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世に棲む日々

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 洋服とともに始まった日本の議会政治が依然としてはなはだ滑稽なものであるのも、人々が公共の問題をおのが問題として関心しないがためである。城壁の内部における共同の生活の訓練から出た政治の様式を、この地盤たる訓練なくしてまねようとするからである。「家」を守る日本人にとっては領主が誰に代わろうとも、ただ彼の家を脅かさない限り痛痒を感じない問題であった。よしまた脅かされても、その脅威は忍従によって防ぎ得るものであった。すなわちいかに奴隷的な労働を強いられても、それは彼から「家」の内部におけるへだてなき生活をさえ奪い去るごときものではなかった。それに対して城壁の内部における生活は、脅威への忍従が人から一切を奪い去ることを意味するがゆえに、ただ共同によって争闘的に防ぐほか道のないものであった。だから前者においては公共的なるものへの無関心を伴った忍従が発達し、後者においては公共的なるものへの強い関心関与とともに自己の主張の尊重が発達した。デモクラシーは後者において真に可能となるのである。議員の選挙がそこで初めて意義を持ち得るのみならず、総じて民衆の「輿論(よろん)」なるものがそこに初めて存立する。共産党の示威運動の日に一つの窓から赤旗がつるされ、国粋党の示威運動の日に隣の窓から帝国旗がつるされるというような明白な態度決定の表示、あるいは示威運動に際して常に喜んで一兵卒として参与することを公共人としての義務とするごとき覚悟、それらはデモクラシーに欠くべからざるものである。しかるに日本では、民衆の間にかかる関心が存しない。そうして政治はただ支配欲に動く人の専門の職業に化した。ことに著しいことは、無産大衆の運動と呼ばれているものが、ただ「指導者」たちの群れの運動であって指導せられるものをほとんどあるいはまれにしか含んでいないという珍しい現象である。もとよりそれはこの運動が空虚であることを示すのではない、しかし日本の民衆があたかもその公園を荒らす時の態度に示しているように、公共的なるものを「よそもの」として感じていること、従って経済制度の変革というごとき公共的な問題に衷心(ちゅうしん)よりの関心を持たないこと、関心はただその「家」の内部の生活をより豊富にし得ることにのみかかっているのであることは、ここに明らかに示されていると思う。だから議会政治が真に民衆の輿論を反映していないと同じように、無産大衆の運動も厳密には無産運動指導者の運動であって無産大衆の輿論を現わしたものではない。
    --和辻哲郎『風土--人間学的考察』(岩波文庫、1979年)。

日本を代表する倫理学者・和辻哲郎の著作をこのところ読み返していますが、やはり一級の人物ですね。読みやすい文章ですが、鋭い観察眼とそれを裏付ける深い精神性と知性が迸っています。

うえの部分は、発想としての“うち”と“そと”。

歴史的な精神風土として依然としてのこる“うち”への極度の集中と、“そと”への無関心の問題である。もちろん“うち”を大切にし、その充実を図ることは重要な問題であり、その増進が図られてしかるべきである。しかし、もともと“うち”とは、“そと”に完全に分断された世界ではありえず、関わり方の温度差はあるにしても、なんらかのカタチでつながっている。そうであるとすれば、“うち”の問題を考えると同時に、“そと”のことにも関心を寄せざるを得ないのが、順当な発想であると思う。しかし、日本の生活形態としては、“そと”の様子をうかがいながら、“うち”へ引きこもるカタチでひとびとは生きてきた。

だからそこには、発想としての公共性の問題がリアルなものとして立ち上がってこなかった。公共性とは、玄関を一歩外へ歩み出したにんげんにつきつけられる他者との関係であり、他者や自分が生きている、そして形作っている共同体との関係の問題である。だからこそ、そこに倫理が問題となってくる。

和辻哲郎は、倫理学を構想するに当たり、ハイデッガーや西田幾多郎の哲学を参照しながら、倫理の普遍的基礎とされる「間柄」概念をその根柢に置き、倫理学を論じた。倫理学は、自己と自己自身との関係、そして自己と他者との関係、そして自己と、共同体(人倫的組織)の関係を常に問い直す。その関係こそ「間柄」に他ならない。

「人が人間関係においてのみ初めて人であり、従って人としてはすでにその全体性を、すなわち人間関係を現わしている」
    --和辻哲郎『人間の学としての倫理学』(岩波文庫、2007年)。

和辻は、倫理学を構想するに当たり、「人間」ということばの持つ二重の意味の分析から叙述を始めている。すなわち、「人間」という言葉には、個の側面としての「人」の意味と「(人が集まり住んでいる)世の中」という二重の契機が含まれている。人間は個別と全体との契機をその存在自身のうちにおいてすでに含んでおり、全体性を基底にして初めて存立するのが人間という存在であると和辻は言う。

だとすれば、“そと”との関係だけでなく、“うち”のレベルにおいても、そのあり方が問われなければならないはずである。しかし、日本においては、“そと”から眼をそらすかたちで“うち”に集中しながらも、“うち”のもつ共同体としての側面(イエ)は重視されたが、個々の構成員に関しては、その存在、そしてあり方、また関係が軽視されてきた側面が厳然とある。つねに、“うち”の問題は、共同体の問題であった。“うち”への極度の関心と傾斜は、“うち”に棲まう人間の問題ではなく、共同体としての“イエ”の問題しか存在しない。

“そと”との関係も実際の生きている現実は、一様ではない。
自己と、その自己の住まう地域との関係、自己と、その自己の勤務する(通学する)会社なり学校との関係、そして、社会、国家、世界との関係……。

自己がとりもつ“そと”との関係も一様ではないのが現実だ。
それにもかかわらず、“そと”との関係が省みられなかった所為か、日本において、“そと”との関係が論じられた場合(「公共性」)、そのレベルは、常に「国家」との関係においてのみ論じられてしまうのが顕著である。

ヨーロッパにおいては、自由な対話空間の「コーヒーハウス」や「サロン」から公共空間が立ち上がってきたという歴史的経緯があるから、“なか”を重視しつつも、“そと”との良好な関係が保たれたり、破綻を来した場合、それを変更する自由な視座が存在した。

何も“そと”はひとつでない。国家がだけが“そと”ではない。

そこを踏まえた上で、ひとりひとりが、“うち”のなかでの関係を洗い直しながら、そして“うち”の充足を図りながら、ぼちぼち“そと”との関係も、手探りでもよいから、問い直す必要があるのではなかろうか。

まずは練習として、一番身近な、自分に対する“そと”としての家族との対話、よりよき関係をめぐる談義・行為を行うのがよろしいのでは……。

推敲しながら書きませんので、いつもくどく長くなってすいません。

昨日は世に言うバレンタイン・デー。
細君が、ワインを買ってきてくれた。
お返しを何か考えないとマズイですね。
お祭りといえば、お祭りだし、業界に踊らされているといえば踊らされている行事です。しかし、親しい“間柄”だからこそ、想いは以心伝心で伝わるとは限りません。そうした行事を“利用”しながら、それをカタチにすることも大事だと思います。

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左側が少年時代の和辻哲郎

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