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花桃の木

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すもゝの花
今幾日(いくか) 春しなければ うぐひすも物はながめて思ふべらなり(428/巻第十)
    --佐伯梅友校注『古今和歌集』(岩波文庫、1981年)。

いよいよ三月ですね。
すもゝの花ではありませんが、花桃の木を買ってきました。まさに桃色。
家族と桃の節句を祝おうと思います。
いずれ大きくなったら庭にでも植え変えようと思います。

さて、最近頭を痛めているのが、ウチのお子様が、ピアノを習いたいと言い出したことであります。ま、親としては金がかかる部分がチト辛い要素でありますが、こちらがやらせるのじゃなく、本人がやりたいと言い出したので、その方向性はいかしてやりたいものです。

ちょうど幼稚園で、先生もうちのお子様がウルトラマン関係が大好きなのを知っていたので、たまたま楽譜があったので、ある日、演奏してくれたそうです。それがきっかけで、「自分で演奏して歌いたい」とのことだそうな。

近々、ピアノ教室の体験教室へ行くらしい。

ただ勘弁してほしいのは、「みゅーじしゃんになりたい」とかいう方向性です、どうか趣味で終わらせてください。できれば普通のサラリーマンで、ふつうに生きてほしいです(でも少し、哲学者になってももらいたいと思いますが、金とは無縁の世界なので可愛そうというか……、研究者になるなら、自然科学とか法経関係で……、でも哲学とか倫理学とか宗教学もいいのだけど、……金にならん)。

フランスの思想家レヴィナスは、<表現>において「他人に直面することになる」と語ったそうですが、存在論的な次元で、<表現>という問題を今一度考え直さないといけないなアと、思い直しました。

ま、これは明日の課題にでもしておきます。

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 もっとも平凡な社会的な経験においてわれわれが生きている〈他人〉への〈欲望〉は、根本的な運動、純粋な移送、絶対的な方向付け、意味〔方向〕である。言語についてのどのような分析においても、現代哲学は--確かに根拠があるのだが--言語の解釈学的な構造とみずからを表現する受肉した存在の文化的な努力とを強調している。だが、第三の次元、すなわちただ単に表現というわれわれの文化的な作品の協力者や隣人、あるいはわれわれの芸術的な産出の顧客ではなく、対話者--その者に対して表現が表現し、その者のために奉祝が祝い、同時に方向付けと最初の意義の項であるようなこの者--である〈他人〉に向かう方向性が忘れられはしなかっただろうか。換言すれば、表現は、存在の奉祝である以前に、まず私がその者に対して表現を表現するのである人、私の表現という文化的な身振りが産み出されるためにその現前がすでに要請されている人とのあいだの関係であるということである。私に直面している〈他人〉は、表現された存在の全体のなかには含まれてはいない。彼は、存在のすべての集摂の背後に、その者に対して私が表現するものを表現する人として、再び現れ出てくるのである。私は、再び〈他人〉に直面することになる。彼は文化的な意義でもなければ、単なる所与でもない。彼は、始原的に意味〔方向〕なのであり、というよりも彼こそが表現そのものに意味を貸与するからであり、ただ彼を通してのみ、意義のような現象が、存在のうちに、おのずから、導入されるからである。
    --エマニュエル・レヴィナス(小林康夫訳)『他者のユマニスム』(白馬書房、1990年)。

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