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寂寥とした光景

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①まずは、「【覚え書】精神と顔」から。

 マザー・テレサの有名な言葉に「愛」の反対とは「敵意」や「憎しみ」ではなく、「無関心」というのがあったと思う。他者に対する無関心や、生きている社会やこれまでの歩みとしての歴史に対する無関心がどうも進んでいるように思えて他ならない。自己への過剰なまでの集中が、おそらくひとをしてそうさせているのであろうが、他者への無関心も、社会や歴史への無関心も、おそらくその最後に行き着くところは、自分に対する無関心として、自分自身へ跳ね返ってくるだろう。

 無関心という名の絶望がこの世を支配している。この種の絶望は人類がこれまでに経験したことのある絶望とは趣を異にする新手の絶望である。装いはドライでクール、やんわりと他者を退けるのが常套手段である。しかも、絶望であるということすら覚知できない上に、悲惨なことだが、そのことがカッコいいと受け取られがちである。
 存在するのはアトム的な閉じた空虚な個室のみ。公共空間を論じれば、視座が国民国家にのみ限定された暴論ばかりで、もはや強靱な個人もしなやかな公共性も皆無である。

 だれも相手の顔をみないのである。顔をみなければ挨拶もなく、言葉が交わされることもない。

 電車のなかで、友達同士が隣り合って座り談笑をかわしている高校生がいた。実に楽しそうに話している。しかし奇妙なことに二人とも、それぞれのIPodのイヤフォンが耳にかけられたまま。音楽が流れながら、やりとりは続いている。どこか奇妙な光景だ。

 だからこそ、いわゆる識者とよばれるひとびとは、教育の再生を活発に議論しているのだろう。しかし、その議論を覗いてみると、道徳教育の必要性がことさらとかれているだけだ。道徳の名のもとで、愛国心や愛郷心が謳われ、伝統文化の復興も議論されている。しかし、その一方では、学校の教育現場に、市場原理主義が持ち込まれ、競争原理に基づく効率や採算性が問われている。

 議論していただくのは大いに結構だ。しかし、何かがバラバラなのである。学校教育のコンテンツが問われることは重要だ。そして、その稼動性が議論されるのも当然だ。しかし、その両者の接点は全くない。また当事者である教育者と被教育者の姿も浮かび上がってこない。

 生命力を衰弱させ、プログラム通りに稼動する機械を作り出すのは教育ではない。イリッチではないが、“工場”である。

 工場は物をつくる。では教育は何をつくるのか。

 教育ということも、私は一種の形成作用と考えることができると思う。彫刻家が彫像を造る如く教育者は人間を形成するのである。形成するということはイデヤによって客観的に物を造ることである、イデヤ的なるものを実現することである。斯くいえば、形成作用ということは主観的と考えられるかも知らぬが、真の形成作用というのは、単に主観的なるものを客観的に現すということではなくして、客観的なるものをして自己自身を現さしめることである。彫刻家の頭の中の想像は直に彫像そのものではない。芸術的創作に当っては如何なる作品ができるかは、芸術家その人も知らない。そこには主客合一の想像作用というものがなければならない。構成するbildenということは引き出すerziehenことである。
    --西田幾多郎「教育学について」、『続思索と体験 「続思索と体験」以後』(岩波文庫、1980年)。

 いうまでもなく教育とは人間を形成することである。人間抜きの議論は、作業仮説に従った空論に堕するであろう。いうまでもなく道徳も必要である。しかし道徳とは、国家が命じて臣民に下す“掟”ではない。カントがいうように、自分が決めて自分自身が自己に対して課す立法である(自律)。人間という生きものは、ときどき破ることがあるが、“法律”というカタチの強制力には、渋々ながらも従うところがある。しかし下された“掟”には従いにくい。根拠がないからだ。しかし恐ろしいのは、下された“掟”が法的強制力を伴い、工場として稼働したとき悲劇が誕生する。おなじように、採算性も重要だ。しかし、それが工場として稼働したとき同じように悲劇が誕生する。

 顔を見る、まなざしをむける、挨拶をする、言葉を交わす--。
 ひとはいつから、その行為を忘れたのだろうか。ひとをみても物としか思わないから、挨拶を交わす必要も、まなざしをむける必要もないと考えるのだろうか。

 寂寥とした光景が迫ってくる。
 ただ、付言するならば、そういうひとは自分自身も物として扱われている事実を忘れてはいけないだろう。

②そして今日の出来事から。
東京は大雪です。昨年とうってかわった冬らしさに、人工都市は大慌て。自然をなめたらあかんぜよ!という感じで、今日の仕事はひたすら雪かき。6時間もかきつづけると筋肉痛です。今日もやさぐれていますので、とっとと酒飲んで、本読んで寝ます。

すこし、乱暴に教育について殴り書きしましたが、子供と接するなかで、(1)自分でものごとを考える、(2)(そしてそのことを)表現する、これをどのように教えるというか、一緒に学んでいくのか、考えています。手っ取り早い方法はまったく存在しませんが、いいアイデアがあれば教えてください。

Nishida_kitaro

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