「領地売り物あり。××ヘクタール、耕地・屋敷・川・果樹園付き、云々」
ラネーフスカヤ 十分したら馬車に乗りましょうかね……。(部屋の中を見回す)さようなら、いとしいわたしのお家、年老いたおじいさん……。冬が過ぎ、春が来れば、お前はもういない……、壊されてしまうのね。沢山のことを見てきた、この四方の壁も……。(娘に強く接吻する)わたしの大切な子、あんたはキラキラしてるね。目なんて、まるでダイヤモンドみたいだ……。満足なのかい、とても?
アーニャ そうよ、ママ、だって新しい人生が始まるんですもの!
ガーエフ (陽気に)実際、万事うまく行ったよ。桜の園が売れる前は、我々みんな心配したり苦しんだりしたが、事が最終的に決着して、もう後戻りはできないとわかると、落ちついて、いっそ陽気になっちまった……。わたしは銀行員、いまや金融の専門家だな……黄玉を真ん中へ!……リューバ、君だって、そうはいっても顔色が良くなかったよ、たしかに……
ラネーフスカヤ ええ。神経が落ちついたの、それはほんとよ。
周囲のものから帽子とコートを受け取る。
よく眠れますわ。わたしの荷物を運び出してくおくれ、ヤーシャ。行かなくちゃ。(アーニャに)可愛い子、すぐにまた会えますよ……。お母さまはパリへ行って、ヤロスラヴリのあんたの大叔母さまが領地を買うのに下さったお金で暮らすけど……大叔母さま万歳だわ!--でもそんなに長くいられる額じゃないしね……
アーニャ ママはすぐに戻っていらっしゃる……そうでしょ? あたしはよく勉強して、女学校での試験に合格して、そのあと働いてママを助けるわ。御一緒に、いろんな御本を読むのよね。そうでしょ?(母の手に接吻する)秋の夕べの読書で、沢山の御本を読みこなす……。そうすれば、あたしたちの前に新しい素晴らしい世界が開けるに違いないわ……(夢見る面持ち)ママ、戻ってらっしゃいね……
ラネーフスカヤ 戻ってきますとも、可愛いアーニャ。(娘を抱く)
--チェーホフ(小野理子訳)『桜の園』(岩波文庫、1998年)。
南ロシアの五月……。
美しく咲いた桜の園に、5年ぶりに帰ってきた当主ラネーフスカヤ夫人。
喜び迎える人々と思い出に浸るラネーフスカヤ夫人。しかしその喜びの思いとは裏腹に、広大な領地は、まもなく競売にかけられる運命にある。
「領地売り物あり。××ヘクタール、耕地・屋敷・川・果樹園付き、云々」。
さまざまな思いをよそに、いよいよその日がやってくる……。
冒頭は、最も愛されたチェーホフの戯曲の『桜の園』の出立シーンから。
疲れたとき、そして絶望の淵にたたされたとき、いつも紐解くのがチェーホフの『桜の園』です。昨日から読み返しています。
このところ、市井の仕事が更にキツくなりはじめ、(私自身は別にすべてをかぶるつもりで仕事をしていますので、別にいいのですが)部下たちも、どうやらへろへろになってきてましたので、昨日、その実態をくまなく、責任者へ報告しました。
しかし、責任者本人もいっぱいいっぱいなので、話の内容を理解できず、「ありがとう」で、以上……。
おそらく本質的な改革(改善)にはかなりの時間が必要とされるだろうが(それまで会社が持てばですが)、それに向けた小さな一歩になればよいと思う。それまでは、宇治家参去が部下をまもり、凌いでくほかあるまい。いつまでいる気もないので、さばけた部分がありますので、冷静に見ることが出来るので、要所要所で現状報告を続けるしかない。
さて『桜の園』……。
話の筋としては、没落領主のよくある話です。
互いに相手のために良かれと願いながら、誰しも目的を達することが出来ない。そしてひとびとはバラバラに分解していく。
不幸への扉を見せるのではなく、すでに誰もがすでに不幸な話である。
しかし、チェーホフで面白いのは、話の筋としては誰もが不幸で、苦労と幻滅しかなく、その運命を良い方向に転換させる予兆はまったく見せない話であったとしても、なにか、絶望が見えてこない。
そこに惹かれているのだと思います。
かつて評論家・佐々木基一が、「ともすればおちこみそうになる底なしのペシミズムやニヒリズムとたたかいながら、たえず前方をみつめつつ(中略)健気に生きつづけた」作家としてチェーホフを讃えたとおり、人間の現実には、秘策も大どんでん返しも何もない。
ただ問題と格闘し「健気に生きつづけ」るしかないのだ。
人間が悪くした世の中ならば、人間がそれを改めるしかないのだ。
そう思う宇治家参去でした。
興味のある方は是非、分量は薄い一冊ですので。
桜の園 (岩波文庫) 著者:チェーホフ,小野 理子 |
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