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「汝殺す勿れ」

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v 「汝殺す勿れ」
 知ることは、明るみのうちに引き出し、命名し、分類することである。パロールは一つの顔に向けて発される。知るとはその対象をつかむことである。所有するとは存在を傷つけぬようにしながらその自立性を否定することである。所有は被所有物を否定しつつ生きながらえさせる。だが顔は侵犯不可能である。
 人間の身体のうちで最も裸な器官である眼は、絶対的に無防備でありながら、所有されることに対して絶対的な抵抗を示す。この絶対的抵抗のなかに、殺害者を誘惑するもの--絶対的否定への誘惑が--読みとられる。他者とは殺したいという気持ちをかき立てる唯一の存在である。殺したい、しかし殺すことができない。これが顔のヴィジョンそのものを構成する。顔を見ること、それはすでに「汝殺す勿れ」の戒律に従うことである。そして「汝殺す勿れ」に従うことは「社会正義」の何たるかを理解することである。そして不可視のものたる神から私が聴きうることのすべては、このただ一つの同じ声を経由して私のもとへ届いたはずなのである。

 「汝殺す勿れ」は、それゆえに単なる行動規範ではない。これは言説そのもの、霊的生活の原理としてたち現われる。それゆえ、言語はすでに存在する思惟を表現するための記号の体系ではない。パロールは観照(テオリア)の秩序に帰属するより先に道徳の秩序に帰属するのである。パロールのほうが意識的思惟の条件なのではあるまいか。
(中略)
 さて「汝殺す勿れ」が刻み込まれた顔の視像(ヴィジョン)は、それだけでは私たちの欲求を充足させてはくれないし、手ごわい障害の経験に還元されることもない。にもかかわらず顔のヴィジョンは私たちの権力の前に無防備に身をさらしている。現実には人を殺すことは可能だからである。ただしそれが可能なのは他者を正面からみつめたことがない場合だけに限られる。殺すことの不可能性は現実的ではなく道徳的な不可能性である。顔のヴィジョンは一つの経験ではなく、自己脱出である。他なる存在との接触であって、単なる自己-感覚ではない。この事実は殺すことの不可能性の「純粋に道徳的な」性格によって裏付けられる。道徳的まなざしは殺人者の害意が見え隠れする乗り超え不能の無限を顔のなかに見る。道徳的まなざしが、あらゆる経験とあらゆるまなざしとは別の場所へ私たちを導いてゆく所以である。無限は道徳的まなざしにおいてしか与えられない。
    --エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)『困難な自由--ユダヤ教についての試論』(国文社、1985年)。   

 「汝殺す勿れ」と他者の“顔”が語っている--有名なレヴィナス倫理学の“顔”の部分のはなしでも。すこしレヴィナスの議論を整理したいので、箇条書的な覚え書風に。
※専門家には不十分でしょうが・・・。

 「顔」とは「懇願」であり「命令」である。
 わたしはこの懇願・命令に対して「oui(はい)」と応答することしかできない。ここに他者に対する「責任」の根拠が存在する。

 わたしと他者との関係は、まるで、愛には序列があるように、“対等”な関係ではない。非対称的な関係である。他者がわたしをまなざすや否や、わたしはそれに対する責任として向き合わざるを得なくなってしまう……。

 レヴィナスの発想は、通俗的な我-汝観を破壊する根元的な力を秘めている。

 責任があるのは他者ではなく、他者のおかげで存在できているわたしにある。
 ゆえに、ひとが他者を物のように認識して対象化した場合、そこに暴力が発生する。カントとは筋道が逆転するが、認識そのものが暴力にほかならない。

 レヴィナスにおいて他者とは無限の存在であり、神秘である。
 それをもっともダイレクトに現れているものが「顔」である。
 「顔」は無限の現れである。だとすれば、わたしは、その前において無限に、その倫理的要求を受け容れざるを得ないのである。
 だから「汝殺す勿れ」。
 「顔」がそこにあるから。

 息子さんの寝顔を横にしながら入力。そして傍らには酒。
 眼と眼で父子が向き合ったとき、お互いの無制限な責任を実感する……というか、突きつけられてくる。
 「絶対的に無防備」な器官である「眼」と「眼」が向き合ったとき、ほんものの倫理的要求が発生する。そのことだけは理屈ではなく、からだで実感します。

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