汝自身の“地の塩”
◇「序話」
もし日本にキリスト教が来なかったとしたら、どんな日本になったであろうか。
本書をご覧になればわかるように、キリスト教は日本に渡来以来、何度も事件を引き起こしている。いわば「お騒がせ宗教」である。その「お騒がせ宗教」がなかったとしたら、日本は、たぶん変わりなかったかもしれないが味気無かったにちがいない。
聖書に「地の塩」という言葉がある(マタイ五・一三)。ここでいう塩は、わたしたちが現在用いているような精製された美しい塩ではない。よごれた色のゴツゴツした岩塩である。
日本を騒がせて来たキリスト教は、岩塩のようなキリスト教として、日本に味をつけたり防腐のはたらきをしてきたのだろう。塩味がなくなるならば捨て去られるのみ、と聖書に書かれてある。
◇「終話」
日本および日本人の歴史にとって、キリスト教はなんであったか、との視点で『日本キリスト教史物語』を描こうとした。キリスト教は、日本にとり「異神」、「邪宗門」、「耶蘇教」、「洋教」、「基督教」、「キリスト教」であった。それは、キリスト教が、時期によりニュアンスの相違はあるが、日本にたいへん異質な宗教であった反応である。
その異質性には、キリスト教固有の神観、人間観、世界観からくるものと、歴史的にまとまった西欧的衣裳によるものとの、ふたつの面がある。結果的には、双方による異質性がもとで、日本においてキリスト教は多くの事件を引き起こす宗教となった。
異質性のなかの西欧性のうち、欧米文明は歓迎された時期もあるが、教派のもつ世界伝道組織は反発を買ったりした。一方のキリスト教固有の思想は、日本の思想、宗教、社会組織、国家、権力をはじめ、日本に残る人権侵害、差別、偏見、公害などとの間に摩擦、衝突をよび、事件を生じがちであった。
だが、キリスト教が日本において事件を起こし「お騒がせ宗教」であった時代は、それなりに日本社会に存在の意義があったと思う。キリスト教に元気があり活力のあった時代である。「世ニこび、時ニへつろふ事のなきハキリストノ特色なり。いにしいになづむの短所こそあれ、今ニへつらわざるハ誠に天晴れなりとす」。これは日本のキリスト教を評した田中正造の言葉である。その刺激により、日本は新しいものを生み、キリスト教も日本から世界に発信するキリスト教を出現させた。
宗教文明史の目で見て、事件を起こす「お騒がせ宗教」であったキリスト教は、この意味で評価できる。ところが教勢の上で停滞している理由は、キリスト教側の理由に加えて、鎌倉時代に仏教の宗教改革があったことによっていると考える。そこで仏教が、すでに聖職者の宗教から一般信徒の宗教として改革を果たしていたことが大きい。
せっかく宗教改革をした仏教も、ふたたび制度化し金属疲労をして宗教の機能を果たせないとき、キリスト教や他の新・宗教の進出があったとみたい。しかし、それは間隙をつく役にとどまり、地位を変わることは困難であった。当然、キリスト教が、日本の世に迎合するだけの時代は、キリスト教は存在の意義がないだけでなく、有害でもあった。
日本の歴史を振り返ると、集団の魔性(国家、天皇制など)に個々の人間の生命、思想、自由が抑圧されることが多かった。日本のキリスト教の存在理由は、前者に対し後者とともに立つことになる。ここにキリスト教による事件が生じ、挫折もあった。ささやかな物語ながら本書の意図は、その歴史を踏まえた新たな歩みである。
--鈴木範久『日本キリスト教史物語』(教文館、2001年)。
冒頭の引用は、学問の恩師・鈴木範久先生が、もともと大学の教養科目として行った話をもとに、「専門家、牧師、神学生ではなく、ふつうの学生や一般の人々」を読者として著した、簡便かつ思想史的に読み応えのある、日本キリスト教史に関する著作の序文とあとがきから。
いつもながら手前味噌で、専門のキリスト教の立場からだけの発言をご容赦されたい。
さて--。
宗教のいのちとは何か--。
宗教は多彩な側面を持っているのでひとつに限定できないが、社会との関係をみた場合のひとつの視座が、「地の塩」であると思う。
「地の塩」。
「お騒がせ宗教」である「キリスト教」を仏教にでも、神道にでも、イスラム教にでも、etcにでも置き換えてみてもよいだろう。宗教は時代と社会とひとびとの“現状”に警句を発する“地の塩”である。
塩気がなくなるときとは、即ち“金属疲労をして”“世に迎合するだけ”のときのことである。これは組織・教会・協会という集団・共同体だけの問題ではない。
「地の塩」は自分自身に対しても“地の塩”である。
ゆえにひとを蘇らせ、社会を大きく変えていくのだと思う。
マタイ伝をみてみると次のようにある。
「あなたがたは地の塩である。だが塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光をひとびとの前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの点の父をあがめるようになるためである。」(新共同訳)。
人々に踏みつけられ、役割を終えた価値観は無数に存在する。
そうはありたくない宇治家参去でした。
蛇足ですが、明日から半年ぶりのプライベートな二連休。
どうしようかな?--という夢想はない。
一日は、集めた資料を読んで論文を書き、通信教育部のレポート添削にあてることがきまっている。
しかし、一日はフリーだ。
たぶん、家族につきあわされるのだろう。
合掌。
だから、飲んで寝よ、寝よ。
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