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strenua inertia(多忙なる安逸)

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今日から一週間休みなしの宇治家参去です。
ちょうど市井の職場の休日に、ひとつは、所属の研究所の学術大会があり、もうひとつは、勤務校の卒業式があるからです。付け加えれば、今週締め切りのレポート添削も待ちかまえている。今週は忙しくなりそうです。

さて、忙しい日常ですが、とりあえず、日曜までしのげば、月曜から5連休。5日もフリーで休めるのは、ほぼ5年ぶりです。

子供とは有り難いもので、子供からみると祖父母になりますが、沖縄旅行に家族で連れて行ってくれるとのことで、なんとか休みをつくりました。

ところが、いい旅行パック(子供はちゅら海水族館へ行きたかったのですが)と時期がアンマッチで、沖縄行きは来年になりました。ただ、休みはとれたので、とりあえず、田舎に一度帰ろうということになり、帰る前に大阪の海遊館にたちより、それから帰省する流れになってしまいました。

なんとか今週をのりきり、骨休めしてきます(骨休みになるのか?)。

さて、現代人は、仕事や雑事で、実に“忙しい”。
ひとびとの喧噪とモノからでる機械音がむしろ、子守歌のように、ひとびとを取り囲んでいます。そのなかで、自分自身やるべき秩序を構築(回復)し、本来の道へ戻っていくのは困難です。ただ状況に飲み込まれ、流されてしまう部分が多々ありますが、ときには、冷静にその状況を見つめ直し、自分の秩序を組み立て直していきたいものです。

その秩序です。
秩序ということばにどこかひっかりがあったので、古い読書記録をめくって見ましたが、ラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber)がそんなことを言っていましたので、紹介します。ケーベル博士といえば、明治中期から大正時代にかけて、東京大学で哲学を講じたドイツ系ロシア人で、「ケーベル先生」と敬愛され、夏目漱石も講義を受けている。教え子には岩波茂雄、阿部次郎、九鬼周造らがおり、大正教養主義の礎をきづいた人物です。戦前よりその著作は学生たちに広く読まれ、人生と教養を考えさせる意義深い文章が、ひとつの人格主義として機能したといってもよいだろう。

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 寸陰をも惜しむようにと我らに注意を促してくれるものは、老齢においては自然であり、若い時代においては理性である。我らはQui trop embrass,malétreint(あまりに多くを抱かんとする者はかえって抱き損う)なる旨言(これには勿論私自身も必ずしも常に従ったというわけではなく、またそれが為に失うところが多かったのであるが)を想起して、われらの努力と仕事とに限界を付することを忘れてはならぬ。汝の個性に適し、かつ汝が充分なる熟慮と、自省とまた己が有する諸力の評価との結果、自ら選定したる目的に適うところのもののみに携われ。学問や文学における選り食い(Naschen)や、模索し廻ること(Herumtasten)や、掻き捜し(Kramen)や、また何か一定のものを求めるのでもなくして、もしくはたゞ備忘録の中へ少しでも多く書抜をしようとの目的のみをもって、歴史の隅々までも隈なく探すというようなことも、一時はたしかに面白くもありまた世人の眼には学者らしい研究ぶりとさえ見えるかもしれない、けれどもその実たいてい『研究家』に確乎たる志操と性格との甚しく欠如せることおよび彼の頭脳の中は無秩序にして住みがたいとの観を呈しせることを証示するところのかのstrenua inertia(多忙なる安逸)に過ぎない。しかるにこの無秩序ということは精神的生活においても、物質的生活におけると同様に、危険なものである。--このほどアミエルの『日記』をめくっていた際、私はこの真理があたかも殆ど全く私自身の心の底から発せられたというべき言葉をもって、非常に見事に言い表わされているのを見出した。
 『結末をつけうるということ、これ何たる大きい術(クンスト)であろう! それは即ち決断力ある、考量と確乎たる判断を下すの能ある人々の有する限りなく貴き能力である。結末を付けうるとは、自ら解くあたわざるものをばあえて切断するの勇気と大胆とがあるということである。更にまたそれは眼をたゞ本質的なるものの上にのみ注ぎ、そうしてそれに附纏える一切の余事および一切の小事と瑣末事とをば--それ自体においては恐らく興味あるようなものであっても--あたかも殻のように、本質から剥ぎ取りそうして爾後全然これを顧慮しないという意味である、けだしかくすることは、同時に多くの事に携わるも、それはついに何物をも成就せしむる所以でなく、かつまた一挙にして一切を見渡しまた探究するというようなことは到底不可能なるが故である。これを要するに、それは我らの生活と、我らの有する諸々の義務と諸々の仕事とを単純化するの術である。結末をつけうるとは、「出発」の準備を整えているということ、一切を完成し、我らの自由の障碍となるの虞(おそれ)あるものはすべて己が背後に棄ておいた、との謂である。それはつまり自由なる人として従容(しょうよう)死につくの術にほかならない。--われらの生活を検するに、いかに多くの邪魔物が我らが曳きずり廻っているかは、実に驚くべきものである。それは即ち我らが愚かにも自ら負いたる重荷や、義務とも称すべからざる義務や、習癖や、実行しがたき計画や希望や、濫りに企てられたる仕事や、立案や、またなるほどたゞ我らの妄想の中においては価値と意義とを有するも、そのじつ最大多数の場合においては我らの自由を破壊せずにはいられないような幾多の事柄の雑然たる集合などである。今日の無秩序は明日の牢獄! 秩序なるかな! 人生における、物質的、精神的、道義的生活における秩序! 何たる力、何たる支柱、何たる節約ぞや! 秩序とは自ら欲するところ、自らなすところ、自ら往くところを知るの謂である、それは慎重であり、目的活動であり、理性であり、光であり、平和であり、内面的自由であり、自己決定の能力である、それは美的ならびに道徳的美であり、「幸福」であって、--これ実に万人の求めているところの唯一のものである。--総じて依存の状態にあるは一種の不幸である。余にとっては実に堪えがたき観念である。しかるに自己の犯した罪により、不規則なる生活により、もはや取返しのつかぬ過誤により自ら依存の境地に堕するというに至っては、これまさに自ら己が自由を、己が希望を抛棄し、己が睡眠と己が幸福とを殺害する所以である。それは実に地獄である!』私がこゝに引用したのは逐語訳ではない。私はアミエルの思想をきわめて自由に再現しそうして内容から見れば類縁ある、彼の『日記』においてはしかし遠く相隔離せる三つの箇所を一括して訳出したのである。
    --ケーベル(久保勉編訳)『ケーベル博士随筆集』(岩波文庫、1957年)。
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忙しさに酔う、strenua inertia(多忙なる安逸)を避けたいものです。
無秩序ほど危険なものはない。

「今日の無秩序は明日の牢獄! 秩序なるかな! 人生における、物質的、精神的、道義的生活における秩序!」

規則正しい生活だけが秩序ではない。
自分で生き方の「結末をつけ」うることができれば、自分の秩序が構築される。
そういう自分を見なす時間を大切にしたいものです。

わたしの場合、すべての仕事がすんだあと、銘酒をあいてに、書物の表紙をサヤサヤと紐解く時間がそのときです。

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