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「ひとみな誰もが、おのがいちぢくと葡萄の木陰にいる」世界

Emmanuel_levinas

Haide

哲学的著作を紐解くとき、ひとは、その一冊に極度に集中し、その解釈者として、なにかをそこから読み出すパターンが多いと思います。その在り方が別に間違っているとかけしかんということではなく、そういう在り方(哲学的著作との向き合い方)以外にも、多様な在り方があるのでは思うことがあります。

その在り方のひとつとは、まったくふたつの別の哲学者(の著作)を自分の前で、対話させながら読むという在り方です。自分にとってそうせざるをえない哲学者が、ドイツを代表する哲学者ハイデガーと、<まなざし>の倫理学者レヴィナスです。

 今日も引き続き熱がさがらず、だけど仕事に穴をあけることも出来ず、熱冷まシートを額に張って、包帯で隠し仕事をしてきましたが、その休憩中、れいの如く再読していたのが、レヴィナスの『実存から実存者へ』とハイデガーの『存在と時間』です。最近、金欠でこれまたれいの如く新刊を買う余裕がないので、昔読んだ気になる本を再度、熟読している次第です。今回は、レヴィナスをメインに、参考としてハイデガーの著作を脇にしてぱらぱらめくっていました。

※以下、専門家には重々承知の議論なので面白くないかも知れませんよ。

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 ギリシア人たちは、「事物」を表わすのに適当な術語〔として〕(プラグマタ)をもっていたのです。これは、ひとが配慮的交渉(プラクシス)のなかで相手とするものをいうのです。しかしギリシア人たちは、プラグマタ特有の「実用的(プラグマテイッシュ)」精確を、存在論的には不明瞭のままに放っておいて、これを「さしあたり」「たんなる事物」と規定したのです。わたしたちは配慮の働きにおいて出会おう存在するものを、道具と名づけます。右のような交渉のなかに見出されるものは、文房道具、裁縫道具、工作道具、乗物道具、計量道具なのです。道具の在り方が、はっきりと取りださねばなりません。そしてこのことは、道具を道具とさせているもの、すなわち道具性(ツオイクハフティヒカイト)をまずもって画定することを導きの糸として行われるのです。
 厳密にいえば、ひとつの道具が、「ある」のでは決してありません。道具が在るということには、いつも道具全体が属していて、そのなかでこそこの道具が、そのあるがままにありうるのです。道具は、本質的には、「なになにのためのなにか」です。
    --ハイデガー(桑木務訳)『存在と時間(上)』(岩波文庫、1960年)。
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さて--。
考えてみれば、私の住むこの世界とは、ハイデガーが描き出すように、道具的な連関(ネットワーク)として様々な存在がまさにそこに在るようにみえる世界で、実際にそう在る。だが、現存在が、道具を使いながら、様々なものに「気遣いする」ハイデガーの世界では、極論をいえば、他者も道具も、現存在のために「存在」したとしても、存在の在り方からみれば問題がないといえなくもないものの見方のようである。現存在は、世界を道具のネットワークのなかで事物として生きているからだ。

だが、世界というのは、そうしたものなのだろうか--。

レヴィナスは違うと考えているようだ。
ハイデガーの他者理解には問題が含まれているのではなかろうか--通俗的な・教科書的叙述ですが、レヴィナスの徹底的な他者理解は、ハイデガーの他者理解に対する異議申し立てでありながら、なおかつひとつものとなっている。

レヴィナスによると、道具は道具性に収まらない。

たしかに、目の前のパンとスープ、そしてミルクといった<もの>、そして今日の<この仕事>は、私という存在が今日も明日も生きていくために必要な<有用性>としてある。どれも私にとっては<有用>なものだし、自分がいきていくためには、まさにこうしたもに「気遣い」をしないで生きていくのは不可能である。しかし、私はいつも何かの<ため>にいきているわけではない。食事を取り、味わうこと、それは、なにかの<ため>ではなく、目的そのものであり、世界を「糧」として、そのものを享受することでもある。ハイデガーが描いて見せた道具的な連関とみえる世界は、どこかモノクームな世界像だが、<享受>する世界像として描くレヴィナスの視座はどこかカラフルだ。世界とは、実は私が<楽しむ>世界ではなのである。

ただしカラフルな世界は、みなくてもよいものも見せてくれる。

ハイデガーは、目の前のパンとスープ、そしてミルクといったものを飲み食いし、永遠につづくような日々の仕事に<私>が没入されてしまう日常性を「頹落」と表現し、劣ったものとして考える。そのことも十分に理解できる。日常のなかで、その日常性に<馴れ(慣れ)>、本来的自己了解を忘れた様は、その意味でまさに「頹落」である。

人間は「死」という不安を自覚し、死へ望む覚悟性の中に自己の有限性を見出す。ハイデガーにおいては、それが現存在にとっての実存であるということに他ならない。日常的な頽落の中に生きる現存在は、そのことに気づかずに埋没しているというわけである。

『存在と時間』における道具の存在分析と「頹落」を巡るハイデガーの筆致にふれると、まさに、人間自身が道具へと転落している日常性への埋没を嘆かざるを得なくなってしまうが、読みながらもある一方で、それだけでもないのではと考え、そしてハイデガーを読んでいる自分も存在する。

レヴィナスはおそらくそのへんが納得いかなかったのだろう。

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世界を日常的と呼び、それを非・本来的なものとして断罪することは、飢えと乾きの真摯さを見誤ることだ。
    --E.レヴィナス(西谷修訳)『実存から実存者へ』(講談社学術文庫、1996年)。
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ハイデガーは、人間という存在が<世人>として頹落して生きていると批判しながらも、世界を人間の「ために」存在する道具的な連関として考えた。レヴィナスはこの部分にハイデガーの世界解釈における他者論を問題視しているのである。ハイデガーは、現存在と他者の関係を、道具を使う人間や、おしゃべりをする人間の頹落として考察する。ここがおそらく気にくわないのだろう。レヴィナスはそうした意味では、ハイデガーが語る道具の<有用性>を問題にしているのだろうと思う。他者とは、おそらく、ハイデガーが批判するおしゃべり相手だけでもなく、ヘーゲルの相互承認における対等なパートナーでもなく、わたしよりも<前に>存在し、わたしの存在・認識そのものを可能にする条件(=責任)としてレヴィナスは考えたのだろうと思う。

レヴィナスの他者理解に関しては、またおいおい紹介しようと思いますが、ハイデガーとレヴィナス、どちらがエライとか、ヒクイとか、そういった二者択一ではなく、ふたりのものの考え方から、人間の多様性と、頹落と尊厳を考え直していかない限り、人間の全人性を直視することは不可能なのではとフト、休憩室でたばこを吸いながら思ってみた次第です。

さいごに、長くなりますが、レヴィナスのかたる「日常性」を紹介して、今日はこのへんでゆるして下され。

熱が下がり始めたので、とどめにえびすで締めて寝ます。

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 世界内に与えられているものがすべて道具なのではない。「兵営」の宿舎や掩蔽壕(えんぺいごう)は、軍隊の兵站部にとっては<糧>である。兵隊にとっては、パンや上着やベッドは資材ではない。それは「のための」ものではなく、それ自体が目的なのだ。「家は居住のための道具である」という言い方は明らかに誤りで、いずれにせよ「わが家にあること(chez soi)」が、定住的文明と名高い炭焼き人に託された<支配>に帰属する人間の生活の中で果たしている特別の位置を納得させるものではない。衣服は身を包むためにあると言っても、衣服がなぜ裸であることの謙虚さから人間を引き離すことになるのかを理解したことにはならない。食物にいたってはなおのこと、「資材」はこのカテゴリーに入らない。
 この食物という糧の例をさらに強調しておこう。この例は日常生活のなかで占める位置のために特権的だが、またとりわけ、この例によって表現される欲望とその充足との関係が、世界内での生の典型をなしているという意味でも特権的である。この関係の特徴は、欲望とその充足が完全に一致する点にある。この欲望は自分の欲するものを完全に心得ている。そして食物によってその志向は全面的に実現される。ある時機にすべてが完遂されるのだ。食べることを、経済的活動や世界を超えたところにある愛することと比べてみよう。愛の特徴は、それが本質的で癒しがたい飢えだということである。友達の手を握ることは、彼に友情を伝えることだが、それは何か表現しえないものとして、さらに言うなら何かなし終えていないこと、なし終ええないこととして、絶えることのない欲望として、それを伝えることである。愛の積極性そのものが、愛の否定性のうちにあるのだ。〔愛においては〕火にくべるたきぎは燃え尽きない。愛する者の前で感じる惑乱は、経済的な用語をもって所有といわれる事態に先立って起こるだけではなく、所有そのもののうちでもまた起こる。千々(ちぢ)に乱れる愛撫のうちには、接近が不可能なこと、暴力が挫折していること、所有が拒まれてあることの告白がある。そしてまた接吻や愛咬のうちには、「食べる」ことの滑稽にも悲劇的な模擬行為がある。あたかもひとは欲望の性質を思い違いし、最初はそれを何かを求める飢えと混同するが、そのときやっとそれが何に対する飢えでもないことに気づくかのようだ。<他人>とはまさしくこの対象なき次元である。愛欲は、つねにますます豊かになる約束の追求だ。それは飢えの増大によってつくりだされ、いっさいの存在から解き放たれてゆく。目指す到達点はなく、ほの見える果てもない。愛欲は、めくるめく空虚な無限の未来のなかに身を投じる。それは、いかなる<対象>にも充たされずまた標尺を刻まない純粋な時間を消尽する。「充足」とは彼方に逗留することではなく、一義的で現在の世界のうちで自己に帰還することだ。愛に関することどもが、嗜好的欲望や自然の欲求同様経済的カテゴリーに並べられてどのように語られようと、愛にはこの飽満への失墜に較ぶべきものは何もない。それに対して、食べることは穏やかで単純だ。職はおのれの志向の真摯さをくまなく実現する。つまり「食べる者はもっとも真っ当な人間」なのだ。
 特徴がぴったりと欲望に符号するというこの構造は、私たちの世界-内-存在総体を特徴づけている。いたるところで行為の対象は、少なくとも現象のなかでは、実存することへの気遣いには結びつかない。私たちの実存をなしているのはこの行為の対象なのである。私たちは呼吸するために呼吸し、飲みかつ食らうために飲み食いし、雨を避けるために雨宿りし、好奇心を満足させるために学び、散歩するために散歩する。それらすべては生きるためにあるのではない。そのすべてが生きることなのだ。生きるとは真摯さだ。世界に属さないものに対立するものとしての世界、それが私たちの住み、私たちが散歩し、昼食をとり夕餉をとり、誰彼のもとを訪れ、学校に行き、議論し、さまざまな経験を積み探究を重ね、ものを書き本を読む世界である。それはガルガンチュアとパンタグリュエル、それに世界第一の技芸師匠大腹師の世界だが、またそれはアブラハムが羊の群れに草を食(は)ませ、イサクが井戸を掘り、ヤコブが家を建てた世界、そしてエピクロスが庭を耕した世界、「ひとみな誰もが、おのがいちぢくと葡萄の木陰にいる」世界である。
 世界内に存在すること、それはまさしく、欲望をそそるものへと真摯に向かいそれを自分にとってのものとして捉えるために、実存するという本能の最後のしがらみから、自我のいっさいの深淵から身を引き離すことだ。自我はこの先けっして仮面を脱ぐことはなく、そのどんな姿勢もポーズとなり、自我に対しては告白も不可能となる。世界内に存在することは、欲望の真摯さの可能性そのものなのだ。ハイデガーによれば私たちの実存の各瞬間を実存するという努めへと導くという回路のなかで、そしてドアのボタンを押し、私たちが実存の全体性を開く--というのも私たちはすでに行為を超えて、その行為と存在することへの気遣いとを隔てる媒介を踏破したのだから--その回路のなかで意識は閉じた環を描き、それ以上のあらゆる合目的性を抹消してそこにとどまるのだが、その環のなかには満足と告白さえありうる。この環が世界だ。〔実存への〕気遣いとの絆はその中では少なくとも緩む。欲望の対象の背後に、世界を曇らせる爾後(じご)の合目的性の影が輪郭をあらわすのは、悲惨と困窮の時代である。死なないために食べ、飲み、暖を取らなければならないとき、ある種の苦役の場合のように糧が燃料になるようなとき、世界もまた混乱し無意味になり、更新されるべきものとしてその終末に達したように思われる。時間の蝶番(ちょうつがい)がはずれる。
    --E.レヴィナス(西谷修訳)『実存から実存者へ』(講談社学術文庫、1996年)。
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