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〔天職への〕召命〔コーリング〕

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短大で、企業倫理に関して講座をもつ先生と話をしていたときですが、いったい職業倫理とは何なのか、そして、それはどうあるべきなのか、といった話題になります。
そうしたときのひとつの参考になるのが、碩学・マックス・ヴェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫、1989年)における、「天職(Beruf)」概念と、「召命(calling)」概念ではないかと話をすることがあります。

この著作はいわゆる“プロ倫”と略されて呼ばれることがありますが、概要は、2009/2/19の日記『精神のない専門人、心情のない享楽人』で書いていますので、そちらを参考に。

で……。
忘れないうちにと思い、BerufとCallingについて、その関係性をヴェーバーが述べた部分があったので、したに覚え書として残しておきます。

これに対する検討は明日で、許してください。
本日も仕事がきつく、ぼちぼち寝ます。

で……。
まったく関連ありませんが、飲み過ぎて細君にも「ネクタイをひねりあげられた」ことはないのですが、かなり怒られ、体調もどこかおかしいので、飲酒倫理を作ってみました。
①極力晩酌を控える。
②外で飲んでも、生中(もしくは瓶ビール)×2,日本酒は3合まで。
※お冷やとソフトドリンクはその範疇ではない。

とりあえず、これでやっていくようにしていきます。
他者から命じられると、外発的な“他律”であり、そこには自由がない。そして受け容れることに抵抗を感じてしまう。
しかし、自分で自分にルールをかす(道徳をかす)ことは、内発的な“自律”であり、そこにこそ、人間が自由になる契機が含まれている。

そんなことを哲学者のカントが言っていました。当分これで行ってみようと思います。

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 ここでもまたトマス・アクイーナスを持ち出すのがいちばん好都合である。彼はすでに、社会における分業と職業編制の現象をなかんずく神の世界計画の直接の発現だと考えていた。しかし、人々がこの秩序(コスモス)に編入されるのは自然的な原因による(ex causis naturalibus)ものであって、偶然的(スコラ学の用語によれば >>contingent<<)なことがらだった。ルッターのばあいには、すでに見たように、客観的な歴史的秩序にしたがって、人々がさまざまな身分と職業に編制されている、そうした所与の編制が神の意志の直接の発現だとされ、したがって個々人が神のあたえ給うた地位と限界のうちに固く止まることが宗教的義務となった。ことにルッター派の敬虔意識では、一般的に「現世」との関係が終始はっきりしなかったために、それがますます顕著となっていった。パウロ的な現世への無関心から完全には抜け出ていないルッターの思想圏からは、世俗生活の構成についての倫理的原理など獲られるべくもなく、したがって、あるがままの世俗生活を認容し、そのことを宗教的義務と考えうるだけだったのだ。--この点についてもピュウリタンの見解では、私経済的利害の絡み合いに見いだされる摂理的精確は微妙な違いを示している。ピュウリタンの実用主義的解釈の図式にしたがえば、職業編制の摂理的目的が何であるかは、その結果によって識別される。この点について、バックスターは自分の見解を詳しく述べているが、アダム・スミスの有名な分業賛美論を直接に想起させる点が少なくない。職業の特化は、労働する者の熟練(skill)を可能にするため、労働の量的ならびに質的向上をもたらし、したがって公共の福祉(common best)に貢献することになるのだが、そのばあい、公共の福祉はできるかぎり多数の人々の福祉ということと同義に解されている。ここまでは純粋に功利主義的な説明であって、当時の世俗的文献にすでに広く見られた諸観点と相通ずるところが多いが、バックスターの次のような発送にはピュウリタニズム独自の特徴が明瞭に現れている。すなわち、彼は論述の冒頭で「確定した職業でないばあいは、労働は一定しない臨時労働にすぎず、人々は労働よりも怠惰に時間をついやすことが多い」と述べ、また、その末尾では「そして彼(天職である職業労働にしたがう者)は、そうでない人々がたえず乱雑で、その仕事時間も場所もはっきりしないのとはちがって、規則正しく労働をする。……だから>>certain calling<< 「確実な職業」--他の個所では>>stated calling<<「確定した職業」とある--は万人にとって最善のものなのだ」と結んでいる。普通の日雇労働者にとってはやむをえぬ一定しない労働は、しばしば避けがたいとしても、つねに好ましからぬ中間状態だ。「天職である職業をもたない者」の生活には、すでに見たように、世俗内的禁欲が要求する組織的・方法的な性格がまさに欠けている。クエイカー派の倫理のばあいも、人間の職業生活は不断の禁欲的な徳性の錬磨であって、天職としての職業に従事するさいの配慮と方法のうちに現れてくる、その良心的態度によって、自分が恩恵の地位にあることを確証せねばならない。労働そのものではなくて、合理的な職業労働こそが、まさしく神の求め給うものなのだ。ピュウリタニズムの天職理念においてつねに重点がおかれていたのは、こうした職業における禁欲の方法的な性格であって、ルッターのばあいのように、神がひとたび与え給うた運命にどこまでも満足することではなかった。したがって、いくつもの職業を兼ね営んでもよいかとの問いには--それが公共の福祉ないし自分自身の福祉に役立ち、他の誰をも害せず、兼営する職業のどれにも不誠実(>>unfaithful<<)にならないかぎり、無条件に肯定的な答えがあたえられた。そればかりではなく、職業の変更さえも決してそれ自身排斥すべきものとは考えられていなかった。ただ、それは軽率にではなしに、神にいっそうよろこばれるような天職を、つまり一般的な原因からすれば、いっそう有益な職業をえらぶものでもなければならなかった。そのばあい、何よりも重要なのは、職業の有益さの程度を、つまり神によろこばれる程度を決定するものが、もちろん第一には道徳的基準、つぎには、生産する財の「全体」に対する重要度という基準で、すぐに、第三の観点として私経済的「収益性」がつづき、しかも、実践的にはこれがもちろんいちばん重要なものだった、ということなのだ。けだし、ピュウリタンは人生のあらゆる出来事のうちに神の働きを見るのであって、そうした神が信徒の一人に利得の機会をあたえ給うたとすれば、神みずからが意図し給うたと考えるほかはない。したがって、信仰の深いキリスト者は、この機会を利用することによって、神の〔天職への〕召命〔コーリング〕に応じなければならない。「もしも神があなたがたに、自分の霊魂も他人の霊魂も害うことなく、律法にかなったやり方で、しかも、他の方法によるよりいっそう多くを利得しうるような方法を示し給うたばあい、もしそれを斥けて利得の少ない方法をえらぶとすれば、あなたがたは自分に対する召命〔コーリング〕の目的の一つに逆らい、神の管理人としてその賜物を受けとり、神の求め給うときに彼のためにそれを用いることを拒む、ということになる。もちろん肉の欲や罪のためではなくて、神のためにあなたがたが労働し、富裕になるというのはよいことなのだ」。富が危険視されるのは、ただ怠惰な休息や罪の快楽への誘惑であるばあいだけだし、富の追求が危険視されるのも、毎日煩いなく安逸に暮らすためにおこなわれるばあいだけで、むしろ、〔天職である〕職業義務の遂行として道徳上許されているだけでなく、まさに命令されているのだ。主人から預けられた貨幣を働かせて利殖することをせず、そのために負われた下僕の譬話は、このことを端的に示すものと考えられた。貧しいことを願うのは、しばしば論じられているように、病気になることを願うのと同じで、行為主義として排斥すべきことだし、神の栄光を害うものだとされた。それのみでなく、労働能力のある者が乞食をするのは、怠惰として罪悪であるばかりか、使徒の語に照らしても、隣人愛に反することがらだった。
    --マックス・ヴェーバー(大塚久雄訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫、1989年)。

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