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【覚え書】精神と顔

Dscn7101

ちよっと忙しいので抜き書から。コメントは後日。

iv 精神と顔
 対話という平凡な事実が、ある経路を抜けて、暴力の秩序からのがれる。この平凡な事実こそが驚異中の驚異なのである。
 語るとは、それは他者を知ると同時に自らを他者に知らしめることである。他者は単に知られるだけでなく、挨拶される。他者は単に名ざされるだけでなく、その助力を求めて呼び寄せられる。文法用語を用いて言えば、他者は名格においてではなく呼格において出現する。私は単に他者が私にとって何であるかだけでなく、それと同時に、いやそれよりも以前に、私が他者にとって何であるのかを思惟する。他者にある概念を当てはめたり、他者をあれこれの名称で名ざすとき、私はすでに他者を呼び求めているのである。私は単に知るだけではなく、関係する。語りかけ(parole)が必然の前提とするこの交易(commerce)はまさしく暴力なき関係である。交易者は、その活動のさなかにおいてさえ、他者の応答を待機するなかで、他者の活動に身をさらしている。語りかけることと聴くことはあわせて一つの挙措であり、いずれが先ということは言えない。語りかけることはこうして対等という道徳的関係をうちたて、その結果、正義とは何かを知るに至る。ひとはたとえ奴隷に向かって話しかけているときでさえ、対等の者に向かって話しかけているのである。語られたこと、伝達された内容は、他者が知られるより咲きに対話者としてすでに座を占めているこの顔と顔とを向き合わせた関係を介してしか語られることも伝達されることも不可能である。私は私をみつめるまなざしをみつめ返す。まなざしをみつめ返すこと、それは自らを放棄せぬもの、身を委ねぬもの、私を直視するものをみつめることである。顔(visage)を見るとはこのことをいう。
 顔とは鼻や額や眼の集合体ではない。たしかにそういった要素から成ってはいるが、ある存在を知覚するときに、顔が開く新しい次元を通じて、顔は新しい意味を帯びる。顔によって存在はその形式のなかに封じ込められ、物のように扱われるばかりでなく、自らを開き、深みのうちへ身を置き、この開かれ(ouverture)において、ある種の個人的な仕方で自らを顕現する。顔は存在がその自己同一性(identite)において自らを顕現することのできる還元不能の一モードである。物とは決して個人的に自らを還元しないもの、すなわち自己同一性をもたぬものをいう。物に対して暴力は揮われる。暴力は物を自分の思うように扱い、物をつかまえる。物にはつかまえる手掛りがあり、顔を示すことがないからである。物とは顔のない存在である。芸術が探求しているのはおそらく物に顔を与えることなのであろう。そしてそこに芸術の偉大さと虚構とが存在している。
    --エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)『困難な自由--ユダヤ教についての試論』(国文社、1985年)。

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