« 昭和は遠くなりにけり | トップページ | ママだってウルトラセブン »

「顔見知り」の“対話”

Dscn7344

-----
 市民社会の存在が、ヒンドゥー、イスラームの宗派間対立に抑止効果があることを実証的に研究しているのが、米国ミシガン大学南アジア研究センター長であるアシュトシュ・ヴァルシュネイ氏だ。ヴァルシュネイ氏によればインドの「宗教」暴動の発生には地域的ばらつきがある。アンドラ・プラデシュ、ビハール、グジャラート、マハラシュトラ、ラジャスタン、ウッタル・プラデシュの六州で暴動が頻発しているのに対して、他の州はそれほどでもない。さらに分析を加えると、「宗教」暴動は農村よりも都市で発生している。ヴァルシュネイ氏が独自に行った調査によれば、この七〇年間でインドの「宗教」暴動で亡くなった死者の数を統計的に分析していくと、死者の大半は都市の人間であり、しかも死者数の半分は、全人口の五・五パーセントに過ぎない八都市(アーメダバード、ボンベイ、バローダ、アリガル、メルート、デリー、カルカッタ、ハイデラバード)に集中している。都市で暴動が発生するのは、主に都市にイスラーム教徒が多く住み、ヒンドゥー教徒と接触し文化摩擦を起こす機会が多いからだ、という仮説がある。しかし、ラクノウは人口の三〇パーセントのイスラーム教徒であるのに、ほとんど暴動が起こっていないのはなぜか。都市のなかでも古くからある都市、市街よりも、急速に開発された都市、新興住宅地において「宗教」暴動が発生する傾向にあるのである。
 ヴァルシュネイ氏は、「ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の市民的結びつきが強いところで暴動は抑えられ、そうでないところは暴動が多発する。そして異なる宗教徒間の市民的結びつきは紛争抑止機能をもっている」と分析している。なぜ農村でなく、都市で暴動が起こるのか。
 ヴァルシュネイ氏は、当事者からの証言を集め分析したところ、「宗教」暴動には匿名性があることに気づいた。「見知らぬ」暴徒がやってきて襲われたという証言が多数存在する。一方、顔見知りにやられたという証言は少ない。つまり、お互いに相手を知っているということ、相互理解は暴力の発生を防ぐのである。二人の人間をつなぐ相互理解のネットワークは一つである。三人がそれぞれを直接知るために必要なネットワークは三つ、四人の場合は六つ必要になる。都市が大きくなればなるほどに社会の構成員がお互いを知るために必要となるネットワークの数は加速度的に増えていく。伝統的な人間関係が稀薄な都市には見知らぬ「他者」が多数存在するようになり、暴力抑止機能は低下する。
 ヴァルシュネイ氏は市民的結びつきを、「社会的関与」「日常的関与」の二種類に分類する。「社会的関与」には、商業組合、読書会、スポーツ同好会、NGOなどが含まれ、「日常的関与」には家族ぐるみのつきあいや祭祀への参加などが含まれる。どちらも暴動抑止に効果的であるが、社会的関与の方がより抑止機能が強い。政治的煽動や犯罪者、デマなどによる宗教暴動を抑えるために有効なのは、異なる宗教徒間の市民的結びつきを強化することである。ヴァルシュネイ氏は、それゆえに地域レベルで市民が行動することが重要であるという。
 「国家だけでは法と秩序を守ることはできない。国家や政党に多くを望む前に、市民がイニシャティブを取るべきである」
 そしてヴァルシュネイ氏が提唱する「社会的関与」を強化していこうという動きが、インド社会のあちこちで生まれている。私は、ヴァルシュネイ氏の市民社会論は国際社会にもあてはまると思う。市民の国際相互理解は、テロリズムや国家間の紛争に対する抑止効果をもっている。原理主義台頭を防ぐには、各国において市民社会を発展させ、市民間の国際相互理解のネットワークを増進していくことが肝要である。
    --小川忠『原理主義とは何か  アメリカ、中東から日本まで』(講談社現代新書、2003年)。
-----

冒頭は、9・11以降、様々な原理主義に関する文献が濫発されましたが、その中では、良心的で初学者にも読みやすく、かつ内容も充実した(と私が思っている)著作の一節です。インドで一番問題なっているのが、国内でのヒンドゥー教とイスラームの対立という深刻な宗教暴動なのですが。その部分を調査したのがうえで紹介されているミシガン大学の調査ですが、その内容を踏まえた上でのひとつの視座を提示したのがうえの引用部分です。

単純なことなんですよね。結局は。
「顔見知り」の“対話”ですかね。

人間という生きものは、大切なもの、価値あるものが身近にあるとはなかなか思えず、ともするとそれらをどこか遠方に求めてしまう。容易に手にはいるところにありながらも、そんなはずはないと思い、わざわざ貴重な時間を浪費してしまうこともある。

まさに「身近なものほど見えない」ものかもしれません。

しかし、そうした身近な人間の生活の現場を「つまらないものだ」「ありふれたものだ」「考えるに値しない」と思うとき、人間という生きものは、結局は自分自身をも「つまらないもの」にしてしまうのかもしれません。

日記でもくどくどと書いてきましたが、人と会って話す“対話”しかないのかもしれません。

一夜で事態を転変させる急激な革命や特効薬によって事態を好転させることは不可能かもしれないし、かならず副作用がでてしまう。本来的な変革はゆっくりと時間をかけ、醸造していくようにものごとを発酵させる着実な歩みを継続することにしかないのかも知れません。

インドつづきですが、ガンジーは「善いことはカタツムリの速度で進む」と語り、人々を励まし、その内発性を開花させた。

“対話”という営みは、勇気もいるし、時間もかかる。しかし、それが発酵したとき、お互いの思想や宗教が違えども、ひとは、お互いを全く異なる他者として尊敬し得るのかもしれません。

その営みは、国家や共同体によって命令された、強いられた在り方ではなく、まさに、ひとりひとりの人間が自発的に「日常的関与」と「社会的関与」を点検し、その生きている自分の地域から、そして棲んでいる生活の現場から、「顔」と「顔」を向かい合わせ、お互いの他者性を自覚し、尊重し、共に進んでいく方向でいかないとだめなのでしょう。

「共生」しろ!と「強制」されても「共生」は不可能だ。
まさに、自分自身の課題として、内発的に考え、行動しない限り、差異を自覚して、共生していくことは不可能だ。

「国家だけでは法と秩序を守ることはできない。国家や政党に多くを望む前に、市民がイニシャティブを取るべきである」(前掲書)

このことは何もプロの市民運動をやれ!ということではない。

生活のなかで身近なものごとに注目し、そして発見する。
そのことを自分で考える。
ひとと摺り合わせる。
その行為によって、人は、思索から自覚へいたる人間力を高めることが可能である。

真面目に生活者として生きながら、真面目に物事を考え、そして人々と会って話をする。そして握手でも。

賢衆の連帯が必要だ。

“サッチモ”ことルイ・アームストロングの“What a Wonderful World ”のYouTube動画はコチラをクリック

原理主義とは何か―アメリカ、中東から日本まで (講談社現代新書) Book 原理主義とは何か―アメリカ、中東から日本まで (講談社現代新書)

著者:小川 忠
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 昭和は遠くなりにけり | トップページ | ママだってウルトラセブン »

現代批評」カテゴリの記事

コメント

冒頭の引用文を読んでいて、「確かに」と納得させられました。今度、読んでみます!!

宇治家さんのブログを読んでいますと、賢書との対話と握手が大切だといつも思わされます。

勇気と時間、確かに必要ですが(笑)

投稿: ツルハ | 2008年3月10日 (月) 23時10分

ツルハさんへ

ご無沙汰しております、宇治家です。

この本を読んで痛感しましたが、まさに「道は近きにあり」を実感しております。難問を解決するヒントは遠くにあるのではなく、生活の中に存在する、そうした部分を紹介した一節を読んだとき、想起しました。コンパクトにまとめられた一冊ですが、まさに目からウロコ。是非読んでみてください。

で--
賢書との対話。
人間の時間は有限だからこそ、読む本は慎重に選ばないといけないし、迷っている暇が在れば、一頁でも読んだ方がいい、こういうただ中に人間は投げ出されていると思います。是非、学生時代にいい本を読んでください。ぶっちゃけ、社会へ放り出されると、まともに考えながら読む時間をつくるというのは、ほんとうに時分との戦いになりますので。

ともどもに勇気をもって、人と向かい合っていきたいと思います。お師匠さんもいってますが、慈悲の発動には勇気が必要だとか。自分を見つめ直しながら、日々賢明に、そして時々酒をのみ、課題をこなして、前進したいものですね。

投稿: 宇治家 参去 | 2008年3月11日 (火) 02時31分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/451663/11135273

この記事へのトラックバック一覧です: 「顔見知り」の“対話”:

« 昭和は遠くなりにけり | トップページ | ママだってウルトラセブン »