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バベルの塔は何故廃墟となったのか

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 バベルの塔はなぜ廃墟となったか。「聖書」は言葉がおたがいに不通になったためだ、と記している。実は現代の科学も言語不通である。物理学者のいうことは経済学者にはわからないし、哲学者のいうことは技術者にはわからない。一般的にいって科学者や技術者は、思想の問題を理解できなくなっている。まえに述べたように、現代の科学は操作可能性という特性のために、急激な発展をみたが、それによって科学技術は、操作できる道具となっていった。そしてなにのためにその道具を使うか、それを使う人間がまちがわずにそれを使えるのか、は問われていない。
 実をいうと、科学技術が発展し、肥大していくのと反比例して、それを使う人間の方は、衰弱する一方ではないのか。思想のない人間は内容が空洞になった人間である。衰弱死空洞化した人間が、はたしてこの天に達しようとする現代の科学技術を、使いこなしていけるであろうか。バベルの塔の失敗をくり返さないためには、人類はこの空洞をうめなければならない。
 きみたちはどうか。大学にいる間、きみたちが専門と定めたことを学ぶとともに、人間とは何であるか、人生とは何であるか、という問いについて考えてもらいたいと思う。将来はきみたちの肩にになわれているのだから。
    --隅谷三喜男『大学でなにを学ぶか』(岩波ジュニア新書、1981年)。

 いまからおよそ25年前、大学への進学を考える高校生のためにかかれた大学論の末尾から。著者の隅谷三喜男氏は、日本を代表する経済学者で、キリスト者。

大学卒業後、そのまま研究者の道を進まず、社会の底辺で働きたいという希望から満州の昭和製鋼所で汗を流し、戦後になってからアカデミズムの道を歩み始めた異色の人物。平和や労働問題に関する著作も多く、近代日本とキリスト教に関する執筆もかなりありますので、そのへんから読むようになった人物です。

 ですので、この大学論を手に取ったのも、大学院時代。通俗的で凡庸といえば、凡庸な内容だが、読み易い文体ながらも、言葉に込められた著者の一貫するテーマ(「何のために学ぶのか」「学んだ人間は何をなすべきか」)に圧倒される作品で、もっと早い段階で読んでおくべきだったと猛省した記憶があります。

 たしかに、高度に科学技術が発展し、その恩恵無くして生活を遂行するのが不可能なのが現代社会の実態である。いろんな問題を抱えているが、それをすべて否定して生きていくことは不可能である。ならばどのように、生きやすい社会にずらしていくのか……。
 産業革命以来、人間は、すべての局面において、分断し、整理することで、その専門性を高め、効率性を高め、現代社会を創造した。

しかし、分断は分断である。

フランス文学を専攻する人間で量子力学を語り、分子生物学を理解できる人間はほとんど存在しない。
遺伝子工学を専攻する人間で分析哲学を語り、スコラ学のトマス=アクィナスとヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの違いを精確に理解できる人間はほとんど存在しないだろう。

専門性を高めることは、この高度に専門化された社会で生きていく上では必要不可欠で、同業他者に負けないようなしのぎをけずる集中と忍耐が必要だ。そして探求されてしかるべきである。

しかし、それだけでよいのか……。隅谷の言葉には、専門化に飽和した熱病者にまるで冷や水を浴びせるような響きがある。

現実の問題として、サルトルの戯曲について卒論を書いている学生が、量子力学を語り、分子生物学を理解した上で、脳の問題を語ることは難しい。また、研究室で、遺伝子組換え生物(GMO)を探求する学生が、トマスとスコトゥスにおける存在理解の問題を精確に把握しているケースは希である。

何も、それぞれが異なる他分野を自己の専門ほど深化したかたちで学べといっているのではない。専門という蛸壺に沈潜したまま、世界を、そして人間を見なくなった場合が恐ろしい……ただ、それだけである。

フランス文学を学ぶ学生が、ときおり、現代科学に関するニュースを耳にして、その内容がなんとなくわかる。そして、遺伝子工学を学ぶ学生が、昼休みに、ドスエフスキーを読んでいる。それぐらいの交流はほしいものである。
伝え聞くところによると、アメリカの一流大学では、文系の学生にも分子生物学(入門含む)が必修で、その逆も必修だとか。
戦後、アメリカの学制をモデルに日本の教育システムは組み立て直されたが(戦前はドイツ)、こうしたところは学びたいものです。

「きみたちはどうか。大学にいる間、きみたちが専門と定めたことを学ぶとともに、人間とは何であるか、人生とは何であるか、という問いについて考えてもらいたいと思う。将来はきみたちの肩にになわれているのだから」

いざ、学ぼう!と思っても、現実には、カリキュラムや履修パターンで難しい問題だという側面も確かに存在する。でも学校からだけ学ばなくてもよい。生きている社会や書物、そして人々から学べばよい。また教師は、そういう不足を発見したら、声を上げるべきであろう。1名でも2名でもそうした声があれば開講の必要があろう。

時間はかかるかもしれないが、ゆっくりとずらしていこうと思います。

そしてそのなかで一番重要なのは、様々な世の中の動向に対して、アンテナを張り、「関係ねぇーや」っていうカタチのシラケを排していきたいところです。世の中に対するシラケ、そして他者に対するシラケは自分に対するシラケとして帰ってくる。

常に敏感でありたいものです。
現代社会は確かに異常な社会です。
血なまぐさい事件がひっきりなしに連発しています。
そこで、その異常さに馴れないことが必要だと思います。
「またか」じゃなく、そこで「なぜ」という問いのカタチで、事象に当たりたい--そう思う宇治家参去でした。

思えば、現代を代表する神学者カール・バルトは、新聞を数紙購読し、総合雑誌や一流誌をじっくり時間をかけて毎日読んでいたという。だからこそ、専門性も深く追求し、人間やその生きている社会の問題にも深くコミットしていった。そうありたいものです。

ちなみにわたしは、根っからの文系人間。
しかし、学ぶにつれ、科学をきちんと学んでいなかったことが失敗だと思っています。
いまからでも遅くない!
そう思いながら、講談社のブルーバックスという科学に関する入門書シリーズをちまちまと読んでいます。
読み始めると面白いものですよ。世界の認識が広がります。

さて、今日は来客があり、久し振りに蕎麦屋に出前を取ってみました。
ピザとかそういう出前が幅を利かしていますが、古式ゆかしく出前の元祖・蕎麦屋です。
蕎麦好きですので、蕎麦を堪能。

出前もなかなかいいもんですね。

そんなところで、最後に、旧約聖書のバベルの塔の部分でも抜き書きしておきます。

バベルの塔
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
主は下って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って直ちに彼らの言葉を混乱させ、お互いの言葉が聞き分けられないようにしてしまおう。」
主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
    --創世記11.1-9

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