されたが、いまだにその場所を措定することは難しい。
宇治家さんは、別にそうした営みを揶揄したり、そうした知的営みを排撃したりするのが目的ではない。十分に研究が進むのであれば、すすめばよい。ただ、非物質にも還元できないし、物質にも還元できない中間項が人間には存在するのではないのか、またそれに見合った思考方法があるのではないのか、そう思わざるを得ないのである。そしてそれは、最新の現代的な学知と併存できるものではないのか--ただそう思うのである。なぜなら、その両者とも人間の営みにほかならないからだ。明晰さと曖昧さ--この両者を兼ね備えているからだ。それが知的・精神的営みとしては、信仰と学問、科学と宗教というカタチで、存在しているだろうと思われる。信仰と学問、科学と宗教は極端な対立項ではなく、相互補完的な人間の真実である。

飲みながら書くと依然として飛びまくってるなアー、と思いつつ、論文と違ってこう流し書きできるのもひとつの「思考訓練」と思ってご容赦くださいな。

Youtubeでの「やさしさに包まれたなら ~ ユーミン 」はこちらから

Youtubeでの「植村花菜 - やさしさに包まれたなら」はこちらから

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Tennsironn

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熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる

Schopenhauer P1020542

よみ人しらず
ふる雪はかつぞけぬらし あしひきの山のたぎつせ音まさるなり
    --佐伯梅友校注「巻第六 冬歌(319)」、『古今和歌集』(岩波文庫、1981年)。

今日も東京は昼過ぎから雪。
古今集で詩われているような「かつぞけぬらし」な雪で、降るそばから消えてしまう。積もりませんが、舞い散る白い花は美しい。

今日は、ようやく短大のレポートの採点が終わり、成績付け完了する。
60通程度のレポートですが、一気に読むとさすがに疲れます。
ただ、これぐらいの量だと一度に読んでから、改めて採点した方が公正をきせれますので、いつもそうしています。
ただ、実感するのは、参考資料がWebだけというレポートの増加です。いつもかならず書物の文献資料を当たるようにと指導するのですが、年々書物だけの資料で書き上げたレポートの量は減っています。
資料としてのWebは確かに便利で、引用もたやすくなる反面、公的サイトを除き、内容を保証する基礎付けがまったく存在しない。思わぬ落とし穴があるのも事実である。
Webの資料を使うな!とはいいませんが、できるだけ文献資料(本)を使ってもらいたいものです。
また、一番困るのが、最初と最後だけ自分の言葉に変換し、内容はてにおはだけを変えて、そのままインターネットのサイトから丸写しのレポートです。こういうものは一読すると、読み手は一発で見抜きます。
みなさんもレポートを書く上では注意されるとよろしいです。

いずれにしましても、履修された方、みなさんご苦労様でした。

さて--
レポートの話から、文献資料、すなわち本の話題がでましてので読書の話でも。
高校時代、夏休みの読書感想文での推薦図書の一冊としてリストアップされていた書物に、アルトゥル・ショーペンハウアー (Arthur Schopenhauer)の『読書について』(岩波文庫)という作品がありました。たしか高校二年のとき、そのショーペンハウアーなる人物がいかなる人物なのか知ることなく、とりあえず、“本の厚さが薄いから!”という単純な理由で手を伸ばした一冊です。
ショーペンハウアーは、近代ドイツを代表する哲学者で、カントとインドのウパニシャッド哲学から影響を受け、世界は自己の表象であり、世界の本質は生きんとする盲目の意志である!と説いた人物です。
そう紹介してしまうと、なんだか小難しそうなおっさんだなとおもわれるかもしれませんが、『読書について』という一冊は、いわば箴言集のような本ですので、どこからでも読むことの出来る一冊であります。ただ、彼の肺腑から語られた言葉のひとつひとつは寸鉄身に帯びるではありませんが、逆説的な鋭利な寸言がたくさん納められています。

今日はそこからひとつ紹介します。

 読書は他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の実状である、。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。なぜなら、暇さえあれば、いつでもただちに本に向かうという生活を続けて行けば、精神は不具廃疾となるからである。実際絶えず手職に励んでも、学者ほど精神的廃疾者にはならない。手職の場合にはまだ自分の考えにふけることもできるからである。だが、発条(ばね)に、他の物体をのせて圧迫を加え続けると、ついには弾力を失う。精神も、他人の思想によって絶えず圧迫されると、弾力を失う。食物をとりすぎれば胃を害し、全身をそこなう、。精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。つまり精神は、たくさんのことを次々と重ねて書いた黒板のようになるのである。したがって読まれたものは反芻され熟慮されるまでに至らない。だが熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。書物は食べることによってではないく、消化によって我々を養うのである。それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。しかし一般に精神的食物も、普通の食物と変わりはなく、摂取した量の五十分の一も栄養となればせいぜいで、残りは蒸発作用、呼吸作用その他によって消えうせる。
 さらに読書にはもう一つ難しい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。
    --ショウペンハウエル(斉藤忍随訳)『読書について 他二篇』(岩波文庫、1983年)。

もちろん、読まないより読んだほうがいい。そして読むなら古典名著とよばれる良書から手を出すべきだ。しかし、読むなら読むでどう読むのか、一つの参考になると思います。
書物を消化し、栄養として吸収し、そして自分の目を用いて、歩みたいものです。

さて最後に風呂敷の話でも(いつも話に脈絡がなくて済みません!)。
宇治家さんは、実は風呂敷愛好家で、カバンに一つは入れております。常用の風呂敷が子息さんによって破壊されてしまったので、一枚新調したのが、本日届いた。
幸い、今回の無駄な出費(?)は、細君にはバレずに済んで、配達も細君の留守中で幸いでした。見つかるととかくうるさいので--。

さて今回の一枚は、納戸色が美しい加賀白山紬で、かつては釘にかけて引っ張っても破れないほどの強さを持ったことから釘抜き紬とも呼ばれていたとか。
実用と美しさを兼ね備えた一枚です。今度は、破壊されないように、使い続けようと思います。

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ロシアへ行く!

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 目当ての杵屋(きねや)は切見世の並ぶ通りのどんづまりにあって、かつ江が歩いてゆくと、日中もしだらない姿の女たちがそこここから凝視した。あからさまな視線が、同じ中身にもいいものを着て取り澄ましている女への嫉妬であることをかつ江は肌で知っていた。彼女はいかにも知った世界だというように平然としながら、それとなく目を配ったものの、自分より男を惹き付けそうな女は見当たらなかった。だいたい女が嫉妬しない女に男が夢中になるはずがないのだった。自堕落を売りものにして、ましな暮らしを手に入れた女を彼女は知らない。
 似たような身の上にありながら女が一生の浮き沈みを分けるのは、男が才覚と運とで貧富に分かれてゆくのと違わない。杵屋のうらがいい例であった。彼女は飛び抜けた器量よしでもないのに二十五のときにどこが気に入ったのか身請けする男が現われ、以来商才を尽くして、いまでは自分が娼家の主となっていた。彼女にあって女郎にないのは欲ではなく、巧みに運を掴み取る知恵と気力であった。歳はもう四十を過ぎたはずだが、うらは並の町女房とも違い、いまでも人生の盛りを生きているような瑞々(みずみず)しさを感じさせる。肌を磨いて高価なものを身につけるわけでもないのに、表情には艶(つや)があって若々しい。
 「生きるのが商売だから」
 とうらは軽く言ってのけた。
    --乙川優三郎「芥火(あくたび)」、『夜の小紋』(講談社文庫、2007年)。

起きてしまった。

昨日市井の仕事が済んで、仮眠程度、横になって、起きると、本日は、勤務先の短大の入学試験。試験監督のため、朝から八王子へ。

倍率8倍。少子高齢化が進むなかで、大学淘汰が始まった昨今、これだけの受験生が集まるのは、嬉しいことである。
みんな合格させたいが、そうもいかないのがつらいところ。
前提として、機械的な試験だけで、学力は判断できないと思う。
本来は、学力を含めたその人格がふさわしいのか否か、トータルに判断すべきなのだが、そうしたジレンマと憤りをもやもや感じつつも、受験生を見守る。

終了後--
「おちる人もいるだろうが、受験したということは生命に刻まれている。それだけもう短大生です」(趣意)との創立者から伝言が受験生に届く。

いい大学で教鞭を執らせていただいていることを今更ながら実感する。
ただ、受験生も疲れたでしょうが、試験監督も疲れました。

いずれにしましても、受験生のみなさん。お疲れさまでした。
四月には短大で待っています!

さて試験監督業務が終わると、本日幼稚園がお休みのため、細君と子息さんが、大学の隣の美術館まで出てきていたので、合流し、『国立ロシア美術館展』(東京富士美術館)を鑑賞する。

大好きなアイヴァゾフスキー(Иван Константинович Айвазовский)の海洋画を食い入るように鑑賞する。

19世紀以降の絵画といえば、フランス中心となるが、ロシア絵画もなかなかどうして、隅に置けない。まるで、文学や社会思想がそうであったように、常に帝室とともにあった画壇が民衆や自然へその視座を向けていくのが、近代ロシア美術の歴史である。

やはり本物はいい!

子息さんも朝から今日は「ロシアへ行く!」(国立ロシア美術館展へ行くの意味)と興奮していましたが、4歳児も4歳児なりに堪能していました。バーチャルメディアが気楽に家庭を席巻していますが、やはり本物は本物。小さな頃から本物に触れさせるのは大切だと実感しつつも、館内で大騒ぎせず一安心。

ロシア美術館の名宝に圧倒されたあと、家族で軽く夕食。
ウィークデイの夕方5時の居酒屋には客はだれも存在しない。貸し切り状態で、湯豆腐で一杯。帰宅後は、布団に吸い込まれるように就寝です。

で……。
起きてしまった。

早く寝過ぎたのがいけなかった。
さあ、これからどうするか--。

とりあえず、本読んで、もう1回飲んで寝ます。
何故ならば、「生きるのが商売だから」。

3

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やさぐれ参去……「タイヤ交換」

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タイヤ交換
     ブレヒト
ぼくは道端にしゃがみ、
運転手はタイヤを換える。
出てきたところにもいたくない。
今から行くところにもいたくない。
なのにどうしてタイヤ交換を見ているのだろう、
いらいらしながら。

Der Radwechsel
              B.Brecht
Ich sitze am Straßenrand
Der Fahrer wechselt das Rad
Ich bin nicht gern,wo ich herkomme.
Ich bin nicht schaden,wo ich hinfahre.
Warum sehe ich den Radwechsel
Mit Ungeduld ?
    --生野幸吉・檜山哲彦編『ドイツ名詩選』(岩波文庫、1993年)。

どうも、宇治家参去です。
最近、やさぐれており、どうも疲れます。
市井の仕事へいくと、日勤の人間は、夜間スタッフへ仕事を山積みにしてフェードアウト。
テンパッた管理職も、仕事をてんこ盛りして、宇治家さんの出勤を待っている。
そして、八つ当たりの連続……。
会社にせよ、何にせよ、人間という生き物が集まった共同体には、人間を守りはぐくむ側面もたしかに存在するが、動物としての側面も臆面もなく見せてくれる。

死ぬまでそこで働くつもりもない分、気が楽と言えば楽なのですが、そこをうまく利用されているといえば、利用されている側面もあり、なんでも投げられる毎日です(ま、その分、必然的に、ほかの同僚よりは何でもできるようになってしまいつつありますが)。

同苦してくれるバイト君からは、「宇治家さん、キレてください!」と再び諭されるが、まあ、キレても問題は解決しませんので、宇治家さんが在職中は、わたしが被って、うまくまわしていこう!と、ある意味で、腹をくくって仕事を続けています。ただ実感するのは、人材育成を放棄した・軽視した会社はドン詰まりですね。

とはいえ、今言ったとおり、別にキレようとか、何しようとかは思いませんが、やさぐれながらも、“したたかに”“しなやかに”生きていくしかありません。

細君や子息さんにこうした話をしても始まりませんし、こうつづりながら、思索を整理して、あまりそちらに引きずられないようにしながら、本業の資料をぱらぱらめくり、論文を書き続けていくしかありません。

そうした意味で、今ずしんときているのがB.ブレヒトの言葉です。ブレヒトといえば、『三文オペラ』とか『屠殺場の聖ヨハンナ』の作者として有名で、ナチの迫害から亡命生活を余儀なくされ、晩年は、思想的立場から東ドイツを終の棲家とした文学者です。

冒頭に、「タイヤ交換」という不思議な詩を引用しました。

進めば地獄、退くも地獄であったとしても、立ち止まっているとイライラする……。

とりあえず、本日は、勤務先の短大の入学試験で朝一番で八王子。
さっさと酒飲んで、本読んで寝ます。

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寒い深夜は“小鍋だて”

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 東京は、日曜の深夜から大雪。ただし、積もりそうな雪ではないので、降った時間の割りには、つもりが浅い。
 久し振りの雪なのですが、子供は喜ぶかと思いきや、寒いのが面倒で大してよろこばず。東京でふるのは珍しいので、細君を促し、公園まで遊びに行かせました。
 やはり現金なもので、到着すると細君と雪合戦を楽しみ、不思議な雪ダルマをつくって帰ってきた。家の中まで雪だるまを持ち込みそうになりましたが、本人曰く、ウルトラマンタロウに出てくるなめくじ怪獣ジレンマ(第6話『宝石は怪獣の餌だ!』)とのこと。
 ただ申し訳ないのは、宇治家参去さんが夕方の出勤時、誤って自転車で轢き殺してしまったこと。本人には溶けたといっておこう。

 さて、本日は、市井の職場は一番忙しい日曜日。
 本来の業務は、売り場メンテナンスや、人員の配置のマネジメントが中心ですが、本日は雪かきを優先。

 結構、体力勝負の仕事です。ゴム長靴とか防寒靴を履いていたわけではありませんでしたので(ただの革靴)、足先がカチカチ。

 これから、“小鍋だて”で一杯やりながら、凍てついたカラダを溶かしていこうと思います。
 いつも市井の仕事が済んで帰宅するのが二十四時過ぎ。当然、細君も寝ていますので、食事は用意しているにはいるのですが、あまりほしくないときは、自分で簡単な鍋をつくります。それがいわゆる“小鍋だて”。材料もあり合わせで、出汁を張った鍋にぶち込み、煮てはふうふういいながら食べる簡単な男料理です。仕込みも片づけも簡単ですので、この季節にはお薦めです。

 “小鍋だて”と出会ったのは、池波正太郎氏のエッセーから。ちょうどその部分を紹介しますので、みなさま是非、堪能してください!

 三井老人は、私の友人・井上留吉の知り合いで、兜町(かぶとちょう)の小さな現物取引店の外交をしていたが、いかにも質素な身なりをして兜町(しま)へ通勤して来る。どこかの区役所の戸籍係のようで、とても株の外交をしているようには見えなかった。深川の清澄町の小さな家に、二匹の猫と、まるで娘か孫のような若い細君と暮らしていたが、金はたっぷりと持っていたようだ。
 若い井上と私が、六十に近い三井老人と知り合ったのは、長唄の稽古と歌舞伎見物が縁となったのだ。
 三井さんは、私たちにも気をゆるすようになってから、
 「宅(たく)へもお寄んなさい」
 こういってくれ、それから、しばしば清澄町へお邪魔をするようになった。
 三井さんは長唄の三味線もうまかった。それでいて、他人前(ひとまえ)では、決して唄わず、弾かなかった。
 私どもが三井さんの腕前を知っていたのは、稽古へ行く場所がおなじだったからである。
 さて、いつのことだったか、よくおぼえていないが……。
 二月に入ったばかりの寒い夜、私は深川で用事をすませた後に、おもいついて三井さんの家を訪ねた。
 三井さんは、お客のところから帰って来たばかりで、長火鉢の前へ坐り、晩酌をやっていた。
 「ま、おあがんなさい。家のは、いま、湯へ行ってますよ」
 「かまいませんか」
 「さ、遠慮なしに……」
 長火鉢に、底の浅い小さな土鍋がかかってい、三井さんは浅蜊(あさり)のむき身と白菜を煮ながら、飲んでいる。
 この夜、はじめて私は小鍋だてを見たのだった。
 底の浅い小鍋へ出汁(だし)を張り、浅蜊と白菜をざっと煮ては、小皿へ取り、柚子(ゆず)をかけて食べる。
 小鍋ゆえ、火の通りも早く、つぎ足す出汁もたちまちに熱くなる。これが小鍋だてのよいところだ。
 「小鍋だてはねえ、二種類か、せいぜい三種類。あんまり、ごたごた入れたらどうしようもない」
 と、三井さんはいった。(中略)
 小鍋だてのよいところは、何でも簡単に、手ぎわよく、おいしく食べられることだ。そのかわり、食べるほうは、一人か二人。三人ともなると、もはや気忙(きぜわ)しい。
 鶏肉の細切れと焼き豆腐とタマネギを、マギーの固形スープを溶かした小鍋の中で煮て、白コショウを振って食べるのもよい。
 刺身にした後の鯛(たい)や白身の肴を強火で軽く焼き、豆腐やミツバと煮るのもよい。
 貝柱(ハシラ)でやるときは、ちりれんげで掬(すく)ったハシラをちりれんげごと小鍋の中へ入れて煮る。こうすれば引きあげるときもばらばらにはならない。
 これへ柚子をしぼって、酒をのむのは、こたえられない。
 むろん、牡蠣もよい。
 豚肉のロースの細切りをホウレン草でやるのも悪くない。つまり、小ぶりの常夜鍋というわけ。 
 材料が変われば、それこそ毎晩でもよいし、家族も世話がやけないので大いによろこぶ。
    --池波正太郎『味と映画の歳時記』(新潮文庫、昭和六十一年)。

 今日は、ブイヨンの出汁で、豚肉とネギだけで、やってみます。

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【覚え書】自爆女性は知的障害者か=市場のテロ、死者99人に-イラク

あってはならない。

人間は手段ではなく、目的であるはずだ。

どうなっているんだ、いったい。

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http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2008020200267

2008/02/02-17:44 自爆女性は知的障害者か=市場のテロ、死者99人に-イラク

 【カイロ2日時事】イラクの首都バグダッドにあるペット市場2カ所で1日起きた自爆テロで、犯人の女性が知的障害者だった可能性があることが2日までに分かった。また、ロイター通信が同日、警察の話として伝えたところによると、テロの死者は99人に達した。
 同通信によれば、イラク軍報道官は1日、犯人の女性2人はいずれも知的障害者で、女性が身に着けていた爆弾の起爆は携帯電話を使った遠隔操作によって行われたと述べた。

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世界はどこへ行くのか

YouTubeでのMarvin Gaye の What's going on はこちらから

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姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみる

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 “笑う”ということを論じる中で、フランスの思想家アランの話題がでてきたので、市井の仕事の休憩中、『幸福論』を読み直した。
 そういえば、本日は節分。
 我が家も昼間に大節分バトル大会をしましたが、今日は節分関連商材の動向がよかったです。一日一日に意義付けをしながら生きていく上では、季節の行事はうまく機能している。踊らされるのではなく、分かった上で踊るのは賢いあり方だ。

 さて脱線しましたが、アランはいいですね。

 池波風に言えば(繰りかえしネタで恐縮ですが)、次の通りです。

「いいねえ、アランはいつ読んでも男らしくてかっこいい」

 笑いのところも忘れないように、すこし引用しておきます。

 気分に逆らうのは判断力のなすべき仕事ではない。判断力ではどうにもならない。そうではなく、姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。なぜなら、われわれの中で、運動を伝える筋肉だけがわれわれの自由になる唯一の部分であるから。ほほ笑むことや肩をすくめることは、思いわずらっていることを遠ざける常套手段である。こんな実に簡単な運動によってたちまち内臓の血液循環が変わることを知るがよい。伸びをしたいと思えば伸びをすることができ、あくびも自分ですることができる。これは不安や焦燥から遠ざかるためのもっともいい体操である。ところが、いらいらしている人には無関心を真似ることなど思いもつかない。同じように、不眠症になやんでいる人の心には眠る真似をしようという考えなど浮かばないのだ。否、それどころではない。不機嫌という奴は、自分に自分の気持ちを伝えるのだ。だからずっと不機嫌が続いて行く。それを克服するだけの知恵がないので、われわれは礼儀正しさに救いを求め、ほほ笑む義務を自らに課すのである。だからこそ、無関心な人たちのつき合いがあれほど好まれるのである。
    --アラン(神谷幹夫訳)『幸福論』(岩波文庫、1998年)。

 読み直しながら、実感するのがアランとは、理性の王国・フランスを代表する思想家でるにもかかわらず、合理性・啓蒙性といったものが行き着いた果てに提示した、“分断の知”(また言い換えれば啓蒙の弁証法的な野蛮性)とは対極にある“統合の知”を体現した思想家であると実感しました(といっても合理性も決して手放していない)。
 ひとはよく、肉体と精神、気分と理性、本音と建て前--日常生活のなかで、種々立て分けながら、(問題解決にいたらないまま)自分を納得させ、陰にまわっては、「はぁ~」とため息をつきがちです。
 しかし、肉体と精神、気分と理性は対立的に捉えるよりも、統合的にとらえる方が価値的で真実に近いのではないか--その相互作用こそ難局を切り開く処方箋にほかならないのでは--実感させられたというよりも、誓約的なアランの決意が圧倒的な迫力をもって迫ってきました。

「ほほ笑む義務を自らに課す」ことこそ「克服するための知恵」。

ウマイことをいいます。

さて、最後に、気になる一文があったので、ながくなりますが、もう一つ紹介します。

87 克服
 ある人が幸福を求める。するとたちまち彼には幸福を見つけることができないという宣告がなされてしまう。それはふしぎなことでもなんでもない。幸福はあのショー・ウィンドーに飾られている品物のように、人がそれを選んで、お金を払って、持ち帰ることのできるようなものではない。そういう品物はよく見ると、ショー・ウィンドーのなかでも自分の家のなかでも同じように青いものであったり赤いものであったりする。それに対し幸福は、人がそれを自分の手の中に入れなければ幸福ではないのだ。幸福を世界の中に、自分自身の外に求めるかぎり、何ひとつ幸福の姿をとっているものはないだろう。要するに、幸福については、論理的に推論したり予見したりすることができないのだ。今、幸福をもっていなければならない。君が将来幸福であるように思うとしたら、それはどういうことかをよく考えて見たまえ。それは今、君はすでに幸福を持っているからだ。期待を抱くこと、それはつまり幸福であるということなのだ。
 しばしば詩人たちは物事を説明するのがへただ。なぜなのか、ぼくにはよくわかる。音節や韻を合わせることがかなりむずかしいので、どうしてもありふれた考えから出ることができないのである。詩人たちはこう言う。幸福ははるかなところにあるかぎり、将来にあるかぎり、すばらしいものに見えるが、幸福をつかんだとき、それは何らいいものではない。まるで虹をつかまえたい、あるいは手のひらで泉の水をすくいたいと思うようなものだ、と。しかし、この言い方は大ざっぱすぎる。幸福は追い求めることはできない、ことばだけでそれをやるのは別だが。自分の周りの幸福を求めている人が滅入ってしまうのは、それがほんとうにほしいという気がまったく湧かないからである。トランプ遊びをすることにぼくはまったく関心がない。トランプをやらないからだ。ボクシングやフェンシングも同じだ。音楽だって同じく、最初のさまざまな困難を乗り越えた者でなければ楽しむことができない。読書だって同じ。バルザックのなかにはいり込むにはかなり勇気がいる。最初はバルザックに退屈するからだ。怠惰な読者に見られるしぐさは、なかなかおもしろい。まず本のページをぱらぱらとめくる、数行読む、そして放り投げる。本を読む楽しみはあらかじめ推しはかることがまったくできない。それは経験豊かな読書家でさえも驚くほどだ。学問は遠くから眺めていてもおもしろくない。学問の世界にはいり込むことが必要だ。始めは無理にやらねばならないこともある。乗り越えねばならないものはいつもある。仕事を規則正しくすること、そして困難を、さらなる困難をも乗り越えること、これがおそらく幸福に至る正道である。そして、行動が共有される時、たとえばトランプ遊びのなか、音楽のなか、戦争のなかにおいて、そこで初めて幸福は生き生きと輝くのである。
 しかし、「自分からやる」「根気よく続ける」「困難を乗り越える」という同じ符牒(しるし)をやはり持ちながらも自分一個の域を出ない幸福もある。たとえば、守銭奴や収集家の幸福だ。それに、この二種類の人たちは類似点が多い。とりわけ守銭奴が古い金貨に執着したりすると、貪欲が悪徳とみなされるのはなぜか。一方では、店のショー・ウィンドーのなかに七宝や象牙、名画、稀覯本などを並べている人がむしろ感心されるのに--。守銭奴は自分の金貨を他の楽しみと変えようとしないといって笑われる。でも、本の収集家だって本をよごしたくないのでまったく読まない人がいる。本当の意味では、これらの幸福は他の幸福と同じように、遠くから見てそれを味わうことのできるものではない。切手の好きな切手収集家がそうだ。ぼくには、それが全然わからない。同じく、ボクシングの好きなボクサー、狩猟の好きなハンター、政治の好きな政治家もそうだ。自由な行動だから幸福なのである。自分で規則をつくりそれに従っているから幸福なのである。一言でいえば、サッカーであれ学問研究であれ、規則を認容しそれにしたがうから幸福なのだ。そしてそういう義務は遠くから見るかぎり、おもしろくない。それどころか不愉快なものだ。幸福とは報酬など全然求めていなかった者のところに突然やってくる報酬である。
        一九一一年三月一八日
--アラン(神谷幹夫訳)『幸福論』(岩波文庫、1998年)。

 この一文を読むと、カントが妙にリアルになってきました。カントは道徳を論ずる中で、人は自らに道徳を課すことによって自律し、自由になる、と説き、『実践理性批判』のなかで、「道徳は本来、われわらがいかにしてわれわれを幸福にするかという教えではなく、われわれがいかにして幸福にふさわしくなるべきかという教えである」と語りました。
 アランとカントの関係に関して勉強不足といいますか門外漢なのでわかりませんが、カントが、己を見つめ直しながらドイツ語で峻厳にといた崇高な道徳哲学は、フランスでアランによって、ひとつの具体性をもったものとして立ち上がったのか?そう感じる部分が多々ありました。

 カントはさておき(カントさんごめんなさい!)、いずれにしましてもアランの文章は読みやすく、フランス語で読んでも美しい文章です。関心のある方は是非!

 ま、いずれにしましても、「自分からやる」「根気よく続ける」「困難を乗り越える」こと以外には正道はなさそうです。

 とりあえず、明日もあさっても仕事は山積みですので、このへんで酒でも飲んで寝ます。

 おやすみなさい、お月さま。

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子息との対話<笑い>

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 休日は所用がないと、細君は起こしてくれない。
 放置プレイのあげく、起きたのは14時。
 夕方から、後輩のライブに行こうと思っていたが体調不良で断念。その時間を、テスト採点の時間に当てる。前回の休日で、通信教育部の成績をつけ終わり、後回しにしていた短大の試験の採点にとりかかる。試験の内容確認はなんとか終わるが、レポートの確認まで手が回らず。いつもながら、ぎりぎりまで残しておく自分にあきれかえってしまうが、いずれにしましても、試験を受けられた皆さんご苦労さんでした。

 正直に言えば、うけてもらったひとすべてにA評価をつけたい。なぜなら、哲学も倫理学もペーパー試験で、そのひとの哲学・力や、倫理学・力を計測するコトなんて不可能だからだ。ただし、大学という制度の壁は、段階的評価という壁として採点者に要求する。授業をやるよりも一番体力・気心を消耗するのが成績評価です。

 ただ、ペーパー試験で評価がつけにくい分、評価はかなり甘めにしてはいるのですが、哲学とか倫理学という学問は、そもそも教室だけで完結する知的営みとは全く無縁な学問であるが故に、教室から出た後の、それぞれの生活の現場で、「深く強く考え、そうした考えたことをひとと摺り合わせていく」という実践をされんことをこころより祈るのみ。

 さて、そうした次第で、今日は、久し振りの休日なので、息子さんと入浴する。幼稚園年少さんだが、いろいろとしゃべるようになった。そのしゃべりを宇治家参去さんがまねと、無邪気に笑ってくれる。ふだんより、長く入ったためか(一緒に入るといっても月3-4回程度)、浴室をあとにするとすぐに眠り込んだ。

 笑う--とはいいことですね。いつまでもお互いに笑いあえる一家でありたいものです。

 さて、笑いと言うことに関して哲学者アンリ・ベルクソンは、そのままズバリ『笑い』という著作を遺していますのそこからひとつ。

 まず、我々が注意を喚起したい第一の点はこうである。固有の意味で人間的であるということをぬきにしてはおかしみのあるものはない。景色はきれいだとか、風情があるとか、崇高だとか、とるに足らぬとか、あるいは醜悪だとかいうことはあるだろう。が決しておかしいということはないであろう。人は動物を笑うことはある。けれどもそれは動物に人間の態度とか人間的な表情をふと看取したからであろう。人は帽子を笑うことがある。けれどもそのとき人が嘲弄するのはフェルトとか麦藁とかの品などではなくて、人びとがそれに与えた形であり、帽子に型を与えた人間的気まぐれである。そのように重要な事実が、単純至極だのに、どうして哲学者たちの注意をそれ以上惹かなかったのだろうか。多くの人たちが人間を<<笑うことを心得ている動物>>と定義した。彼らは同様にまたそれを人を笑わせる動物と定義することもできたであろう。なぜなら、たとい他の或る動物なりあるいは何か無生物なりが首尾よく笑わせえたとしても、それは人間との類似によって、人間がそれに刻みつけたしるしによって、あるいは人間がそれについてした使用によってであるからだ。
    --ベルクソン(林達夫訳)『笑い』(岩波文庫、1976年)。

 笑うってココロにもカラダにもいいゾ!
 ただ、喘息もちには、笑いすぎるとチトツライ。

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内在する暴力と聖性

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 ようやく1月も終わりです。
 早いものですが、元旦に決めた決意や目標に対して、今の自分がどうなのか--見直す月末の到来です。まだまだ自分の目標に対する食らいつきの弱さを実感しつつ、それでもなお、進まざるを得ない、そして進んで行かざるを得ないことを実感した月末です。次の1ヶ月は、好転できる日々にしていきたい--そんな実感の宇治家参去です。

 年頭より、時々風邪をひいてはツライ思いをしていたのですが、このところ2-3年ぶりに喘息が再開、花粉の飛沫も多く、チト大変ですが、アタマとココロははっきりしているので、まだいいほうでしょうか--。

 今日は、市井の仕事で、ずっーとペンキ塗り。店長からやる人間がいないからやっとけ!とのこと。喘息+花粉症の身としては大変なところですが、ペンキの塗り方を初めて教わり、それはそれでプラスになったのかなアと。乾いてから2度塗りするのがベストですね。

さて、休憩時間に久し振りに、内田樹氏(神戸女学院大学教授)の著作をぱらぱら読む。内田氏は、日本にエマニュエル・レヴィナスをいちはやく紹介した人物で、数々の文化論やエッセーを著していますが、内田氏の著作との出会いは、レヴィナス経由ではなく、エッセー風時事批評(『ためらいの倫理学』(角川文庫))が最初でした。読み進めるうちに、ああ、この人が訳していたのかと後から回路が接続された人物ですが、読んでいますと、痛快でおもしろい。ただ、最近多産なのはよいが、若干、急ぎばたらきの気があるかなと思って、近著は読んでいなかったのですが、小林秀雄賞受賞の『私家版・ユダヤ文化論』は読んでおかないとなと思っていましたので、紐解いてみました。

基本的には、私家版とあるとおり、内田氏のものの見方からの「ユダヤ論」(なぜユダヤ人は迫害されるのか)ですが、教科書的な単なるユダヤ文化論とは趣を異なります。いわば、ユダヤ論を語りながらも、その奥底には自己と世界、そしてその両者の理解を深める内田氏の視点がそこには満ちあふれています。

最近、どうして人間はすべてを単純化し、あれか・これかと分断していくのか--そういうことをつくづく考え、授業でも話したりしますので、読みながら、共感した部分が多々ありました。白黒が単純に分断できるケースも世の中には存在するが、それは実は希なケースではないのかと。自己が自己に対して、事象を単純化させ、自己を納得させ、力強く歩んでいくのは、賞賛されてしかるべきあり方だと思いますが、自己が他者に対して、複雑な事象を自己の観点から単純化させ、そしてそれを一方的に語り始めると、暴力になってしまうケースが多いのではないのか--そう思うことが多いです。
いわく……。

 生来邪悪な人間や暴力的な人間や過度に利己的な人間ばかりが反ユダヤ主義者になるというのなら、ある意味で私たちも気楽である。そんな人間なら比較的簡単にスクリーニングすることができるからだ。その種の「悪人」だけに警戒の眼を向けていれば破局は回避されるだろう。
 しかし、私が反ユダヤ主義者の著作を翻読して知ったのは、この著者たちは必ずしも邪悪な人間や利己的な人間ばかりではないということであった。むしろ、信仰に篤く、博識で、公正で、不義をはげしく憎み、机上の空論を嫌い、戦いの現場に赴き、その拳に思想の全重量を賭けることをためらわない「オス度」の高い人間がしばしば最悪の反ユダヤ主義者になった。
 単純な「反ユダヤ主義者=人間の皮をかぶった鬼畜」説によりかかっていれば、たしかに歴史記述は簡単になる。しかし、そこにとどまっていては、今も存在し、これからも存在し続けるはずの、人種差別や民族差別やジェノサイドの災禍を食い止めることはできない。
 「反ユダヤ主義者の中には善意の人間が多数含まれていた」という前提を平明な事実として受け容れて、そこから「善意の人間が大量虐殺に同意することになるのはどのような理路をたどってか」を問うことの方が、「大量虐殺に同意するような人間は人間以下の存在である」と切り捨ててしまうよりも思想史研究の課題としては生産的だろう。
 反ユダヤ主義者のことを考えるとき、靖国神社に祀られているA級戦犯のことを連想することがある。東條英機以下の戦犯たちを「極悪人」であると決めつけることを終わりにする人々に私は与しない。また、彼らの個人的な資質や事績をの卓越を論(あげつら)って、「こんなに立派な人物だったのだから、その遺霊は顕彰されて当然だ」と主張する人々にも与しない。むしろ、どうして「そのように『立派な人間』たちが彼らの愛する国に破局的な災厄をもたらすことになったのか?」という問いの方に私は興味を抱く。
 彼が善意であることも無私無欲であることも頭脳明晰であることも彼が致死的な政治的失策を犯すことを防げなかった。この痛切な事実からこそ私たちは始めるべきではないか。そこから始めて、善意や無私や知力とは無関係のところで活発に機能しているある種の「政治的傾向」を解明することを優先的に配慮すべきではないか。私はそのように考えるのである。
    --内田樹『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書、2006年)。

以下、少し書き殴っちゃいます。

 確かに、スターリンやヒトラーのような“わかりやすい”大悪人も一方では存在するが、歴史的に、そして人類の人口比的な統計の観点から見直すならば、わかりやすい“大悪人”が存在するケースは希である。むしろ、善意の人間が、いじめを発動したり、暴力を発動したり、殺人をおかしたり、そして、虐殺に荷担してしまったりする場合の方が圧倒的に多いのだろう。振り返ってみれば、ホロコーストを立案したのは、一部のナチ・エリートかもしれない。しかし、収容所を建設し、ユダヤ人を運ぶ機関車の路線や運行時刻を綿密に計算し、高度にシステマティックに運用させたそこ力は、号令をかけたヒトラーではなく、ふつうのドイツ人のおっさんであったり、おばさんであったはずだ。これは別にドイツに限定されたことではない。日本でもかつての過ちが存在し、現在でも世界のどこかでその過ちが現在進行形で稼動し、まわりを見渡すと、自分自身の中でも稼動している。

 ものごとを単純に善か悪か、正か非か--単純に建て分けられる部分ももちろん存在するが、こと人間の問題に関しては、そう事態は単純ではない。
 人間という存在自体が矛盾に満ちた存在であり、そうした具体的な名前をもった人間が形成した社会だからこそ、矛盾が存在する。何も、その矛盾を肯定し、個人や社会に存在する矛盾を甘受せよ、そういうつもりは毛頭無いし、悪を責めることは重要だ。悪を責めなければ善が滅ぶのも歴史を振り返ってみれば簡単に理解することができる。

 要は、その矛盾に目をそらしたり、あれかこれかと単純に分断するのではなく、そうした実情を自覚して、そこからどう手をうっていくのか--そう考えていく方がより生産的ではないか、そう思わざるを得ないのです。

 人間とは矛盾に満ちた存在であり、その人間の生の実存は複雑怪奇で、本来は一様に単純化なんてできないのだと思われる。しかし、ひとは単純化せざるを得ない。早急に答えに手を出したい。しかし、そんな答えは薄っぺらで生きた人間には通用しない戯れ言にすぎないのでは無かろうか。

 たった一人の人間のなかには善い心も存在すれば、悪い心も存在する。おそらくどちらかの純度百パーセントの人間なんて存在しないのではなかろうか。だからこそ、どういうかたちで善なるものを薫陶し、悪なるものを制御していくのか--そこが課題になるのだろう。そして併せて付け加えれば、一人の人間におけるそうした自覚と薫陶とともに、他者、共同体、世界という関係において、どのように問題と関係を結んでいくのか、そうした、いわば個と共同体の二重の側面を絶えず吟味しながらすすみ続けるしかない。

複雑なことは複雑なまま、受容するしかない。複雑なことを単純化という鉈で切り刻んでしまうと、実は重要なことが切り落とされ、不要なことだけが残ってしまう。そしてひとは不要なことを議論して、本題に入れない。そういう部分があるのだろうと思います。

ひょっとすると、人間が人間を正しく理解するとは不可能なのかもしれない。そのときどき、ときどきにおいて、全体性のうちの数パーセントしか見ていないのかもしれない。結果として十全な理解は不可能だとしても、そうであることを把握してひととひとが向き合えば、おそらく、すこしは幸せな関係を今より結びあえるのではないでしょうかね。

※くどいようですが、悪を肯定しようとか、現状の不満足を甘受せよ、耐えよととくつもりは毛頭ありません。ただ、ひとはものごとやにんげん自体を単純化するだけでは、“ほんとうのこと”に近づけないのではないか、そう思わざるを得ないから、こう書いてみました。飲みつつの、書き殴りで理路整然としていない部分がありますので、すいません。
ちょと堅い話が続いているので、こんどはやんわりと行きますね。

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