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内在する暴力と聖性

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 ようやく1月も終わりです。
 早いものですが、元旦に決めた決意や目標に対して、今の自分がどうなのか--見直す月末の到来です。まだまだ自分の目標に対する食らいつきの弱さを実感しつつ、それでもなお、進まざるを得ない、そして進んで行かざるを得ないことを実感した月末です。次の1ヶ月は、好転できる日々にしていきたい--そんな実感の宇治家参去です。

 年頭より、時々風邪をひいてはツライ思いをしていたのですが、このところ2-3年ぶりに喘息が再開、花粉の飛沫も多く、チト大変ですが、アタマとココロははっきりしているので、まだいいほうでしょうか--。

 今日は、市井の仕事で、ずっーとペンキ塗り。店長からやる人間がいないからやっとけ!とのこと。喘息+花粉症の身としては大変なところですが、ペンキの塗り方を初めて教わり、それはそれでプラスになったのかなアと。乾いてから2度塗りするのがベストですね。

さて、休憩時間に久し振りに、内田樹氏(神戸女学院大学教授)の著作をぱらぱら読む。内田氏は、日本にエマニュエル・レヴィナスをいちはやく紹介した人物で、数々の文化論やエッセーを著していますが、内田氏の著作との出会いは、レヴィナス経由ではなく、エッセー風時事批評(『ためらいの倫理学』(角川文庫))が最初でした。読み進めるうちに、ああ、この人が訳していたのかと後から回路が接続された人物ですが、読んでいますと、痛快でおもしろい。ただ、最近多産なのはよいが、若干、急ぎばたらきの気があるかなと思って、近著は読んでいなかったのですが、小林秀雄賞受賞の『私家版・ユダヤ文化論』は読んでおかないとなと思っていましたので、紐解いてみました。

基本的には、私家版とあるとおり、内田氏のものの見方からの「ユダヤ論」(なぜユダヤ人は迫害されるのか)ですが、教科書的な単なるユダヤ文化論とは趣を異なります。いわば、ユダヤ論を語りながらも、その奥底には自己と世界、そしてその両者の理解を深める内田氏の視点がそこには満ちあふれています。

最近、どうして人間はすべてを単純化し、あれか・これかと分断していくのか--そういうことをつくづく考え、授業でも話したりしますので、読みながら、共感した部分が多々ありました。白黒が単純に分断できるケースも世の中には存在するが、それは実は希なケースではないのかと。自己が自己に対して、事象を単純化させ、自己を納得させ、力強く歩んでいくのは、賞賛されてしかるべきあり方だと思いますが、自己が他者に対して、複雑な事象を自己の観点から単純化させ、そしてそれを一方的に語り始めると、暴力になってしまうケースが多いのではないのか--そう思うことが多いです。
いわく……。

 生来邪悪な人間や暴力的な人間や過度に利己的な人間ばかりが反ユダヤ主義者になるというのなら、ある意味で私たちも気楽である。そんな人間なら比較的簡単にスクリーニングすることができるからだ。その種の「悪人」だけに警戒の眼を向けていれば破局は回避されるだろう。
 しかし、私が反ユダヤ主義者の著作を翻読して知ったのは、この著者たちは必ずしも邪悪な人間や利己的な人間ばかりではないということであった。むしろ、信仰に篤く、博識で、公正で、不義をはげしく憎み、机上の空論を嫌い、戦いの現場に赴き、その拳に思想の全重量を賭けることをためらわない「オス度」の高い人間がしばしば最悪の反ユダヤ主義者になった。
 単純な「反ユダヤ主義者=人間の皮をかぶった鬼畜」説によりかかっていれば、たしかに歴史記述は簡単になる。しかし、そこにとどまっていては、今も存在し、これからも存在し続けるはずの、人種差別や民族差別やジェノサイドの災禍を食い止めることはできない。
 「反ユダヤ主義者の中には善意の人間が多数含まれていた」という前提を平明な事実として受け容れて、そこから「善意の人間が大量虐殺に同意することになるのはどのような理路をたどってか」を問うことの方が、「大量虐殺に同意するような人間は人間以下の存在である」と切り捨ててしまうよりも思想史研究の課題としては生産的だろう。
 反ユダヤ主義者のことを考えるとき、靖国神社に祀られているA級戦犯のことを連想することがある。東條英機以下の戦犯たちを「極悪人」であると決めつけることを終わりにする人々に私は与しない。また、彼らの個人的な資質や事績をの卓越を論(あげつら)って、「こんなに立派な人物だったのだから、その遺霊は顕彰されて当然だ」と主張する人々にも与しない。むしろ、どうして「そのように『立派な人間』たちが彼らの愛する国に破局的な災厄をもたらすことになったのか?」という問いの方に私は興味を抱く。
 彼が善意であることも無私無欲であることも頭脳明晰であることも彼が致死的な政治的失策を犯すことを防げなかった。この痛切な事実からこそ私たちは始めるべきではないか。そこから始めて、善意や無私や知力とは無関係のところで活発に機能しているある種の「政治的傾向」を解明することを優先的に配慮すべきではないか。私はそのように考えるのである。
    --内田樹『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書、2006年)。

以下、少し書き殴っちゃいます。

 確かに、スターリンやヒトラーのような“わかりやすい”大悪人も一方では存在するが、歴史的に、そして人類の人口比的な統計の観点から見直すならば、わかりやすい“大悪人”が存在するケースは希である。むしろ、善意の人間が、いじめを発動したり、暴力を発動したり、殺人をおかしたり、そして、虐殺に荷担してしまったりする場合の方が圧倒的に多いのだろう。振り返ってみれば、ホロコーストを立案したのは、一部のナチ・エリートかもしれない。しかし、収容所を建設し、ユダヤ人を運ぶ機関車の路線や運行時刻を綿密に計算し、高度にシステマティックに運用させたそこ力は、号令をかけたヒトラーではなく、ふつうのドイツ人のおっさんであったり、おばさんであったはずだ。これは別にドイツに限定されたことではない。日本でもかつての過ちが存在し、現在でも世界のどこかでその過ちが現在進行形で稼動し、まわりを見渡すと、自分自身の中でも稼動している。

 ものごとを単純に善か悪か、正か非か--単純に建て分けられる部分ももちろん存在するが、こと人間の問題に関しては、そう事態は単純ではない。
 人間という存在自体が矛盾に満ちた存在であり、そうした具体的な名前をもった人間が形成した社会だからこそ、矛盾が存在する。何も、その矛盾を肯定し、個人や社会に存在する矛盾を甘受せよ、そういうつもりは毛頭無いし、悪を責めることは重要だ。悪を責めなければ善が滅ぶのも歴史を振り返ってみれば簡単に理解することができる。

 要は、その矛盾に目をそらしたり、あれかこれかと単純に分断するのではなく、そうした実情を自覚して、そこからどう手をうっていくのか--そう考えていく方がより生産的ではないか、そう思わざるを得ないのです。

 人間とは矛盾に満ちた存在であり、その人間の生の実存は複雑怪奇で、本来は一様に単純化なんてできないのだと思われる。しかし、ひとは単純化せざるを得ない。早急に答えに手を出したい。しかし、そんな答えは薄っぺらで生きた人間には通用しない戯れ言にすぎないのでは無かろうか。

 たった一人の人間のなかには善い心も存在すれば、悪い心も存在する。おそらくどちらかの純度百パーセントの人間なんて存在しないのではなかろうか。だからこそ、どういうかたちで善なるものを薫陶し、悪なるものを制御していくのか--そこが課題になるのだろう。そして併せて付け加えれば、一人の人間におけるそうした自覚と薫陶とともに、他者、共同体、世界という関係において、どのように問題と関係を結んでいくのか、そうした、いわば個と共同体の二重の側面を絶えず吟味しながらすすみ続けるしかない。

複雑なことは複雑なまま、受容するしかない。複雑なことを単純化という鉈で切り刻んでしまうと、実は重要なことが切り落とされ、不要なことだけが残ってしまう。そしてひとは不要なことを議論して、本題に入れない。そういう部分があるのだろうと思います。

ひょっとすると、人間が人間を正しく理解するとは不可能なのかもしれない。そのときどき、ときどきにおいて、全体性のうちの数パーセントしか見ていないのかもしれない。結果として十全な理解は不可能だとしても、そうであることを把握してひととひとが向き合えば、おそらく、すこしは幸せな関係を今より結びあえるのではないでしょうかね。

※くどいようですが、悪を肯定しようとか、現状の不満足を甘受せよ、耐えよととくつもりは毛頭ありません。ただ、ひとはものごとやにんげん自体を単純化するだけでは、“ほんとうのこと”に近づけないのではないか、そう思わざるを得ないから、こう書いてみました。飲みつつの、書き殴りで理路整然としていない部分がありますので、すいません。
ちょと堅い話が続いているので、こんどはやんわりと行きますね。

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