« 旨いもの・酒巡礼記:善通寺編 「嘉舞茶来(かむちゃら)」 | トップページ | 健闘している人の快活な声がこだまする »

なぜ、待てないのか……

01a

通勤時、電車のホームで人身事故が発生した。
運悪く、渡りたい踏切が閉鎖されたままである。

すぐに救急車のサイレンが鳴り響くと共に、線路を挟んだ踏切の前後は車輌と自転車と人間で長蛇の列となる。

会社に遅れる旨の電話を一本入れ、自転車にまたがったまま、「伊右衛門 濃いめ」で一息つく。

2ー3分経過すると忙しない自転車と通行者は踏切をわたり始める。

マウンテンバイクに跨った、いらつく兄ちゃんは、遮断機のバーに何度も自転車で体当たり。

宇治家参去の観察はまだまだ続く。

5分前後で、車はすぐにUターン。
抜け道を求めて改走する。

10分もすると、ひとびとのいらだちも高まる……。

マウンテンバイクの兄ちゃんは、バーをボコボコにして踏切を渡り始めました……。
職人風の中年は、駅に方に歩き出し、「おーい、駅員!」と、喧嘩を売る始末……。
終いには職人風の中年の男性の方は、さも敵の首を採ってきたかとの如く、遮断機のバーを粉砕し始めた。

宇治家参去は、たばこに火をつける。

駅員も、負傷者も、交通整理のお巡りさんも批判したくない。
仕事に懸命だ。

なぜ、待てないの?

そのひとことが胸に突き刺さる。

職人風の男性に声をかける。

「壊してしまうと、次の人が困るよ!」

「関係ない」

……のだそうです。

はぁぁぁぁぁぁ。

その2-3分後、遮断機は開いた。

自分にしか関心のない人間は、自分自身にも関心がないのだろう。

鬼の首をとった中年の男性は、意気揚々と遮断機のバーを蹴飛ばし、“行進”する。

滑稽です。

自律と他律を考えた一コマでした。

人間は美しくも愚かしくもある。

他者に対して愚かに振る舞う人間は、自らに対しても愚かである。

すこし、“淋しい”ひとときをすごした宇治家参去でした……。

最後に一発!

----
 それで意識の自由というのは、自然の法則を破って偶然的に働くから自由であるのではない、かえって自己の自然に従うが故に自由である。理由なくして働くから自由であるのではない、能(よ)く理由を知るが故に自由であるのである。我々は知識の進むと共に益々自由の人となることができる。人は他より制せられ圧せられてもこれを知るが故に、この抑圧以外に脱しているのである。更に進んでよくその已むを得ざる所以(ゆえん)を自得すれば、抑圧がかえって自己の自由となる。ソクラテースを毒殺せしアゼンス人よりも、ソクラテースの方が自由の人である。パスカルも、「人は葦の如き弱き者である、しかし人は考える葦である、全世界が彼を滅さんとするも彼は彼が死することを、自知するが故に殺す者よりも尚(たつと)し」といっている。
 意識の根抵たる理想的要素、換言すれば統一作用なる者は、かつて実在の編に論じたように、自然の産物ではなくして、かえって自然はこの統一に由りて成立するのである。こは実に実在の根本たる無限の力であって、これを数量的に限定することはできない。全然自然の必然的法則以外に存する者である。我々の意志はこの力の発現なるが故に自由である、自然的法則の支配は受けない。
    --西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫、1979年)。
----

善の研究 (岩波文庫) Book 善の研究 (岩波文庫)

著者:西田 幾多郎
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 旨いもの・酒巡礼記:善通寺編 「嘉舞茶来(かむちゃら)」 | トップページ | 健闘している人の快活な声がこだまする »

現代批評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/451663/11995757

この記事へのトラックバック一覧です: なぜ、待てないのか……:

« 旨いもの・酒巡礼記:善通寺編 「嘉舞茶来(かむちゃら)」 | トップページ | 健闘している人の快活な声がこだまする »