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姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみる

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 “笑う”ということを論じる中で、フランスの思想家アランの話題がでてきたので、市井の仕事の休憩中、『幸福論』を読み直した。
 そういえば、本日は節分。
 我が家も昼間に大節分バトル大会をしましたが、今日は節分関連商材の動向がよかったです。一日一日に意義付けをしながら生きていく上では、季節の行事はうまく機能している。踊らされるのではなく、分かった上で踊るのは賢いあり方だ。

 さて脱線しましたが、アランはいいですね。

 池波風に言えば(繰りかえしネタで恐縮ですが)、次の通りです。

「いいねえ、アランはいつ読んでも男らしくてかっこいい」

 笑いのところも忘れないように、すこし引用しておきます。

 気分に逆らうのは判断力のなすべき仕事ではない。判断力ではどうにもならない。そうではなく、姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。なぜなら、われわれの中で、運動を伝える筋肉だけがわれわれの自由になる唯一の部分であるから。ほほ笑むことや肩をすくめることは、思いわずらっていることを遠ざける常套手段である。こんな実に簡単な運動によってたちまち内臓の血液循環が変わることを知るがよい。伸びをしたいと思えば伸びをすることができ、あくびも自分ですることができる。これは不安や焦燥から遠ざかるためのもっともいい体操である。ところが、いらいらしている人には無関心を真似ることなど思いもつかない。同じように、不眠症になやんでいる人の心には眠る真似をしようという考えなど浮かばないのだ。否、それどころではない。不機嫌という奴は、自分に自分の気持ちを伝えるのだ。だからずっと不機嫌が続いて行く。それを克服するだけの知恵がないので、われわれは礼儀正しさに救いを求め、ほほ笑む義務を自らに課すのである。だからこそ、無関心な人たちのつき合いがあれほど好まれるのである。
    --アラン(神谷幹夫訳)『幸福論』(岩波文庫、1998年)。

 読み直しながら、実感するのがアランとは、理性の王国・フランスを代表する思想家でるにもかかわらず、合理性・啓蒙性といったものが行き着いた果てに提示した、“分断の知”(また言い換えれば啓蒙の弁証法的な野蛮性)とは対極にある“統合の知”を体現した思想家であると実感しました(といっても合理性も決して手放していない)。
 ひとはよく、肉体と精神、気分と理性、本音と建て前--日常生活のなかで、種々立て分けながら、(問題解決にいたらないまま)自分を納得させ、陰にまわっては、「はぁ~」とため息をつきがちです。
 しかし、肉体と精神、気分と理性は対立的に捉えるよりも、統合的にとらえる方が価値的で真実に近いのではないか--その相互作用こそ難局を切り開く処方箋にほかならないのでは--実感させられたというよりも、誓約的なアランの決意が圧倒的な迫力をもって迫ってきました。

「ほほ笑む義務を自らに課す」ことこそ「克服するための知恵」。

ウマイことをいいます。

さて、最後に、気になる一文があったので、ながくなりますが、もう一つ紹介します。

87 克服
 ある人が幸福を求める。するとたちまち彼には幸福を見つけることができないという宣告がなされてしまう。それはふしぎなことでもなんでもない。幸福はあのショー・ウィンドーに飾られている品物のように、人がそれを選んで、お金を払って、持ち帰ることのできるようなものではない。そういう品物はよく見ると、ショー・ウィンドーのなかでも自分の家のなかでも同じように青いものであったり赤いものであったりする。それに対し幸福は、人がそれを自分の手の中に入れなければ幸福ではないのだ。幸福を世界の中に、自分自身の外に求めるかぎり、何ひとつ幸福の姿をとっているものはないだろう。要するに、幸福については、論理的に推論したり予見したりすることができないのだ。今、幸福をもっていなければならない。君が将来幸福であるように思うとしたら、それはどういうことかをよく考えて見たまえ。それは今、君はすでに幸福を持っているからだ。期待を抱くこと、それはつまり幸福であるということなのだ。
 しばしば詩人たちは物事を説明するのがへただ。なぜなのか、ぼくにはよくわかる。音節や韻を合わせることがかなりむずかしいので、どうしてもありふれた考えから出ることができないのである。詩人たちはこう言う。幸福ははるかなところにあるかぎり、将来にあるかぎり、すばらしいものに見えるが、幸福をつかんだとき、それは何らいいものではない。まるで虹をつかまえたい、あるいは手のひらで泉の水をすくいたいと思うようなものだ、と。しかし、この言い方は大ざっぱすぎる。幸福は追い求めることはできない、ことばだけでそれをやるのは別だが。自分の周りの幸福を求めている人が滅入ってしまうのは、それがほんとうにほしいという気がまったく湧かないからである。トランプ遊びをすることにぼくはまったく関心がない。トランプをやらないからだ。ボクシングやフェンシングも同じだ。音楽だって同じく、最初のさまざまな困難を乗り越えた者でなければ楽しむことができない。読書だって同じ。バルザックのなかにはいり込むにはかなり勇気がいる。最初はバルザックに退屈するからだ。怠惰な読者に見られるしぐさは、なかなかおもしろい。まず本のページをぱらぱらとめくる、数行読む、そして放り投げる。本を読む楽しみはあらかじめ推しはかることがまったくできない。それは経験豊かな読書家でさえも驚くほどだ。学問は遠くから眺めていてもおもしろくない。学問の世界にはいり込むことが必要だ。始めは無理にやらねばならないこともある。乗り越えねばならないものはいつもある。仕事を規則正しくすること、そして困難を、さらなる困難をも乗り越えること、これがおそらく幸福に至る正道である。そして、行動が共有される時、たとえばトランプ遊びのなか、音楽のなか、戦争のなかにおいて、そこで初めて幸福は生き生きと輝くのである。
 しかし、「自分からやる」「根気よく続ける」「困難を乗り越える」という同じ符牒(しるし)をやはり持ちながらも自分一個の域を出ない幸福もある。たとえば、守銭奴や収集家の幸福だ。それに、この二種類の人たちは類似点が多い。とりわけ守銭奴が古い金貨に執着したりすると、貪欲が悪徳とみなされるのはなぜか。一方では、店のショー・ウィンドーのなかに七宝や象牙、名画、稀覯本などを並べている人がむしろ感心されるのに--。守銭奴は自分の金貨を他の楽しみと変えようとしないといって笑われる。でも、本の収集家だって本をよごしたくないのでまったく読まない人がいる。本当の意味では、これらの幸福は他の幸福と同じように、遠くから見てそれを味わうことのできるものではない。切手の好きな切手収集家がそうだ。ぼくには、それが全然わからない。同じく、ボクシングの好きなボクサー、狩猟の好きなハンター、政治の好きな政治家もそうだ。自由な行動だから幸福なのである。自分で規則をつくりそれに従っているから幸福なのである。一言でいえば、サッカーであれ学問研究であれ、規則を認容しそれにしたがうから幸福なのだ。そしてそういう義務は遠くから見るかぎり、おもしろくない。それどころか不愉快なものだ。幸福とは報酬など全然求めていなかった者のところに突然やってくる報酬である。
        一九一一年三月一八日
--アラン(神谷幹夫訳)『幸福論』(岩波文庫、1998年)。

 この一文を読むと、カントが妙にリアルになってきました。カントは道徳を論ずる中で、人は自らに道徳を課すことによって自律し、自由になる、と説き、『実践理性批判』のなかで、「道徳は本来、われわらがいかにしてわれわれを幸福にするかという教えではなく、われわれがいかにして幸福にふさわしくなるべきかという教えである」と語りました。
 アランとカントの関係に関して勉強不足といいますか門外漢なのでわかりませんが、カントが、己を見つめ直しながらドイツ語で峻厳にといた崇高な道徳哲学は、フランスでアランによって、ひとつの具体性をもったものとして立ち上がったのか?そう感じる部分が多々ありました。

 カントはさておき(カントさんごめんなさい!)、いずれにしましてもアランの文章は読みやすく、フランス語で読んでも美しい文章です。関心のある方は是非!

 ま、いずれにしましても、「自分からやる」「根気よく続ける」「困難を乗り越える」こと以外には正道はなさそうです。

 とりあえず、明日もあさっても仕事は山積みですので、このへんで酒でも飲んで寝ます。

 おやすみなさい、お月さま。

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