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熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる

Schopenhauer P1020542

よみ人しらず
ふる雪はかつぞけぬらし あしひきの山のたぎつせ音まさるなり
    --佐伯梅友校注「巻第六 冬歌(319)」、『古今和歌集』(岩波文庫、1981年)。

今日も東京は昼過ぎから雪。
古今集で詩われているような「かつぞけぬらし」な雪で、降るそばから消えてしまう。積もりませんが、舞い散る白い花は美しい。

今日は、ようやく短大のレポートの採点が終わり、成績付け完了する。
60通程度のレポートですが、一気に読むとさすがに疲れます。
ただ、これぐらいの量だと一度に読んでから、改めて採点した方が公正をきせれますので、いつもそうしています。
ただ、実感するのは、参考資料がWebだけというレポートの増加です。いつもかならず書物の文献資料を当たるようにと指導するのですが、年々書物だけの資料で書き上げたレポートの量は減っています。
資料としてのWebは確かに便利で、引用もたやすくなる反面、公的サイトを除き、内容を保証する基礎付けがまったく存在しない。思わぬ落とし穴があるのも事実である。
Webの資料を使うな!とはいいませんが、できるだけ文献資料(本)を使ってもらいたいものです。
また、一番困るのが、最初と最後だけ自分の言葉に変換し、内容はてにおはだけを変えて、そのままインターネットのサイトから丸写しのレポートです。こういうものは一読すると、読み手は一発で見抜きます。
みなさんもレポートを書く上では注意されるとよろしいです。

いずれにしましても、履修された方、みなさんご苦労様でした。

さて--
レポートの話から、文献資料、すなわち本の話題がでましてので読書の話でも。
高校時代、夏休みの読書感想文での推薦図書の一冊としてリストアップされていた書物に、アルトゥル・ショーペンハウアー (Arthur Schopenhauer)の『読書について』(岩波文庫)という作品がありました。たしか高校二年のとき、そのショーペンハウアーなる人物がいかなる人物なのか知ることなく、とりあえず、“本の厚さが薄いから!”という単純な理由で手を伸ばした一冊です。
ショーペンハウアーは、近代ドイツを代表する哲学者で、カントとインドのウパニシャッド哲学から影響を受け、世界は自己の表象であり、世界の本質は生きんとする盲目の意志である!と説いた人物です。
そう紹介してしまうと、なんだか小難しそうなおっさんだなとおもわれるかもしれませんが、『読書について』という一冊は、いわば箴言集のような本ですので、どこからでも読むことの出来る一冊であります。ただ、彼の肺腑から語られた言葉のひとつひとつは寸鉄身に帯びるではありませんが、逆説的な鋭利な寸言がたくさん納められています。

今日はそこからひとつ紹介します。

 読書は他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の実状である、。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。なぜなら、暇さえあれば、いつでもただちに本に向かうという生活を続けて行けば、精神は不具廃疾となるからである。実際絶えず手職に励んでも、学者ほど精神的廃疾者にはならない。手職の場合にはまだ自分の考えにふけることもできるからである。だが、発条(ばね)に、他の物体をのせて圧迫を加え続けると、ついには弾力を失う。精神も、他人の思想によって絶えず圧迫されると、弾力を失う。食物をとりすぎれば胃を害し、全身をそこなう、。精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。つまり精神は、たくさんのことを次々と重ねて書いた黒板のようになるのである。したがって読まれたものは反芻され熟慮されるまでに至らない。だが熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。書物は食べることによってではないく、消化によって我々を養うのである。それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。しかし一般に精神的食物も、普通の食物と変わりはなく、摂取した量の五十分の一も栄養となればせいぜいで、残りは蒸発作用、呼吸作用その他によって消えうせる。
 さらに読書にはもう一つ難しい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。
    --ショウペンハウエル(斉藤忍随訳)『読書について 他二篇』(岩波文庫、1983年)。

もちろん、読まないより読んだほうがいい。そして読むなら古典名著とよばれる良書から手を出すべきだ。しかし、読むなら読むでどう読むのか、一つの参考になると思います。
書物を消化し、栄養として吸収し、そして自分の目を用いて、歩みたいものです。

さて最後に風呂敷の話でも(いつも話に脈絡がなくて済みません!)。
宇治家さんは、実は風呂敷愛好家で、カバンに一つは入れております。常用の風呂敷が子息さんによって破壊されてしまったので、一枚新調したのが、本日届いた。
幸い、今回の無駄な出費(?)は、細君にはバレずに済んで、配達も細君の留守中で幸いでした。見つかるととかくうるさいので--。

さて今回の一枚は、納戸色が美しい加賀白山紬で、かつては釘にかけて引っ張っても破れないほどの強さを持ったことから釘抜き紬とも呼ばれていたとか。
実用と美しさを兼ね備えた一枚です。今度は、破壊されないように、使い続けようと思います。

読書について 他二篇 (岩波文庫) Book 読書について 他二篇 (岩波文庫)

著者:ショウペンハウエル
販売元:岩波書店
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詩・文学・語彙」カテゴリの記事

コメント

レポートの記述は参考になりました。やっぱり、WEBのみはダメですかwうむむむむm(_ _;)m
図書館行ってきます・・・・
先生も風呂敷愛好会ですね♪美しい紺色の風呂敷。高そうですが素敵です。しかし、破壊されるって・・・いったい息子さんはどういう手段に出たんでしょうかw

投稿: このは | 2008年2月 7日 (木) 18時51分

このはさんへ。

同族です、同族、風呂敷愛好会への参加許可をお願いします。


レポートの件、見抜く人は見抜きますので(職業病)、ご用心を!

ちなみに、廃墟と化した宇治家三号風呂敷は、よだれプラスまじっくでの落書きで、染み抜きでもおちず、リタイアです。

実用は、ポリエステルの方はグッドですね。

投稿: 宇治家 参去 | 2008年2月 8日 (金) 03時44分

この前、ちょうどこの本を読みました。後半が少し分かりにくかったのですが、ショウペンハウエルさんはヘーゲルが嫌いなのでしょうか??ちょっと批判していたのが気になりまして…。先生ならご存知かと。

投稿: ツルハ | 2008年2月 9日 (土) 01時05分

どうもツルハさん。ちょうど『読書について』を読み終えたところだとか。
おっしゃるとおり、ショーペンハウアーは、ヘーゲルのことをよく思ってはいません。通俗的なショーペンハウアーのヘーゲル批判は2点あります。①つめ目は、ヘーゲルの影響(人気)で、ベルリン大学でのポストを獲得的でなかった点です。1819年、主著『意志と表象としての世界』をひっさげ、ベルリン大学講師の地位を獲得しますが、当時ベルリン大学正教授であったヘーゲルの人気に抗することができず、ベルリン大学を去り、フランクフルトで隠棲します。②つ目は思想的対立があります。「私はカントから私までのあいだに、哲学上何事かがなされたと認めることはできない」と、カントの後継者を自任したショーペンハウアーにとっては、ヘーゲル哲学は唾棄されてしかるべき存在であったはず(ただどこまでショーペンハウアーがカント哲学を発展させたかは別ですが)。①②が相乗効果を持って、ヘーゲル批判にむかったと思われます。

ただ、このことはショーペンハウアーだけに限られた問題ではありません。近代西洋哲学は、デカルト以降、カント、そしてドイツ観念論を経てヘーゲルにおいて一応の完成を見たとされていますので(一般的な教科書的な哲学史理解ですが)、それ以降の哲学者は、どういうカタチで、ヘーゲルの哲学を解体していくのかということが大きな問題となってきます。その意味では、いい意味でも悪い意味でもヘーゲル以降の哲学者たちは、ヘーゲルを意識せざるを得なかった部分もあると思います。マルクスもヘーゲル哲学のひとつの申し子のように。

いずれにしまして、ひとつ言えるのは、ショーペンハウアーは学問のキャリア的環境としては不遇におわりますが、卓越した表現力と幅広い教養の持ち主で知られ、純粋な哲学論に終始するだけでなく、法律学から自然学まであらゆるジャンルを網羅した総合哲学を目指した節が見られる知の巨人です。

こんなところでいかがでしょうか?

ちなみにS大の文学部長がヘーゲルに詳しい方です。論文も何本か書かれていますので、参考になると思います。

投稿: 宇治家 参去 | 2008年2月 9日 (土) 14時45分

ご丁寧にありがとうございました。
ぼくも自分なりにヘーゲルに挑戦してみます。論文もあたってみたいと思います。
ほんとにありがとうございました。

投稿: ツルハ | 2008年2月11日 (月) 01時06分

ツルハさんへ

実は……というほどでもないですが、ヘーゲル研究では日本はまアいい線いっているみたいです(アカデミズム)。

ただ、その言語は難解ですが。

参考になるのが、現象学(フッサール)の嫌いがつよくありますが、以下の文献がお薦めです。


西研『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHKブックス、1995年)。


生命倫理学で鳴らしている加藤尚武氏ももともとはヘーゲル研究者ですので、かれの著作もお薦めです。


どうぞ

投稿: 宇治家 参去 | 2008年2月16日 (土) 01時51分

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