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子息との対話<笑い>

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 休日は所用がないと、細君は起こしてくれない。
 放置プレイのあげく、起きたのは14時。
 夕方から、後輩のライブに行こうと思っていたが体調不良で断念。その時間を、テスト採点の時間に当てる。前回の休日で、通信教育部の成績をつけ終わり、後回しにしていた短大の試験の採点にとりかかる。試験の内容確認はなんとか終わるが、レポートの確認まで手が回らず。いつもながら、ぎりぎりまで残しておく自分にあきれかえってしまうが、いずれにしましても、試験を受けられた皆さんご苦労さんでした。

 正直に言えば、うけてもらったひとすべてにA評価をつけたい。なぜなら、哲学も倫理学もペーパー試験で、そのひとの哲学・力や、倫理学・力を計測するコトなんて不可能だからだ。ただし、大学という制度の壁は、段階的評価という壁として採点者に要求する。授業をやるよりも一番体力・気心を消耗するのが成績評価です。

 ただ、ペーパー試験で評価がつけにくい分、評価はかなり甘めにしてはいるのですが、哲学とか倫理学という学問は、そもそも教室だけで完結する知的営みとは全く無縁な学問であるが故に、教室から出た後の、それぞれの生活の現場で、「深く強く考え、そうした考えたことをひとと摺り合わせていく」という実践をされんことをこころより祈るのみ。

 さて、そうした次第で、今日は、久し振りの休日なので、息子さんと入浴する。幼稚園年少さんだが、いろいろとしゃべるようになった。そのしゃべりを宇治家参去さんがまねと、無邪気に笑ってくれる。ふだんより、長く入ったためか(一緒に入るといっても月3-4回程度)、浴室をあとにするとすぐに眠り込んだ。

 笑う--とはいいことですね。いつまでもお互いに笑いあえる一家でありたいものです。

 さて、笑いと言うことに関して哲学者アンリ・ベルクソンは、そのままズバリ『笑い』という著作を遺していますのそこからひとつ。

 まず、我々が注意を喚起したい第一の点はこうである。固有の意味で人間的であるということをぬきにしてはおかしみのあるものはない。景色はきれいだとか、風情があるとか、崇高だとか、とるに足らぬとか、あるいは醜悪だとかいうことはあるだろう。が決しておかしいということはないであろう。人は動物を笑うことはある。けれどもそれは動物に人間の態度とか人間的な表情をふと看取したからであろう。人は帽子を笑うことがある。けれどもそのとき人が嘲弄するのはフェルトとか麦藁とかの品などではなくて、人びとがそれに与えた形であり、帽子に型を与えた人間的気まぐれである。そのように重要な事実が、単純至極だのに、どうして哲学者たちの注意をそれ以上惹かなかったのだろうか。多くの人たちが人間を<<笑うことを心得ている動物>>と定義した。彼らは同様にまたそれを人を笑わせる動物と定義することもできたであろう。なぜなら、たとい他の或る動物なりあるいは何か無生物なりが首尾よく笑わせえたとしても、それは人間との類似によって、人間がそれに刻みつけたしるしによって、あるいは人間がそれについてした使用によってであるからだ。
    --ベルクソン(林達夫訳)『笑い』(岩波文庫、1976年)。

 笑うってココロにもカラダにもいいゾ!
 ただ、喘息もちには、笑いすぎるとチトツライ。

Beruk

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告白・独白・毒吐の日々」カテゴリの記事

コメント

ご子息との楽しい時間。ようございました。酒に立ち向かうウルトラマンが、なにやら意味深ですねw
100の理論よりも、1の実体験のほうが価値がある場合が多いように思います。きっとそれが「身で読む」、本当の意味で理解するということにつながるのでしょうかね。
採点ご苦労様でございました。この間の哲学の授業の成績がかえってきました。多大な苦労をおかけしながら採点してもらった成果だったんですね。ありがたいことです。

投稿: このは | 2008年2月 3日 (日) 00時54分

どうもこのはさん。
まさに「学びて思わざれば即ち罔し」ですね。
本来、ひとは学びの中で(相手が書物であろうが自然であろうが、そして、体験であったとしても)、それを反省する作業(「身で読む」=考える、内面化させる、自分のもとして獲得させる)なくして、本当の意味で理解することは不可能かもしれません。もちろん、暗記が不可欠な作業的な科目も存在しますが、こと対象が人間になった場合、そうした作業が不可欠になってくると思います。書物と実際の生活の体験との往復作業を大切にしたいものです。

ちょうど、今、子供さんが細君とひらがなの勉強をしていますが、大好きなウルトラマンとかけあわせて学習すると、喜んで文字を覚えていきます。不思議なものですね。

さて、成績も無事付け終わり、事務局へ提出しました。お楽しみに!

最後に酒に立ち向かうウルトラマン--少し減らそうとの決意(?)です。

ただウルトラマンですので、3分しかもちませんでした。


ちなみに、ブログの「ひょっとしてワシのこと好きなんちゃうかとかね」には笑ってしまいました。ありがとうございます。

投稿: 宇治家 参去 | 2008年2月 3日 (日) 14時06分

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